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〖第1話〗朱鷺side①
しおりを挟む『忘れなさい。怖かったね。忘れるんだ。悲しいこと、つらいこと、苦しいことは全部。ほら、口を開けて──』
──────
薄暗い部屋。グランドピアノ。何故か悲しそうに微笑む、ぼやけた輪郭の男の人。たまに見る、夢。
──────
寝汗をぐっしょりかいて、寝返りをすることも忘れて起きる。昔から見る夢。
「最近見なかったのに……」
そう独り呟き、僕はTシャツを脱ぐ。初夏の朝だというのに、その日は湿度が肌に纏わりつく様な暑さだった。風が、雨の予感を感じさせた。朝ご飯を作り、食べる。母さんが、音大に受かった時に言っていたことを思い出す。
「歌も大切だけど、健康第一。食べることは生きること。でもただ食べるよりなるべく手をかけなさい。料理も音楽も一緒よ。努力は裏切らない。裏切られたら──そうね。家の喫茶店を継ぎなさい。でも逃げ道を用意するつもりはないわ。みっちり料理を叩きこむわよ」
頑張りなさい。そう母が微笑って言っていた。父は軽く涙ぐむ母の肩を抱き、寂しそうに笑った。
自転車で大学に向かう。視線を横に移すと桜並木は青々としていた。季節ごとに装いを変えるこの道を、僕は気に入っている。紅葉が楽しみだ、と思う。いつもは早起きして学校の傍の教会に行くけれど、今日は寝坊してしまった。いつもは入口の守衛さんにお願いして、特別に朝と夕方、人がいないときだけ歌とピアノを練習させて貰っている。
今日は少し、楽しみにしていることがある。憧れの香織先生のピアノのレッスンがあるからだ。自転車で上機嫌で風を切る。僕はもう今日見た夢なんか忘れている。
─────
今日は「この調子で頑張ってね。深谷くん」と言う香織先生の笑顔を収穫し、残りの授業を消化する。
教会に寄り、おじいさんに挨拶をする。許可をとり、歌の練習をする。この時間だけ、僕はこの空間を声で独占する。一番幸せな時間。
あっという間に陽が暮れてしまった。段々と空に雲が増えていく。『降られないといいけど』と思いながら足早に守衛さんに挨拶を済ませ、教会を後にする。
自転車置場へ向かう。何だか右手が軽い。大学の練習室に楽譜を忘れたことに気づく。普段ならそのまま帰るけれど、明日の授業で使うので、どうしても戻らなければならなかった。
仕方なく北の校舎へ向かう。人気がなく、少し気味が悪い。薄暗く、少し湿気っぽい。楽譜は簡単に見つかった。ほっとし、帰路を急ぐ。
そんな時だった。練習室の一つから人の声が聴こえたのは。熱と吐息が絡み合う声だった。覗いてはいけないと思った。けれど好奇心は自制心を簡単に押し退けてしまう。僕はそっと扉の隙間から目を凝らした。
「ダメじゃない、人が来たらどうするの?」
「でも香織さん、こういうの好きでしょう?」
椅子に座りながら向かい合わせに抱き合う香織先生と眼鏡の男の人。口づけと情事特有のため息を絡ませながら、男の人は香織先生のベージュのシャツのはだけた白い胸に顔を埋める。昼間に綺麗に結い上げられた香織先生の髪は乱れていた。
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