イシュラヴァール戦記

道化の桃

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第二章 落日のエクバターナ

二人の父親

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 マルスは長衣を翻して兵士たちに命じた。
「お前たち、退がっていいぞ。スカイ、そなたも着替えてこい」
「さすがにそれは危険では……」
 スカイが反論しかけたが、マルスは意に介さない。
「案じずともこの男は、今更私を害するほど愚かではない。二人きりで話がしたいのだ」
 そこまで言われて仕方なく、スカイは一礼して兵士たちと共に部屋を出た。
「来い。丁度、湯が残っている。その砂を落とすといい」
 マルスはユーリを伴って貴賓室に戻ると、浴槽を指して言った。
「風呂?ここで?」
「そなたは平気かもしれぬが、砂人形と話すのはこちらがつらい。侍従が必要なら呼ぶが?」
「……一人でいい」
 上着を脱ぎかけて、ユーリは手を止めた。マルスは目の前の長椅子に横たわり、小卓に用意された棗を齧っている。
「あんたは男の裸を眺める趣味でもあるのか」
「贅沢を言うな。スカイに任せていたら、縛られたまま裸に剥かれて冷水をかけられていたぞ」
 それを聞いてユーリは顔をしかめた。あの男ならやりかねない。
「街の大衆浴場ハマムと同じだと思えば良いだろう。流石に共に湯浴みに付き合う気はないが」
 結局ユーリは観念して服を脱ぎ捨てると、浴槽に浸かった。身体についた砂が水中に沈んでいく。ざぶんと頭まで湯に沈むと、強張っていた頭皮がゆるゆると軽くなるのがわかった。
 ーー相変わらず、美しい肉体だーーと、マルスは思った。野生動物そのもののような、しなやかで無駄のない筋肉。均整の取れた骨格。砂漠の民にしては若干薄い色の肌に、見覚えのある文様の刺青が彫られている。
 自分の寵姫だった女を奪い、抱いた肉体からだ
「大抵のことには平静でいられる自信があるのだが、こうして目の当たりにすると少なからず嫉妬するものだな」
 ぱしゃん、と水音を立てて、ユーリはマルスを振り返った。
 マルスの殺気はわかりやすい。彼を象徴する長い銀の髪が、僅かに青白い静電気をまとっている。
「そなたが私を害することはないと言ったが、私がそなたを殺さぬとは言っておらぬーー」
 マルスは長椅子を立って浴槽のすぐ際まで来ると、階段状になった浴槽の縁に腰を下ろした。片手には鞘に入った剣が握られている。
 もう片方の手がすうっと動いたので、ユーリは反射的に身を強張らせた。が、その手は戯れに湯を掻いただけだった。
「少々微温ぬるいな」
「……いや」
 思わずマルスを凝視したユーリを見て、マルスはふっと微笑った。
「冗談だ。そう警戒するな。幾度か援助を断られて案じていたが、健康そうで何よりだ」
 ユーリは、過去にファーリアを訪ねて使者が来ていたのを思い出した。(あれがそうだったのか)と納得する。マルスの援助は勿論ユーリにではなくファーリアと子どもたちに向けられたものだろうが、彼女なりにユーリに対して遠慮していたのだろう。
「あんたはーー痩せたな」
「そなたよりは年寄りだからな」
 迂闊に食べると吐く、とは打ち明けなかった。もう殺し合うことはないとしても、この男ユーリに心を許すことはない。
 マルスは衝立にかかっていた室内着を取り、浴槽の脇に置いた。
「着替えだ」
 マルスの長衣は、ユーリの着慣れたものとは形も素材も異なっていた。袖を通すと、ひんやりとした絹の肌触りが肌を包む。
 ユーリが落ち着かない気分で腰紐を結び終えたところで、長椅子に戻ったマルスが本題を切り出した。
「で、頼みとはなんだ」
「ヌールをーーレグルスを、探してほしい」
 ユーリは思い詰めた表情で言った。
「盗賊に攫われた。三月みつきほど前だ……もう死んでいるかもしれないが」
「レグルスのことは探させている」
「知って……いたのか……」
「報せを受けたのは、ひと月ほど前のテビウスだ。ここまで軍を動かすのに手間取ったが、先んじて配下の者に調べさせている。シハーブ領からジャヤトリア地方にかけて、ここ最近の子供の遺体はすべて身元を確認済みだ」
「……信じられない、そんなことが可能なのか?あんたはもうこの国の王じゃないのに?」
「アトラスの実勢力は王都とその周辺の北部地域に留まっている。アルヴィラより南の自治領は、袖の下次第でなんとでもなる。……まあ、腐敗を許しているのが他でもないわが息子なのだから、不甲斐ないとしか言えぬのだがな」
 マルスは自嘲めいた笑みを漏らした。
「じゃあ……ヌール……レグルスは、生きている……のか?」
「少なくとも死んだと確証が得られぬうちは、生きていると信じたいな。親とはそういうものではないのか」
 マルスのこの言葉は、ユーリの後ろめたさをえぐった。継子ヌール実の子ファジュルも、同じように愛せると思っていた。だが実際は、ファーリアのように無心でヌールのもとへと走ることはできなかった。
「ファーリアも……ファーリアも、ここにいるのか?」
 ユーリの呟きに、棗を取ろうと伸ばしたマルスの手が止まった。
「さっき、砂嵐の中で会った……ここの少年兵と共にいた。彼女も今ここにいるのか?」
「ーーいいや」
 マルスはゆっくりと答えた。
(ではあれは、幻ではなかったのか)
 砂嵐の中でファーリアを見た。見た気がした。幻影かと思った。事実、捕まえようとしてもすぐにその姿は消えた。スカイに探すように命じたが、見つからなかった。やはり幻だったのだと思った。
 だが、彼女は本当にあそこにいたのだ。
「ファーリアのことも探させているーーが、見つかっていない」
「そうか……」
 ユーリはそれ以上は何も言えなかった。ファーリアの心が離れていくのを感じる。
 ファーリアがマルスを選んだら、自分にはどうすることもできない。
「あんたは、ヌールとファーリアを探してこの砦に来たのか?」
「それもあるが、そろそろララ=アルサーシャが恋しくなってな」
「新王をーーバハルを討つのか?息子なのに?」
「無論、私とて息子を殺したいわけではない。だが、国益にならぬ君主なら、私は何よりも国の安定を優先しなければならぬ」
 マルスは棗とともに用意されていた二脚のグラスにワインを注ぎ、片方をユーリに渡した。
「王国は長子バセルに継がせるはずだった。そのために留学させ、見聞を広めさせた。バハルにはバハルの役割があったのだ。バセルを支えるというーーだが、母親と叔父に唆されて、あの始末だ」
 マルスとしては、兄弟平等に接してきたつもりだった。マルスは別け隔てなくチャンスを与え、別け隔てなく無関心だった。が、向き不向きという個性は、出来不出来という実力となって顕在化する。不出来な次男は、兄ばかりが持て囃され自分だけが父の愛を受けられないと嘆いた。子育てに失敗したとすれば、バハルが劣等感を糧にすることなく、優秀な兄への僻みに走るのを止められなかったことだ。バハルの母は、息子を諌め励ますことよりも、バハルの僻みにより共感した。
「どちらも血を分けた子だというのに、ままならぬものよ」
 マルスはワイングラスを揺らした。血の色の液体が、グラスの中で渦を巻いた。
「もしーーもしヌールが生きて見つかったら、あんたはーーヌールをどうする気だ?」
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