外骨格と踊る

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冬を越える形

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契約書に記した通りの金額を受け取る。交渉から支払いまで、一切の不備はなかった。正面に座る高浜の姿を見遣り、悪い人ではないのだけどな、というありきたりな感想が浮かぶ。若者に対して横柄な態度をとる教師も多い中、彼女は実に真っ当だった。何の不満もない。だが、彼女を恐れている生徒も多いことだろう。

高浜がもう少し緩い人間だったなら、胡桃たちもここまで苦しみはしなかったのだろうか。夜顔という複雑な立場の男に執着することもなく、適度に目を盗んで異性と遊び、自分の道を進むことができたのか。私には分からない。所詮、教師といえども学園に逆らうことはできず、高浜ひとりが監視を緩めたところで何も変わらないか。普段は何もしてくれない大人に絞られるくらいなら、厳しいながらも協力してくれる高浜の顔色を窺っていた方がいい。悪い人ではないのだから――と、堂々巡りの結論に達する。

「この後、慰労会があるんですってね」

静かに問われる。私は素直に肯定した。本当は「打ち上げ」だと言ってしまいたかったのだが、その呼び方では絶対に許可が下りないと百合に忠告された。物は言いようだ。現在は放課後の時刻なので、授業を終えた部員たちは先に会場へ向かっている。あとは私が追い付くだけだ。といっても、ただ自宅へ帰るだけなのだが。

「あまり遅くはならないように。あの子たちをよろしく頼みますよ」

私が女だから、彼女もこうやって認めてくれる。中身なんて一切関係なく。思うところはあるものの、今は利用するしかなかった。頭を下げて立ち上がる。応接室を後にする。私が通っていた高校とはまるで違う、広くて綺麗な廊下に燃えるような夕焼けがぶちまけられていた。

鍵をかけてきたので、彼女らが先に着いても中へは入れないはずだ。私は自転車を立ち漕ぎした。車を手に入れるか迷った挙句、ひとまずこれを買うことにしたのだ。グリーンの自転車は冬枯れの野を走り、畦道を突っ切り、民家の庭に着いた。門の前で三人の少女が待っている。

山茶花は、いつもと同じ真っ黒のセーラー服。赤いスカーフが胸元で映えている。タイツや靴に至るまで黒く、彼女自身が影のように思えた。

そして、両側に立つ胡桃と百合は、喪服姿だった。

「すまない。待たせたな」

自転車を停めて声を掛ける。ブレーキの軋む音を耳にした少女たちは、振り返って口々に挨拶をした。胡桃はウエストに細いリボンを縫い留めたワンピースを着用している。百合はスタンドカラーのシャツを着込んだパンツスーツ姿だった。どちらも黒で統一されており、山茶花以上に彩度を失っている。指定制服のない学校に通っているため、式に参列するとなればこうなるのか。

そう、今日は葬式をあげる日なのだから。

「座敷を開けるから、とりあえず荷物を置こう。そうしたら庭に集まってくれ」

私の指示通りに動く彼女たちを尻目に、つまりこの恰好で授業を受けていたのか、と思い至った。学校を出てから私を迎えるまで、どこかに寄って着替える時間はなさそうだ。確かに校則違反ではないし、あくまでフォーマルな服装である以上、風紀を乱すという指摘もできない。山茶花はいつも通りであるが、胡桃と百合を見て周囲の者はどう思ったことだろう。教室で机を並べる少女たちの中、あからさまに〝死〟をまとったふたりの姿を想像してみた。

「みんな、自分の担当の俳句は持ってきたかしら?」

胡桃が呼びかける。彼女らが取り出したのは、俳句を綴った短冊だった。撤収後に学校へ持ち帰られたはずだが、再びここへ戻ってきたようだ。十六枚全てではなく、ひとりが一枚ずつ携えて、三枚だけ。どれも夜顔の詠んだ句だった。つまり「自分の担当」というのは「自分が詠んだ」という意味ではなく。
自分が詠まれた、ということか。

私は、あらかじめ集めておいた落ち葉や枯木に火をつけた。庭先で焚火を囲んでいるという、見た目だけは平和な光景が出来上がる。ここに芋でも放り込めば楽しいだろうが、今から燃やすのは亡くなった仲間の遺品だ。誰が何と言おうとも。短冊だけでなく、夜顔直筆の原稿が入った紙箱も用意してある。実は中身をすり替えており、胡桃が偽装した紙片ではなく、実際に提出されたものに戻っていた。

先陣を切ったのは百合だった。

「毛糸玉、手中でとけて根のごとし」

読み上げながら短冊を火にくべる。

「夜顔が編み物をしていて、窓の外で私が糸玉を持っていたことがあった。本当はそんなことなんてしなくても、あいつはひとりで編めるのだけど。形だけでもいいから何か手伝いたかったんだ。思いのほか崩れやすい糸玉で、気付いたときには手の中でぐちゃぐちゃになっていた。夜顔は怒りもせず、ただ愉快そうに笑っていたな」

それは夜顔にとっても良い思い出だったのだろう。だから俳句として切り取った。おそらく、写真を撮るような感覚だったのでは。高い位置にある窓を挟む関係では、隣り合って画角に収まることもできない。そうして残された光景が一枚、燃えていく。

「泡凍る黒髪に落ち六つの花」

目蓋を閉じ、振り切るような勢いで山茶花が短冊を投げ込んだ。

「……シャボン玉、頭の上に落ちてたみたい。気付かなかった」

短くそう告げると、すぐにそっぽを向く。彼女は夜顔のことが好きだった、と胡桃が話していた。私からすると、恋になんて興味なさそうな少女に見える。そう見えたということは、彼女は忠実に大人からの言いつけを守ろうとしていたのだ。そんなことにうつつを抜かさない若者であれ、と。

最後は、胡桃の番だった。

「北風や窓にぶつかり落ちる実よ」

夜も更けた頃、せめて自身の存在を伝えようとする彼女に対し、夜顔は「気付かないふり」で返した。実際は気付いていたからこそ、気付かないふりができる。この句を目にしたとき、彼女は安堵したのではなかろうか。病室の近くに実のなる木はない。それはお互いに知っている。俳句の真意を読み取ることは簡単だったはずだ。

もっとも、その直後に自らの手で偽装することになるのだが。

そして私が紙箱を放り込んだ。最後に中身を見せることもなく。もしこれがブリキの缶などであればこうもいかないわけで、どこか運命じみたものを感じてしまう。夜顔が紙箱に原稿を保管していたのは、いつか綺麗さっぱり燃やされることを想定していたからなのか。そんな脈絡のない推測が浮かんでしまうほどに。

ふと見渡せば、少女たちが数珠を持った手を合わせていた。葬式といっても真似事程度だと考えていたので、異様な光景に驚いてしまう。ひとまず私もそれに倣った。目を閉じて、炎のはぜる音に耳を傾ける。もし高浜が様子を覗きに来たらどうしよう、と今さらながらに焦った。とはいえ、何もやましいことはないのだが。

酒を飲んだり異性と遊んだりなぞはしていない。
まだ陽は落ちておらず、高浜との約束も守っている。

ただ葬式をあげているだけだ。尋ねられたら、堂々と答えよう。これはお葬式です、つい先日、彼女たちの俳句仲間が亡くなったのです。誰かを弔うことすらあなたは禁止するのですか。

(影消えて 師走の空に 我ひとり)

明るみに出ることなく、紙箱の中に入ったまま燃やされた最後の一句。この並びが正しい形のはずだ。山茶花が推測したものは間違っていた。正解を知っているのは胡桃と私だけだが、その解釈について語らったことはない。目を閉じたまま、少しだけ考えてみることにした。

この句を詠んだとき、夜顔は自身が快方に向かっていることを知っていたはずだ。つまり悲壮な死の気配を詠んだものではなく、ポジティブな内容に違いない。良い意味での孤独。それを「我ひとり」という言葉で表現したのだろう。

ひとりになったということは、病気と切り離されたということだ。人間の身体の中を肉眼で見ることは難しいが、機械を通せば撮影できる場合もある。そこに写り込んだ何かと彼は生活を共にしてきた。取り除くことができない以上、生きれば生きるほど病因の世話をするようなものだ。しかしある時、どういった理由なのかは分からないが、その影が消えていることを知る――

「影消えて、師走の空に、我ひとり……」

思わず口に出してしまった。目を開けて様子を窺う。胡桃がちらりとこちらを見た。百合の耳には届いたらしく「逆ですよ」と指摘される。焚火の向こう側にいる山茶花は目を閉じたままだった。

長い闘病生活を経て、夜顔がついに掴んだ自由。命の危機に比べれば、箱庭に閉じ込められていることくらい何だ。ベッドの中で眠りに落ちる度、明日の朝は目覚めないかもしれないという恐怖と付き合ったことがあるのか。そんな幻聴を感じたからこそ、胡桃はこの句を書けなかったのかもしれない。もちろん、夜顔は何も言っていない。もし彼女の計画を知ったとしても、諭すことはあれど叱責などしないだろう。

それでも。この句はこの形でなければいけないと知る唯一の人間だったから。

手が震えてどうしても書けなかった。それが全ての答えだ。自分が何をやったのか、彼女はよく理解していた。理解した上で、こうするしかなかった。夜顔を好いている山茶花が推理を述べたとき、最も強く祈っていたのは他ならぬ部長だろう。どうか間違えないでくれ、と。こうして何もかもを燃やしきって、少しでも心の整理がつけばいいのだが。

「成仏できるといいな……」

空気は冷たいが快晴だ。冬の透き通った空に向かって、私は煙のような息を吐いた。

〈冬を越える形・終〉
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