イシュラヴァール戦記

道化の桃

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第二章 落日のエクバターナ

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 傾きかけた太陽が、砂の上に長い影を作っている。
 先導する馬一頭に、荷を積んだ駱駝が三頭連なってついていく。その駱駝の荷の上に、ちょこんと小さな影が乗っている。
「ぼくを、殺す?」
 その影が、馬に乗った男に尋ねた。風はなく、幼児の高い声はよく通った。
「殺さんよ。こいつは狼避けだ」
 馬上の男、サジャーンは、腰の短剣に軽く触れた。
 やがて、地平線に市場が見えてきた。オアシスほどの大きさはない、井戸の周りにできた小さな市だ。サジャーンはいつもは砂漠のテントに寝るが、今夜は補給も兼ねてこの市に泊まる予定だった。
「ぼくを、売る?」
 市場に入ると、子供はまた言った。
「売らんよ」
 空の水袋に水を満たし、干した肉や魚、小麦や芋などを買う。小さな子供のために、服と靴も一揃い買った。
 この市場には簡易的だが、井戸水を熱した浴場ハマムもあった。親子、と呼ぶにはいささか歳の離れた二人は、言葉少なに旅の汗を流し、サジャーンは子供の珍しい色の髪の毛を丁寧に洗ってやった。
 宿は、寝床は屋根のある大部屋だったが、食事は屋外だった。焚き火の周りで供される料理を取って、思い思いの場所に座って食べる。サジャーンは子供のために、砂漠の旅では手に入りにくい野菜や果物を多く選んだ。
「おいしい」
 子供はオレンジを器用にむいて口に運んだ。
「お前さん、どうしてあの岩場にいた?街道からだいぶ離れているのに……あの近くで親とはぐれたのか?」
 サジャーンの問いかけに、子供は首を振った。
「もっと前」
「前?」
 サジャーンはおうむ返しに聞き返した。質問に対して、答えが要領を得ない。
「奴隷にして、海の向こうに売るって言われたから」
「親にか?」
 子供はまた首を振った。
「ちがう。ひとさらい」
 サジャーンは得心した。子供や女をさらって奴隷商人に売る話はよくある。この小さな市場でも、大々的に奴隷市が立つことはないが、よく見ればあちこちで小規模な取引は行われている。
「海の向こうに売られたら、帰れなくなっちゃうから、逃げたんだ」
「よく逃げたな」
 サジャーンは感心した。砂漠で子供が一人、大人とはぐれたら、ほぼ生きていけない。
「星を読んだら、だいたい場所はわかるよ。それに、あの岩場にいれば父さんに会えるかと思ったんだ。父さんに教えてもらった場所だから」
 ああ、とサジャーンは天を仰いで嘆息した。夜空に煙が溶けていく。
 やはりあのときの少年は、生き延びて、一族の血を繋いでいたのだ。
 でなければこの子供が岩場を知っているはずがない。

 目が覚めたのは明け方近い夜だった。久しぶりの入浴と屋根のある寝床で、うっかり熟睡してしまった。
(坊主がいない)
 寝床をまさぐると、まだ温かい。
 サジャーンは音もなく起き上がった。15人ほどが雑魚寝する大部屋をざっと見回したが、他に起きている者はいない。子供の姿もない。
 サジャーンは宿を飛び出した。
 外はまだ暗い。市場は寝静まり、人ひとりいない。
 サジャーンは耳をすました。この静けさなら、馬を一頭走らせただけで気づく。
(俺も馬を取ってくるべきか)
と、逡巡したとき。
 キィン――と、剣の鳴る音がした。
(まさか)
 消えた子供と無関係だと思うには、タイミングが良すぎた。
 音の感じではすぐ近くだ。ひと区画も離れていないだろう。サジャーンは走った。キィン、と再び音が響き、何やら罵る声も聞こえた。
 角を曲がったところで、ドン、と膝下に衝撃を受け、サジャーンは足を止めた。
「お前……!」
 ぶつかってきたのはあの子供だった。
「怪我は!?」
 子供が首を横に振ったのを確認し、前方に目をやると、男が二人、闘っていた。
 一人は浅黒い肌に白い長衣をまとった男だった。すらりとした体躯で、夜目にも見事な長剣を美しい構えで繰り出している。見るからに只者ではない。
 もう一方もまた、服装こそ商人風だが、動きが商人のそれではない。相手の長剣をすばしこく避け、湾曲した短刀を操って攻撃している。
 戦いは拮抗しているように見えて、徐々に白い方が優勢になってきた。商人風の男は、子供を庇うように立ったサジャーンをちらりと一瞥すると、「ちっ」と舌打ちをして逃げ去った。
 はっとして、サジャーンは腰の短剣の柄を握った。
 子供を連れ去ったのが二人のうちどちらなのかはわからない。逃げた男の様子からして到底サジャーンたちに好意的ではないように見えたが、だからといって目の前の男が味方であるという保証はどこにもないのだ。
 白い服の男は手練れに見えた。子供を抱えてさっさと逃げるべきか、とも思ったが、先程の商人風がまだ近くにいるかもしれない。
(背後を取られて負けるよりは、刺し違えてでも……夜が明けさえすれば、市場の者が起きてくる)
 腕に覚えがないわけではなかったが、もう若くはない。勝てる相手ではない、と瞬時に悟った。だが、子供を置いて逃げられない理由ができてしまった。
 白い服の男が、こちらに向かってきた。
「俺も肚を括るか、坊主!俺に何があっても生き延びろよ!」
 そう言ってサジャーンは気合を入れた。子供もまたサジャーンの背後で身構えた。
 だが、白い服の男は剣を収め、思いがけない行動に出た。
 サジャーンの前に、跪いたのだ。
 否、正しくは子供に向かって。
「レグルス・ヌール様ですね?」
「……は?」
 意表を突かれたサジャーンは、男と子供に挟まれて、状況を把握できない。
 振り向くと、子供がこくりと頷いた。
「坊主……お前の……名前か?」
 子供は今度はサジャーンを見上げ、再びこくりと頷いた。
「シハーブと申します。お小さい頃に一度、お目にかかったことが。覚えてはいらっしゃらないかと存じますが」
 男――シハーブはそう言って、ぎこちなく微笑んでみせた。
 次にシハーブは、跪いたままの姿勢でサジャーンに言った。
「手を剣から離せ。今抜いたとしても、抜き終わるまでに私はあなたを刺す」
「……おいおい、随分なご挨拶だな?この坊主は俺の連れだ。まず状況を説明するのが筋だろうが」
 サジャーンは両手を挙げてみせた。
「私は彼を保護するべく探していた。ちょうどこの市場に立ち寄ったら見かけたので、機を見ていた」
「機を?何の機だ?」
 シハーブはそれには答えず、逆に質問した。
「彼を攫ったのはあなたか?何が目的だ?金か?」
「それはこっちのセリフだ。寝込みを連れ出すなんぞ、不敵にも程がある」
「宿から連れ出したのはさっきの男だ。私はその前の話をしている!この子は半年前、親元から攫われたのだ。お前の仕業か?」
「それこそ攫ったのは俺じゃない。俺は岩場に行き倒れているのを助けたんだぞ?名前だって、今知った」
 名前を知らなかったのはサジャーンが尋ねなかったからで、そこまでの興味も必要性もなかったからだったが。
「私は彼を保護するべく探していた。ちょうどこの市場に立ち寄ったら見かけたので、機を見ていた」
「機を?何の機だ?」
 シハーブはそれには答えず、逆に質問した。
「彼を攫ったのはあなたか?何が目的だ?金か?」
「それはこっちのセリフだ。寝込みを連れ出すなんぞ、不敵にも程がある」
「宿から連れ出したのはさっきの男だ。私はその前の話をしている!この子は半年前、親元から攫われたのだ。お前の仕業か?」
「それこそ攫ったのは俺じゃない。俺は岩場に行き倒れているのを助けたんだぞ?名前だって、今知った」
 名前を知らなかったのはサジャーンが尋ねなかったからで、そこまでの興味も必要性もなかったからだったが。
「……非礼を詫びよう。私はシハーブ。訳あってこの子を探していた」
「サジャーンだ。こいつを拾ったのは偶然だが、身寄りがないなら後見になろうと思っていた」
 その言葉を聞いて、シハーブは少し驚いた。
「なぜ、そこまで?」
「いやなに、この子供の父親にちょっとした義理があるもんでな」
「父親に……?」
 シハーブは首を傾げた。
「それより、さっきの男は何者だ?お前さんは奴を知っているのか?」
「さっきまで確信はなかったんだが、あの特徴的な武器――おそらく、『アクラブ』」
アクラブ……?聞いたことがないな」
「アルサーシャにいる宰相、アトラスの刺客集団だ」
「わからないな。そんな大層な奴らが、なぜこんな子供を?」
「それは……いまはちょっと説明しかねるが」
 シハーブは言葉を切って、あたりを見回した。夜が明けてきている。
「……一旦この市を出よう。あまり目立ちたくない」
 お前の立ち姿が一番目立つんだがな、とサジャーンは思ったが、もちろん口には出さなかった。
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