イシュラヴァール戦記

道化の桃

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第二章 落日のエクバターナ

彷徨

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 砂嵐の中、はぐれた馬を捕らえられたのは幸運だった。
 シンは四方に続く砂丘を眺めて小さく溜息をついた。とうに日は沈み、空には星が瞬き始めている。嵐は去り、21ポイントからも遠く離れ、夜の砂漠には他に人影はない。
 ファーリアはさっきから声もなく涙を流し続けている。手綱を持つシンの腕の中で泣き続ける女は、なぜだかとても小さく感じた。砂漠の豪傑カイヤーンが一目置く戦士には到底見えない。
「ユーリ・アトゥイー」
 シンがぽつりと呟いた。昼間、ファーリアとの会話でカイヤーンが口にした名。
「……あんたと同じ名だ、『国軍のアトゥイー』」
「アトゥイーは、ユーリの名だ。名を偽っていたときに借りた」
「名を偽って軍にいたのか?しかし、なんでユーリ・アトゥイーなんだ?確か、砂漠の黒鷹とか呼ばれていた奴だろう。めっぽう腕が立つと噂だった」
「あなた、カイヤーンといたなら、ユーリに会ってないの?」
 ファーリアが国軍にいた頃から、ユーリはカイヤーンと出会っていたはずだ。正確な時期はわからないが、共にアルヴィラ解放戦線として戦っていた過去がある。
「いいや。あいつは俺をキャラバンに置いて、戦場には出さなかったからな」
 シンが言った。子供を戦場に出さない、というカイヤーンの矜持を、改めて噛みしめる。アディたちの姿を目の当たりにし、思えば自分はずっとカイヤーンに守られていたのだと自覚する。
「彼は……ユーリは、わたしの夫だ」
「えっ……?」
 思いがけない告白に、シンは思わずファーリアから身体を離した。
(俺は……砂漠の黒鷹の女を連れ回していたのか……?)
 すうっと血の気が引いていく。カイヤーンがファーリアに執着していたのは知っている。カイヤーンがアルヴィラの反乱の終わり頃に砂漠の黒鷹と組んでいたことも知っている。だがまさか、夫婦だったとは。
「お前……そんな奴の女なのに、なぜ盗賊団なんかに捕まっていた?奴はなぜ助けに来ない?」
 大切な女があんな目に遭っていたら、自分なら居ても立っても居られない。シンは困惑した。
「子供をさらわれたの」
 ファーリアは背を向けたまま、小さな声で言った。
「まだとても小さくて、星座を覚えるのを楽しんでた。毎日どんどん大きくなるのに、抱き上げてみるとやっぱりまだ軽くて、小さくて――かわいくて、かわいくて」
 ファーリアはまだ泣いている。押し殺した嗚咽と、愛する我が子を語る消え入りそうな声が、砂漠の夜に消えていく。
「……あんたは、その子供を探しているのか」
 旅の途中、ハゲワシに食われていた遺骸を思い出す。あれも小さな子供だった。
「ヌールは――あの子は、ユーリの子じゃないの。これ以上、彼を苦しめたくない」
(ああ、そうか)
 この女もまた、後悔に苛まれているのだ。
 生きるために選んできた道の、何が間違っていたのか、もうわからない。大切な人を失い、後悔と絶望を繰り返し、それでも生きなければならない。
 シンはそっとファーリアを腕の中に包みこんだ。華奢な身体はこの広大な砂漠の中でとても頼りなく、それに縋るように抱きしめる自分もまた弱く小さな存在に思えた。
 その夜、シンとファーリアは子供のように寄り添って眠った。夢も見ない、深い眠りだった。

 馬の次に切実だったのは金だ。21ポイントに捕らえられた時点で、金品は奪われていた。砦から逃げる際、目についた金目のものを持ち出してはいたが、そもそもけが人を抱えて脱出するのに精一杯で大したものを盗れていない。なんとか市にたどり着き、水と僅かな食料を買ったところで、路銀が底をついた。
「金が無いんじゃ、泊められないねぇ」
 言いながら、宿の主人はじろじろと値踏みするような視線をファーリアに投げた。
「頼む。用心棒でも、皿洗いでもする」
「あいにく人手は足りてるんだよ。ほかを当たってくれ」
「……せめて怪我人だけでも、休ませてくれないか。馬屋の隅でいい」
 食い下がるシンに、宿屋の主人は再びファーリアをちらりと見た。
「そう言って馬を盗られても困るからな。屋根裏の倉庫が空いてる。姐さんだけならそこを貸そう」
 シンは主人に礼を言って、仕事を探しに宿を出ていった。
 宿屋の屋根裏には窓も戸もなかった。寝台は板の上に織物が敷かれているだけの簡易なものだ。床の一部があいていて、そこから二階の廊下に梯子が伸びている。梯子を外されると、足を怪我しているファーリアが下へ降りるのは難しかった。
 一階の食堂は夜遅くまで賑わっていた。客室のある二階にまでその喧騒は届いた。
 ぎし、と梯子が軋む音がしたのは、夜半のことだった。
 薄暗い屋根裏の唯一の光源である、床の開口部に、丸々と脂ぎった宿屋の主人の頭が現れた。
「なんだ、姐さん、起きてたのか」
 脂でてかった唇が、にいっと笑う。
「なに、姐さんにもいい話さ。手っ取り早く宿代を稼がせてやろうじゃないかと思ってね」
 ファーリアは無言のまま、宿の主人を睨みつけた。主人はくっくっくっと笑い声を漏らす。
「あんたにゃ断れまい。男を知らんわけじゃなさそうだし、客は儂が世話してやろうっていうんだから、悪くない話だろう?もちろん紹介料は頂くが、十日もここにいたら十分路銀はできるさ」
 そう言い残して、宿の主人の頭は引っ込んだ。
 入れ替わりに男が三人、屋根裏に上ってきた。年の頃は三十前後だろうか、皆、上気した顔に酒臭い息をまとわせている。
「なんだなんだ、宿の親父が吹っかけたのかと思ったら、なかなかいい女じゃねえか」
 一人が髭面に下卑た笑みを浮かべてそう言うと、もうひとりが片手でファーリアの両頬を掴んだ。三人の中で一番体格が大きく、癖のある長髪を後ろで結んでいる。
「確かに綺麗な顔だ。三人であの値段なら悪くねえな。だが、愛想がねえ。素人女か」
「……放せ」
 ファーリアが長髪の男を睨むと、男は口の端でふっと笑って、おもむろにファーリアの頬を張り倒した。
「手懐け料が入ってんだろ。見たとこ、俺等が初客のようだ。なに、一晩じっくり可愛がってやれば、すぐ従順になるさ」
 長髪の男は上衣を脱いで、分厚く鍛え上げられた上半身を露わにした。
 ファーリアは眉をひそめた。(これは威嚇だ)と直感する。裸体は一見無防備なようで、これから行う行為を相手に想像させ、纏った筋肉によって力の差を見せつけて、戦意を喪失させるのだ。
 長髪の男がファーリアを押し倒した。ファーリアがさして抵抗しなかったのは、恐怖のためではない。
 素人女、と男は言ったが、実は娼婦をしていたこともあった。兵士として男たちに交じって戦っていたこともある。今更男の裸体ごときに萎縮することなどない。
 ファーリアの頭にあったのは、路銀の計算と、足の怪我を悟られないことだった。もしこの状況から逃げるとしても、下手に暴れて弱点を晒してしまっては不利になる。長髪の男と髭面の男、そしてもう一人が入口近くを塞いでいる。相手が一人なら逃げられた。二人でも、剣があればなんとかなったかもしれない。だが、怪我をした足で三人は難しい。
 何よりも、宿の主人の言葉を信じるなら、ファーリアが男たちの相手をしてやれば幾ばくかの金は手に入る。
 金は必要だ。その思いが、ファーリアを迷わせた。
 おそらくシンが苦労して仕事を探すより、手っ取り早く路銀が手に入る。
(今更、惜しむほどの貞操なんか……)
 男に組み敷かれながら、ファーリアは思った。口づけされ、無意識に噛み締めた歯を男の舌が強引に割り開いてくる。分厚い舌で口腔を舐め回されて、ファーリアの身体からふっと力が抜けた。
 瞑った眼裏に、砂漠を吹き抜けていく風が浮かぶ。
 艷やかな黒髪をなびかせて、風をまとってどこまでも駆けていく。
(ユーリ……)
「泣くなよ。すぐ良くしてやっから」
 耳元でそう囁かれて、ファーリアは自分が涙を流していたことに気づいた。
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