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嘉辰に生まれて
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あの日、私の生活は一変した。
撤収作業の最中に「この家を引き取る」と言ったものだから、全てが終わる頃には皆すっかりここを私の家だと認識していた。友人の家から帰るかのように、当たり前に私を置き去りにする。私だって、自宅に戻ってやらなければならないことはまだまだあるというのに。
陽が沈んだ後、屋内を歩き回って必要なものを確かめた。洗濯機や調理器具といった必需品はひと通り揃っている。テレビは無いが、元の家にも置いていない。寝具は普段から使っているものに取り換えた方がいいだろう。季節ものはどこに収納しよう――そんなことを考えながら、物置兼作業部屋のドアを開けた。
作業する者がいなくなったのだから、今はもうただの物置だ。ハンガーラックに掛かっていた衣装たちは、全て配分されて一着も残っていない。そのうちいくつをジャックが持ち去ったのか分からないが、欲しかったものがなくなっている、という不満を漏らす団員はいなかった。必要とされた物が必要とした者へ綺麗に割り当てられたのだ。他者とかち合って妥協を強いられることもなく。不要なものを押し付けられることもなく。その結果ここには何もなくなった。人間もこうだったらいいのにな、と考えた。
窓の前に立つ。外が暗く、中が明るいので鏡のようになっていた。よほど顔を寄せなければ向こう側は見えないだろう。私の覇気のない顔が映り、所在なさげにあたりを見渡していた。ここに入り浸る機会は少なかったので、どうにも私の家だという気がしない。覚えがあるとすれば、寝過ごして帰宅のタイミングを逃したときくらいか。
部屋に入った途端ジャックに制されて、窓に向かって座ることになったのだ。そのときに使った椅子が近くにあった。木箱のような形をしたそれを引き寄せ、同じように座ってみる。何の意味もないが、そうしてみたい気がした。作業を見るなと言われたが、窓ガラスに映りはしないかと期待した記憶がよみがえる。もちろん、あいつも馬鹿ではないのでそんな失態は犯さなかった。
そう、この位置からは作業机が見えないはずなのだ。
私は首を捻った。角度を変えて何度か窓を覗き込む。窓枠の中央、むしろ主役のように机の鏡像が鎮座していた。まさか窓の位置は変わらないだろうから、机が動いたことになる。しかしそれは壁に沿って置かれており、違和感なく移動させるためには壁ごとずらす必要があった。
立ち上がって机の傍に向かう。やはり目の錯覚などではなく、机はぴったりと壁に接していた。ジャックは作業道具を箱にまとめて持ち運んでいたので、ここには棚も引き出しもない。ただ四角い天板が四本の脚に支えられているだけだ。私は手を伸ばして壁を叩いた。かすかに反響を感じる。向こう側に空洞があるような。
そういえば、この部屋には床の間のように奥まった空間が無かったか。おそらく扉を外した押し入れだと思うが、その空間へ埋め込むようにして机が置かれていた。そう記憶している。今のように、端から端までまっすぐな壁ではなかった。
クロスも貼られていない羽目板の壁。継ぎ目に指を掛けると、僅かにぐらつく気配がした。邪魔な机を脇へと引きずり、板を外していく。記憶にあるのと同じだけの空間が、少しずつ元の形を取り戻す。隠し部屋と呼べるほどのものではない。机ひとつ分、せいぜいひとりの人間が座れるくらいだ。偽装のために追加された板を剥がし終えたとき、私はまた別のことを思い出していた。
そうだ、この壁には小さな窓があった。
元が押し入れだとすれば、明かり取りのためか。私ですら手の届かないような高さに細長い窓がある。半月錠がしっかりと掛かっている様子が窺えた。こんな所を誰も掃除しないので、さぞや埃と蜘蛛の巣にまみれているかと思いきや、想像よりは綺麗だ。つまり遠くない過去にジャックが触ったということを示していた。壁を装った板に封じられている間も、この窓は明かりを取り入れ続けていたのだ。誰のために? それは、私の目の前にいる〝彼女〟のために。
「ここに私がいたのね」
隣に立つハルカが呟いた。
庭から屋内に戻り、再び二階の作業部屋へ。真夏の蝉のように泣いていた赤ん坊は、この部屋へ近づくにつれて落ち着きを取り戻した。机をどかし、私が羽目板を外し終える頃にはすっかりご機嫌で、母親の腕の中でにこにこ笑っている。やはり分かるのだろうか。かつてここにあったものが、自分たち母娘にとってどのような意味を持つのか。
柔らかな声が、また私の耳に届く。
「ここに私がいたんでしょう? ジャックが作った、もうひとつの私の身体が」
肌の上に紙を貼り重ねていく作業。それが二巡していることを彼女は感じ取っていた。だから出来上がったものはふたつあるはずだと言った。その推測は間違っていない。あのとき私は、女の身体を模った人形を見たのだ。トルソーとは異なり、関節は曲がるように作られていた。だから座り込むこともできる。ゆったりと足を崩して床に座り、両手は愛おしげに腹の上で揃えられていた。
私は確かに見た。その腹を苗床にしてダリアが咲いている様子を。卵のように割れ砕ける表皮。中からこぼれ落ちる土。それを押し分けて頭上を目指す青々とした枝葉。ひとつひとつに、人の頭ほどもある八重の花がついている。満開だ。まるで、私がここを知るタイミングを見計らっていたかのように。
ハルカの感覚は正しかった。本当にジャックは二体目を作っていたのだ。目隠しをさせたのだから気付くはずがない、という緩やかな傲慢を携えて。その点ではハルカが一枚上手だった。彼女はしっかり気付いていたし、その隠し場所まで推測できていた。ただ、ひとつだけ見逃していた――否、感じ損ねていたことがあるとすれば。
腹の部分だけが、そのままの姿ではなかったのだ。
詰め物をしてはその重さで気付かれる。何もない空間を撫でるように、糊で固めた紙の強度のみで膨らませていったのか。一巡目の殻は彼女の身体に忠実だったが、二巡目にはジャックの想像が含まれていた。そうして出来上がった妊婦の外殻を、当人が見ていないうちに剥ぎ取って隠し、後でひそかに組み立てたのだ。中にはたっぷりと土を詰めて。夏になれば立派な花が咲くであろう、ダリアの球根を埋め込んで。
私がここでジャックと背中合わせに語らっていたとき、季節は春だった。あの時点では秘密の空間もなかったし、ダリアはまだ芽吹かない。その後、劇団が崩壊するまでのどこかのタイミングで放り込んだのだろう。誰に見られずとも芽は萌し、茎は伸び、葉は茂った。世話もなくこれほど見事に咲いたのは奇跡に近いが、ハルカの腹から育ったのだから不思議はない、という気もする。彼女は母親なのだから。
そう、ジャックはハルカが母親になったことを知っていた。そうでなければこんな人形は作れない。腹が膨らむ前の姿をトルソーに写し取り、そちらは持ち去ってしまった一方で、いずれこうなることも忘れてはいなかった。身体は痛々しく破れていたが、大輪の花は実に綺麗だ。ジャックがこれを作った動機には、母になる覚悟を決めた彼女への祝福もあったのかもしれない。当人が目にすることはないとしても。
紙と土と植物なのだから処分するのは簡単だ。もし同居人がいたなら、とっとと燃やしてしまえと言うだろう。だがいないのだから仕方がない。止める者はいないのだから、あとは転がり落ちていくだけだ。我に返った私がまず考えたのは、彼女に椅子を用意しなければ、ということだった。実際のハルカが背もたれに身を預けることはなかったが、さすがに腹が膨らめばゆったりと座るだろう。ここにある木箱のような椅子ではふさわしくない。狭い空間から彼女を連れ出し、その身体に触れた。土を詰められている分たしかな重みを感じたが、胎児を含む女性の体重だとすればこのくらいになるはずだ。顔を寄せ、必要な椅子の大きさを調べる私の隣で、ダリアが呼吸するかのように揺れていた。
そんな〝彼女〟と、しばらく生活を共にしていた。
長くはもたないと最初から分かっていた。だからこそ大切にしようと思った。少しでも先まで、美しい姿のままで。花の終わりが近付けば、一本ずつ切り取って瓶に挿した。今でも鮮明に思い出せる。ダイニングテーブルに置かれた酒瓶に赤い花。血痕のように点々と散る中で、私はトーストをかじっていた。やがて残っている花の方が少なくなり、残っている花弁の方が少なくなり、ハルカ自身も崩れてばらばらになってきた頃――
私は、今まで何もなかった庭の花壇に彼女を埋めたのだ。
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