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〖第1話〗
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大人になっていくうえで、忘れてしまったこと。過去のどうしても忘れたくない記憶だったりすることもあるかもしれない。それは、時折大人になった僕たちの心の、内側を引っ掻いてむず痒くさせる。けれど、いつしかその淡い疼きすら、いつしか忘れ去られて消えていく。
山梔子の香りは、宵闇が似合う。昔から僕はこの花が好きだった。その甘く柔らかな腕のようなこの花の香りは、幼い孤独と寂しさを慰めた。そう言えば、母も山梔子の香りが好きだった。
「今でも覚えているわ」
母は目を細めて語る。母の顔つきは、少女と大人の隙間に戻る。当時アメリカに留学していた父がアメリカ暮らしの母をパーティーに誘った時、送ったのが山梔子の花だった。ダンスをしながらの父のプロポーズに『とても幸せです』と、洒落た言葉で、二人は結ばれた。母の答えは山梔子の花言葉だった。僕はその夜に授かったらしい。母は受け取った山梔子の花を捨てたくなくて、ガラスの皿に水を張って、ずっと浮かべておいたといっていた。
「この甘い匂いは幸せの匂いよ」
と部屋の山梔子の鉢を手入れしながら母は笑う。そして、小さく母は言った。
「小さい頃、惣介には寂しい思いをさせたね。ごめんね」
僕は嘲笑った。小学生になる前から僕は自分で夜も朝も、自分でご飯を用意して食べていた。今もそれが当たり前だ。家には誰もいなかった。静寂だけがこの家を支配していた。そんな僕を慰めるように、夏になると、僕より手入れが行き届いた鉢植えの白い花がリビングに香った。その甘い香りは不思議と僕の気持ちを包み、穏やかにさせた。いつもうっすら薫っているその匂いは夏は特に僕に纏わる。
学校に行っても解りきった授業で何も面白いことはない。楽しみも何もない。表面上の困らない人間関係を築くことはできたけれど、その友達と一緒にいて楽しいとは思わない。彼ら、彼女らが僕にみているのは、僕の後ろにあるものだ。大病院の跡取り。権力、財力だ。僕じゃない。
「今更、時間が戻るわけでもないし。僕は独りでいい。見合いはしない。恋愛もしなくていい。結婚もしない。子供も要らない。自分の子に可哀想な思いはさせたくない。いつか僕が院長になって、人生を全うしたら次の後継者は皆で決めて欲しい。それと夏休み、福島の叔父さんの家に行ってくる。この前の全国模試のときにした約束、覚えてる? 十位以内に入ったから、いいよね?志望校も圏内だし」
山梔子の香りは、宵闇が似合う。昔から僕はこの花が好きだった。その甘く柔らかな腕のようなこの花の香りは、幼い孤独と寂しさを慰めた。そう言えば、母も山梔子の香りが好きだった。
「今でも覚えているわ」
母は目を細めて語る。母の顔つきは、少女と大人の隙間に戻る。当時アメリカに留学していた父がアメリカ暮らしの母をパーティーに誘った時、送ったのが山梔子の花だった。ダンスをしながらの父のプロポーズに『とても幸せです』と、洒落た言葉で、二人は結ばれた。母の答えは山梔子の花言葉だった。僕はその夜に授かったらしい。母は受け取った山梔子の花を捨てたくなくて、ガラスの皿に水を張って、ずっと浮かべておいたといっていた。
「この甘い匂いは幸せの匂いよ」
と部屋の山梔子の鉢を手入れしながら母は笑う。そして、小さく母は言った。
「小さい頃、惣介には寂しい思いをさせたね。ごめんね」
僕は嘲笑った。小学生になる前から僕は自分で夜も朝も、自分でご飯を用意して食べていた。今もそれが当たり前だ。家には誰もいなかった。静寂だけがこの家を支配していた。そんな僕を慰めるように、夏になると、僕より手入れが行き届いた鉢植えの白い花がリビングに香った。その甘い香りは不思議と僕の気持ちを包み、穏やかにさせた。いつもうっすら薫っているその匂いは夏は特に僕に纏わる。
学校に行っても解りきった授業で何も面白いことはない。楽しみも何もない。表面上の困らない人間関係を築くことはできたけれど、その友達と一緒にいて楽しいとは思わない。彼ら、彼女らが僕にみているのは、僕の後ろにあるものだ。大病院の跡取り。権力、財力だ。僕じゃない。
「今更、時間が戻るわけでもないし。僕は独りでいい。見合いはしない。恋愛もしなくていい。結婚もしない。子供も要らない。自分の子に可哀想な思いはさせたくない。いつか僕が院長になって、人生を全うしたら次の後継者は皆で決めて欲しい。それと夏休み、福島の叔父さんの家に行ってくる。この前の全国模試のときにした約束、覚えてる? 十位以内に入ったから、いいよね?志望校も圏内だし」
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