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石に映る林
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綺麗な秋晴れの日に林堂の写真展は始まった。
門を通り、そのままサンルームへ入れるように道しるべを置いている。開場して間もなく、彼の仕事仲間が数名訪れてくれた。物理的に傾いた民家に「おお」と声をあげ、むしろこちらに興味がありそうな者もいる。建築が専門の写真家なのだろうか。しかし勝手に撮影することもなく、光の降りそそぐサンルームへと吸い込まれていった。
ただの家主が出しゃばるのも妙だと思い、そこには入らず隣の縁側に腰掛けていた。間仕切りの襖越しに男女の談笑が聞こえる。今のところ身内だけのようだ。もっと様々な、近隣の住民などが来てくれたら嬉しいのだが、と考える。そんな願いが叶ったのか、昼を少し回ったあたりで、散歩中のご婦人たちが連れ立って覗いてくれた。帳簿につけた来場者のカウントを見る。のべ十名。ユニーク数では八名だった。
初動としてはまずまずといったところか。先日出会った高校生のことが頭に過ったが、初日は姿を見なかった。勉学に勤しむ彼女は私と違って暇ではないのだ。時間ができれば来てくれるだろうし、来れなかったとて誰が悪いわけでもない。限りなく薄っすらとした期待のもと、何とはなしに彼女の姿を探す日々が続いた。動きがあったのは一週間後のことだ。個展の会期は二週間なので、ちょうど折り返し地点。
その日、私は所用で外出していた。会場のことは林堂に任せ、用を済ませてから帰宅する頃には陽が沈みかけていた。家を正面に見据えながら畦道を延々と歩く。駅のある方角の都合上、帰路は大抵この景色だ。遠近法によりミニチュアのようだった庭先が次第に拡大されていく。真っ赤なダリアが風に揺れていた。もうすぐ入場を締め切る時刻だ。誰もいないタイミングなのか、林堂が濡れ縁に座ってぼんやりしている様子が窺えた。
歩みと共に近づいていくが、相手はこちらに気付いていないようだ。傍らに紙箱らしきものを置き、そこから何かを摘まみ上げて眺めていた。視線はそちらへ釘付けになっている。夕暮れの日差しに染まっているため正確な色味が分からないが、きらりと輝く石を手にしているのだと思った。会場に実物の鉱石は置かないと聞いていたが、今日は持ち込んでいたのかもしれない。目線の高さにまで上げたそれを彼はじっと見つめていた。そして欠伸でもするかのように口を大きく開き――
石を、食べた。
思わず声が出た。彼のいる場所までまだ距離があり、反応や返事は期待していなかったのだが。林堂はこちらに気付いたが、何に驚いているのか理解していないようだ。しばらく咀嚼が続いた後、動きが止まる。飲み込んだのか。その頃には私もいくらか冷静になっており、石のように見える菓子か何かだろうと思い至った。
「食べるか?」
私が眼前にたどり着くのを待ち、林堂が箱を差し出す。パステルカラーで半透明の欠片が収まっていた。形は歪であるが、断面は滑らかだ。劈開、という言葉を思い出す。鉱石について基礎的な情報を教わった際、彼が口にしていた。
「琥珀糖だ。差し入れに貰った」
エメラルドグリーンのひとつを手に取り、口に運ぶ。海の味がする、などと詩的なことを言ってみたかったが、そんなはずもない。脳髄が蕩けるような甘い味がした。紙箱も紙袋も高級そうな店のもので、私が雑に食べてしまうにはもったいない。しかし林堂には似合っている。石を摘まみ上げて口に運ぶその姿が、大昔からそうやって生きてきたかのように馴染んでいた。
「センスが良い差し入れだな。写真家仲間か?」
私が尋ねると、彼は首を振る。
「いや、高校生くらいの女の子だった。初めて見る顔だ。展示の内容は詳しく知らなかったようだから、鉱石に似た菓子を選んだのも偶然だろう」
思い当たる節がある。私は質問を重ねた。
「それって、三つ編みをふたつ括りにしている子か?」
門の前で出会った少女。指定制服のない学校なので服装は分からないが、髪型はあの時と同じだろうと思った。寸分の狂いもなく丁寧に編まれた黒髪が印象的で、毎朝自分で結っている姿が想像できたからだ。
「そうだ。真面目で賢そうな女の子。声は少し――」
「アニメ声?」
「確かにな。外見よりも幼い声だった」
間違いない。あの子が来てくれたのだ。私が不在の間だったのは残念だが、やむを得ないことだ。彼女は私に会いに来たのではなく、展示を見に来たのだから。満足して帰ったのならそれでいい。
「知り合いか?」
「たまたまここで出会っただけだよ。ポスターも刷り上がっていない頃、少し立ち話したもんで、気が向いたら来てくれと宣伝しておいた」
「こう言っていいのか分からないが、育ちの良いお嬢さんだと感じた。差し入れもくれたし、真剣に展示を見て回っていたし。特にあの写真の前で長く立ち止まっていた。理由だとかは聞けなかったが」
指が伸びる。私たちが腰掛けている縁側から、サンルームの奥の壁まで、遮るものは何もなかった。間仕切りの襖を開け放っているからだ。角度を踏まえて対象を割り出してみれば、私が最も分類に苦労した作品であると分かった。
「これに興味がありそうだったのか?」
立ち上がって額縁の前まで歩み寄る。林堂も後ろをついて来ていた。直感的な印象をもとに四季へ割り振る際、最も曖昧だったもの。春とも夏とも秋とも冬ともつかない。そもそも、景色に見えない。そんな鉱物の写真だ。
「アンフィボール・イン・クォーツ。夕暮れの麦畑のように見えるってことで、秋に分類したんだったな」
「でもどちらかというと羽毛か、動物の毛並みだろ。あまり景色らしくない。どうしてこれを入れたんだ」
「まあ、クォーツ系は色々入れたくて……」
知識のない私は、このインクルージョンを「何かふわふわしたもの」としか表現できない。繊維状の黄土色が一面に広がっていた。もっと何も知らなかった頃の私なら、羽毛の化石だと思っていたかもしれない。しかし今なら何となく分かる。木の葉とか動物の毛皮だとか、そういった類のものが数千年の時を超えて遺ることは難しいのだ。琥珀に閉じ込められた虫などの例はあるものの、生物の柔らかい部分はほんの一瞬しかもたない。地球規模の時間感覚で測るならば。
骨ならきちんと遺るのにな、とふと考えた。どうしてそんなことが浮かんだのか分からない。まるで、私自身が存在を遺したがっているかのようだ。いつかこの世から消えてしまうことを惜しんでいるかのようだ。幼い頃に身寄りを全て失ってから、自分の何かを譲りたい相手などいなかった。このまま綺麗さっぱり消える運命で構わないと思っていたのだが。
遺るのは骨だけだ。どんなに美しい髪を持っていても、たおやかな肌を湛えていても。自らの目で確認したこともない物体が己の名を騙って主張する。そんな煤けた塊が私だったはずがないと抗議しようにも、死人に口は無く。愛する者は骨壺を抱えて泣いている。だから、不満があっても認めなくてはならない。
そうやって最大限の妥協をしながら、人類は死を受け入れてきた。
「大切な人やペットの遺髪・遺毛を、鉱物に閉じ込めて装飾品に加工する文化が生まれていても良かったんじゃないか?」
写真に視線を向けたまま、私はそんなことを呟いていた。林堂が怪訝な顔をする。
「これは毛髪の化石じゃないぞ」
「ああ、そうだった。じゃあ、故人の髪に似た色の石を持ち歩くとか。こんなに種類があるのなら、生前の姿を想起するものが見つかるだろう。石ならずっと残っていてくれる。燃やした後に骨だけ渡されてもなあ……」
返事はなかった。いつも豊かな知識で的確な返答をくれる林堂が、じっと黙り込んでいる。文化人類学は専門ではないだろうから仕方ないか。唐突に妙なことを言い出した私が悪い。詫びを入れようと思って視線を上げた。
サングラス越しに目が合う。
「そんな、過去があるのか?」
一拍だけ私の言葉を待ってくれたが、何も返さないので再度、具体的に。
「大切な人を燃やされた後に骨だけ渡されて途方に暮れた過去が、あるのか?」
彼にしては珍しくストレートな物言いで。しかし、この流れでは一理あることだった。私は自白したようなものだ。彼はそれを拾い上げてくれただけ。とはいえ、感謝よりも恥ずかしさの方が勝った。晒すつもりなんてなかった。私の内側の柔らかい部分は、まだ、私だけのものだった。
「何でもない。一般論を述べたまでだ」
そう言って、私は彼から視線を外した。
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