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《前編》
孝明の場合⑧──雪が叶えた願い
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資料をまとめているときに目についた、左手の光。和也がいなくなったその日に『酒』『飲み歩き』『遊び』すべてやめた。ただ、指輪は外していない。お互い付き合い初めて十年目のクリスマスにペアリングを買いに行った。二人で選んだ。プラチナの華奢なあまり目立たないもの。あまり派手なものは照れ臭いし、自分の独占欲かとも思った。渡すのを躊躇うほど。家で指輪の交換をすると和也は恥ずかしそうに、
『綺麗だね。きらきらしてる。孝明………』
『ん?』
『ずっと一緒にいよう?ううん、ずっと、一緒にいられるね』
ソファに腰かける孝明の隣に音もたてず腰かける、和也は孝明を柔らかく抱き締め、続ける。
『よく、指輪は『鎖』だっていう人がいうでしょ?僕は孝明なら、いい。孝明だから、いい。孝明、ねぇ、キスして』
孝明は和也に、何回も口づけた。そのまま押し倒してソファで抱いた。いつ抱いても和也の身体は白い。
『夜景が宝石みたい。綺麗………』
情事特有のため息をつきながら、和也はいう。雪になりきれなかった雨に濡れた窓を逆さから見る景色。和也は何を見たのか。行為のあと、いつまでも、薬指にリングをはめた指を、宙に指をかざす和也は可愛らしかった。
もし和也がゴミ箱にこの指輪を捨てたとしていても、この指輪は外さない。今、和也が表れて『外して』と言っても外さない。
昔の幸せな思い出の遺品だ。悩んだ末に『ごめん、外せない』そう、和也にでも言うと思う。ついでになるが、指にの光るものは女性避けにもなる。”副センター長”は女性受けがいい。
『僕にとってはずっと君だけ』
あの時、最後の時間、和也は言った。きっと白いバラが見せた夢だったんだと思う。それでも、そんな夢を見なければ、孝明はこの三年、生きてはこれなかった。あの大きな目を真っ直ぐ見て謝りたい。和也が見せた夢を見る孝明は、現実を無視して良いことばかりを考える。和也の白い頬に手を添え、
「ずっと好きだった。ずっと探した。忘れたことはなかった。三年間変わることはなかった。
本当だよ。忘れたことはなかった。俺には和也、お前だけだ。俺のところへ帰ってきてくれないか?大切にするから。何よりも、大切にするから。お前をもう忘れたりしないから。今の俺なら夕陽からお前を守ってやれる。だから、だから傍に居てくれ。戻ってきてくれ」
そう言い、和也が『苦しいよ』と昔みたいに苦笑するくらい抱き締めて、三年を埋めるキスをして。孝明が傷つけた、左足に触れ、そっと癒すように撫でてやりたい。そして、
「悪かった。すまなかった」と言う。都合の良い、お伽噺だ。
***
和也がいない、和也の四回目の和也の誕生日。毎年何故かチョコレートシュークリームを二つ買って帰る。それと、柚子も。あの日みたいに粉雪がちらちらと街灯に反射する、底冷えする日だった。前に和也がくれたグレーの皮の手袋。大事に使っているから綺麗なままだ。温かい。雪の降りが強くなってきた。少し早めのクリスマス寒波。久しぶりに、並木がライトアップされている公園を通って帰る。
昔、和也に一緒に行きたいとせがんだので、手術後で疲れていたが見に行った。今も昔も変わらない、決して派手とはいえない点在するLEDの青白いライト。
その時も今日みたいな雪が降っていた。
「うわぁ、きれいだね。孝明。一等星をみんな集めたみたいだね。青白くてシリウスみたい」
和也の言葉には夢がある。俺はそんな和也がとても好きだった。
「綺麗だな………」
上を向く。しんしんと真っ直ぐに降る雪が、自分が空へ上っていくような錯覚を覚えさせる。
「家の近くだし、また来よう?ね?」
孝明は頷き、子供のようにはしゃぐ和也が可愛らしくて、イルミネーションではなく、ずっと和也を見ていた。疲れの全てが溶けていくようだった。雪の降りが強くなってきて、辺りを徐々に白く染めていく。マンションから歩いてきた足跡はもうなくなり、白い世界に孝明と和也だけが存在しているみたいだと思った。降りが強くなる雪に更に嬉しそうに笑う和也を、少し遠くから見ているのが好きだった。
あれから毎年何回もきた。和也が居なくなった後も。今年も独り、この小さなイルミネーションを何回か見に来た。今日は寒いのでわざわざこんな小さな公園の小さい灯りを見る酔狂な客は孝明ともう一人しかいなかった。二十代後半くらいの、茶色い長い髪。白のスカート。遠目でも華奢な骨格が解る。暗いので足も姿も、降りが増した雪に滲み、はっきり良く見えないが、孝明は駆け寄り折り畳み傘を差し出した。もしかしたら……そう思えた。自分でもおかしいと思っている。相手は女性だ。和也な訳がない。でも、最近、百貨店で買い求めたお気に入りの傘を差し出してしまうほど、和也に雰囲気が似たその女性は、とても淋しそうに見えた。
「冷えますよ」
そういい俺は傘を差し出す。驚いた顔で俺をみる女性は、マスクをし、眼鏡をしていた。和也と同じ淡い虹彩。スマートフォンを取りだし
「ありがとう。でもいいです」
と打つ。
「喉、悪いんですか?」
「風邪で……」
「傘ぐらい受け取って。どうせ自己満足なんです。返さなくていいから」
「でも……」
「いいんです。あなたに似てる人がいるんです。本当に、あなたに似ている………ずっと探しているひとです」
「どんな方なんですか?」
「優しい、綺麗な人です」
「早く見つかるといいですね」
「……他人行儀な言い方をしないでくれ!」
孝明は女性の左手を掴んだ。
「な、警察を呼びますよ!!」
マスクごしのくぐもった声。忘れられない。忘れられるはずがない。
「指輪。外さないでいてくれたんだな」
女性は横を向いた。
「お前は気づいてないかもしれないけど、お前の左の薬指と小指には『ほくろ』があるんだ。全部覚えてる。忘れられないんだ。そんな小さなことまで。忘れた時はなかったよ。会いたくて、謝りたくて。俺は許されないことをした。一生、苦しんでほしいと思っていることは解っているつもりだ。ただ、指がこんなに、冷えて……」
和也は、静かに孝明から顔を背けたまま泣いていた。
「お前にとっては一生会いたくない相手だろうし、聴きたくない声だろうけれど……家に来て、話を……この寒さはあまりにも……お前には堪える」
「………ないで」
か細い声で和也は言う。孝明が和也に伸ばした手を和也は涙声振りほどいた。
「見ないで!おねがい、僕を見ないで!見ないでー!」
悲痛な声で叫び和也は蹲った。孝明も蹲り、和也を見る。孝明は、躊躇いながら背中をさする。泣かないで欲しいと、悲しいことはもうないと、和也が雪に濡れないよう傘をさしだした。
「……孝明だけにはみられたくなかったのに……でも、どうしても、ここのイルミネーションが見たくて。気持ち悪いでしょ、僕。こんな格好して。化粧して。ウィッグ被って。僕が男だって見抜いたのは君が初めてだよ。似合ってるでしょう?君もあの時言ってたもんね『小綺麗にしてスカート穿いて化粧でもすれば簡単に女に化けられんじゃねぇの』って!これが僕の外出するときの罰則だよ。何処でも他人の目を気にして。安心する場所なんて何処にもない。二十年以上逃げ回っていたからね。父から!実の父親から!家でもこの格好だよ。全部母さんの服……夕陽の正体だよ。僕の正体だよ。がっかりしたでしょ。父から逃げ回って、結局あの誕生日、病院で捕まった。ずっと監視されてた。……孝明には……孝明だけには見られたくなかった!こんな姿見られたくなかった。本当は見つけて欲しくなんかなかった!」
下を向き、苦しそうに、しゃくりあげる和也に孝明は精一杯優しく「どうして?」と語りかけた。「気持ち悪くなんかない。やっと、見つけた。やっと会えた」
孝明は横に蹲り、自分の手袋を外し和也にはめ、粉雪が軽く積もる和也の髪を撫でる。和也は俯いた顔を上げる。涙でぐしょぐしょで、鼻が赤くなっていた。悲壮な顔をした和也と自然と視線が合う。
「気持ち……悪いでしょ?昔の恋人が『こんな風に』なってて。それに……今までの僕の恋人は、恋人は………父さんなんだよ。僕は、汚い。汚いんだ。全部汚い!!ずっと見張られていて死ぬことも出来ない。逃げ出すことも。凶器になるものは全部取り上げられた。母さんが死んでから父さんはおかしくなった。僕の初めての相手は父さんだよ。女装させられて母さんの名前を呼ばれながら犯された。僕と母さんは良く似ていたからね。十六の時だった。怖くて、気持ち悪くて、痛くて。抵抗しても、押さえつけられて。それから誰にも言えない石を背負った気分だった。汚い自分を見透かされそうで他人と話せなくなった。毎日毎日相手をさせられた。外出するのに見張りをつけられるのは当たり前だった。それでも笑えることがあるんだ」
和也は足元に視線を落とし嘲笑うように続けた。
「母さんは父さんを愛していなかった。小二の頃見たんだ『行ってらっしゃいのキス』の後、父さんの姿が見えなくなってから「汚い」って言って唇を執拗に拭いていたこと。一番衝撃を受けたのは小三の頃に見た光景かな。夕方。西日が差していたよ。椅子に足をくんで椅子に腰かけた母の足を嬉しそうに舌を這わせる父の姿をね。母はいつも通りの格好をしていたよ。これから出かけるみたいに、白いスカートが西日に反射して眩しかった。父は首輪をつけて全裸だった。母の名前を繰り返し呼びながら一心不乱に母の足を味わうのかのように舐める父の姿は気持ち悪かった。普段とても厳しい人だったし、潔癖症に近い綺麗好きだったからね。けど、僕の一番の怖かったのは母の表情だった。まるで汚物を見るような目で父を見ていた。侮蔑、嫌悪、軽蔑……ありとあらゆる負の感情。全て混ぜた視線を父にベッタリと張りつけていた。いつも優しい母が魔女のように見えた。それ以来僕は女性が怖い。性的対象にならなくなった。すべての女性があの顔を隠し持っているんじゃないかと思えて、怖いんだ。男の人は……父に似た年配の人は怖い。母と父は年の差がある夫婦だったから……今ならそういう嗜好の人もいるとわかる。でも、違う。僕の見たものは『快楽を楽しむ行為』ものではなかった。可愛がっていない犬に粗末な餌が入った餌入れを乱雑に置く飼い主の顔をしていたよ。母の足を執拗に味わう音と母の名前を興奮しながら呼ぶ父の声。愛してるという声。気味の悪い音が耳から離れなかった、母が言葉を発したことは一度もなかった。あれはなんだったんだろうね。僕が十六の時、母が亡くなった瞬間、父の中の僕は死んだ。父の記憶には僕はいない。家族の思い出も。あるのは母さんだけ。死んだ母さんは父の中では僕に姿を変えて生き続けている。父は僕の足に執拗に食べるように舌を這わすよ。今でもね。でも、切った所には触れない。どんどん傷は増えていったよ。汚い……足だよ」
声も出さずにぽろぽろと涙を零す和也が悲しい。上を向き一度雪を見たあと、和也は続ける。
「雪は綺麗だね。雪に触れた部分が綺麗になっていく感じがする。最近、雪がちらちら降ったよね?積もらなかったけど。その日だよ。僕が父さんを殺したのは。二年前父に頼んで復職してたんだ。麻酔科に。そして、この前父が倒れた。『チャンスだ!』そう思った。力が及ばなかったって親戚には言おうと思った。神様はいるって思った。実際難しい手術で、助かるのは二割だと僕は踏んだ。高校から何処に行くにも母の代わり。化粧をさせられて、母の服を着て。高校の頃、休日にクラスメイトに見つかって変態の女男って散々言われた。いじめもうけた。全てこの男のせいだって思った。憎かったよ。本当に憎くて憎くて仕方がなかった……でも、でもね、思い出が邪魔をするんだよ。幼い何も知らなかった頃のおぼろげな家族の幸せな風景が。結局手術は大成功、父は死んだよ。…あの頃は……大学生活は楽しかったな。君に会えた。幸せだった。君を苦しめた自殺の理由は君のDVだけじゃない。父からの手紙。居場所がばれたからだよ。ほら、赤い口紅の。『見つけたよ』『迎えにいくよ』そういう意味だよ。だから君には早く帰ってきて欲しかった。守って欲しかった。でも、君には僕の汚い過去を話したくなかった。君を失望させたくなかった。……あの日、西日を見たんだ。君にも、あの家の暮らしにも絶望したんだ。もう……全てに。僕には未来は要らないものになった。そう思ったからだよ。ねぇ、がっかりしたよね。ごめんね。孝明。しかも僕は人殺しだ!」
和也は雪に染まった真っ白な地面に突っ伏して身体を震わせている。
「もういい。和也。お前は悪くない。悪くない!気持ち悪くなんかない。汚くもない。初めて話しかけた時、俺はお前に見とれてた。その頃とお前は何も変わらない。……ごめんな、三年前、酷いこと言ったな。一番言われて嫌なことだったのにな。ごめんな。和也、泣くときくらい、声出せ。俺の前で、泣くのは、嫌か……?」
和也は俺にしがみつき、泣いた。和也の中からつらい思いを、出来事を苦しみを、全て消してやりたいと思った。
「たくさん泣くといい。少しはすっきりするから」
ひとしきり泣くと、和也は力なく笑った。マスカラが、少し落ちている。
「首元、さむいだろ」
そう言い、孝明は自分が巻いていたベージュのカシミアのマフラーを和也に巻く。
「い、いらないよ。やめて。孝明が寒いよ。風邪引くよ。僕はいいから。気にしないで。今日オペだったんでしょ?疲れてるのに。匂いで解るよ」
「疲れてないから。虫垂炎の手術。いいから。俺はいいから。ほら、あったかいだろ」
「うん。ごめんね。あったかい。ありがとう孝明」
和也は孝明を見つめて、名前を呼んで、優しい言葉と微笑みをくれた。これで十分だと思えた。ずっと欲しかったもの。涙も滲んできてとまらなかった。
「泣かないで。孝明。どうして泣くの?」
「お前のが、うつった」
鞄から和也はハンカチを取り出し孝明の涙を拭いた。甘い夢はみてはいけない。女性物のパフューム。甘い香り。ヒプノティック・プアゾン。触れる指先に夢を見たくなる。けれど、
『俺は和也に何をした?』
その問いかけで自分自身にブレーキをかける。それでも孝明は冷えた和也の身体を抱き締めたい衝動に勝てなかった。
「苦しいよ」
和也は口調も、話す言葉も、音も、ずっと昔のままだった。絡めた腕を離し、両手で和也の両頬を、顔を怯えながら触る。次から次へと出てくる涙のせいで良く見えなかったが、涙を拭うよりも、和也に触れたかった。まるで目が見えなくなってしまったように、本当に和也なのか探るように触れる。顔に触れた後、首、肩、手、指。消えてしまいそうで、怖い。時間が巻き戻って、触れているのが花の影のように、はらはらとほどけるように散るように、いなくなってしまいそうで怖い。唇を親指でなぞる。ああ、和也だ。本物だ。やっと見つけた。
「俺の名前を呼んでくれてありがとう。優しい言葉をありがとう。苦しいことも。お前のことは墓まで持っていくから。三年間の夢が叶ったよ。ああ、俺死ぬなら今がいいなぁ」
『綺麗だね。きらきらしてる。孝明………』
『ん?』
『ずっと一緒にいよう?ううん、ずっと、一緒にいられるね』
ソファに腰かける孝明の隣に音もたてず腰かける、和也は孝明を柔らかく抱き締め、続ける。
『よく、指輪は『鎖』だっていう人がいうでしょ?僕は孝明なら、いい。孝明だから、いい。孝明、ねぇ、キスして』
孝明は和也に、何回も口づけた。そのまま押し倒してソファで抱いた。いつ抱いても和也の身体は白い。
『夜景が宝石みたい。綺麗………』
情事特有のため息をつきながら、和也はいう。雪になりきれなかった雨に濡れた窓を逆さから見る景色。和也は何を見たのか。行為のあと、いつまでも、薬指にリングをはめた指を、宙に指をかざす和也は可愛らしかった。
もし和也がゴミ箱にこの指輪を捨てたとしていても、この指輪は外さない。今、和也が表れて『外して』と言っても外さない。
昔の幸せな思い出の遺品だ。悩んだ末に『ごめん、外せない』そう、和也にでも言うと思う。ついでになるが、指にの光るものは女性避けにもなる。”副センター長”は女性受けがいい。
『僕にとってはずっと君だけ』
あの時、最後の時間、和也は言った。きっと白いバラが見せた夢だったんだと思う。それでも、そんな夢を見なければ、孝明はこの三年、生きてはこれなかった。あの大きな目を真っ直ぐ見て謝りたい。和也が見せた夢を見る孝明は、現実を無視して良いことばかりを考える。和也の白い頬に手を添え、
「ずっと好きだった。ずっと探した。忘れたことはなかった。三年間変わることはなかった。
本当だよ。忘れたことはなかった。俺には和也、お前だけだ。俺のところへ帰ってきてくれないか?大切にするから。何よりも、大切にするから。お前をもう忘れたりしないから。今の俺なら夕陽からお前を守ってやれる。だから、だから傍に居てくれ。戻ってきてくれ」
そう言い、和也が『苦しいよ』と昔みたいに苦笑するくらい抱き締めて、三年を埋めるキスをして。孝明が傷つけた、左足に触れ、そっと癒すように撫でてやりたい。そして、
「悪かった。すまなかった」と言う。都合の良い、お伽噺だ。
***
和也がいない、和也の四回目の和也の誕生日。毎年何故かチョコレートシュークリームを二つ買って帰る。それと、柚子も。あの日みたいに粉雪がちらちらと街灯に反射する、底冷えする日だった。前に和也がくれたグレーの皮の手袋。大事に使っているから綺麗なままだ。温かい。雪の降りが強くなってきた。少し早めのクリスマス寒波。久しぶりに、並木がライトアップされている公園を通って帰る。
昔、和也に一緒に行きたいとせがんだので、手術後で疲れていたが見に行った。今も昔も変わらない、決して派手とはいえない点在するLEDの青白いライト。
その時も今日みたいな雪が降っていた。
「うわぁ、きれいだね。孝明。一等星をみんな集めたみたいだね。青白くてシリウスみたい」
和也の言葉には夢がある。俺はそんな和也がとても好きだった。
「綺麗だな………」
上を向く。しんしんと真っ直ぐに降る雪が、自分が空へ上っていくような錯覚を覚えさせる。
「家の近くだし、また来よう?ね?」
孝明は頷き、子供のようにはしゃぐ和也が可愛らしくて、イルミネーションではなく、ずっと和也を見ていた。疲れの全てが溶けていくようだった。雪の降りが強くなってきて、辺りを徐々に白く染めていく。マンションから歩いてきた足跡はもうなくなり、白い世界に孝明と和也だけが存在しているみたいだと思った。降りが強くなる雪に更に嬉しそうに笑う和也を、少し遠くから見ているのが好きだった。
あれから毎年何回もきた。和也が居なくなった後も。今年も独り、この小さなイルミネーションを何回か見に来た。今日は寒いのでわざわざこんな小さな公園の小さい灯りを見る酔狂な客は孝明ともう一人しかいなかった。二十代後半くらいの、茶色い長い髪。白のスカート。遠目でも華奢な骨格が解る。暗いので足も姿も、降りが増した雪に滲み、はっきり良く見えないが、孝明は駆け寄り折り畳み傘を差し出した。もしかしたら……そう思えた。自分でもおかしいと思っている。相手は女性だ。和也な訳がない。でも、最近、百貨店で買い求めたお気に入りの傘を差し出してしまうほど、和也に雰囲気が似たその女性は、とても淋しそうに見えた。
「冷えますよ」
そういい俺は傘を差し出す。驚いた顔で俺をみる女性は、マスクをし、眼鏡をしていた。和也と同じ淡い虹彩。スマートフォンを取りだし
「ありがとう。でもいいです」
と打つ。
「喉、悪いんですか?」
「風邪で……」
「傘ぐらい受け取って。どうせ自己満足なんです。返さなくていいから」
「でも……」
「いいんです。あなたに似てる人がいるんです。本当に、あなたに似ている………ずっと探しているひとです」
「どんな方なんですか?」
「優しい、綺麗な人です」
「早く見つかるといいですね」
「……他人行儀な言い方をしないでくれ!」
孝明は女性の左手を掴んだ。
「な、警察を呼びますよ!!」
マスクごしのくぐもった声。忘れられない。忘れられるはずがない。
「指輪。外さないでいてくれたんだな」
女性は横を向いた。
「お前は気づいてないかもしれないけど、お前の左の薬指と小指には『ほくろ』があるんだ。全部覚えてる。忘れられないんだ。そんな小さなことまで。忘れた時はなかったよ。会いたくて、謝りたくて。俺は許されないことをした。一生、苦しんでほしいと思っていることは解っているつもりだ。ただ、指がこんなに、冷えて……」
和也は、静かに孝明から顔を背けたまま泣いていた。
「お前にとっては一生会いたくない相手だろうし、聴きたくない声だろうけれど……家に来て、話を……この寒さはあまりにも……お前には堪える」
「………ないで」
か細い声で和也は言う。孝明が和也に伸ばした手を和也は涙声振りほどいた。
「見ないで!おねがい、僕を見ないで!見ないでー!」
悲痛な声で叫び和也は蹲った。孝明も蹲り、和也を見る。孝明は、躊躇いながら背中をさする。泣かないで欲しいと、悲しいことはもうないと、和也が雪に濡れないよう傘をさしだした。
「……孝明だけにはみられたくなかったのに……でも、どうしても、ここのイルミネーションが見たくて。気持ち悪いでしょ、僕。こんな格好して。化粧して。ウィッグ被って。僕が男だって見抜いたのは君が初めてだよ。似合ってるでしょう?君もあの時言ってたもんね『小綺麗にしてスカート穿いて化粧でもすれば簡単に女に化けられんじゃねぇの』って!これが僕の外出するときの罰則だよ。何処でも他人の目を気にして。安心する場所なんて何処にもない。二十年以上逃げ回っていたからね。父から!実の父親から!家でもこの格好だよ。全部母さんの服……夕陽の正体だよ。僕の正体だよ。がっかりしたでしょ。父から逃げ回って、結局あの誕生日、病院で捕まった。ずっと監視されてた。……孝明には……孝明だけには見られたくなかった!こんな姿見られたくなかった。本当は見つけて欲しくなんかなかった!」
下を向き、苦しそうに、しゃくりあげる和也に孝明は精一杯優しく「どうして?」と語りかけた。「気持ち悪くなんかない。やっと、見つけた。やっと会えた」
孝明は横に蹲り、自分の手袋を外し和也にはめ、粉雪が軽く積もる和也の髪を撫でる。和也は俯いた顔を上げる。涙でぐしょぐしょで、鼻が赤くなっていた。悲壮な顔をした和也と自然と視線が合う。
「気持ち……悪いでしょ?昔の恋人が『こんな風に』なってて。それに……今までの僕の恋人は、恋人は………父さんなんだよ。僕は、汚い。汚いんだ。全部汚い!!ずっと見張られていて死ぬことも出来ない。逃げ出すことも。凶器になるものは全部取り上げられた。母さんが死んでから父さんはおかしくなった。僕の初めての相手は父さんだよ。女装させられて母さんの名前を呼ばれながら犯された。僕と母さんは良く似ていたからね。十六の時だった。怖くて、気持ち悪くて、痛くて。抵抗しても、押さえつけられて。それから誰にも言えない石を背負った気分だった。汚い自分を見透かされそうで他人と話せなくなった。毎日毎日相手をさせられた。外出するのに見張りをつけられるのは当たり前だった。それでも笑えることがあるんだ」
和也は足元に視線を落とし嘲笑うように続けた。
「母さんは父さんを愛していなかった。小二の頃見たんだ『行ってらっしゃいのキス』の後、父さんの姿が見えなくなってから「汚い」って言って唇を執拗に拭いていたこと。一番衝撃を受けたのは小三の頃に見た光景かな。夕方。西日が差していたよ。椅子に足をくんで椅子に腰かけた母の足を嬉しそうに舌を這わせる父の姿をね。母はいつも通りの格好をしていたよ。これから出かけるみたいに、白いスカートが西日に反射して眩しかった。父は首輪をつけて全裸だった。母の名前を繰り返し呼びながら一心不乱に母の足を味わうのかのように舐める父の姿は気持ち悪かった。普段とても厳しい人だったし、潔癖症に近い綺麗好きだったからね。けど、僕の一番の怖かったのは母の表情だった。まるで汚物を見るような目で父を見ていた。侮蔑、嫌悪、軽蔑……ありとあらゆる負の感情。全て混ぜた視線を父にベッタリと張りつけていた。いつも優しい母が魔女のように見えた。それ以来僕は女性が怖い。性的対象にならなくなった。すべての女性があの顔を隠し持っているんじゃないかと思えて、怖いんだ。男の人は……父に似た年配の人は怖い。母と父は年の差がある夫婦だったから……今ならそういう嗜好の人もいるとわかる。でも、違う。僕の見たものは『快楽を楽しむ行為』ものではなかった。可愛がっていない犬に粗末な餌が入った餌入れを乱雑に置く飼い主の顔をしていたよ。母の足を執拗に味わう音と母の名前を興奮しながら呼ぶ父の声。愛してるという声。気味の悪い音が耳から離れなかった、母が言葉を発したことは一度もなかった。あれはなんだったんだろうね。僕が十六の時、母が亡くなった瞬間、父の中の僕は死んだ。父の記憶には僕はいない。家族の思い出も。あるのは母さんだけ。死んだ母さんは父の中では僕に姿を変えて生き続けている。父は僕の足に執拗に食べるように舌を這わすよ。今でもね。でも、切った所には触れない。どんどん傷は増えていったよ。汚い……足だよ」
声も出さずにぽろぽろと涙を零す和也が悲しい。上を向き一度雪を見たあと、和也は続ける。
「雪は綺麗だね。雪に触れた部分が綺麗になっていく感じがする。最近、雪がちらちら降ったよね?積もらなかったけど。その日だよ。僕が父さんを殺したのは。二年前父に頼んで復職してたんだ。麻酔科に。そして、この前父が倒れた。『チャンスだ!』そう思った。力が及ばなかったって親戚には言おうと思った。神様はいるって思った。実際難しい手術で、助かるのは二割だと僕は踏んだ。高校から何処に行くにも母の代わり。化粧をさせられて、母の服を着て。高校の頃、休日にクラスメイトに見つかって変態の女男って散々言われた。いじめもうけた。全てこの男のせいだって思った。憎かったよ。本当に憎くて憎くて仕方がなかった……でも、でもね、思い出が邪魔をするんだよ。幼い何も知らなかった頃のおぼろげな家族の幸せな風景が。結局手術は大成功、父は死んだよ。…あの頃は……大学生活は楽しかったな。君に会えた。幸せだった。君を苦しめた自殺の理由は君のDVだけじゃない。父からの手紙。居場所がばれたからだよ。ほら、赤い口紅の。『見つけたよ』『迎えにいくよ』そういう意味だよ。だから君には早く帰ってきて欲しかった。守って欲しかった。でも、君には僕の汚い過去を話したくなかった。君を失望させたくなかった。……あの日、西日を見たんだ。君にも、あの家の暮らしにも絶望したんだ。もう……全てに。僕には未来は要らないものになった。そう思ったからだよ。ねぇ、がっかりしたよね。ごめんね。孝明。しかも僕は人殺しだ!」
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「もういい。和也。お前は悪くない。悪くない!気持ち悪くなんかない。汚くもない。初めて話しかけた時、俺はお前に見とれてた。その頃とお前は何も変わらない。……ごめんな、三年前、酷いこと言ったな。一番言われて嫌なことだったのにな。ごめんな。和也、泣くときくらい、声出せ。俺の前で、泣くのは、嫌か……?」
和也は俺にしがみつき、泣いた。和也の中からつらい思いを、出来事を苦しみを、全て消してやりたいと思った。
「たくさん泣くといい。少しはすっきりするから」
ひとしきり泣くと、和也は力なく笑った。マスカラが、少し落ちている。
「首元、さむいだろ」
そう言い、孝明は自分が巻いていたベージュのカシミアのマフラーを和也に巻く。
「い、いらないよ。やめて。孝明が寒いよ。風邪引くよ。僕はいいから。気にしないで。今日オペだったんでしょ?疲れてるのに。匂いで解るよ」
「疲れてないから。虫垂炎の手術。いいから。俺はいいから。ほら、あったかいだろ」
「うん。ごめんね。あったかい。ありがとう孝明」
和也は孝明を見つめて、名前を呼んで、優しい言葉と微笑みをくれた。これで十分だと思えた。ずっと欲しかったもの。涙も滲んできてとまらなかった。
「泣かないで。孝明。どうして泣くの?」
「お前のが、うつった」
鞄から和也はハンカチを取り出し孝明の涙を拭いた。甘い夢はみてはいけない。女性物のパフューム。甘い香り。ヒプノティック・プアゾン。触れる指先に夢を見たくなる。けれど、
『俺は和也に何をした?』
その問いかけで自分自身にブレーキをかける。それでも孝明は冷えた和也の身体を抱き締めたい衝動に勝てなかった。
「苦しいよ」
和也は口調も、話す言葉も、音も、ずっと昔のままだった。絡めた腕を離し、両手で和也の両頬を、顔を怯えながら触る。次から次へと出てくる涙のせいで良く見えなかったが、涙を拭うよりも、和也に触れたかった。まるで目が見えなくなってしまったように、本当に和也なのか探るように触れる。顔に触れた後、首、肩、手、指。消えてしまいそうで、怖い。時間が巻き戻って、触れているのが花の影のように、はらはらとほどけるように散るように、いなくなってしまいそうで怖い。唇を親指でなぞる。ああ、和也だ。本物だ。やっと見つけた。
「俺の名前を呼んでくれてありがとう。優しい言葉をありがとう。苦しいことも。お前のことは墓まで持っていくから。三年間の夢が叶ったよ。ああ、俺死ぬなら今がいいなぁ」
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1個上の剣道部蓮の先輩の大野だ。
そして大野は裕介に向かって言った。
大野「お前も肉便器に改造してやる」
大野は蓮に裕介のサッカーの練習着を渡すと中を開けて―…
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