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〖第71話〗朱鷺side❽

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あのひとの表情が浮かんでは消える。

「……あの人、何か言ってた?」

「いや、何も」

「そう………」

あるのは落胆と焦げるような怒りだった。握った手の爪が手のひらに食い込む。

「良かったじゃないか。忘れたかったんだろ?あいつも忘れて、お前も忘れて──嘘だよ。悪い。悪趣味だな、俺が悪かった。確かめたかったんだ。お前自身、あいつに未練があるのかをな」

ため息を一つ吐いて、鷹さんは言った。


「あいつ、この世の終わりみたいな顔してたよ。お前がどうしてるか、から始まってずっと質問攻め。楽譜買いに行くって言ってた。あと、握力つけるみたいなグッズ。
左手、あんまり上手く動かないんだと」

血が引いた。あの時──。
グラスを割った時。
あの人がすべてを放棄したとき。


僕のせいだ、僕の……。
手が震えてくる。


「兄さん、ごめんなさい。ちょっと出かけてくる!」


足早に街へ出る。いつも二人で行っていた、楽譜がたくさん置いてある楽器店。

よく行ったカフェ。

トローチが置いてあるドラッグストア。

思いあたる所をあたるが見つからない。


───────────

あてもなくとぼとぼ歩く。だんだん空が暗くなり、街はまた明るくなり始める。

ガラスに写った僕は以前と違うけど同じだ。自信が無さそうにおどおどとしている。知らない人に何人か、男女問わずに声をかけられたが、話を濁して逃げた。

派手な街が嫌でイルミネーションを遠ざけるように歩く。



最後に僕がたどり着いたのは、先輩のマンションだった。

インターフォンを押すか迷う。



押さなかった。
何をしているんだろう、僕は。
どうでもいいじゃないか。
あんな人。
もう僕には関係がない人だ。


『会うのは最後にしたい』


とあの時言った。
下を向き、マンションのエントランスを出ようとする。


外から入って来る人影があった。
すれ違う瞬間、手首を捕まれた。

驚いて、見上げる。


「どうして──来たの………どうして」


切なそうに眉をひそめ、先輩は泣きそうな顔をして言った。
そんな顔をしないで欲しかった。

全部無かったことにしたくなる。
思わず目を逸らす。


けれど、強い力で掴まれた手首が嫌な記憶を呼び起こし、
冷たい水のような手による痛みが、
ザワザワと自己主張をし始める。


痛み
苦しみ
悲しみ
数えきれない『負』の感情と感覚。

あの人から欲しくなかったものは、あの時全部もらった。

この人のこんな顔を見るのは、バスルームでのとき以来だ。



自嘲したくなる。ほんの少し後悔した表情を見ただけで、ほだされる弱い自分を。


もう、僕はモジャモジャの冴えない子供じゃない。『深谷朱鷺』はもう居ない。


傷つけばいい。
もっともっと、傷ついて泣いて縋りつくくらいに。

そんな思いが、生まれる。
ゆらゆらと小さな残酷な火が、
僕の胸の奥に点く。


「手首、『まだ』痛いんです。放してくれませんか」


『ご、ごめん……』と短くそう言い、先輩は手の力を抜いた。


「あげてくれないんですか?寒いんです」


自分でも、なぜこの言葉が出たか解らない。一番思い出が残る、鳥籠。
エレベーターではお互いが無言だった。
先輩が気まずそうに、口を開く。


「寒かったよね。どうして、来てくれたの?俺になんて──会いたくなかったはずなのに………」

「会いたくなかったですが、
忘れ物があって」


すらすらと、言葉が出た。嘘ではなかった。

サティの歌曲集の楽譜。

この人にもらった、綺麗な思い出。


『ジュ・トゥー・ヴー』


何回歌ったか解らない。最初は会いたくて。次はこの人の伴奏で。溶けるくらい幸せだった──。



────────────
僕の私物は鷹さんが先輩の家に行き、運んでくれた。
鷹さんが持ってきてくれた荷物の中に唯一無かったものが、その楽譜だった。


「暖かいもの、作るよ。何か飲みたいものある?」


「ココア」


軽く上を向き先輩を見据えて嘲笑する。
傷ついた表情をするこの人をみるのが楽しくて仕方がなかった。

でも、僕も血だらけだ。自分の傷口を開いて見ているようだった。




ゆらゆらとした火が大きくなっていく。

苦しむのが見たいのは、
目の前のこの人のはずなのに、
どうして僕自身がこんなに苦しいんだろう。
 
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