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5章 思い出 面影 おぶる罪

ごのいち 思い出

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 あぁ、はじまるか
 面白げもなく、報酬分の仕事をしなければならないな、と、それだけ思って。
 庵に結界を張ろうとした漣那美は、丸窓の障子を閉めようとして、庵の入り口に立っている影を見つけた。
「あぁ、きてくれたんかぇ」にこりともせずに障子を閉め、土間から影を招き入入れるように手招きし、雛色の髪をゆるゆると流した背をむけて中へと促す「今から結界を張るところだったから、ちょうどよいわぃな…普段よりも少々硬めに立てたくてね、おまぃ、ちょぃと手伝ってくれるかぇ」
「そのためにきたんだよ…」
 翡翠色の瞳のどこにも、感情はなく、只々、淡々と、そういう雛色の女…漣那美へ少し寒気を感じつつも、墨衣の尼僧は険しい顔をした。
「入ったんなら偽鏡の術は解いてくれるといいねぇ、そんな偽のなりじゃ十分に力は出せないだろぅ?」
「さっき、ちょぃとって言わなかったかい?」
「ちょぃとさ」ふんと、鼻で笑う「この庵の一切全てを外に漏れぬように幻術で隠し去ってほしいだけさ、雪狐のおまぃなら、ちょぃとだろう?」
「それはちょいととは言わないんだよ」
「そうかぃ」
 彼女が敷居をまたぎ中に入ったのと確認すると、漣那美は引き戸を閉め、呪符の貼られた黒い棒を一本、しっかと立てかけてまたぐようにもう一枚呪符を張る。
 ぱらり、頭からかけていた頭巾を六花四郎兵衛が取り去ると、坊主頭であった頭には白銀の髪が輝き落ちる。
「おまぃの髪は、白滝のように綺麗だねぇ」
「おまぃの髪は、黄身素麺のように綺麗だねぇ」
 ひとときの、間。ついでふっと二人の間の張り詰めた空気だけが解けた。
「さって」長い睫毛のその下の、なんの感情もない翡翠色が白銀を見た「ただ一つ、影の一筋、音一つ漏れぬようにしっかと結界をはっておくれ。あと、庵の四隅に見守りの式を立ててくれると嬉しいねぇ」
「あぁ」ふぅっと、懐から出した短冊を四枚、己が髪を一本ずつくくりつけて息を吹きかける。ふわり、短冊は白銀の狐となり、壁をすり抜け四隅へ座した。こぉん、北の一匹が小さく鳴くと全体の空気が、雪山のように冴え渡る「これで?」
「上々だね」つぃっと、朱色の小さな煙管盆の持ち手を指先で持つと、ゆるり庵の奥に歩みを進める「こっちだよ」
 勧められるがまま、あとをついていくと一つの部屋。
 つっと、音も立てずに襖を開く。
「…っ」一寸、着物の袖で口元を押さえた。「これが」
「これが、魔人を産むということだ」
 面白くもなさそうに、漣那美は中に入り煙管盆をおくと、帯から下がった煙草入れから煙管を取り出し、煙草を詰めて火をつけ、すぅっと深く吸い込んだ。
「どうしたんだぃ」ふ、う~っと、腰を下ろしながら長く長く煙を吐く「空いてるところに座るといいや」
「空いているところ」室内を見、言い澱む「ここにそんなものがあるのかね」
 真ん中には布団。
 その上には、やせ細り、髪に艶なく、首元は血まみれで、まるで地獄底の餓鬼のように腹を膨らませた女一人。
 口には舌を嚙み切らぬように猿轡、顔唇は青白く変色し、胸元は爪を立ててもがき苦しんだのか、数えきれずほどの引っかき傷とまだ新しい血が滲み、着物を濡らしている。
 それを見とがめたか、おさんの力帯の代わりかはわからない。が、彼女の両腕は天井から下がった呪の書かれた布を使って縛り上げられ、その布をたぐなり握りしめている。
 くるり、辺りを見回した。
 いるのは産婦と自分たち。
「おまえ」確かめるように聞く「産婆や医者はいらないんかい?」
「そんなものはいらないねぇ…」
「しかし、子を産む時には産婆を呼ぶじゃないか」
「雪白、おまぃ、魔人が生まれるんを見るは初めてかぃ?」煙管の吸い口を唇に乗せながら、にやり、と口元だけ笑んだ。「葦原会所の頭取も、魔が産み落ちるのを見るんははじめてか…。これは、普通のお産ではないから、普通の産婆や医者は役に立たないんさ。お願いだから尻込みして結界を緩めないでおくれぃよ、まだまだ、これからだぇ」
「そうかぃ…」
 諦めたようにため息のような息を吐きながら、立花四郎兵衛は着物の袂から一つ、とても見事な梨地の印籠をとり出した。
「おや、痛み止めかぇ? 効きゃぁしないとは思うが、随分と慈悲深いねぇ」
 見咎めた漣那美に首を振る。
「ちがわな」
 こちり、蓋の重なりが外れる音がして、すすす、と、糸に沿って開けられると、ふわり浮かんだ白い煙が、溶け落ちるように畳に流れ出し、そのまま凝って形取る。
「なるほど、雪狐の秘宝ってやつかね…事が秘密とあれば、おまぃであっても遊女をばれずに大門をくぐらすにはそれしかないわなぁ…しかし、よぅもまぁ、くる気になったものだね」日に来るようにふっと、笑いながら煙を吐く。「千木舞(ちぎまい)」
 目の前に現れたのは、うす紅の単衣に前帯を結んだ一人の遊女…。
「今は、珠月見と名乗っておりんす」座り、指をついて頭を下げた女は顔を上げると一人、縛り上げられた女のそばに寄ると猿轡をに手をかける「おたえ、おたえ、すまない、すまないね…」
 その声に、白目を向いていた女がふと、視線を動かした。
 一つ、漣那美がうなづいたのを確認して、それを外す。
「た…」青白い唇から、わずかに声が漏れる「太夫…」
 ぼろぼろになった首元に手を沿わせてやりながら、ぼろぼろと、涙を落として珠月見は謝り続ける。
 いいえ…太夫が謝ることはありません、と。
 彼女はそう言いたかったのであろう、しかし、お産の波はやってくる。
 一瞬、色の戻った目が真白く反り返り血走る。
 がっ!と、口は大きく顎が外れるほどに開いたかと思うと、吼えるような声を上げる。
 ぐにゃぐにゃと大きく動いていた腹は一寸固く小さく形を変え、腹の奥底からいまだ感じることのなかった激痛に苛まれ、細く細くなった足がじたばたを踊るように伐倒し、手が布を握り引くため天井の梁はきしみをあげる。
 声の代わりに血が飛び出した。
 布を掴んでいた腕が外れ、宙を引きちぎるように暴れ始める。
「おたえ」
「離れぃよ」静かに静かに、漣那美は言い切る「おまぃはそこから離れろ、怪我をする」
「しかしっ」
「漣那美の言う通り、お前は離れなさい」ぐっと肩を引く「お前には酷かもしれないがね、お前は商売物だ。黙って連れだったお前を、万が一つにも傷つけるわけにはいかないんだよ」
「…四郎兵衛様…」
 引きずられるように離れた先で、うつむき、顔を覆い隠し嗚咽を漏らし始めた手を漣那美は払った。
「泣く暇があるんなら、おまぃはちゃんと見るんだ」煙管を咥える「これは、おまぃが全て背負うもんだ。ここにきた以上、おまぃには最後まで目をそらさずに見届ける義務がある」
 髪を掴み、しっかと顔を上げさせる。
「目をそらさずに、ちゃんと見ろぃ」
 これは、可愛かったあの子だろうかと、己が胸で問いかけそうになりやめる。
 自分のせいなのだ
 美しくはなかったけれど、それでも、橘色の綺麗な瞳をきらきらと輝かせ、白灰の髪を綺麗に結い上げ、白い肌にはちゃんと白粉を、形の良い唇にはちゃんと紅を塗るんだよ、と、塗り方を教えてやった、共に菓子を食った、妹のように可愛がったあの子。
 あの子が、こんな風に変わってしまったのは自分のせいなのだと。

 あやまらないでおくんなまし
 わかれるとき、時折ここにおとづれたとき、あの子はそう言って自分を抱きしめてくれたのに。
 私は、私は本望でござんす、最後の時をこんなに優しく、心穏やかに暮らせたのです、と。
 にこやかに笑ったのだ。
 腹に子を抱くということは、こんなにも愛おしくも、苦しく、そうして嬉しいものなんすね、と、

「おたえ…」
 商売物。
 そう言われ、我が身に爪を立てることも、唇を噛むこともせずただ見守る。
 痛みが一度引いたのか、固く小さくなっていた腹がぐにゃぐにゃとまた、波打ち始めた。
 しかしあの子は声にならない声を喉から、腹から上げている。
 四肢をばたつかせ、下から溢れた血と尿で布団が汚れた。
 己の髪を掴んで引いて、皮ごと剥がれて血飛沫が飛ぶ。
 美兎螺屋で、部屋持ちの遊女が子を産んだのを見たことがある。
 辛そうで、痛そうで、しかしここまでの姿ではなく、地獄の苦しみを味わうのではなく、そうして、生まれた子の顔を見た女は、とても優しい、美しい顔をしてたった一瞬、母の顔をして子を抱いていた。
 だから心の片隅で思っていたのだ、穏やかに生まれ、腹も無事であると。
 無事であるはずがなかったのに。
 自分のわがままで、あの子が。
 月夜、どんな罪を背負うことになってでも産まれてくることを望んだあの子が。
 長い間、遊女としていきながら、重く暑い火の玉として腹に抱え続けたあの子が。
 可愛がっていた妹女郎に託したあの子が。

 あたりに、血と、断末魔が飛び散った。
 珠月見の頬に、赤黒い血がかかり滴り落ちた。
 
 あぁ、神様、神様。
 私の選択は、すべて間違っていたのでしょうか。

 ぴくりぴくりと、小刻みに震える息絶えた体。
 借り腹の母親は息絶えた…しかし子は生まれてこない。
「子は…?」
「まだだ」
  ぴしり、言い切った漣那美は、煙管を置くと立ち上がり、生き絶えた女の下に引いていた布団を引きずりとった。
「これは」雪白がその床を見る。「呪禁か」
 床に緻密に描かれた呪禁。
 ぐにゃりと、今までとは桁違いに腹は大きく形を変えた。
「生まれるぞ、雪白、結界を強くしておくれ」言いながら、漣那美が何十体もの紙の式を立て始める。「すぐに封じ込めるぞ」
「うまれ…? 封じ…?」
 母親は息絶えたのに?
 珠月見は息絶えた妹女郎を見た。
 再びぐにゃり、大きく大きく腹が動く。
 おおきく、おおきく、徐々にその腹の異様な伸び縮みは強くなり。
 ぶちりと、肉と皮が千切れた音がした。
 小さな小さな、しかしその手に不釣り合いなおおきく鋭い爪の生えた血塗れの手が、死んだ母の腹の真ん中を突き破って ぺたり、出てきた。
 ついで、もう一本の腕が飛び出して、首から股まで、おおきく体を裂いた。
 そうして一瞬、とぷんと沈むように腕は消え、息継ぎをするように小さな小さな頭が、飛び出した。
「ーー!」
 大きな大きな、空気を揺さぶる産声が上がった。
 刹那。
 漣那美が立てていた式神が、赤子をぐるぐる巻きにして行く。
 苦しそうにもがきながら、抵抗しながらも、酸素を求め大きな声で泣く赤子の姿。
 あぁ、だきしめてやりたいと。
 手を、腕を思わず差し伸ばした。
「おまぃが抱くことは許されない!」ばしり!紙の式神が珠月見を引きずり縛り上げた。「いぅたはずだ、おまぃが抱くことは許されない!」
 「漣那美!」
「もうすぐさるお方にお願いしてある術者がこちらへやってくる。…魔人の、忌み子のこの子が大江戸で生きられるように、この子の背に封魔の墨を入れさせる。それが終わったら…」裂けた腹から半身だけ飛び出し、式紙に巻かれなお大きく泣き叫ぶ赤子を引きずり出そうとして…あぁ、と、目を伏せた頬を寄せた「おまぃは、魔人であるというのに、いい子だ…いい子だねぇ」
 くるり、血の飛び散った綺麗な顔を向ける。
「雪白、そこの私の羽織をとって、ちょぃと手伝っておくれ」
 あぁ、と、落ちていた花紫の羽織を掴み、血の海に立つ漣那美に近づいた雪白は…同じくしてゆるり、あぁ、と、声を上げた。
「珠月見」雪白は、静かに静かに言った。「お前が借り腹を使ってまでこの世に送り出した子は、たしかに魔人であるけれど…ちゃんと生きていける、生かしてやろう…私たちが守ってやろうな…こんなに優しい魔人の子は、大丈夫、ちゃぁんと生きていけるよ」
 ゆるりゆるり、魔人の子の手の先、羽織を広げて腹に手を入れる。
 大きな産声の合間に、それは聞こえた。
 小さな、ほんの小さな産声。
 
 己の罪の子、母の腹を割って生まれた魔人の子は、その手にしっかと自分より一回り小さな腕を握って離さないでいた。

 ぱちんと、目の前で火花が散った気がした。
 慌てて窓辺へ近づくと、大きく、空は渦巻き雷鳴は鳴り響いた。
 美兎螺屋の二階。自室の窓の赤い格子越しにそれを見た珠月見は、いつもは表情一切乱さぬその美しい顔を、大きく歪めて飛び出した。
「…零!」
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