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《前編》
孝明の場合⑫──佐伯の最後の恋
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「佐伯、佐伯、悪かったよ。軽はずみなこと言って。く、首なんかしめて。本当に。頼むから、頼むから。まさか、死んだりしないよな。飛び降りたりしないよな。お前は俺をおいていかないでくれ」
孝明の問いかけに答えず、佐伯はゆっくりと話始めた。
「もう謝ることも出来ない相手から一生許してもらえないことを後悔しながら、生きることが一番辛い。簡単に死ぬな。自殺しようなんて考えるな。死ぬときは絶望の底の底を見てから死ね!………俺の座右の銘だよ。俺の昔、研修医を終えて医者になったばかりだったころ、俺を慕ってくれる男性患者がいたよ。希死念慮、自殺企図が強い酷い鬱の二十一歳の男性患者だった。くせっ毛でお前に似ていたかな。そのせいか、優しくし過ぎた。眠れないとセンターに追加眠剤を貰いに来る彼を個室まで送って軽く髪を撫でて『おやすみ』って言ってあげる程度だけどね。ある日、俺を見つめて『寂しいんだ。先生。俺、先生が好きなんだ。先生。俺、気持ち悪いのかなあ?』
って。今にも泣きそうな顔をして。ゲイだってだけで、家族に絶縁されてずっと病院にいるっていっていたよ。エリート一家だった。……とても綺麗に難しい折り紙を折る子だった。
『先生。やっぱり、俺、変なのかなぁ。だから誰も面会に来ないの?』
眉を下げて、じっと見つめられて。お前の癖に重なって、俺は折れた。担当患者に落ちた。声すらも、お前に似ていた。その子は月舘海っていう大人しい子だった。海っていう名前なのに海に行ったことがないと言ってた。震える声で、
『手を、握って欲しいです……先生に……気持ち悪いですよね……』
と、眠れないと追加眠剤をもらいに来たあと俺を訪ねて来た。これ以上もない勇気を出したんだろうね。俺は海が眠るまで手を握ってやった。セーブしていた。心を扱うものとしてもタブーだ。けどこれを期に回復するかもしれない。『俺』というエサで、生きる希望を取り戻してくれるかもしれない、と安易な欲も出た。その子を大事にして、生きる方へ導きたかった。海も見せてあげたかった。海は次の日、飛び降りて自殺したよ。退院したら二人で映画でも見に行こう。俺は甘党なんだけど海は甘いものは好き?なんてこれからの話をしてたのに。呆然とする俺のデスクに宛名なしの封書が届いた。
『最後に夢を見させてくれてありがとうございました。ずっと先生が好きでした。もう、十分です。幸せな人生でした。でも昨晩の先生はやはり先生だ。『治療』なんですよね。全部、触れたら壊れそうな夢物語のようでした。先生の優しさは残酷です。好きな人と幸せになれるといいですね』
ってね。俺は海に好きな人がいるなんて一言も言わなかった。俺が、殺したんだよ。立ち直るまで、かなりかかった。今でも思い出すよ。もう、謝れない。許してもらえない。だからもう絶対に患者に私情は挟まない。無駄な親切心もない。『聴いてあげる』だけ。あとは『医学的見解』によるアドバイス。この科の医者はメスや薬なんか使わなくても人を死なせてしまう。『絶望の底の底を見ろ』か。案外俺の絶望の底は浅いな……ああ、夜景がつかめそうだなあ」
佐伯のこんな声を初めて聞いた。余裕があって、人をくったように笑う佐伯とは別人だ。
「佐伯、寒いよ。もう帰ろう?お前、風邪こじらせちまう」
バサッと、なにかが飛んできた。佐伯の白衣だ。
「寒いんだろ。着ろよ。ああ、『人殺し』の服は着れないか」
佐伯が笑う。苦しい自嘲の声。何故こんなときですら佐伯は優しいんだろう。解りきっている答えを飲み込む。孝明は黙って緩慢な動作でワンサイズ大きな白衣を着る。温かいというより、熱い首回り。熱は下がってないみたいだ。
「風邪こじらすぞ、中で話そう?雨ももっと降りそうだ」
「風邪で熱があるのも、雨に降られてこじらせるのも、もうどうでも良いんだ。さっきお前に『人殺し』『殺してやる』『死ね』って。首を絞められた時の俺の気持ちをお前は考えたか?俺の気持ちを『知りながら』、確証のない疑惑だけで俺の気持ちを蟻みたいに踏み潰したんだよ。二十年来の友達も、お前にずっと恋をしていた男も死んだんだ。
「……お前、俺がいなくなったらそこから飛び降りるんだろう?」
ゆっくり近づき柵の外の枠に寄りかかる佐伯の手を掴む。
「触るな!」
怒りがこもった低い声。逃げないように強く掴もうとした腕が乱暴に振りほどかれた。
「友達に戻れないか?大学時代の昔みたいな、三人バカやって」
佐伯は笑った。涙目になりながら笑っていた。
「面白いこと言うな。お前、本当に面白いよ」
俺は愉快そうに笑う佐伯にかける言葉が見つからなかった。
「なあ孝明、お前はバカか。割り算も出来ないのか?俺は滑稽だな。お前と和也をただ俺は見てるのか。幸せそうな二人を見て目を細めるほど俺は人間ができてない。俺にとってあの頃も今の感情も同じだよ。あの頃の俺だってずっと嫉妬で死にそうだった。仲が良い三人?笑わせるなよ。惨めで惨めで仕方なかった。そんな自分が嫌で、苦しくて仕方なかったけど、それでもお前の傍に居たかった……」
佐伯がカチッとライターの音を立てた。二本目。フーと息を吐く音が聞こえる。
「……俺はお前の泣いた顔ばかり見てきたな。笑った顔が見たかった。何回も諦めようとしたよ。無駄だ、苦しむだけだってね。お前には和也がいる。頭では解ってた。付き合った人もいた。欲求を満たすためのワンナイトなら数えきれないね。朝ホテルから出て家でシャワーを浴びて、淡い香水つけ直して直して出勤するなんて、ざらだったよ。もう、十分だろ。これ以上惨めになりたくない……海に会いたいな。優しい子だった。間違っても誰かさんと違って、和也が死んだら弱ったお前をタラシこもうなんてゾッとする汚い考えをする子じゃなかったよ。あの子の人生は病院だけだった。秋に一緒に病院の緑地で捕まえたコオロギが死んだだけでずっと泣いている子だった。一緒にOTで作った折り紙、まだ持ってるんだ。ボロボロにならないようにファイリングして。……孝明……こっちこいよ」
全て佐伯は解ってた。汚い感情まで、見透かされてた。でも、やっと死ぬのを諦めてくれた。これからずっと謝ろう。謝り続けよう。許してもらえるまで。そう思って近づいた矢先、胸ぐらを捕まれて引き寄せられキスをされた。これ以上ない、やさしいキスだった。
「じゃあな、孝明」
佐伯は孝明の心臓の辺りをポンっと押した。貰ったマフラーを思い出した。柔らかな、包むような。まるで佐伯、そのもののような。一瞬、振り返った佐伯は微笑っていた。これ以上の幸せはないというくらいに。そして音もなく泣いていた。傷つけられる悲しみは、全て味わい尽くしたかのように。佐伯は真っ暗いドアを開けるように暗闇へ吸い込まれていく。
「嫌だ、嫌だ、佐伯──!」
孝明は一階まで階段で駆け降りながら病院用の携帯で緊急手術の招集をかける。幸い植え込みに落ちたらしい。あと五十センチずれたらコンクリートで即死だった。緊急手術した。頭部は奇跡的に無事だった。ただ触れるのを拒むかのような脆弱な心臓。でも、諦めるわけにはいかなかった。死なせたくなかった。最後に口づけを残して死のうとするなんて。でも、あれが佐伯の精一杯だったんだ。やさしいキスだった。孝明に残そうとした『想い』の全てだった。
ごめん、佐伯。ごめん。あんなに優しくしてもらったのに。散々助けて貰っていたのに。頼む。海君、まだ、佐伯を連れていくのは待ってくれ。何度も祈った。
最終的に命はとりとめたが意識不明が十日続いた。内臓系は何とかなった。心臓のダメージが大きかった。自分が循環器を得意とする外科医であることに、ただ感謝した。残ったのは打撲傷。擦過傷。絶対安静は続いたけれど、海君が守ったのかな。会ったこともない、さっき聞いた佐伯の夢の恋人。まだ、あちら側にはいかないでもらうように、手術中、ずっと頼んだ。
***
佐伯が広い病室で目を覚ましたとき、清々しい顔をしていた。
「佐伯、すまない。お前を傷つけて、死なせた。二回心臓がとまりかけた。今ここにいるのは奇跡に近い」
そう言い頭を下げると、佐伯はにっこり朗らかに笑って
「何がすまないか、解りかねます。副センター長直々のオペだったとききました。ありがとうございました」
「………え?」
「早川副センター長ですよね。写真で拝見しました。本当に命を助けていただいて。俺は飛び降りたんですか?事故ですか?自殺ですか?なにか訳を知りませんか?」
十日前どころか、佐伯の記憶から『自分』がいなくなっている。心は傷が深すぎると、耐えきれなくて蓋をすると聴いたことがある。
「………特には聞いていません」
「周りの話では、副センター長とは仲がよかったときいています。今度、元気になったらご馳走させてください。副センター長はビールですか?」
「いえ、呑めないのでジンジャエールです」
「そうなんですか。あ、生のジンジャーを使った店があるんです。カフェですが。行きませんか?美味しいんですよ」
にっこりと優しく微笑む様子は以前にも増して綺麗だった。
「ええ。あ、俺のことは『孝明』って呼んでください。………俺も『佐伯』と呼んでました」
「そうだな『孝明』……言いづらいですね。やっぱり副センター長でいいですか?」
「それは……」
忘れられている。孝明がこれ以上もなく佐伯を傷つけたことも。孝明にくれた本当の最後の『餞別』のやさしいキスも。今までの思い出も。
「じゃあ早川さんで」
「ええ」
「………本当は仲があまり良くなかったようですね。『孝明』と名前で呼んだ時、胸に石が詰まったような感じがしました」
「良い友人です。本当に、いい……友人です。俺に恋人がいなかったら、きっと俺はあなたのことを好きになっていました。優しくて、仕事熱心で、相手のことを考えてやれる。本当に良い奴です。でも俺は貴方を裏切りました。貴方の……善意の気持ちも利用した。友達としての期間の長さも利用した。許されるまで、病室に通っていいですか?」
「許すなんて、早川さんのことは覚えてませんし」
心に杭を打ち込まれるようだった。思い出してほしい。けれど自己満足なんだと孝明は思う。
「佐伯……さんまた来ます。毎日来ます」
「お気がすむならどうぞ。」
看護師が佐伯に「午後に検査があります」と知らせに来る。
「佐伯さん、また後で。貴方は俺の大切な人なんです。でも、俺が命の糸を切ったんです……」
孝明はドアを閉める。暫くして佐伯はため息をつき、手元にある、血だらけのがま口の煙草ケースにそっと口づけた。扉の隙間から佐伯の頬に涙が伝うのを見た。
「知らないふりは、疲れるな。あのとき死んでも良かった。最後に唇に触れるだけで満足出来たはずだったんだ。もう、生きるのは疲れた。あんな……汚い。もう嫌だ。誰も信用できない」
佐伯は小さく呟いて、点滴をしていない左手で顔を覆って泣いていた。あの日と同じ胸が抉られるような泣き方だった。吐き出すように呟いた佐伯の言葉に俺はただ、その場に立ち尽くしうなだれて聴くことしかできなかった。
孝明の問いかけに答えず、佐伯はゆっくりと話始めた。
「もう謝ることも出来ない相手から一生許してもらえないことを後悔しながら、生きることが一番辛い。簡単に死ぬな。自殺しようなんて考えるな。死ぬときは絶望の底の底を見てから死ね!………俺の座右の銘だよ。俺の昔、研修医を終えて医者になったばかりだったころ、俺を慕ってくれる男性患者がいたよ。希死念慮、自殺企図が強い酷い鬱の二十一歳の男性患者だった。くせっ毛でお前に似ていたかな。そのせいか、優しくし過ぎた。眠れないとセンターに追加眠剤を貰いに来る彼を個室まで送って軽く髪を撫でて『おやすみ』って言ってあげる程度だけどね。ある日、俺を見つめて『寂しいんだ。先生。俺、先生が好きなんだ。先生。俺、気持ち悪いのかなあ?』
って。今にも泣きそうな顔をして。ゲイだってだけで、家族に絶縁されてずっと病院にいるっていっていたよ。エリート一家だった。……とても綺麗に難しい折り紙を折る子だった。
『先生。やっぱり、俺、変なのかなぁ。だから誰も面会に来ないの?』
眉を下げて、じっと見つめられて。お前の癖に重なって、俺は折れた。担当患者に落ちた。声すらも、お前に似ていた。その子は月舘海っていう大人しい子だった。海っていう名前なのに海に行ったことがないと言ってた。震える声で、
『手を、握って欲しいです……先生に……気持ち悪いですよね……』
と、眠れないと追加眠剤をもらいに来たあと俺を訪ねて来た。これ以上もない勇気を出したんだろうね。俺は海が眠るまで手を握ってやった。セーブしていた。心を扱うものとしてもタブーだ。けどこれを期に回復するかもしれない。『俺』というエサで、生きる希望を取り戻してくれるかもしれない、と安易な欲も出た。その子を大事にして、生きる方へ導きたかった。海も見せてあげたかった。海は次の日、飛び降りて自殺したよ。退院したら二人で映画でも見に行こう。俺は甘党なんだけど海は甘いものは好き?なんてこれからの話をしてたのに。呆然とする俺のデスクに宛名なしの封書が届いた。
『最後に夢を見させてくれてありがとうございました。ずっと先生が好きでした。もう、十分です。幸せな人生でした。でも昨晩の先生はやはり先生だ。『治療』なんですよね。全部、触れたら壊れそうな夢物語のようでした。先生の優しさは残酷です。好きな人と幸せになれるといいですね』
ってね。俺は海に好きな人がいるなんて一言も言わなかった。俺が、殺したんだよ。立ち直るまで、かなりかかった。今でも思い出すよ。もう、謝れない。許してもらえない。だからもう絶対に患者に私情は挟まない。無駄な親切心もない。『聴いてあげる』だけ。あとは『医学的見解』によるアドバイス。この科の医者はメスや薬なんか使わなくても人を死なせてしまう。『絶望の底の底を見ろ』か。案外俺の絶望の底は浅いな……ああ、夜景がつかめそうだなあ」
佐伯のこんな声を初めて聞いた。余裕があって、人をくったように笑う佐伯とは別人だ。
「佐伯、寒いよ。もう帰ろう?お前、風邪こじらせちまう」
バサッと、なにかが飛んできた。佐伯の白衣だ。
「寒いんだろ。着ろよ。ああ、『人殺し』の服は着れないか」
佐伯が笑う。苦しい自嘲の声。何故こんなときですら佐伯は優しいんだろう。解りきっている答えを飲み込む。孝明は黙って緩慢な動作でワンサイズ大きな白衣を着る。温かいというより、熱い首回り。熱は下がってないみたいだ。
「風邪こじらすぞ、中で話そう?雨ももっと降りそうだ」
「風邪で熱があるのも、雨に降られてこじらせるのも、もうどうでも良いんだ。さっきお前に『人殺し』『殺してやる』『死ね』って。首を絞められた時の俺の気持ちをお前は考えたか?俺の気持ちを『知りながら』、確証のない疑惑だけで俺の気持ちを蟻みたいに踏み潰したんだよ。二十年来の友達も、お前にずっと恋をしていた男も死んだんだ。
「……お前、俺がいなくなったらそこから飛び降りるんだろう?」
ゆっくり近づき柵の外の枠に寄りかかる佐伯の手を掴む。
「触るな!」
怒りがこもった低い声。逃げないように強く掴もうとした腕が乱暴に振りほどかれた。
「友達に戻れないか?大学時代の昔みたいな、三人バカやって」
佐伯は笑った。涙目になりながら笑っていた。
「面白いこと言うな。お前、本当に面白いよ」
俺は愉快そうに笑う佐伯にかける言葉が見つからなかった。
「なあ孝明、お前はバカか。割り算も出来ないのか?俺は滑稽だな。お前と和也をただ俺は見てるのか。幸せそうな二人を見て目を細めるほど俺は人間ができてない。俺にとってあの頃も今の感情も同じだよ。あの頃の俺だってずっと嫉妬で死にそうだった。仲が良い三人?笑わせるなよ。惨めで惨めで仕方なかった。そんな自分が嫌で、苦しくて仕方なかったけど、それでもお前の傍に居たかった……」
佐伯がカチッとライターの音を立てた。二本目。フーと息を吐く音が聞こえる。
「……俺はお前の泣いた顔ばかり見てきたな。笑った顔が見たかった。何回も諦めようとしたよ。無駄だ、苦しむだけだってね。お前には和也がいる。頭では解ってた。付き合った人もいた。欲求を満たすためのワンナイトなら数えきれないね。朝ホテルから出て家でシャワーを浴びて、淡い香水つけ直して直して出勤するなんて、ざらだったよ。もう、十分だろ。これ以上惨めになりたくない……海に会いたいな。優しい子だった。間違っても誰かさんと違って、和也が死んだら弱ったお前をタラシこもうなんてゾッとする汚い考えをする子じゃなかったよ。あの子の人生は病院だけだった。秋に一緒に病院の緑地で捕まえたコオロギが死んだだけでずっと泣いている子だった。一緒にOTで作った折り紙、まだ持ってるんだ。ボロボロにならないようにファイリングして。……孝明……こっちこいよ」
全て佐伯は解ってた。汚い感情まで、見透かされてた。でも、やっと死ぬのを諦めてくれた。これからずっと謝ろう。謝り続けよう。許してもらえるまで。そう思って近づいた矢先、胸ぐらを捕まれて引き寄せられキスをされた。これ以上ない、やさしいキスだった。
「じゃあな、孝明」
佐伯は孝明の心臓の辺りをポンっと押した。貰ったマフラーを思い出した。柔らかな、包むような。まるで佐伯、そのもののような。一瞬、振り返った佐伯は微笑っていた。これ以上の幸せはないというくらいに。そして音もなく泣いていた。傷つけられる悲しみは、全て味わい尽くしたかのように。佐伯は真っ暗いドアを開けるように暗闇へ吸い込まれていく。
「嫌だ、嫌だ、佐伯──!」
孝明は一階まで階段で駆け降りながら病院用の携帯で緊急手術の招集をかける。幸い植え込みに落ちたらしい。あと五十センチずれたらコンクリートで即死だった。緊急手術した。頭部は奇跡的に無事だった。ただ触れるのを拒むかのような脆弱な心臓。でも、諦めるわけにはいかなかった。死なせたくなかった。最後に口づけを残して死のうとするなんて。でも、あれが佐伯の精一杯だったんだ。やさしいキスだった。孝明に残そうとした『想い』の全てだった。
ごめん、佐伯。ごめん。あんなに優しくしてもらったのに。散々助けて貰っていたのに。頼む。海君、まだ、佐伯を連れていくのは待ってくれ。何度も祈った。
最終的に命はとりとめたが意識不明が十日続いた。内臓系は何とかなった。心臓のダメージが大きかった。自分が循環器を得意とする外科医であることに、ただ感謝した。残ったのは打撲傷。擦過傷。絶対安静は続いたけれど、海君が守ったのかな。会ったこともない、さっき聞いた佐伯の夢の恋人。まだ、あちら側にはいかないでもらうように、手術中、ずっと頼んだ。
***
佐伯が広い病室で目を覚ましたとき、清々しい顔をしていた。
「佐伯、すまない。お前を傷つけて、死なせた。二回心臓がとまりかけた。今ここにいるのは奇跡に近い」
そう言い頭を下げると、佐伯はにっこり朗らかに笑って
「何がすまないか、解りかねます。副センター長直々のオペだったとききました。ありがとうございました」
「………え?」
「早川副センター長ですよね。写真で拝見しました。本当に命を助けていただいて。俺は飛び降りたんですか?事故ですか?自殺ですか?なにか訳を知りませんか?」
十日前どころか、佐伯の記憶から『自分』がいなくなっている。心は傷が深すぎると、耐えきれなくて蓋をすると聴いたことがある。
「………特には聞いていません」
「周りの話では、副センター長とは仲がよかったときいています。今度、元気になったらご馳走させてください。副センター長はビールですか?」
「いえ、呑めないのでジンジャエールです」
「そうなんですか。あ、生のジンジャーを使った店があるんです。カフェですが。行きませんか?美味しいんですよ」
にっこりと優しく微笑む様子は以前にも増して綺麗だった。
「ええ。あ、俺のことは『孝明』って呼んでください。………俺も『佐伯』と呼んでました」
「そうだな『孝明』……言いづらいですね。やっぱり副センター長でいいですか?」
「それは……」
忘れられている。孝明がこれ以上もなく佐伯を傷つけたことも。孝明にくれた本当の最後の『餞別』のやさしいキスも。今までの思い出も。
「じゃあ早川さんで」
「ええ」
「………本当は仲があまり良くなかったようですね。『孝明』と名前で呼んだ時、胸に石が詰まったような感じがしました」
「良い友人です。本当に、いい……友人です。俺に恋人がいなかったら、きっと俺はあなたのことを好きになっていました。優しくて、仕事熱心で、相手のことを考えてやれる。本当に良い奴です。でも俺は貴方を裏切りました。貴方の……善意の気持ちも利用した。友達としての期間の長さも利用した。許されるまで、病室に通っていいですか?」
「許すなんて、早川さんのことは覚えてませんし」
心に杭を打ち込まれるようだった。思い出してほしい。けれど自己満足なんだと孝明は思う。
「佐伯……さんまた来ます。毎日来ます」
「お気がすむならどうぞ。」
看護師が佐伯に「午後に検査があります」と知らせに来る。
「佐伯さん、また後で。貴方は俺の大切な人なんです。でも、俺が命の糸を切ったんです……」
孝明はドアを閉める。暫くして佐伯はため息をつき、手元にある、血だらけのがま口の煙草ケースにそっと口づけた。扉の隙間から佐伯の頬に涙が伝うのを見た。
「知らないふりは、疲れるな。あのとき死んでも良かった。最後に唇に触れるだけで満足出来たはずだったんだ。もう、生きるのは疲れた。あんな……汚い。もう嫌だ。誰も信用できない」
佐伯は小さく呟いて、点滴をしていない左手で顔を覆って泣いていた。あの日と同じ胸が抉られるような泣き方だった。吐き出すように呟いた佐伯の言葉に俺はただ、その場に立ち尽くしうなだれて聴くことしかできなかった。
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