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地元編

分岐②(miss!) 中学2年生 夏 自室にて

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 それから俺は、気付けば部屋に篭っていた。どんな会話をして、どう家に帰ってきたのか。あの後の記憶は全部曖昧だ。あまりにも精神的なショックが大きすぎたのだ。
 生粋のサイコパス、あまつさえ殺され掛けた相手に、情を抱いていた。もしくは、何かをそれらしい感情と誤認した。自分のチョロさが恐ろしい。
 加えてヤツの『排除』リストに、自分の名前が加わることが確定してしまったわけで。
 だってそうだろう。家族愛とか云う、ありがた迷惑極まりない感情で、自分の目的を阻害する身内。果たしてあれは、高倉明希の地雷をジャンプで踏み抜くような所業だったのではなかろうか。
 そう思うと、怖すぎて部屋から出られなくなった。部屋の前に置かれた食事ですら、毒が盛られているかもしれないと思うと手が付けられなかった。
 あの異常者に、どんな惨たらしい手段で殺されるのかと云う恐怖に常に怯えた。

「……兄貴」
 引きこもって約1週間が経過した頃。扉越しに聞こえた弟の声に、俺はたまらず布団を頭から被った。
 とうとうきた。殺人鬼が、俺を始末しにやってきてしまった。
 扉を開けた瞬間刺されるのだろうか。それとも、何か固い物で殴られたりするのだろうか。揉み合った末の事故と弟が言えば、その通りになってしまう気すらした。
「ねえ、兄貴。起きてるんでしょ?」
 ここは死期の引き伸ばし、すなわち狸寝入りしかない。そんな俺の思惑を見透かしたような言葉だった。
「兄貴、」
 心なし平坦な声音に、最早俺は全身を強張らせた。
「──────ごめん」
 思いもよらぬ謝罪に、「へ?」と思わず素っ頓狂な悲鳴を漏らした。慌てて口を抑えるも、確実に声は弟に届いてしまっているだろう。
 というか、そんな懸念よりも、今は別の気掛かりが胸の大半を占めていて。
「俺があんな無茶したから、ショック受けちゃったんだよね?てかそれ以前に、野次馬気分で火事なんか見に行くんじゃなかった」
「……………」
「本当、ごめん。取り返しつかない事した。俺の顔見るのも嫌かもしれないけどさ。一回で良いから、直接謝らせて欲しいんだ」
 その弟らしからぬしおらしい声に、自分の中の、『高倉明希』という男の人間像が揺らぎつつあるのを感じた。
 弟の言葉には、悪意というものが全く含まれていないように思えたから。相手を欺こうだとか、操ろうだとか。そんな虚言には決してない真摯さが、そこにはあった。
 息を呑む。鼓動が早鐘を打っている。
 下手くそな呼吸の音を響かせながら、俺の手は確かにノブへと伸びていた。
 もし。もし、この言葉が本当にあいつの心の底からの物だとしたら。
 俺がひたすらに恐れてきた『救いようのないバケモノ』なんてものは、最初から存在しないということにはならないか。
 脳裏を過ぎるのは、これまで弟と過ごした約3年間の記憶。あいつは一貫して温厚で、家族思いで、俺にとっても良い弟だった。
 確かに人よりも少しおかしいけれど、見限るほどに破綻した人間性ではなかったのかもしれない。俺の働き次第で、あの惨劇のない未来なんてものを掴めるのかもしれない。
 そんな一筋の希望に縋るように、ドアノブを引いて。

「……あっ、」

 俺が世紀の大間抜けであることが確定した。
 「すべてが丸く収まるかもしれない」なんて都合の良い妄想に、目が眩んだのだ。
 間抜けな声を漏らした時には、長い手が眼前に迫っていた。
 手のひらに覆われる視界。一瞬だけ垣間見えた、ゾッとするほどに冷たい翠眼に、俺の脳内を締めるのは『間違えた』の一言だった。
 廊下の照明の光が差し込んで、すぐに途切れる。強引に押し入ってきた弟が、後ろ手に扉を閉めたからだ。
「……っ、な、にを────」
 悲鳴を上げかけた俺の口を、アキは素早く抑える。腕力だけで俺を無造作に床に転がして、腰に馬乗りになって。
 生白い相貌からは凡ゆる感情が削げ落ちているのに、翠眼だけは爛々と輝いている。
 そして目を見開いたまま、鼻先を擦り合わせるように相貌を近づけて来る。
睫毛が触れ合うような至近距離。翠色の虹彩の中で、ず、と。瞳孔が黒々と広がった。
「入れてくれてありがとう。扉がダメにならなくて良かった」
 ……開けただけで、入れた覚えは断じてない。
 そんな抗議を口に出せるはずもない。弟の左手には、バールが握られているから。ヤバすぎる。
 最早ちょっと面白いぞ、お前。とモゴモゴ動く口を押さえながら、「兄貴」と弟は相貌を笑みの形に歪めた。
「俺の質問に正直に答えてね」
「~~っ、~、」
「ひとつめ。兄貴は、俺を嘘吐きだと思ってる?……あ、ごめん。口塞いだままじゃ喋れないよね」
「……っ、まえ、なぁ!何のつもりだ」
「顔やばすぎて、驚いて咄嗟に手が出ちゃった。てか兄貴、死んでるんじゃないかってすごく心配してたんだよ?」
 小首を傾げて、ヘラヘラとバールを掲げる光景は異様としか言いようがない。と言うか、こちらを舐めているとしか思えなかった。
「マジでお前、無理があるだろ!?そんなとぼ──、」
 ぎゅう、と。ネコみたいに弧を描いた目元に、口を噤む。
「『とぼけたって無駄だ。適当な嘘吐くな』って?」
 同時に、サッと血の気が引いていく。
「兄貴はさ。火事の時も言ったよね、『とぼけるな』って。口癖なのかな」
 本当に駄目だ。迂闊すぎる。疲労からか、今まで取り繕えていた物が、全くと言って良いほどに隠せなくなってしまっている。
「……俺がお前を嘘吐き呼ばわりするなんてあり得ないだろ?」
「ふたつめ」
 俺の引き攣った声を無視して、弟は指を2本立てる。
「おれがこわい?」
「な、にを言ってるのか分からない」
「本当に?俺なら怖くて仕方ないけどな。殺され掛けた相手と食卓なんて囲めない」
「………………」
 言葉が継げなかった。
 『殺され掛けた』とは、十中八九あの池での出来事だろう。
────俺が弟の異常性に気付いていることに気付かれている。否、カマをかけられただけではないのか。
 そんな一瞬の逡巡すら命取りだったようだ。
「────やっぱり気付いてたのか」
 俺の沈黙に、何らかの確信を持ったのだろうか。
 怜悧な光が宿った双眸を筆頭に、アキの相貌からは一切の色が消え失せていた。
「何で俺の邪魔をしたの?」
 骨張った指が、唇を撫でて、そのまま耳朶を擦った。
「ずっと怖かったんでしょう?嘘吐きで危ないヤツと、兄弟ってだけで一つ屋根の下で共同生活。ひたすら怯えながら顔色伺って?本当にカワイソウ」
 耳たぶを擦った人差し指が、スルスルと喉の上を這って、喉仏を弾いて。
「何であの時、俺を見殺しにしなかったの?」
 低く吐き出された声に、その通りだ、と口端を引き攣らせる。
 俺自身は一度、こいつに殺され掛けた。
 それがなくても将来、罪のない人を大量に殺すことも確定している。
 ともすればあそこで死んだ方が、世のため人のためとすら言えたような災厄の種。
 それを俺は、どうしてああも必死になって守ったのか。暗い部屋の中で、何度も何度も反芻した問い。
 世間様も、弟自身も望まない選択肢。それは他でもない、俺が──俺だけが望んで選び取った選択だった。
「………………お前が大切だったんだって」
「……………」
「二度も言わせんなよ」
 視界が黒く染まる。居た堪れなくなって、俺が顔を覆ったからだ。
 無理すぎる。この男に使い潰され、襤褸雑巾のように捨てられる未来がたった今確定してしまった。というか、まだあの時の事を少しも後悔していない自分が一番無理。
「………………はは」
 重苦しい沈黙の後、返ってきたのは嘲笑だった。てっきり左手のバールで頭をカチ割られると思っていた俺は、少しだけ拍子抜けであるが。
「そっかぁ、兄貴は俺が大事なんだ」
 興奮を押し殺したような、気色悪い猫撫で声。尾骶骨からゾワゾワ這い上がって来る妙な寒気に、ブルリと肩を抱く。
 「あ゛!?」と声を上げたのは、弟が強引に俺の顔面を上向かせたからだった。首から嫌な音がする。涙で滲んだ視界を埋め尽くした光景に、痛みに顰めた相貌を強張らせた。
「当たり前だよね、家族だもんね。死んだ方が良いようなクズって知ってても、弟を見殺しにするなんてできないよね」
「……おま、なんて顔して…………」
「兄貴は昔から優しかったもんね」
 歪に釣り上がった口角に、熱に浮かされたようにたわんだ翠眼。暗澹としていて、底の見えない深淵みたいな色は、明らかに常軌を逸した人間のそれだった。そう言えば一心に炎に向かっていく時も、同じような目をしていた気がする。
「俺も大事にするからね、兄貴」
 壮絶な笑みで心にもない言葉を吐く弟に、俺はまた白目を剥いた。
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