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金色の回向〖最終話〗
しおりを挟む「幸せは水よ。コップに注ぐ水。領ちゃんは溢れるほどくれる。透明な湧き水ね」
そう虹子さんは言いどこか悲しそうに笑った。
「ねえ領ちゃん」
「何?」
「人殺しでも、人を愛していいのかなあ?」
俺は、虹子さんを見つめる。俺は口の中のちくわぶを飲み込んで、席を立ち虹子さんの隣に座り、ぎゅっと虹子さんを抱きしめた。虹子さんは静かに目を閉じて涙を流し続けた。
「村長さんが言ってたことが解ったわ。ねえ領ちゃん、私、幸せになっても良いのかなあ? 都合良く過去にしても──忘れてもいいのかなあ?」
シャツが涙で冷える。俺もいつの間にか、虹子さんの髪を撫でながら泣いていた。
「人を好きになるのに、愛するのに規則があるの? それに、虹子さんは罪を犯す前に、充分すぎるほど、それに価する苦しみを味わったよ。もう、いいんだ。終わりにしていいよ。いいんだよ。証拠もない。当時の人も、もう居ない。誰も何も言わない」
「うん………愛してるよ。領ちゃん。蝉時雨が聞こえるね。夏の暑い日、光のエコーだわ。たくさんの告白の音色。愛してるって、君を好きだよって」
蝉時雨なんか聞こえない。あの蝉たちは眠りについた。彼等は土に還り、その愛の証は、いつか来る夏を待っている。
「うどん巾着ね、あいつの………父親の好物だったの。何処でおかしくなったのかなあ。昔は幸せだったはずなのに。『虹子はまだ手が小さいから、お父さんが大根半分にしてやるからな』『虹子、大きい一口はだめよ』なんて会話があった。幸せはあったはずなの。私は不幸じゃない。可哀想じゃない。うどん巾着、私はそれで覚えたの。おでんの出汁は、母さんの手作り。何処で間違ったのかなあ。何がいけなかったのかなあ。私が最初に覚えた料理はおでんなの。おでんなんて吐きそうよ。大嫌いよ。大嫌いよ!」
虹子さんはうどん巾着にかぶりつく。かなり熱いだろうことは解ってるけど、敢えて俺は見守った。泣きながら食べ終わった虹子さんに、麦茶を差し出す。
俺も無言で熱々のうどん巾着に齧りつく。食べ終わると虹子さんは麦茶を差し出して、マスカラが滲んだ目元を潤ませ、微笑んだ。俺も虹子さんを見つめて笑った。童女のように笑う彼女が切ない。そして愛しい。やっと彼女の『本当』に触れられる。俺は力をこめて、虹子さんを抱き寄せた。
「虹子さん。もう蝉はいないよ。今聞こえるのは虫の声だよ。虫も、スズムシも、コオロギも、鳴いてる。たくさんの告白の音色だね。愛してるって、君を好きだよって言ってる。愛の歌を歌うのは蝉だけじゃないよ。虹子さん、来年の夏は何をする?」
「蝉時雨の中、領ちゃんにマニキュアを塗ってもらった指で、手を繋いで川へ行くの。私の空いた手はお弁当と水筒の入ったバスケットを持って。領ちゃんは攩よ。鮎を捕まえて焼いて食べましょ」
「秋は?」
「夏の終わりに考えよう? 毎年、そうしてきたじゃない」
夏の深い森の中、迷う少女。心まで囚われたままだ。虫の音が響く。リンリン、コロコロ。これだって立派な愛の歌だ。けれど俺の中の愛の歌も、やはりあの、夏の蝉時雨だ。俺も気づいたら森の中にいた。少女を追って、追いついて、白く華奢な小さな手を掴んで森の外に出たはずだった。外に出たはずなのに、聞こえるのは耳が痛くなるくらいの蝉の声。矢のように降り注ぎ、纏わりついて逃げられない。少女は笑う。『どうして逃げるの』とでも言うように。手を広げ、金色の矢を浴びる。まるで金色の回向のように、祈りの声が聞こえる。
「おかえり。今日も夕飯のあとにおやつがあるよ」
結婚して十年。今日も彼女は綺麗だ。虹子さんの桜貝のような爪が、昨晩の背中に残した快楽の痕跡が鮮明に残っている。今日も虹子さんは綺麗に簪でつやつやの黒髪を纏める。白髪一つない。まるで時間を止めて、年を取るのをやめたみたいだ。
朝、会社に行く前、今年初めての蝉の声が聞こえた。ああ、またあの季節が来る。降り注ぐ雨、悼むような金色の光の祈り。今年も、何処か哀しい声が聞こえ始める。身体を震わせ、命を削りながら彼らは叫ぶ。『愛してる』と、千切れるように、泣くように。
《了》
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