イシュラヴァール戦記

道化の桃

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第二章 落日のエクバターナ

バセルの苦悩

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 ――エクバターナを手に入れるのよ――マルスに横取りされる前に。
 そう囁いたのは、昨夜寝床を共にした女か、それとも自らの奥に眠っていた願望か。
 気付けば、バセルは戦場の真ん中にいた。城攻めの戦術も用兵も、シャルナク遊学中に学んだ最先端の知識をただ実践するだけで良かった。息の合わない敵の皇子たちの内情は、ザラが情報を集めて教えてくれた。現実感のないままに、バセルの軍はエクバターナをみるみる攻略していった。
 元々父譲りの戦術家の才能が、バセルにはあった。眠っていた才が呼び起こされ、知識と結びついて、戦場はバセルの思うがままに動いていく。
 不思議な感覚だった。指揮を執っているのは自分自身なのに、それを傍観している自分もいる。剣を振るう自分は血に濡れた戦場のおぞましさに戦慄しているのに、そんな自分を眺めるもう一人の自分は、面白いほど思い通りに動く兵士たちに嬉々としている。その二面性を自らのうちに感じて、バセルはうっすらと寒気をおぼえた。
 再び月光宮に入城したバセルは、まだそこここに倒れ伏した屍と城壁にはためく自軍の旗を見た。それは父の旗ではないーー目の覚めるような青地に金色こんじきの獅子が吠える、バセル自身の旗印だ。
(私の旗……私の――勝利)
 それは甘美な光景だった。異国の女が滴らせる官能よりも興奮する。一瞬の陶酔の後に襲ってくる背徳感も、よく似ている。
「女王を捕らえよ」
「えっ……?なぜ――」
 ジャミールは意図を理解しかねて聞き返した。
「聞こえなんだか。ニケ女王を捕らえ、牢へ幽閉せよ」
「しかし、お父上は」
「アルナハブ王の死には不審がある。ニケ王妃は正当な継承権を持つ王子たちを次々に陥れ、自ら女王の座についた。誰の承認も得ていない――これは国民への背信行為である」
「それは、マルス様が後見につくという話で!」
「そうだ。つまりニケ女王はイシュラヴァール前王と結託し、国を売ったのだ」
 あまりの暴論に絶句したジャミールに、どこか空虚な笑みを向けてバセルは続けた。
「我々は隣国を憂う善意の兵だ。自国で行き場を失った前王の、暴挙ともいえる侵略を許してはならぬ。女王を詮議し、すべての疑いが晴れるまで、エクバターナは私マルス・バセルが暫定統治する」
 善意の兵、という言葉の浅薄さに、ジャミールは嫌悪感を抱いた。
「バセル……さま……?」
 時が時ならば、王であるマルスの戦略を暴挙と言い放つことは、反逆と見做されて処罰されてもおかしくはない。たとえ王子といえど、長年国軍に属しマルスに仕えてきたジャミールには到底聞き流せるものではない。だが今は、それを裁くマルスは既に王ではなく、エクバターナの市街を埋め尽くしているのはバセルの兵だ。この状況でジャミールがバセルに反論したらどうなるか――ジャミールはバセルの手に握られた剣に目をやって、口を噤んだ。
 まるで自分が王であるかのようなバセルの口調にも、じゃりじゃりと砂を噛むような違和感しかない。
 若い主人は相変わらず嘘くさい笑顔を口元に浮かべ、焦点の合っていない目で城壁に掲げられた旗を見上げている。まるで言葉と表情と感情のすべてが、ちぐはぐに崩壊しかけているようだった。

 三日後の朝、バセルの命令によって幽閉されたはずのニケ女王が、憤怒のあまり自死した、とジャミールは配下の兵から伝え聞いた。自死などであるわけがない、とジャミールは確信したが、無論それを口にすることはなかった。

   *****

 占拠した月光宮の、さすがに王族の私室に寝泊まりするのは気が引けたので、バセルは宿へ戻った。
 宿はバセル軍が借り切っていたが、貴人に見えないようなるべく質素な服を選んだ。混乱に乗じて、どこで命を狙われるかわからない。
「おかえりなせえ」
 宿の主人はバセルの身分を薄々感じながらも、特別言及することはなく慇懃な笑みで迎えた。謝礼は十分に払われていたし、余計なことを言えば殺されかねない。宿の主人にしてみれば、戦に巻き込まれず、平和とはいえずとも安全に過ごせて、金に困らずにやり過ごせれば御の字なのだ。たとえ敵国の要人でも、わざわざ危険を冒して上客を売る愛国心など持ち合わせていない。
 部屋を守っていた兵士と入れ替わり、着替えもせずに寝台に倒れ込む。
 勝利とは裏腹に、憂鬱な気持ちが晴れない。蓄積した疲労が指の先までこわばらせている。まだ真冬にはなっていないのに、冷えた身体はなかなか暖まらない。エクバターナは緑多い山に囲まれた住みやすそうな土地だが、冬は砂漠よりもだいぶ寒いのだ。
 バセルが政庁を汚すなと命じたため、恭順を示した王族・貴族や官吏は軟禁され、抵抗した兵士や女王の侍女たちは捕虜として捕らえられた。潔癖な元王子は捕虜の扱いにも厳しく、捕らえられたアルナハブ側の貴族たちが無闇に凌辱を受けることはなかった。代わりに、兵士たちは後宮になだれ込んだ。
 バセルにしてみれば、さすがに後宮までは手を出すなと言いにくい。男ばかりの遠征で、兵士たちが色々と溜め込んできたのも、戦勝による興奮のはけ口を求めているのも知っている。逃げたい女は逃がしてやれ、とだけ命じて、後宮を兵の休息所として使うことを許可せざるを得なかった。だが、元々常に監視されてきた後宮の女たちは、そうそう要領よく逃げることもできない。着の身着のまま街に出たとて、行くあても生きるすべもないのだ。下手をすれば暴徒に襲われかねない。結局、彼女たちの多くが、戦で昂った兵士たちの相手をするしかないだろう。
 感情を殺してしまわなければ、とても見ていられない現実が、そこにはあった。
(冷えていく……身体も……心も)
 キイ、と小さく軋んでドアが開いた。ふわりと芳しい香りが漂う。
「お疲れね」
 室内に入ってきたザラは、抱えていたたらいを床に置くと、寝台に腰掛けてバセルの頭を撫でた。
「……三日、寝ていない」
「薬湯を持ってきたわ。座って」
 たらいの中には薬草を浮かべた湯が張ってあった。足を洗うためのものだ。
 だが、バセルはザラの手を掴んで、寝床に引き込んだ。
「だめよ。お湯が冷めて……んっ」
 ザラが言い終わる前に唇を塞ぐ。そのまま上に乗って押さえ込み、性急に下衣をたくし上げる。
「や、あ、待っ――」
 バセルは一旦唇を離すと、もがくザラの両脚の太腿をつかんで広げ、その間に顔を埋めた。まだ濡れていないそこをべろりと舐めあげ、音を立てて陰核を吸い上げる。
「だめ……あっ!」
 ザラの腰が浮き、抵抗していた手脚から力が抜けた。すかさずバセルが唾液で濡れたザラの中に侵入した。
「うっ……!」
「ザラ……ザラ……」
 熱に浮かされたように呼びかけながら、バセルは貪るようにザラを抱いた。何度も奥を突き上げ、豊かな乳房を揉みしだく。
「ああ……なぜだ……私は、私は……っ」
「うっ……うんっ……」
 無理矢理こじ開けられる苦痛に呻き、激しく揺さぶられながら、ザラはバセルを見つめた。戦に勝ったというのに、その将の顔は土気色に憔悴し、唇はささくれ、瞳だけが爛々と血走っている。変装などしなくても、誰もこれがあの育ちの良い王子だとは気付かないだろう、とザラは思った。
「私は……間違っていない……裏切ったのは……裏切ったのは――ああ!」
 バセルは、誰かに吐き出さずにはいられなかった。
 戦場で兵たちの前に立って、弱さも迷いも晒せない。腹心のジャミールはマルスからの目付役だ。事実、隠し子のことを問い詰めても口を割らなかった。そのことでマルスとバセルが対立したら、ジャミールはマルスにつく。マルスが息子といえど容赦しないのは、弟バハルに対する態度で証明済みだ。
(誰も信じられない……こんなに寒い異国で、私は一人きりか)
 バセルは孤独の深淵を見た。足元にぽっかりとあいた闇に引きずり込まれる恐怖から逃れようとすると、対岸には怒りがあった。崇敬していた父への、そして父を盲信していた己への。
 その怒りにまかせて、エクバターナを蹂躙した。今、戦場の興奮の冷めぬままにこの女を組み敷いて犯しているように。
 多くの血が流れ、混乱したエクバターナを、バセルはとても直視できなかった。
「そうよ、バセル、あなたは間違ってないわ」
「ああ、ザラ、私は……こうするしかなかったんだ……」
「ええ、辛かったのね、バセル」
「ザラ、ああ、ザラ」
「何も考えなくていいのよ……それでいいの」
 ザラのあたたかな肉と言葉に包まれて、バセルは冷え切った身体に熱が戻ってくるのを感じた。
「あなたは……っ、正しいわ、バセル。それでいいのよ……何も間違ってなんかない」
 ザラは喘ぎ声の合間に、バセルを肯定する言葉を並べた。それは繋がった場所からバセルに流れ込み、熱い血液となって全身を巡る。
「……ザラ……ザラ……あなただけだ、私を理解できるのは」
「ああ……バセル……っ!」
 痺れるような快感が躰を貫いて、ザラは危うく笑い声を上げそうになった。
 ――イシュラヴァールは滅びる。傑物の王を失い、第二王子は反逆者の傀儡に成り果て、そして今、聡明な第一王子が疑念と色欲に堕ちた。
(そうよ、バセル。あなたのことはわたしが一番よく理解わかっている。さあバセル、そのまま奥までいらっしゃい。とろけるように甘い、破滅へと続く道へ、わたしが案内してあげるわ――)
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