イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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イシュラヴァール拾遺

番外編 オアシスの夜 1☆

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遠征編の「ジャヤトリアの勅令」~「夜明け」のあたりのお話。
ファーリア×マルスの、マルス視点です。
冒頭は王都編「旅路~オアシス」のあたりです。

*****

 ――触れないで。
 そう、あの娘は言った。
 わたしに触れてはいけません、と。
 あなたを汚してしまうから、と。 

 *

「ジャヤトリアは新政府につきました」
 シハーブが、砂漠地帯に点在する勢力の動向を報告する。
「ジャヤトリアか……」
 月明かりに浮かび上がるオアシスを眺めながら、マルスはふと頭に浮かんだことを口にした。
「ジャヤトリアといえば……あの時、誰が私に解毒剤を飲ませたのだろう」
「解毒剤?」
 スカイが繰り返した。
「アルヴィラ遠征の時のことですか?」
 シハーブが言った。相変わらず話が早いな、とマルスは思った。
 王都を追われてから、マルスはほとんどの時間を海で過ごしていた。護衛としてスカイが常にそばにいたが、シハーブと会うのは、アトラスのクーデター以来、初めてだった。幼い時分に出会ってから、これほど長い間離れていたことなどなかったな、とマルスはその月日を数えた。一年と半年――いや、七、八ヶ月ほどか。久しぶりに会うシハーブは髭が伸びて印象が少し変わっていたが、分身のようにマルスの考えを理解しているところは変わっていない。
「スカイは知らんだろう。あの時、先発隊で別行動だったからな」
「ああ、あの遠征ですか――」
 傭兵隊と共に、アルヴィラ砦で反乱軍と戦った。そしてユーリ・アトゥイーに負けて捕虜となったのだ。苦い記憶が蘇って、スカイは顔をしかめた。
「解毒剤はファーリアでは?マルス様が倒れたときも、彼女が真っ先にスナカズラだと特定していた」
 シハーブが言った。
「スナカズラって、砂漠特有の有毒植物ですよね。ジャヤトリアでは珍しくないのかも。彼女、ジャヤトリア出身ですよね?」
 スカイも首をひねる。
「いや、ファーリアじゃない」
 マルスもまた、記憶を辿った。
 反乱軍討伐のため、軍を率いてアルヴィラへ向かう途中、野営中のテントでそれは起こった。
 毒を盛られた、ということはすぐに分かった。舌の付け根がもたつくような感覚を覚えて、咄嗟に胃の中のものを吐き出したが、間もなく激しい目眩に襲われた。シハーブが毒見役を探して、テントから飛び出していった。間もなく、隊は奇襲を受けたのだ。
 戦闘を避けて馬で運ばれたのは覚えている。気がつくとどこかに寝かされていた。意識が朦朧として、昼なのか夜なのかもわからなかった。
『――まさか、こんな大物を連れてくるとは……』
 枕元で何者かの声がしていた。瞼が重くて、どうしても目を開けられなかった。どころか、全身が痺れて力が入らず、指先一つ動かせなかった。だがその声だけは、妙にはっきりと覚えている。
「……そうだ、あれは男の声だった……」
 マルスはふと、首筋に手を当てた。そこに、冷たい剣の感触が残っているような気がした。
『――思いがけず手の内に転がり込んできた獲物だが――さて』
 奇妙に落ち着き払い、不遜で、どこか粗暴さの滲む、男の声。
 聞き覚えがあるような気がするのだが、どうしても思い出せない。

   *****

 砂混じりの風が、遠い日の記憶を運んでくる。

 目が覚めると、そこは見覚えのない寝室だった。
 身体が軽くなっている。ふと枕元の小卓に目をやると、小さな椀に見たことのない果実が、半分だけすり潰されていた。
 立ち上がると軽い目眩がした。が、気分は悪くない。傍らには提げていた剣が置かれている。ふらつく足元を踏みしめて部屋の外に出ると、廊下には使用人が数人、怯えたようにこちらを見ていた。
「ここはどこだ」
「ジャ、ジャヤトリア辺境伯のお屋敷でごぜえます、旦那」
 一人がおどおどと言った。辺境特有の訛りがある。日に焼けて深い皺が刻まれた見た目よりも、声が若い。
「私の連れはどこだ」
 マルスの問いに、使用人たちは顔を見合わせた。
「答えよ」
 焦れたマルスが苛々と言った。頭にもやがかかったようだが、記憶が正しければ、マルスを戦場から運び出したのはアトゥイーだ。
「では辺境伯はどこだ?」
 要領を得ない使用人たちに、マルスは質問を変えた。今度はあからさまに、彼らの顔色が変わった。
 彼らの顔に浮かんだそれは、恐怖だ。
「ああ……お許しくだせえ、旦那様は、お教えできねえです」
 マルスの切れるような目元が吊り上がった。ピリ、と青い静電気が走った。
「ひ……っ!」
 マルスに詰め寄られて、使用人の男は両腕で顔を隠すように身構えた。
「ち、地下、地下でごぜえます!地下でごぜえます!旦那、お、お許し……!」
 マルスは、腰が抜けかけた使用人を半ば引きずるようにして、地下牢に案内させた。
 それは、目を疑うような光景だった。
 室内は血と体液の臭いが充満し、かすかに皮膚が焼ける臭いも混じっている。壁や天井には幾つも鎖が打ちつけられ、そこここに悪趣味な拷問器具がある。それらがどのように虜囚を拘束し、いたぶるのか、まざまざと想像できて、マルスは吐き気がした。
 その陰惨極まりない空間に、ジャヤトリア辺境伯の下卑た笑い声が響いた。
「ほれ、こんなに欲しがっておるぞ。皆で犯しまくってみせろ」
 異国から売られてきたらしい、体格のいい奴隷たちに辺境伯が命令している。奴隷たちの黒い肌の合間から、ちらちらと細い肢体が見え隠れした。
「…………やぁ……っ…………」
 その千切れるような声を聞いて、マルスの全身が総毛立った。
 次の瞬間、マルスの剣が奴隷の分厚い肉を貫いていた。
 崩れ落ちた巨躯の向こうに、まるで人形のようにぐんにゃりと横たわったアトゥイーの姿があった。鞭で打たれたのか、からだ中を赤く腫らして、マルスから理性を奪った。
(これは私のものだ)
 月明かりの下で出会ってから、注意深く身近に引き込んだ。どこに惹かれたのか、明確な説明はできなかった。ただそばに置きたかった。だがすぐに抱いてしまったら、彼女を怖がらせてしまうかもしれない。マルスを拒む女などそれまでいなかったが、不思議とアトゥイーだけは違うような気がしていた。少しでも強引に迫ったら、簡単に逃げていきそうな。
 マルスは我慢していた。こんなことは初めてだった。もどかしいほどゆっくりと距離を縮め、大切に育ててきた。
 大切に大切に、触れることすらためらうほどに、大切にしてきたのに。
(私のものを、こんな)
 まるで自分自身が穢されたかのような怒りがこみ上げてきて、マルスは一刀両断に辺境伯を裁いた。

 救い出したアトゥイーを客用寝室の広い寝台に寝かせ、傷つき汚れた躰を丁寧に拭き上げる。意識のないまま、時折苦しげに喘ぐのが痛々しい。そしてそれは、艶めかしい芳香を放ってマルスの欲情を誘った。
「……もう我慢などするものか……」
 マルスは身の内で荒ぶる情動にまかせ、喘ぎ声を飲み込むように唇を塞いだ。
 アトゥイーの全身が反応する。熱を帯びた躰がマルスに絡みつき、欲しているのがわかる。マルスはファーリアの肌に刻まれた焼印を見つけた。
「……ファーリア……?」
 マルスがその名を呼ぶと、小さな唇から喘ぎ声が漏れた。
「……抱い……て……」
 それはマルスの理性を完全に奪い去った。
 辺境伯に飲まされた淫薬のせいで、アトゥイー――ファーリアは蜜を滴らせて悶えている。マルスはその躰に唇を這わせ、とろとろと溢れている場所に指を挿し入れた。
「あ、やあ、あ……!」
 細い躰が弓なりにしなり、ビクンビクンとわななく。内側から丹念に愛撫されて、やがてファーリアは絶頂した。マルスが初めて聞くその声はあまりに甘く、扇情的だった。悦楽に追い立てられるように切なく歪む表情が、マルスを一層昂ぶらせた。
 だが。
「だめです、いけません――わたしを見ないで……!」
 正気を取り戻したファーリアは、身をよじってマルスの腕から逃れた。
「なぜだ」
 マルスはもがく細い両腕を捉えて訊いた。
「……わたしは、奴隷なんです……触れないで……陛下が、汚れてしまう……」
 ファーリアは透明な涙で頬を濡らし、小刻みに震えている。それはあまりに悲しげで、マルスの感情をいつになく掻き乱した。
(この娘が、欲しい――)
 王宮に閉じ込めて、誰の目にも触れさせず、貪り尽くしたい。この華奢な躰を傷つけるものすべてから守り、真綿でくるむように幸福で包んでやりたい。これまでこの娘が想像もしなかったであろう、安らかで輝きに満ちた日々を与えてやりたい。すべての痛みを忘れ、溺れるほどの快楽を味わわせてやりたい。
 そうしたらきっと、このあまりに不幸な娘は、見違えるほどに美しくなるだろう。
 その姿を、見てみたい。
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