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2章 日の出 昼見世 昼下がり

にのに 昼見世

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 ぽつん、と、春霞は広い広い座敷の主賓を正面にして左手側の、青くふわふわした随分と高価そうな絹織物の座布団に座らされ、高坏には見たこともない細工のされた上生菓子と饅頭、それからお茶を出されていた。
 昼前に、本当に籠は店前にやって来て、あれよあれよと手を振る振袖番頭に見送られて店を出た。
 いわゆる早駕籠という韋駄天の雛が背負って駆ける籠に乗せられたため、あっという間に葦原大門の前に着き、そこには店の小僧が用意周到待っていて、さぁささぁさと店に通され今、この状態となっている。
「……お」きゅうっと、胃の腑のあたりが何やら痛い。「落ち着かない……」
 きょろきょろと周りを見回せば、先だって宴の席が行われた時の部屋の広さには敵わないものの、それでも春霞の部屋の3倍はあろうかという部屋は、畳の上に唐物の敷物が引かれており、障子は透かしの入った美しい白、屏風に御簾、帳台、自分の背丈はある生け花と見たこともないような繊細な作りの豪華なものが設えてあり、自分の左手、座敷的には上座に当たるところには、自分が座っているものよりも、もっと厚ぶっとい座布団がふたあつと、脇息が一つ、赤い煙管盆が一つ、置いてある。
 加州様は余程馴染み上客で、多分に彼がここに訪れる時には座敷はこういう風に用意する、という決まりになっているのだろうなぁと思う。
 りん、りりん、りりりん、りりん
 鈴の音に、はっと顔を向けると、さらり、軽やかに音を立て、孔雀の描かれた襖が開かれた。
「…失礼いたしんす」
 禿に手助けを受けて中に入ってきたのは珠月見太夫と振袖新造、禿がもう1人と太鼓持ちの男。そうして
「やぁ、待たせたね」
 はっとして、指をついて頭を下げる。
「本日は…」
「あぁ、いいよ、そんなのは」お招きくださいましてありがとうございます、と言おうとした春霞の口上を止めながら、とんとん歩いてとすん、例の座布団に腰を下ろす。「わざわざこんなところまで来てもらってすまないね、なかなか半端な店だと人の目もあるし、自由に動けなくてねぇ。よし、顔もあげてくれる?」
「はい」
 恐る恐る顔を上げると、彼はまっすぐ、真紅とも、黒とも見える不思議な色の瞳でこちらをしっかり見据えていた。「あの…」
「君は人間だったよね」
「はい」
 片膝を立て、脇息に体を預けるように座った加州は、柔らかな藍の鮫小紋の着物に青朽葉の羽織を肩にかけた姿で、帯から下がった血赤珊瑚の根付のついた藍の煙草入れを引き抜いた。そっと、振袖新造の少女が煙管盆を差し出すと、うん、と、頷いて煙草を詰める。
 火がつくと、ぽかり、煙がひとぉつ上がった。
 そんな所作が舞うように美しくてつい見入ってしまい、そうして、あの日はよく見なかった加州の顔を見た。
 流れるような美しい眼差しを支える切れ長の目に、形の整った鼻筋、薄く形の良い唇に、この人はなんの眷属なのだろうかとおもう。 こういった美形が多いのは狗や狐、鬼が多く、そして力も強いものだから己の眷属以外を見下すものも多いという。
 あぁそうか、もしかしたら加州様は人がお嫌いなのか…先日のお叱りでも受けるのか……
 養い親には大丈夫と言われていたが、悪いことしか浮かびはしない。嫌悪に当てられるのは慣れてはいるものの、直接的に投げつけられると辛いな、と視線を座布団に落とす。
 と、
「私は元々は人間でね」
「……え?」
 と、顔を挙げると視線が重なった。
 ふわり、あんなに怖いと思った瞳が、柔らかに見える。
「元は人だったんだ。だからお前に何かするとか、そんな杞憂な心配はいらないし、なんなら仲間だからこれからもよろしくたのむよ」
 人間?
 元、人間?
それは一体…
「失礼してもよろしいでしょうか?」
 口を開こうと身を乗り出し他のと同時に、障子の向こうから声がかかる。
「うん、どうぞ」
「失礼いたします」
 すっと、襖は開く。
「台の物をお持ちしました」
「あぁ、たのむよ」
 そうすると朱塗りの膳がいくつも持ち込まれ、加州とその横に座る珠月見太夫、春霞の分ともう二つ、用意される。
「昼ですので、さっぱりとしたものをご用意させていただきました。禿や男衆の皆様には、別のお座敷に珍しい唐物の菓子もご用意しておりますので、女たちと一緒に行っていただきましょうか?」
 禿たちは太夫の顔を見、頷いたのを確認すると、膳を持って来た女たちについて座敷を出て行った。
 残ったのは加州様に珠月見太夫、振袖新造の少女と春霞、そうして
「私もご相伴いただけるとは、ありがとう存じ上げますな」
「この葦原の番犬、ならぬ番狐には是非に目を瞑ってもらわなきゃいけないことがあるからなぁ」
 にこり、笑った店の主人…であり、葦原遊郭の治安を取り締まる葦原会所の総締め・六花四郎兵衛の微笑みに、にやり加州様が笑ってかえす。
「春霞、昼は食ってないんだろう? 先日もあまり食べていない様子だったが、今日は騒がしくもないし、誰の目も気にしなくていい、遠慮せずにゆっくりおたべ。珠月見も月狗舞つくまいも、化粧の崩れなんか気にせずに食べるがいいよ」その言葉に、珠月見太夫と月狗舞と呼ばれた振袖新造は目を伏せて ありがとうござんす、と頭を下げる。「あぁそうだ、月狗舞は、久し振りに幼馴染にあったんだから、ありんすなんぞ気にせず話すといい」
「え?」
 お椀を持った手が止まる。
 顔をあげた春霞と、にこり微笑む月狗舞の視線が合う。
「…ぬしさん」にこり、笑った。「おひさしゅうござんす。恙無く暮らしてらしたみたいでわっちも安心しんした」
「……」白塗りし、朱が刺された顔面は、あぁ、そうだ。よくよく見れば面影を思い出せる。
「舞?」
 懐かしい、夏の暑い日、線香花火で身を焦がしたような痛みがあの日の冷たい空気を思いださせた。


「あげる」
 膝小僧と仲良ししていた額を離し、顔を上げると、子狐色の紙のおひねりが にゅう、と、現れた。
「そんな泣いてるからだわ、春霞はとぉても不細工」
「うるさい…不細工な舞に言われたくないよ」
「ひどい、こんなに可愛らしいのに」
 ぐいぐいっと涙と泥で汚れた目元を拭う青い着物の袖はほつれたり、かぎ裂きが出来ていたりして、よほどひどい喧嘩をしたのだろうことがうかがわれた。
それでも、またやったの?とは聞かないず、ふぅ、と、ため息ひとつつき、春霞の横に腰を下ろす。
「いらないの?」むすっとした顔の目の前にもう一度、押し出す。「春霞?」
「……なにこれ」
涙と泥で汚れた掌を差し出すと、ぽん、と、置かれる。
「多分、黒飴か何かなぁって思うけど」
「なにかしらないもの、人にあげない方がいいよ」
ふふっと笑った少女は、春霞の掌でおひねりを開いた。ころんころんと転がったのは、見たこともない、とても大粒な、四方八方まぁるいとげとげのついた、もの。
「なぁ、これって食っても平気なの」
「……わからないけど……これをくださった方は変なものを人にあげる方じゃないわ、きっととても美味しくて、とっても高価なものよ…」自分の手の中でもおひねりを一つ開け、指でつまんで見る。「春霞、せーので一緒に食べよ!」
 巻き添えかよ、と、思いながらも、春霞もそれを指でつまむと、お互い向かい合い、相手の口の前に差し出した。
「「せーの」」
 ぱくん。
 硬い硬い。
 ごろごろ、ごろごろ。
 味もない。
 狭い口の中はとげとげちくちく。
 びぃどろだったんじゃないか? なんて思いながら、それでも根気よくころころと口の中で転がしていると、ほろり、とげが崩れて落ちた。
 崩れは棘は口の中で、ほろほろさらさら、星屑か何かのように溶けて消えていく。
 宵闇色になっていた瞳は青く輝き、瞳が落ちそうなほど大きく見開かれる。
 次から次へと、崩れていくだったものは、それは今まで味わったことのない、雑味も、苦味もない味。
 となりで。
 橘色の瞳が落ちそうなほど目が見開かれる。
「「あまーい!」」
 ぽん、と、お互い手を合わせた。
「お星様の欠片なのね!だからこんなに甘いのね!」
「馬鹿、どうやって星を手に入れるんだよ!」
美兎羅屋みうらやの主様なら、大枚叩いて買われたのかもしれないし、お大尽からもらったのかもしれないわ! だって、この葦原で一番大きな揚屋の楼主だもの! 」
「美兎螺屋?」
 その名を聞いた春霞の顔が曇った。
「それってほんとに? 美兎螺屋の楼主様がこんなすごい菓子を舞に? なんで? だって今まで、唯の一度だって楼主様が葦原の養児院来るなんて今までなかったじゃないか」
 だとしたら、思い当たる理由なんか、一つしかないのだ。
「誰か、売られるのかな」
「私じゃないかしら!」
 にっこり、春霞の目の前の少女は笑う。
「こんなに可愛くて頭も良い。きっとどこの店でもお職を張れる器量好しだから高く売れるって、ばば様や和尚様も言ってくださるもの」
 褒め言葉のようでそうではない、大人が言っている意味は葦原の中で育った子達だ、ぼんやりではあるがわかる。
 この子は金になる、と堂々と言っているのだ。
「もしそうなら舞はそれでいいの?」
「もちろんよ! あそこに買っていかれるのが一番なんだってばば様が行っていたわ。この葦原の中で一等古くて一等の大見世で。あそこに行けば今よりも美味しいものも、白いご飯もちゃんと三度食べられて、高く買われた子はお姫様のように大切にしてもらえるっていってたもの! このお星様だって、つまめるくらいに素敵なんだわ」
 きらきらとした目でそう言い、うんと伸ばした指の先。あぁそれでもと、諦めたように手を下ろした。
「あの揚屋に買われるなんてとんでもない夢だって、ばば様は諦めたようにいってたわ。あそこは特にお武家の出や、大店のお嬢様だったものしか買ってくれないって…私も他の子達と一緒。あと2年もしたら、中見世あたりに売られて行くんだわ……だって、葦原で生まれて育った子は、ここで生きるしかないもんね」
 甘い菓子の夢が消えて無くなった先にあるのは、厳しい将来。
 葦原の塀の中で生まれた子供は、葦原で死ぬと小さい頃から聞かされていた。
 葦原の中にいる子供は、白天宮で拾われた人の子の春霞以外は皆、遊女の生んだ子ばかり。
 父の名前はもちろん、顔すらわからないことの方が多い。
 そんなことが多いから、生まれた子に罪はな区、皆で育てるという決まりを作り、親のいない子として男の子も女の子もみな等しく、親から離れて葦原の中にある養児院で育てられる。
 あぁ、そうだ。
 よく見れば、二人の目の前にあるものは薄暗い建物の隙間にある白天宮のお社で、2人が背もたれにしているのは高い高い、空の半分も隠すほどの黒い塀。
 桜の花の舞い散るそこは、葦原遊郭の小さな一画、春霞が落ちていた白天宮様の境内の植え込み。いじめられっ子である春霞が昔から逃げ込む(そして何故か、ここまでは誰も追いかけてこない)春霞の、今は二人の隠れ場所。
 大籬、中籬、小籬とは遊女の置屋の階級であり、同じ遊女とはいえ、身を置く置屋の大きさは、その後の人生が天と地ほど大きく違う、そして養児院の子は、大概、中見世と言われる中流から下の店に売られるのだ。次にやって来る子供たちを育てるために。
 2人はひとつ、ため息をついた。
「春霞は?」こてん、と、首を傾げて舞は笑う。「春霞はどうするの?」
「わからない」
  おひねりの紙を手の中で握り潰しながら困った顔をする。
「僕は…この世の中には二人といない人間だから、そのうち売られるんじゃないかって、いろんな大人か言ってるよ。 見世物小屋、陰間茶屋、御大尽の側小姓……どちらにしろ、物珍しいから大金が舞い込んでくるって。お金で売られるんだから、舞や、ほかの子たちと何にも変わらないよ」
 春の、冷たい風が二人の心からのため息に変わるように吹き抜けた。
 その冷たさに、肩寄り添って膝小僧を抱える。
 どの先二人共、自由は無いのだとお互い薄々感じてはいたが、こうして、口に出して改めて思い知らされたのだ。
 あぁ、塀の外に出るには、どうしたらいいのかと。
 ん? と、舞が顔を上げた。
 かさかさと、植え込みの葉が寄り添い合う音がより大きく聞こえた。
「こんなところにいたのか、春霞」
 突然かかった声に、春霞は顔を上げ、舞は眉間に皺を寄せた。
「おや、舞も一緒かい?ちょうどよかった。二人共、童子院へ帰ろう。荷物をまとめなければならないからね」
 目の前にいるのは和尚とは名前と姿ばかりの、その身の大きな化け狸。
 ニコニコと笑っているであろう顔は逆光で見えなかったけど、まとまった金が入る喜びにさも卑しい顔をしているのだろうと心が重くなる。
「さぁさ、二人とも、早く帰って身綺麗にもしなくてはな」
 どうして? とは、二人は聞かなかった。
 聞いても、帰ってくる答えはきっと、一つだけだとわかっていた。
 先の見えない不安に、これ以上重い足取りで狸に連れて行かれるのに身を任せるしかなかったのだ。
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