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蛮族の祝祭
転章 共和国協定千四百四十七年初夏
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十番勝負は朝には決着した。
それは有耶無耶というよりは出来レースのような型に嵌めた展開で、マジンもその家人も奇妙にギクシャクした雰囲気だったが、マジンの隣りに座るマリールと彼女の母親たちはニコヤカにしていた。
マリールの父は、全く場の主にふさわしく落ち着いた態度であったが、それがどういう内心であるのかはわからないし、十数名いるはずのマリールの兄弟姉妹はこの席にはいなかった。
こちらのお城の奥方様たちが話しているのは、生まれてくるだろうマリールの子供の名前についての検討で、ある意味でマジンの望んだとおり有耶無耶ということではあったが、その展開は全く型にはめられたというしかない展開であった。
「それで婿殿はどの名前がいいと思う。私は多分次は男だと思うのだけど、デアモンとかどうかしら」
等と奥方様たちに気の早いことを云われていたが、マリールは間違いなくタネがついたと確信していたし、アーシュラの時とは感じが違うから男の子であると主張していた。
そんな何年も前のことが区別が付くほどわかるものかとマジンは思っていたが、工房で扱ったことのある鉱石なら握って成分やら苦労工夫を様々思い出すことなど割と容易いことでもあったので、そんな馬鹿なことが、と一言云ってみて追求は諦めた。
常在臨戦の将家の倣いとして、子供が多いに越したことはないが、別段子供が今すぐ必要ということもなく、家督とも直接関わりのない一旦は既に鬼籍に入った娘の扱いは、単に周囲の評判という以上の意味がない。
そのマリールの帰郷について今回の騒ぎになったのは、ステアが郷の上空をウロウロと彷徨ったことでマリールの帰郷が様々に知られることになったのと、父上の跳ね返りに対する気分の問題だけで、それも実はマジンが謁見の間の扉に掛けた斧槍を裁ち切ってみせたことで、まぁいいかという気分になっていた。
それでも武芸改を開くことになったのは、ステアの件の詳細を求めて家々のお歴々が人を走らせていたこともあったが、マリールが自分の男を見せびらかしたいと言い出したことと、謁見の間を内側からといえ押し破られた衛兵の責任を有耶無耶にするためでもある。
マジンの振る舞いは藩王陛下の気分の上で品評は終わっていても、練兵官兵務御役目怪シ気ニ付キ待役申シ渡ス以後出仕能ワズ、と衛士総代の騎士に対する事実上の極刑を宣するか否かの判断を求められてもいた。衛兵の判断としては極めて微妙だが、役目の上では身を挺してもマジンを留めるべきで、いきなり戸口に向かい打ち破ってみせたマジンの技量は並外れてはいたが、郷の者にも幾らかは似たことができる者はおり、そういう何者かがより明確な成行きとして害意を持って打ち破ることはありえた。
衛兵一隊を始末するか、練兵官を始末するべきか、始末するとして待役か転任か、或いは放逐か。いずれ叱責は免れない、それでは不足する不祥事ではあるが、その判断には平時特有の色とりどりの幅がある。
無作法の仕儀の言い分はゲリエ卿は既に自らその場で口にしていて、物的被害は大扉の閂一組と観音開きの戸口の合わせの巻銅で、いずれどうとでもなる代物であった。
最も屋外に近い城内の一室にある大仰で武張った造りの扉であったから、もちろん定期的に手を入れてはあるが、歴戦の傷も多い。戸板には傷が増えなかったが、厚み五シリカの銅の合せ板がざっくり削がれてしまったのは、斬鉄の妙技と合わせて腕の程を示す剣跡であった。
そういう様々の絡んだ武芸改の勝ち負けの結果なぞ、男の器量を示せばそれで事が足りることで、勝とうが負けようが試武の場に出てくればそれでどうとでもなることだったのを見事に勝ってみせたことは全く重畳であったが、まぁそれもどうでもよく、マリールの扱いが悪かったとはいえ魔族の甲冑を凌いで押し切ったマジンの技量は一門郎党共々文句もなく、家督に関係ない外戚という扱いであれば、全く頼もしい、と歓迎された。
全くの急展開にマジンを含めゲリエ家の一党は今ひとつ状況が飲み込めないまま、歓迎されているらしい朝食の席に招かれていた。
まさかの深夜に呼び出されたマジンは薄寝ぼけていたクライを置いて、ひとりで二番目の勝負に臨むことになった。
と云ってどの道戦うのは自分一人で朝には舟から予備の資材も届くことで、一回勝ち負け分からず、もう一回ねじ込まれても朝に勝てばいいことで、と皮算用をして訪れた立会人は女性の声だった。
問題はマリールが薄衣一枚の全裸だったことだった。
今日を逃せばまた男児出産が遠のくからお情けを、それで十番勝負全部負けますからと、熱惚けたマリールに言い寄られ、男児ができるかどうかは、むしろ男にかかっているんだが等とぼんやり考えたマジンが応じて、というよりも、奇妙な場の空気に異常を感じるまもなく勢いで盛っていたのだが、後で考えるとアレは聖堂の機能を油断してやられたような気もしている。
妙な呪文の詠唱が今も耳に残っていて、マジンとしても決闘騒ぎを有耶無耶にしたいというところで、心理的な隙を突かれた、してやられた気分でもあるのだが、それが悪いかというほどに悪くもないので、納得はゆかないが済んだことだった。
マリールの肋はやはり三本折れているらしいが、バキバキ全身の骨を折らないでも子供ができるならアーシュラの時よりはだいぶマシだと云うしかない。
少なくともマリールの父上母上と食事の席に着ける運びになったことは苦労の甲斐があったということであるし、角突き合わせたり平伏したりということなしに雑談で談笑できる立場にたどり着くまでの儀式としては、各地のそれよりも一段手早いものであるとも云えた。
「それでゲリエ卿の見解として、今後の共和国の情勢についてデカートではどう考えておられるか」
「困難と混乱を小さくしたいと考えておりますが、避けられない面も多いかと」
マジンの言葉に藩王はうなずいた。
「それは此度の帝国との戦争の影響かな」
「もちろんそれが大きいと思います。戦争に負けないための施策を様々に準備いたしましたが、なにぶん帝国との戦争に間に合わせるため様々に乱暴いたしましたから、無理が多いのは間違いありません」
「具体的には」
「人金物と様々慌ててかき集めすぎました。鉄道で北街道を固めましたが、地域で反応に格差がありますし、まだ繋がっていない土地とはさらに大きな格差があります。
鉄道事業は今後も急ぎ整備をおこなう予定ですが、そのために金と私財を会社が吸い上げれば地域を窒息枯死させることにもなりかねませんし、会社が持ち込んだとして今度は土地のヒトの心根を腐らせることにもなりかねません。
現実に鉄道が往来するワイルでは巨大な往来によって地税や住民の動き或いは鉄道の駅周辺とその他地域でわかりやすく住民の文化文物に格差ができました。
もともと厳しい土地ではあったミョルナの旧街道では商売が立ちゆかない様子です。
ワイルの時のような脅しつけの騒ぎは好ましい事態ではありませんが、性急に事を進めてゆくにあたってはいずれ避けられない事態でもありました。
十分に速度をもって共和国全域を席巻するには人材が不足していますし、現場で人を雇おうにも教育も足りません。商品の値付けも見なおしする必要があります。
今後土地土地によって大きく住みやすさが変わってくるでしょう。戦争そのものはおそらくダラダラと続くと思いますが、帝国がボクとボクの会社を名指しでなにやら云っているという話も聞きました。具体的には知りませんが、いずれ碌でもない言い分でしょう。
今後の戦争の展開に鉄道事業が必要であるのは共和国内に周知されたことかと思いますが、明暗両面を折り合いつけられるのは当面は私だけかと」
「鉄道か。この地に鉄道を敷くとしてなにが必要か」
「基本的には市があれば鉄道はどこなりと敷けます。ゆってしまえば、日々整備する必要のある街道なので、掛かりがはっきりと出てしまうこととその掛かりを厭うと使えなくなる、という特徴をご理解いただいた上で掛かりの覚悟とそれを押しても稼ぎを作る気概が必要ですが、遠くのものが大量に運べるので、必要な物が明確で手近の商いに足りないということであれば、いつ訪れるつもりなのかも怪し気な隊商に頼るよりは遥かに確実です。鉄道が敷かれ運行が滞り無く順調ならデカートからでも五日はかからないと思いますから、数が余っているようなものであればそれくらいで運べます」
「あの白い飛行船とやらは」
「どうしてもある程度、風まかせですが、当地からデカートまで丸一日ではやや怪しくおよそ二日というところでしょう。来るときは些か空で迷子になりましたが、そのくらいかと」
「どれくらい運べるものかな」
「およそ五十から百幾らかグレノルの間というところでどういう高さを飛ぶかと天候によって左右されます。天険山脈より尚高いところを飛ぶので、旅客設備はそれなりに準備していますが、千人を超えると少々狭いという感じです。小城のような外見の割には大したことがないという印象でしょうか」
「すると、今回の旅は随分と余裕があるということかな」
「そのとおりです。半ば思いつきで足を向けたので、このような運びになって恐縮ですが、全く望外の展開でした」
マジンの言葉に皮肉を感じたのか藩王は髭で笑った。
「些か急な話だが、帰路に便乗を望むことは可能だろうか。無論家族水入らずの旅ゆきであることは承知しているが」
「どちらまででしょう」
「鉄道を利用してみたいという者が家中に三十名ほどおる。その者たちをデカートまで運んでくれればたいそう助かる」
「わかりました」
「ゼフィー。これでいいな」
「はい、我が君」
ゼフィーと呼ばれた夫人が応えると、藩王は執務に赴いた。
午後は園遊会で、マリールの内縁の夫のお披露目会というところで、その前触れに色々あったおかげで準備のかかる各地のお城のご婦人方も来たい方来られる方々は粗方お出でになって、社交の場を暖めていた。
女性の騎士はいないという話だったのだが、騎士と武官とは別であるらしく、帯剣していたり銃剣付きの小銃を肩にかけたりという女性兵士はかなり多く、雰囲気からすると職分も男より下というわけではないらしい。
不思議に思っていると、各地のお城の奥方様たちが面白がって自慢の女性騎士を紹介してくれた。
この地で騎士とは収税免状と軍装免状を共に許された土地持ち領主を示す言葉で、その家長が騎士ということであるのだが、実は家長が男性であっても実務能力のない場合、或いは男性継嗣はないものの政治的な理由により家格の国への返納がおこなわれない場合、血縁女性が総代としてすべてを取り仕切っていることもあり、そういう場合に女性の騎士が生まれたりということもある。
騎士は須く男性である建前なので騎士同士で婚姻するということはなく、養子を継嗣とすることはあっても、当代で家同士が合一することはないし、養子の縁組にも当然に制度的な様々が関を設けている。財産の統合による貴族階級武装階級が大きな力を望む王権は当然にありえない。
女騎士を当主に押し立てた家は乱暴な言い方をすれば一般に裕福で軍備蓄財のある有力な家か、軍閥に支えられた強力な家か、長い大きな功労があった特別な家か、という名門の当主に女性が納まるということで、女性であっても騎士である必要があって特権的特例的な無理の結果として女騎士は様々に無理を強いられている。
背景として一夫多妻の弊害で女性血統に財産分与をすると激しく財産が細分化され、国財の統制が取れないという問題があり、女性血統は財産の継承権がないとされている。
といって、男性血統であっても息子たちに自主独立などと称して納屋一軒馬一頭のような財産分与を分家して騎士に立てたりするような家もあって、必ずしも財産がまとまって運用出来ているというわけではない。
叔父より甥が出来が良いとも限らずまた逆もあって、様々問題も多く気の毒なばかりの話も多いのだが、そういう流れの一つで女性騎士がいないわけではなく、またいると認められるわけでもない。ということである。
一種役職の性別というものが定まっていて、極端な例だと女性の騎士が女性の奥方を娶ったりという焦げ臭い悲恋めいた話もあるのだが、景気よく勇ましい奥方曰く男なんてタネみたいなものなんだから適当に間男拾って知らん顔して子供産んで、我が子なり、と云えば男よりよほど血統がはっきりしている、と言い放っていた。
ある意味でそれは全く生物的な男性血統の不確かさに対する正当な批判で、女騎士の様々の苦闘の日々を思えば人間としての非凡さを求められ、女騎士は優秀有能を日々当然と試される研鑽された人々ではあったが、云ったご夫人当人からしてその先に来るものをきちんと考えたうえでの言葉ではない。
かつてこの地に龍や巨人や悪魔たちが闊歩していた時代であれば女は文字通り家から出せない城の宝であったわけだが、既に人の当代に移って久しい今、魔法や銃砲火器が戦争の中心にあることを考えれば、戦争指導者である騎士が男だ女だ、と云うのは少々大雑把に過ぎるだろう、という程度の言葉のはずだった。
まして家伝の財産の話であれば家の話であって、当主一人の有能無能の話でさえない。
有り体に個々の家の話の最適を定められるほどに共和国の法制度や財政構造を支える流通や生産は強固ではなかったし、その配下諸邦国についても同様だった。
共和国州邦の法制度や財政を支える立場であるはずのマジンからして最小に整理された家庭制度である一夫一妻制に成行きはどうあれ真っ向逆らうような行状を示している。共和国の未開は制度としての国家よりも、信用できる組織としての血縁関係に支えられた家の必要を様々に示していた。
血族家族もそれだけでは信用出来ないものではあったが、様々に来歴や因習のある土地であれば約束としての国家制度にどれほど期待できるか怪し気もひとしおだった。
一方で封建制の家族経営というものにおいても、信用できる血族とその能力というものは貴重品で、臨戦下では男女の差を取り沙汰すことができるほど余裕が有るものでもなかったから、有能な経営判断ができるなら女性であっても構わなかったし、普段表に出すことがない女性がやっていたほうが落ち着いて作業が進められることもあって、子供を産んだあとの女性が経営計画の主軸に腰を据えることは当然に多かった。
そう云う女達は生ける帳簿のようなものであったから、ますます家から離れることができなくなってしまって、退屈を持て余し偶にある園遊会などでは日頃の鬱屈を晴らすようにはしゃぎ回るわけだが、今回はそこに新たな面子、戦死したはずのマリールとその良人とその奥方たちという者達が現れ、良人である人物は武芸改で称揚された者ということであれば、ますます話題は尽きなかった。
ゲリエ家の面々は園遊会であちこちの方々に手を惹かれるうちにバラバラに会場をめぐらされ紹介され、市を引かれる子牛のような有様であった。
引き合わされた幾人かの男女、いずれかの家門の騎士やその令夫人であったり、或いは家門の台所を預かる奥方様であったりという方々は鉄道旅行について、頻りに聞きたがっていた。それは単純に遠くの風物がどうこうというのもあったが、やけに具体的に運行の様子だったり、工事の技法だったり、機械の様々だったりというものを聞きたがる方々が多く、単純な興味という物をはみ出した雰囲気を感じるものだった。
そう云う風に昼間を過ごし、晩餐会の後にマリールの館の客間で酔い醒ましの雑談をしていた。長らく家に帰っていなかったマリールの居館は片付いてはいたものの落ち着いた趣味とはいえず、誰もがポカンと口を開けるような色合いと可愛らしい絵柄の壁や家具で埋まったキッチュな空間だった。桃色ピンク桜色と称される明るくやわらかな風合いの赤みの幅広さを想像力いっぱいにつかった内装は、桜や杏の花が何故手早く鮮やかに散るのかの理解に至るほどの圧迫感質量感を持っていた。
「こういうことならセントーラ連れてくればよかったな。昼間の園遊会、アレ鉄道事業の準備諮問の瀬踏みみたいなものだろ」
ゼフィー夫人の立場というものは基本的には財政計画の非公式の統括責任者というべきもので、マリールによればローゼンヘン館と会社の関係をお城と国に置き換えるとおよそセントーラを積極的にしたような立場で評議会の要請検討を受けての国務の査察を藩王陛下に変わって実施するような立場にあるという。
それはとてつもなく偉いんじゃないか、と思ったが、一族で経営を回そうと考えればそう云う風に偉い人が幾人かどっしり腰を下ろしている必要があって、ローゼンヘン工業の様々を日々滞り無く動かしているセントーラは恐るべき人材と改めて感じた。
もちろんセントーラ一人の能力というつもりは毛頭ないのだが、最初のノードと最後のノードの信頼と性能が系全体の信頼を決定的に左右するという意味において、セントーラの能力は絶大だった。
今現在のローゼンヘン工業の状況を体系的に理解している人物といえば、セントーラが第一人者であるのは間違いない。
「ほんっと、あなたセントーラ好きよね」
「妬いているのか」
「そりゃ妬くわよ。いない人の名前で顔明るくしちゃってさ」
「正直そりゃしょうがない。お前らより長い付き合いだもの」
不満気に鼻を鳴らしたリザにマジンは弁解した。
「アタシのほうが先に子供作ったのに、なんか納得いかない」
「兵隊にいっている間に男ができたり女ができたりとか、割りとあることだろ」
「ますますムカつく言い分ね。四人も女将校孕ませといて、そう云う口の聞き方がありますか」
「オマエがどの口で言うのか、十年前のオマエに見せてやりたいよ。それに十年前にはアイツはウチにもういて会社の計画の最初から付き合ってくれていた」
「しょぼくれてたセラムたちを連れて行ったら十年後に閣下と呼ばれるようになるって十年前の私に言ったら、大笑いして信用しなかったでしょうね」
「ファラリエラが大騒ぎしなかったら、アレを量産してやろうなんて思いもしなかったよ。作るのはいいけど、五百リーグも運ぶのはどう考えても手間が過ぎたしな」
「結局、鉄道輸送のおかげよね。輜重運用は兵站の根幹だわ」
リザがしみじみと振り返るように言っているとマリールが焦れたような顔になった。
「せっかく私の実家に来ているんですから、もうちょっと私の活躍も話しましょうよ」
「なによ、アンタなんか、戦争の最初でちょっと活躍した後は事あるごとにこの人の邪魔ばっかりしてたくせに」
リザがバカにしたように言った。
「そんなことないですよ。学校の先生とかして子供たちの面倒見てました。ちゃんと奥様然として留守番してたじゃないですか。クラウク村やゲリエ村の人達にはご領主様の奥方様って呼ばれていますよ」
「この人が量産体制の初動人員を運ばせてるときに邪魔したって聞いてるわよ。しかも屋敷に転がり込む時もなんか他所様にご迷惑おかけしたって。子供がほしいからってこの人の脇腹さしたり、腕の肉噛みちぎったり、邪魔したんじゃなくてなんだってのよ」
「むぁ。それだけ云われると、なんかアレですけど、クラウク村の人達はその時がご縁でお付き合いが始まったわけですし」
「これだけあってそれだけってこたないでしょ」
「でも、アレですよ。おねえさまに戦争引っ張られなければ、もうちょっとお役に立つはずだったんですぅ」
「そりゃこの人の仕事見てりゃ、犬でも猫でも必要ならなんでも突っ込んで仕事させるから役に立つでしょうさ。アンタが五体ばらばらにされて天井からぶら下がっててもカナリア代わりに歌謡ってりゃオルゴール代わりぐらいはできるでしょうしね。でっかいおっぱいぶら下げて哺乳瓶代わりにもなるわよね」
「ひどっ」
マリールもリザの言い様に絶句した。
「また千人も子供がいるからね。まとめて面倒見てくれる人がいるのは嬉しいんだ。今も何人かで面倒を看ているんだが、ね」
「戦争に行ってた女達がこの人の子種仕込むことになってるしね。来年年明けにも年季が終わるわけだから、兵隊ぐらしが気に入った連中以外は一旦帰ってくるわよ。半分も帰ってくれば百も仕込む必要があるんだからね」
マジンが出した助け舟をリザは蹴っ飛ばすようにして言った。
「……あのなぁ。リザ」
「アナタが仕込まないってなら、ちゃんと代わりの子種をあてがってやりなさいよ。若くて先のある女を手元に抱えてるのはまぁそれとして犬だって馬だって相手がいるといないじゃ、ぜんぜん落ち着き違うんですからね。特にアンタの家の裏に兵隊いるでしょ。ああいう連中の忠誠心ってのは金じゃ買えないけど家族や立場で買うことは出来るんだからね」
「そうなのか」
ショアトアに話を振ると流石にびっくりしたような顔になった。
「なんで、私に聞くんですか」
「そう云う風にボケなくていいの。男くわえ込んで痛がってるような子供の話はどうでもいいの。そうじゃなくて、アナタが囲ってる男がほしい女の話よ。アナタにブチ込まれてヒイヒイいいながらツヤツヤになるような成熟した大人の女たちのことよ」
「なんか嫌な言い方だなぁ」
なにを云っているのか、わからないふりを許さないリザの言葉にマジンは眉をひそめる。
ショアトアも黙ったまま口をとがらせていた。
「そう云う言い方しないと真面目に考えないでしょ、アナタ。大事な話してるのよ。このバカの話もそうだけど、若くて番と子供がほしい男女を手元で腐らせるなって言ってるのよ」
「バカって私のことですか」
ニコヤカなまま驚いた顔でマリールが確認した。
「他にどのバカが居るのよ。この人んところにどんだけ女がいると思ってんの。アンタが子供作ったとして、子供がほしい女がどれだけいるか、少なくとも五人や十人じゃ済まないわよ。千も女がいりゃ百やそこらは子供欲しいと思ってるし、数百は男欲しいって思ってるわけなんだから、一夫一妻制ってのはそれなりに雑な方法だけどそれなりに意味があることで、一夫多妻で食い扶持に困らず万々歳って云ったって、物事には限度ってのがあるんですからね。そう云うところにニコニコお腹膨らませたバカ女が奥様でございと来たら、火種以外のなんだってのよ」
「でも、もう間違いなく子種はいただきましたよ。まだ確定ってわけじゃないですけど多分本当に男の子です。ふひっふっふふっ」
「このバカ、ムカつくわね。なんかそれっぽい感じでなおさらムカつく」
「ふへっへっへっ。なんかこうお腹の奥からモワ~ンと伝わるものがありますからね。おうちの女性方が我が君の子種を欲しがる気分はわかりますよ。いいんじゃないですか、百でも千でもタネ付けてあげれば。そのくらい家人がいないと大家は回せませんよ。我が君の事業を考えれば、領民は十万やそこらじゃ利かないくらいなんですから、馬廻りで一万くらい血縁がいても別段いいと思います」
「なにバカなこと言ってるのよ」
「それがですね。バカなことってお姉さまは云うかもしれないんですけどね。我が君にはうちのお城をお任せできるといいわね、って話が母や兄姉たちの間からちょっと出てるんですよね」
「どういうことよ」
「うちの国と共和国とで係争してて帝国との戦争の流れでうやむやになっている土地で、ニジェナって土地があるんですけど、そこのお城任せる人がいるといいなぁって。そんで我が君がそこの城主になってくれるといいなぁって話があるんです。さもなきゃ、お腹のアーシュラの弟にでも」
「アンタがやればいいじゃないの」
「私女ですから」
「他のどっかの男じゃダメなの。地所のほしい騎士様いらっしゃるでしょ」
「それがですね。水はあるんですけど農地にできるような土地がないんです。山と森はあるんですけど、樵をして稼ぎ出すような土地につながってないんです。でもまぁ昔からの街道の一角でウチの土地が共和国と戦争してたような時分はそれでも重要な拠点だったわけですけど、今となっちゃ流石に人を貼り付けとくのもバカバカしいような土地になっちゃって、でも共和国にくれてやるのも業腹だって長いこと揉めてるような土地なんですけど、お屋敷の人たちで引っ越してきませんか」
「水があるならどっかの川につながってるんじゃないの」
「ギゼンヌまで一応つながってますよ。うちの土地だいたいマボータ川の源流ですからギゼ湖までつながってます。でもつながってたってそれだけで商売にできるって位置でもないんですよ。共和国的には川がつながっているからそこは俺んちだって言いやすいわけですけど。食料殆どギゼンヌ周辺から買ってくるような土地ですし。温泉が結構勢い良く出ている土地なんで、川も延々硫黄臭くて流れの淀むところとか黄色く焼けて、そういう土地が好きな薬草やら苔やらが生えているようなそういう土地です。まぁ別段一山全部そういう感じってわけでもないんですけど、大きく畑をやって収穫を得るということは出来ない土地なんですよ」
「なんか普段使わない裏道みたいな感じなんだな」
「まぁそんな感じで、早馬とかが使うような道で距離自体はあちこちに近いんです。けど、荷馬車落ち着いて通せるほど整備しているわけじゃないし、集落がないんで獣が出たり流れの匪賊が腰を下ろしたりと城が荒らされているんで困ってるんです。疎らに茶屋やってるような庵がないわけじゃないんですけど、通年やってるってわけでもないですし、往来に不便で食べ物がないから幾十人か以上置いとくわけにもゆかないし。お城も昔のやる気のある時分に作ったものだから、そんな人数じゃ守り切れないし掃除もできないような立派なお城なんですよ」
「つまり、マリールお姉さまのご家族はアレですか、そこを旦那様の土地にして鉄道の経由地にしたいなぁって考えているってことですか」
「そう。さすが、ショアトア、可愛い。賢い」
マリールに褒められて一瞬ニコヤカになりかけてバカにされたのかと疑ってショアトアの表情が複雑になる。
「そんな簡単な話ってわけじゃないんでしょ」
リザが少し尖った軍人の表情で改めた。
「まぁもちろんそうです。国の要衝の土地ですから。ウチは共和国と協定は結んでいますけど独立国ですから、どうでも良い土地の一角の所有権ならともかく要衝をまとめて他国の共和国の要人に投げ与えるわけにはゆきません」
「そこをボクが鉄道を通して城を集落として機能できるようにしろってことかな。なんか使いにくそうな土地だな」
「冬でも足やお尻を温めるには都合のいい泉や沼地があちこちあって、温泉は良いのがあるんですよ。あと、由来わからないんでアレですけど、隠し金山の話があったりとか」
「金山自体はそれなりの温泉が出るような山地であれば実はあちこちあるんだが、すぐ鉱脈が途切れたりするからそう云う廃鉱なんじゃないかな」
「だいたいそう云う生きた金鉱を他所の土地の人に上げるわけないでしょ」
「私が決闘で勝っていれば、我が君と晴れて結婚できたものを」
しみじみ残念そうにマリールが言った。
「なに言ってるの。アナタ嫁になっても相手のこの人の国籍は変わらないんでしょ」
リザがマリールの言葉に疑わしげな言葉を投げた。
「まぁ、そうですけど。でもほら、郷は妻を何人持とうが気にしない国なので、我が君が千人女をさらってきて子供生ませた話をしたら、もうすっかり母上たちなどはそういう男であれば婿にもらう価値がある、むしろうちの国にきて間男商売してもらいなさい、と」
「なに言ってるのよ。それ本当に話半分じゃないの」
リザが呆れたように言った。
「それでアレか、女騎士やらその令夫人やらが変な雰囲気だったのか」
いろいろ騒ぎを起こしておいて心当たりが多すぎだったのでその影響かと思っていたら、その他にも理由があった。
「女騎士が曲芸師や吟遊詩人を間男にするってのはウチの土地ではまだありますよ。そういう流れ者だと割合簡単に別件で処断しやすいですし、そういう人が騎士に納まることもありますし、お殿様でも子供に恵まれない方や男の子を亡くされる方も多いので、おおっぴらではないですけど継嗣では様々無理をされている方が多いんですよ。昼間の奥方様もツバメを囲ってるというか、殿様に付けられている方も大勢いるようですし、一夜の恋物語とか話のツマには鉄板ですよ」
「ああ、なんかそういう話もポロポロ出てたわね。嫌味みたいな感じでコッワーって思ってたけど、アンタみたいに子供作るためにいちいち殴り合いの決闘しないとなんないようなヒトたちだとよっぽど付き合いが良くないと子供どころじゃないわよね」
「どつきあいがよくないとって、お姉様捻りましたか。ふっへひっ」
よほど何か笑いグセがついているのか、マリールがおかしな声で吹き出すように笑った。
「マリール、なんかこれ本当に妊娠したみたいね」
呆れたようにリザが言った。
「もう、バッチリですよ。これもおねえさまが二日もぶっ通しでエロ魔術を送りつけてよこしてくださったお陰ですっ。ザッマーみろ。べぇーっ」
「そんなことしてたのか、オマエ」
「もぉ、ひっどいんですよ。私が色々お城ん中で家族に色々云われている中で、リザ姉様、魔法でずーっとエロ話。我が君のなにがいいだのどこがいいだのペタくたペタくたこっちを撫で回すように、もぉうっとおしいやら腹立つやら羨ましいやら」
マジンがリザに確認するとマリールが答えた。
「――そりゃ、五感の表現転送なんてのは魔術の基礎ではありますけどね、あんなんネチネチやられたら、心弱い相手は境界が崩れて解け死にますよ。あんな魔術の使い方するから死んじゃうんです。言っときますけどね、ホストが境界崩壊してたらお姉様も輪郭喪失に巻き込まれて死んじゃうんですよ。お姉様の身体は魔族なんですからね。グリフがなくなったら酷いことになりますよ」
マリールが一息吸って表情を改めた。
「どうなると思うのよ」
「人の形を保てなくなると思いますよ。その後どうなるかはわかりませんけど、だいたい魔族がヒトの形をしていない理由は人としてのグリフの喪失によるものです。そうなったときにどんな魔族が残るのかわかりませんけど、流石に墓石相手にお話するのは命日だけにいたしますわ。いろいろ忘れていると思いますけど、お姉様はもう死んだんです。いま生きて私と話しているのは、まぁ私もそう思っていますけど、魔術によるもので肉体的な生命によるものではありません。身体を動かしているのも魔力によるものです。だから魔力が切れたら崩壊します」
「あなたのウエディングドレスみたいな鎧みたいな感じになるのかしら」
「あんな上等になるとは思わないほうがいいですよ。あれはまぁ特別製ですよ。悲鳴を上げながら永遠に燃える石炭みたいなのも我が家では便利に使っていますけど、アレが本当に悲鳴だったらあんまりゾッとしません」
「リザの状態についてなにかわかるのか」
「ちゃんとしたことがわかるわけはありません。魔術は正直やった本人しかわからない事が多いですし、我が君がわからないということならわかりません。ただ、多分ッて言うことまででいいなら、リザ姉様を完全に置き換える存在を作ったってことだと思います。その材料に宝玉の心臓とステア姉様の氷砂糖の体とたくさんの魔血晶を使ったんでしょう。ジョッキで勘定するのが適当なほどの魔血晶が使われたと聞いて、母も贅沢に呆れていましたが、納得していました。いずれにせよ、リザ姉様の人格を完全に完璧に模倣しておそらくは肉体的な機能も模倣するように作っているはずですけど、色違い型違いなところもあるのは施術上の限界によるもので、術式として完璧ではないということです。どう完璧でないのかはわかりませんけど、馬鹿力の形で姉様自身が自覚されていると思います」
「よくわからないけど、私はリザ本人ではないのね」
「本人という概念は魔法においては存在しません。全てはグリフとしてアカシアオルゴンに存在します。あなたは我が君の魔法によってリザチェルノゴルデベルグゲリエとして望まれました。その意味においてあなたはリザ姉様です。ですが、魔法を使いすぎて主観の輪郭が崩れるとリザ姉様でいられなくなりますよ」
「私、やっぱり死んでるんですって」
リザに云われたショアトアは困った顔になった。
「そんなこと言われても困りますよ。変な風に魔法を使わないでください。死ぬようなことをすると本当に死んじゃいますよッていうことでしょう。いやですよ。また死んでるの見つけるのは」
「さすがショアトア。理解が早い」
マリールがショアトアの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「朝起きたら、心臓一個になってたとか冗談じゃないですけどね」
そこまでショアトアが言ったところで三人の秘書たちは失った目の代わりの義眼に手をやった。
「あなた達はそこまで心配しないで大丈夫。別段、食われやしないわ。園遊会で詳しい奥様方が診てくださったけど、ただのよく出来た魔法の義眼ですって。ほしいなぁって話もあったけど、それは我が君のお仕事。……それで我が君。よろしければ工房の見学をさせていただけませんかという博士の方々が幾らかいるのですけど、どうお返事いたしましょう。うちの母の件とは別なのですが」
マリールが請け負った言葉に三人は肩の力を抜いた。
マリールの言葉にマジンは首をひねった。
「あの場にそう云う雰囲気の人達はいなかったと思うんだが」
「別です。兄の領地の方々やらで、国ではちょっと身分の低い方々なんですが、兄の施策で取り立てている人たちです」
「ステアでまとめて連れてゆくのは構わないが、それでいいのかな」
「一緒の部屋にしなければ。ステアでは階を分けたほうが面倒がないかもしれません。お屋敷ではまぁ食堂も客間も多いですから」
「博士なのにそういう風に身分が低いのか。人種が違うのか。奴隷なのか。うちの工房の爺さん連中みたいな感じの」
「奴隷ってわけじゃないし、人種っていうか風習ですかね。博士ってつまり血統と関係なく出てくる学問知性に突出した才能を持つ個人じゃないですか。そういう人たちの評価って結構厄介なんですよ。頭が良くて算盤や雄弁が立っても何かに使えるとは限りませんし。兄のところはあちこちの断絶した家の領地を寄せ集めた土地なので、色々足りないものも多いんですけどしがらみの類も少ないんで、御役目にあぶれた威勢のよい博士たちをいい機会だから遊学させようかっていうことみたいです」
「そりゃいいが、明後日には出るつもりだが、間に合うのかな」
「兄にはそう伝えてあります。ダメでも飛行船の見学をさせてもらえれば、と言ってましたが」
「飛行船の見学と云って観て面白いかな」
そう云ったマジンの顔を見ているうちにマリールが口元を抑え吹き出した。
「うぷぷ。それがですね。その兄ラジウスっていう四番目なんですが、学志館の論文、いつの回のだか手に入れたらしいんですが、なんと十二万タレルも払ったらしいんですよ。それがまた読み終わっていないうちに盗まれてですね」
学志館で配布した論文は早いものでも十年は経っていないから、完全な形の複製本や私家本の印刷は出回っているという程でもないが、手控えのような抜粋と注釈をつけたものは写本の形でバラバラと存在していて、デカートではすでに当たり前になった簡便なライノタイプによる活版印刷やしばしば図表が読み取りにくくなっている写真製本によってそこそこの量が学志館の学徒を中心に安く出回っていた。
安いと云っても金貨一枚を割り込むことは稀だったが、まぁだいたいそんな感じの値段で薄手ながら読み応えのある冊子を、しかし理解の跳躍の必要な内容を一人で読み込むことはほぼ不可能であったから、そういう読み物を電灯の光の下で数名で読みこむことが一種の流行になっていた。
これまでおよそ読本読書というものは物品としても趣味としても一般には理解されないものだったが、学徒を中心に町中のあちこちで難解な本を難しい顔をして幾人かで額を寄せあっている姿が見られ、かと思えば計算尺以外に数字の用のなさそうな工房でも似合わない本を読んでいる者達が増えてきた。
金貨一枚と一言で云って流民なら一財産だし、開拓民であればその金で種芋でも籾でも壊れた農具でも一揃え或いは納屋や家の屋根壁を治すかという金額だから学生が気楽に読み捨てるにはあまりに高価でもあったが、鉄道ができてこっち日雇い旬雇い月雇いと稼ぎ口の数も質も増えていて健康で動きが人並なら鉄道駅のあたりで雨漏りのしない家を借りることは難しくなくなっていたし、日常的に読書ができるくらいに文字の読み書きに明るければ奴隷上がりの流民や亜人であっても人並みに扱われるキッカケになっていた。
そういう風潮の中で金や伝手があれば手軽に印刷ができることから詩人というモノが単にお家雇われの囲われ者から、一般向けの気の利いた代筆屋や翻案家としてちょっとした文集や歌集或いは散文などを街で売り出すようになり、一家を成す商売生業として文章書きというモノが成立するようになった。
それは鉄道沿線にバラバラと伝染するように広がり、人々の習俗に多少の変化を与えていたが、多くの土地では今のところせいぜいが、鉄道会社の博士先生がなにやらお勉強なさっている、という程度のことで留まっていた。
ローゼンヘン工業は専門の製紙工場や印刷製本工場を立ち上げていて社内資料の編纂に急ぎあたっていたが、追いかけ追いかけの仕事で紙や書籍の在庫は常に不足気味でもある。
共和国一般の市井の理解の内では、読書なるものが趣味として成立するのはまだまだ有閑な人々の高雅な嗜みとしてであって、趣味は読書と口にすれば呆れられるか唸られるかいずれ浮世離れした者と見られる有様だった。
ひとたび鉄道線を離れれば共和国での書籍は紙の生産と印刷の手間と流通の限界と国民の識字率から、極めて高価な品目で金貨数百枚という書籍は実は多い。そうあっても内容が怪し気であることも多く、記述内容の情報としての価値の他に美術品と同じような意味価値を持っていて、マジンの学志館の論文のような、極めてほぼ文字のみが並ぶような書籍は経文宗教書魔道書並に扱われることも多い。
書籍の代金が金貨千枚を超えるとなると流石に高価ではあったが、求める人々もそういうものだ、とわきまえていることも多いから、多くの人々に薄笑いの対象になることはあっても数寄者や好学の徒或いは衒学趣味の高級な必需品であり先物取引の対象でもある。
そういう時価と付加価値の付く高価な品であるから、故買目的で狙われることも多い。
「それって笑っていいことなんですか」
気の毒そうにショアトアが尋ねた。
「十五万タレル払って新しいの買ったら、そこに自分の文字で注釈の書き込みがあって書籍泥棒の一味に懸賞をかけたら、あちこちのお城の図書館長が捕まって大騒ぎですよ。で、あちこちの図書館で書庫にあるはずの稀覯本を調べてみると、全然少なくてあちこちで共有して書庫を探していると称して貸し出したり持ちだした本を取り返したりしていたという」
ショアトアに構わずマリールが笑いながら続けた。
「学校関係者としては笑えないなぁ」
「我が君の論文くらいの厚さの書籍になっちゃうと写本するって云ってもひとつきやそこらでできるものじゃないですからね」
「セメエ。論文再版の予定っていつになってたっけ」
「来月には案内の返事を取りまとめて部数を決めて、夏の講演会に間に合わせる予定です」
「十かそこら自由になるよな」
「いくらかは余る予定です。二百にならないようにはしてますけど、連絡の怪しい相手様もあるので」
「二十七万タレルはいくらなんでも気の毒だろう。デカートでなら千冊も買えるぞ。百冊差し上げたいがそんなにあっても邪魔だろうしな」
大量印刷大量製本の技術はローゼンヘン工業の社員教育を支えていた。本社社員の少なくない数が新型の印刷機や製本機の臨時運転員として、教本印刷に携わっていた。
おかげで論文資料作成の度にローゼンヘン館総出で紙を折ったり、まとめてのりを付けて製本したりという作業をしなくても良くなった。
型落ちの機械は市井に流れ、ローゼンヘン工業が製紙を事業に加えた時のような衝撃をデカートの様々に引き起こしていた。
「ああ。でも、百冊あっても困らないと思います」
マリールが云いたいことを察したように気楽に言った。
「そんな運ぶのが骨だろ。帰りはどう考えてるんだ。ギゼンヌまでは鉄道でいいとして」
いつものことながら距離感の狂ったマリールの言葉にマジンは呆れて云う。
「それより、いつまで置いておく気なの」
リザが不思議そうに改めた。
「さあ。たぶん、お屋敷がよろしいだけって感じじゃないかと」
「それでいいのか。御役目とかは」
「その御役目が定かならざる方々なので、身分もないような有様ですから」
マリールはそれでわかるだろうと云うように言った。
「それはまぁまたアレだが、俸禄がなくて身分がないということなら、ウチの社員格で預かってもいいが、それだと兄上は困るのかな。まぁなんというか、資料館の展示物くらいでもまじめに頭に入れようと思ったら一年二年じゃなかなか忙しいと思うんだが」
「お家がなくなった騎士の繋累の方々が多いので、細かなところは兄に聞いてみないとわかりませんが、立場があるわけでも身の証があるわけでもない、由来は知っていても身寄りのない人々ということなので、その辺りはそれぞれということかなと。帝国とはもう何千年だか戦っていることになっていますが、そうそうまじめに戦っているわけでもないので博士の何十人だかで揺らぐようならそれは逆の意味で心配です」
「単に各々の扶持の問題であれば、我が家預りではなく、会社の社員ということであれば、今年も二万くらいも人を雇う気はあるが、仕事はまぁ会社任せということになる。……クライ。社員募集の書類ってステアに積んでいたっけか」
「鉄道部のは確かありましたが、本社の方はどうだったか」
「条件はなにか違うんですか」
ショアトアが尋ねた。
「鉄道部は転勤はあるけど鉄道部内の異動しかないんだ。本社はまぁいろいろに変わることがある。缶詰工場とか屠殺場も本社管理だしさ、自動車とか電話がいいなぁって思って本社入っても家畜の解体現場とか山林で鉄塔に登らされたり浚渫船で船酔いすることもある。多少手当はいいんだが、思ったのと違う仕事っていうことも多い。本社人員は基本応援で回されるんだが、腰掛けのつもりで問題起こしたり、短い話が二年くらいになったりとか。バルデンの油井とか仕事が順調ならひなたぼっこして魚釣りするくらいしかない土地だからね。覚悟していても腐るよ」
「そういえばバルデンの話はなんか面倒になってるんじゃないの」
「オニート族だろう。バルデンの緑化実験がうまくいってるんだが、土地を返せと言ってきた。ラクダに草を食ませてやるくらいは構わないんだが、いろいろ難癖もつけている。こっちで色々云うのも面倒なんだが、軽くあの辺で兵隊の訓練をさせるくらいがいいかもしれない」
「警備部ってことかしら」
「本当は共和国軍がいいんだが、あの辺に鉄道敷くつもりがないわけでもないから、まぁそういうことになる。地質調査やって油井の準備しておかないと」
「あの辺、他にも石油出るのかしら」
「さぁ。正直わからないけど、水脈で油層がかき回されていないところのほうが作業はしやすいから、水の便の悪いところのほうが探しやすいと思うんだ」
「それなのに緑化するのって、いいのかしら」
「ついでに人手をかけて水を撒いているだけだ。百年千年もやって森が自立するようになれば話は別だが、三年五年で砂地が緑になったからって手を止めて家畜を入れれば半年で元の砂沙漠に逆戻りさ。土地に執着のない連中はそれでいいのか知らんが、こちとら土地を治める領主様だからね。ちょっとばかり手を考える必要がある」
「なんか、宛はあるの」
「一番いいのは連中を雇用して定住させることなんだが、あのへんはマトモな農耕文化がないんだ。それで財産や所有の概念がひどく曖昧で、婚姻や血縁という感覚も殆ど無い。他人なんかラクダや羊と一緒さ」
「それでよく社会が成り立つわね」
共和国の中には非常に尖った少数部族というべき亜人種が数多く共和国領域内に棲息しているが、オニート族もそういう国家という組織の概念の薄い人々の集団である。
亜人種が類人猿であるか人類であるかという線引は生物学的な未成熟から混乱して、しばしば骨相学や型示魔術のような伝承や占いに結びついていたし、そういうものがしばしば偏見や迷信をも生み出していた。
「まぁそのへんは文化というか、人間の本能というか、群れを保つ動物の本能というか、集団の中と外、身内と他人という概念はあるから、部族間の紛争が起こるし、取引も成立する。その程度には言葉も通じるし、オニート族も自分たちの言葉で会話をして社会を成立させているよ」
「獣の群れより少しマシって感じなのかしら」
「狼の群れとか渡り鳥みたいなのも、人里に近づいたら悪さするってわけじゃないから、マシかどうかはアレだけど、そういうことだろう」
もちろん枯れ果てた砂野原の着の身着のままの暮らしを続ける民草に何かを求めるほどに共和国も窮乏していなかったからおよそ没交渉だったが、地域地方では時たま問題になったりすることがないわけではない。
「でも取引できるならいいんじゃないの」
「そういう連中が部族の主流派、主導的立場ならな」
「ああ。そういうこと」
生物学的解剖学的な器質とは別に亜人種と呼ばれる基準の一つに言語での会話と交流が可能であることという定義があって、オニート族もかろうじて言語で交流ができるが、話のわかる人間が共和国語に通じているかは怪しい。共和国が協定での国民の扱いに男女差を認めていないことの理由の多くは広大な土地に人手が足りないというものだが、それ以上に男女の優位を土地の風習以上に認めると通商と軍事を重視する共和国の協定が求める国土の自由な往来の妨げになるからだった。
「いろいろ騒ぎは面倒だったけど、ここくらい文明的で家長が開明的な封建部族社会は正直助かるよ。開明的ってのが余所者にとって面倒が少ないって程度の意味の言葉であるのは間違いないんだが、文明的で商業的であってもワイルみたいな騒ぎになっちゃう封建部族社会もあるからね」
「そういえば、ワイルはどうなったの」
「どうもない。オアシスの部族会議にも出席していないし、ワイルのギルドとも直接公式のやり取りはない。金や人のやり取りも祭りの類も特にはない。ただ、こっちの拠点が駅だからなんとなく帯状に太い環状道路がワイルの南側に伸びていて、それを境にワイルと南ワイルッて感じで呼ばれている。警察権や打ち合いも北の端にペロドナー商会があって警備用の武装車両が幾らか控えているから、弾丸が飛び込んでこなければお互いおよそ知らんぷりしているし、むこうの手配書の人別は南側でもおこなっていて引き渡している。法的に明示された司法権はペロドナー商会にはないけど、警察権と治安責任はこの間、大議会の地方政務諮問会議で公式に承認を認められ求められた。鉄道運行施設周辺っていう曖昧な言い分だけど、共和国が仲介をしようと思い始めただけ前進した感じではある。それに話がややこしくなったら、ワイルを引き上げても良くするための準備もしてはいるんだ。ワイルを通っているのは、戦争の兵站にさっさとテコ入れしたかったからだけだから、ラギから南側に折れていってダリエルを経由するという計画もすでにある。商業的にはミョルナと南街道をつなげることは軍都につなげることよりもよほど意義深い」
「気になったんだけど、仮に本社にここの人たちを送り込むとそう云う面倒くさいところに回されるのかもしれないのよね」
「一応一年目でそう云うところに回されることはないようになってはいる。二年目からは色々だからなんとも言えないけど、警備部は本人の適性っていうか希望もあるから、どこでもいい、って本人が言って、住居の希望聞いて、適性訓練抜けないと配置されない」
「色々聞いているのね」
「職場が幅広くなったからね。部内旬報とか社内旬報で定期的に配置募集とか資格募集とかやり始めたけど、正直まだ手探りだ。単に金がいいとか、仕事のやり甲斐がとかだけじゃ身体が追いつかない職場も増えてきたんだ。バルデンみたいな果てしない砂浜みたいなところとか、エンドアみたいな緑の蒸し風呂みたいな土地とか。平気な連中は本当に全然平気なんだけど、ダメな連中はヤル気があっても本当に保たないからね。屋内作業ならそれでもなんとかなるけど、警備部ばかりは本当に危ないからさ。屋外工事作業も似たような感じで色々大変なんだが、そっちはもうちょっと余裕があるっていうか、計画が立てやすい」
「バルデンとかエンドアってお屋敷にいた女の人も幾人かゆかれているんじゃないでしたっけ」
そういえばというようにマリールが口にした。
「行ってるよ。うちの別荘があるから、春風荘のマイラみたいな感じで住んでもらってる。バルデンは周りに家もないから、騒ぎから離れてのんびり過ごすのに良い土地だと思ったんだけどね」
バルデンにある施設の管理を名目に五十人ほどの女達を置いていたが、家政婦とか施設の管理というよりは療養のために落ち着いたところで子供から離れて過ごさせるために置いている一種の修道院のような施設だった。もちろんそういう疲れきった女達だけでは立ちゆかないので幾人かついていってもいるが、会社の施設やいわゆる別荘とは少し違う。
自動車工場設備並みの大柄な設備ではあるものの構造そのものは簡素で人の手は殆どかからず、大柄な設備の常として問題が起きれば現地の人員資材だけではどうしても手が足りないことになるから、別荘というほど気楽なものではなかったし、生産設備という字面には似合わないのんびりとしたものだったが、保守点検と称する歩哨仕事があった。人気のない砂漠のことであったので、つまりそれは砂沙漠を散歩して日々過ごすということであった。
カシウス湖の浄水装置のパイロットプラントとして海水製塩淡水化施設が稼働していて、油井に隣接した石油化学プラントの余剰でオアシスめいたものを作っていた。
それはワイルにある鉄道で水を運んできた溜池とは全く違って、採算という面において石油が枯渇するまでほぼ無尽蔵に稼働する。
別荘と称しているのはその水を使って施設周辺に花を咲かせることを求めたことが、およそ日々の有閑を持て余さないための労務として家長としてマジンが求めたことであって、そういう風に使わないと海に戻すくらいしか使いみちのない真水を作れるくらいにはパイロットプラントは順調だった。
エンドアの施設はだいぶ本気で働く気になっている連中が行っている施設でふたつきずらしで年間八ヶ月を限度にふたつき休み無しの収容所管理業務の支援をおこなっている。
基本的には捕虜相手の窓口業務で役場や銀行に近い業務なのだが、帝国の言葉も共和国と一緒で方言が割とあって、両国の軍人経験者は共和国語も帝国語もだいたいそこそこ分かるのだが、大多数の植民者は自分の地域の方言しか話せなかったり、或いはそういう振りで誤魔化したりということも多く、面倒くさい事態も引き起こされている。
基本的には語彙と発音のクセということに集約されるのだが、語彙の意図するニュアンスがどの辺にあるのかということで、帝国の地方人同士の会話が成立したりしなかったり、ということが頻繁に起きている。
言葉を使った意思疎通の困難、と云えば薄笑いをするしかないような事件が頻繁に起きていて、ケヴェビッチは労務者の管理業務の一環として鎮圧ではなく整理誘導を労務者自身におこなわせていた。その支援業務にローゼンヘン館にいた帝国語に堪能な女性たちの協力を求めた。およそ二百五十名を現地にそのうち百人ほどを現場に置くことで、人心が臨界に達する前に手を打つ、というのがケヴェビッチの仕事で警察署長と云うよりは市長とか代官という職の方がやや近い。
共和国軍に出征しなかった女達の中にもそろそろ子供が人間らしくしゃべるようになり始めて屋敷に篭っているのも飽きてきた者達がいて、自らの意気を試したいという者達がちょっと難しい職場に志願した。
強面の男性と落ち着いた女性というものの価値は論理的に説明することは難しいほどの国籍を超越した普遍的価値を持っていたから、ナセーム所長も感謝を口にしていた。
自ら身の証を立てる姿勢には正直かなり助かっている。
「砂漠が病気少ないって本当なんですかね」
「どうだろう。乾燥しすぎててカビが生えないってのは本当だけど、病気が少ないかどうかはよくわからないな。でも、水を撒いた脇から乾くような土地だから日陰は涼しいってナーケンやワロウは手紙で言っていた。色々花が咲いているらしい。日当たりが良いからうまく日陰と水場を作ってやると、季節を無視した組み合わせで花が咲くみたいだよ」
「ふたりとも手紙を書いたんですか」
驚いたようにコワエが聞き返した。
「水だけあれば過ごしやすい土地だって書いてた。ワロウの方はジェヨルの代筆だったが、多少笑えるようになったってジェヨルが書いてよこした。どんな様子か気になるが、見に行って元の木阿弥じゃしょうがないし、急ぎの用もないからゴロゴロと寝て過ごせと返事は出してある」
「男嫌いの人たちね。自分の子供でもダメってのは気の毒よね」
「嫌いっていうか怖いんだろう。人の善悪なんて顔に刺青入れたり胸や背中に札付けて歩いているようじゃ社会も成り立たないんだが、とりあえず男は敵って決め打ちしないと生活が出来ないってのは気の毒な話だ」
「そんな状態でよく連れてこれたものね」
「市場に引っ張られる家畜みたいな感じで付いてきたんだろう。ウチ来てしばらくも炊事や掃除もできていたんだがね。腹が目立ってふくらんだあたりからおかしくなった」
「女の妊娠なんて兵隊の鼻にウジが湧くようなものだ、って笑って言ってる女の兵隊も多いけど、笑い話で収まらなくなったのね」
リザの言葉は兵站の都合で男女を共に前線に立たせている共和国軍にとって、必然といえる事態であり、面倒も害悪も当然に多い日常的な事件だった。
「そんなんでよくも戦争ができてるな」
「女は徴兵しないことになっているんだけど、下士官や士官はまだ全然手当が足りなくて女だらけの部隊は多いわよ。前線で徴募された部隊とか兵隊の奥さんたちが殺された旦那の代わりに機関小銃握って怒鳴りまくって走り回ってたりするし。そうでなかったら、お屋敷からあんなにざっくりお女中引っ張って兵隊にするなんて、いくら勝手も分からずでっち上げた新設部隊だからって、できるわけないじゃない」
「そんなんで大丈夫なのか」
「なにを心配しているのかよくわからないんだけど、強姦騒ぎは上官殺しと同じくらいしか起きてないわよ。前線の聯隊でもせいぜい月に一回か二回。年に十回も騒ぎになることはまずないわ。妊娠やら流産やらは部隊本部としては面倒だけど、配置転換をする事由としては割と認められているものだから、よっぽどヤル気の陣地以外では問責をすることもないわね」
リザの言葉は聞き捨てならないものだった。
「ちょっと待て。上官殺しってだいぶ減ったって聞いたんだが、毎年十人近く聯隊で死んでるのか。聯隊ってたしか四五千くらいの組織だろう」
「五千よりはだいぶ多いのが普通だけど。戦争からこっち、わからないように殺されてるだけかもしれないけど、兵隊の叛乱はだいぶ減ったわよ。なにを心配しているのかよくわからないけど、前線の若い中尉大尉の死亡事由の幾らかは兵隊の叛乱よ。まぁ叛乱って云うほど組織立っているわけじゃないけど」
リザとの感覚の違いにマジンは言葉を探す。
「その若い中尉大尉ってのがどれくらいいるんだ」
「きちんとした人数はそりゃわからないけど、小隊の管理に一人か二人。直接隊長として現場にいたり参謀として本部にいたりだけど、まぁそんなもんかしら。少尉はその倍くらい。こっちは大方現場にいるわね」
かなり想像通りの数字だったのでリザとの感覚の違いにマジンは一息ついた。
「聯隊に小隊ってのはいくつあるんだ」
「まぁ大雑把に百幾らかってところかしら。鉄砲と縁のないようなのとか名前だけしかないような小隊もあるけど」
「そうすると、オマエはいま、二百人くらいのうちが毎年十人くらい部下に殺されている、って言ってるんだが、それが割とどうでもいいことのように云ってるんだが、わかっているか」
リザの言葉にかぶせるようにマジンは口を開いた。
「まぁ、大体そうね」
あっさりと返したリザに一瞬マジンはため息をついて言葉を探った。
「そんな職場にアルジェンやアウルムを放り込むって知っていたら、軍学校になんか送り込まなかったよ」
「ん。ああ。そういうこと。あの子たちは平気よ」
「なんでそう言えるんだ」
「そんなの……ああ。うん。まぁ、兵隊の質と上官の質の問題よ」
リザは一蹴しかけ思い直したように説明を始めた。
「――基本的にうまくいっているところや忙しく働いているところで起きる事件じゃないわ。上手くいっていたところでも、激戦区から後方に下げられてぼんやりしているときに起きたりもするけど、自動車聯隊みたいな自分の仕事と他人の仕事が忙しくくっついているようなところでは、あまり起きない。
それにうちの兵隊は機械と付き合うことを覚えたからね。
自分が死んでも平気だけど置き換えが効きにくい高価な人材だって自覚もある。
幹部もそういう連中を使い捨てにしないことを心がけるようにしている。
自分たちの扱う装備の威力とその装備を扱うための日々の重要性を知っている。
鉄の塊をゴロゴロ転がして、グシャグシャに潰すような訓練をしたおかげで、自分たちがなにをしないでもちゃんと出来なきゃ死ぬし、道理のできてるうちは死なないって自覚があるから、真面目ってわけじゃないけどシャンとしています。あんな訓練がこの先もできるとは思わないけど、あの旅団に限っては上官殺しは当分殆ど心配ないわ。
適性のない士官下士官はアタシとファラとで弾いた。まぁアタシの言い分をラジコル准将とホイペット大佐が呑んだってことなんだけど、ファラが事故で殺しかねないしね」
リザは大雑把にだが、言葉を選ぶように順序立てて説明した。
「そんなんで大丈夫なのか。ファラリエラは」
ファラリエラはふわふわとした花のような笑顔とは真逆に極めて内面の規律に厳しい面があって、その琴線が非常に感度の高い爆薬じみたところがある。
共和国軍のひどく血圧の低い規律やそうせざるを得ない体制を考えれば、彼女に向いた組織とは思えない。
「一般現場向きってわけじゃないけど、自動車旅団の立ち上げには役立ってくれた。私一人じゃ道具立てまでってところで止まってたと思うけど、階段参謀連中には良い手本になってくれたわ。おかげで古参の幕僚たちは扱いに困ってたみたいだけど、機械は正論を好むって現場に染み込めば、ファラの仕事は一旦オシマイでもいいのよ」
「ボクの知っているファラリエラはそういうお硬い人間じゃなかったような気がするんだが」
リザがどこのどんなファラリエラの話をしているのか、マジンには今ひとつ実感がなかった。
「別に、今もお硬い人間じゃないわよ。ただ、押え方が上手くなって理詰めでガーッとやるようになったから、理屈っぽくて生意気だってだけよ。前はやりたいことのやり方がわからなかったみたいだけど、アナタのところで工房のおじいちゃん達や若い子に色々教わってるうちに、なんかそれっぽくなったのね。知識は付け焼き刃だけど、あれで体力と度胸はあるから、指がなくならない程度に運任せで色々やってまぁそこそこってところみたいよ。最後の方は兵隊の面倒見ている下士官連中にはアタシよりも話の通りが早いって事になってたわ。大した怪我もなく三十前に少佐殿になったら戦時下でもチョッパヤの昇進よ。アタシが云うのもなんだけどね」
考えてみれば、ファラリエラが工房の年寄り連中にどやしつけられていたのは十代から二十代への移り変わりの子供が大人になる時期だった。
少年期の最後を、戦争劈頭の無残な敗走という現実で幕を閉じた少女としてのファラリエラが、先輩のちょっとした火遊びに付き合わされた結果として、妊娠を経てこじらせたのは自動車趣味という十年前には誰もが理解し得ないオトナの遊びだった。
非力な女性でもおよそ文字通りに人の千倍の力をふるう千人力の鉄の猛獣を操る、という自動車運転を殆ど直感として理解したファラリエラは、当然に先達のいない機械の限界操作という領分に踏み込んでいた。
それはもちろん自動車乗りであれば、操作手引書はあくまで機械の機能についてのみで、それすらも工房から乗り出しであるから怪しいわけだが、そういう機械について特段に恐れもなく幾度か服をひっちゃぶき、あちこちに向う傷を付け、自動車を自走できない状態にし、或いはどこぞの納屋を壊し、という傍迷惑な実験と訓練を積み上げた結果として身に付ける感覚や作法であった。
自動車は最初から生き物にはありえない出力と速度域を限界としている機械だったから、マジンは相応に運転用の防具を準備していたが、ローゼンヘン館の敷地であったり鉄道の保線区以外の道の状態は自動車の出力速度域には全く向かない構造をしている。
くしゃみをしている間に十数キュビット空を飛んでいるなどということはよくあることで、それが水平にであるか垂直であるかもしばしば疑わしい。そういう道のほうが共和国では普通であった。
軽自動車や二輪自動車或いは原付自転車であれば、ひっくり返っても運転手一人で起こせるわけだが、その他の乗用車や貨物車では他の自動車が近くにいなければ馬の力では無理で牛を数頭使う必要があるし、同じように戦車もときたまひっくり返る。自動車の工具箱にはジャッキがふたつ入ってはいるが、それが一つでない理由や使い方に思い至る運転手は少ない。
ファラリエラも出掛けて毎回転げるわけではなかったが、無謀と挑戦の間の実験を実践としている回数は間違いなくマジンより多く、おそらくは共和国で最も多く遠く自動車で空を飛び、最も多彩な事故を体験している。荒野の途上で人が死ぬのはアタリマエのことであるから、幸いさした問題になってはいないが、幾度かは人や家畜を殺している。
自動車を運転する人間のほうが軍においてもまだまだ少数派であったから、そう云った感覚は全く理解不能な状況だし、自動車旅団が編成されそこに所属することになった幕僚たちも同様であったが、それでは部隊が立ちゆかず、最低でも原付自転車を所有することを求められた。
そう云う中でファラリエラは事実上の実技教官であったから、全く極自然に階級にかかわりなく訓練生たちのプライドを打ち砕いていた。
渡河を含む地形で騎兵の突撃や強行軍でかつては鳴らした地図参謀との伝令競技で圧勝した上でのことだったから、戦車を扱う運転手にとっては当然に導師というべき先達だったし、各車両の車長も運転手もファラリエラが危険といえばおよそ諦め、可能といえば知恵を絞る基準にしていた。
そう云う階級や職掌を飛び越えた礼賛は軍隊においては好ましいものではなく、一部の参謀が凹まされたなどというような事件そのものは割と些細ではあったが、重大なことでもあって、当然の必要としてファラリエラが旅団で果たした役割こそが旅団を精強にしたが、彼女の旅団における任期を短くもした。
全くよくあること、という一言で片付ける他には手のない仕儀で、凹まされた参謀のほうが後に気を使うような有様だったが、ともかく新規兵科新設部隊の立ち上げという困難事業においては、全くよくあることであった。
だがもちろん、栄光ある共和国軍は扱いにくいの一言で実績ある英雄を放り出すような組織ではない。
かくして誰の目にも大勝利という強烈な戦果を手土産にレンゾ大尉は少佐に昇進し、ゴルデベルグ中佐が無事存命であれば期待されていた自動車旅団の内情を手土産に軍令本部軍務課主計室に配置されることになった。
ストレイク大佐はゴルデベルグ准将の活躍を通して腕の良い猛獣使いとしての評価を定められていて、扱いにくさに関してはゴルデベルグ准将を上回るやもと目されるレンゾ少佐を預かることになった。
もちろんレンゾ少佐が活躍すればストレイク大佐は将軍になるし、彼女が大きく失態をすれば既に年齢的には配置任期更新のないストレイク大佐は昇進なく待役ということになる。
それはストレイク大佐にとってはゴルデベルグ准将の戦死によって、今次の戦争の戦闘局面での決着がつき、強力な振り駒を失った大佐がある意味で予想していた本部長からの肩叩きが、全く別の意味を持ったことを意味する。
戦争が大まかには集結したとかんがえられる折、ストレイク大佐の昇進はそもそも殆ど有り得そうもない事態だったし、一定の成果を上げている官僚が昇進とはいえ配置転換を軽々に望むような組織では組織の機能が疑われる。
今以上に昇進することに引退が見える時期まではこだわりもなかったが、年のいった娘の様な年齢のゴルデベルグ准将の妹分が転がり込んできたことで、ストレイク大佐はまだもう少し働くか、という気分に入れ替えていた。
退営のその日に准将に昇進してラッパで送られるのも悪くはないが、どうせなら将軍として部下を何人か昇進させる辞令に署名をしたいものだとストレイク大佐は考えていた。
ファラリエラが軍令本部に転属になってからまだ四半年も経っていないが、彼女の使っている乗用車は早くも二度目の修理依頼が軍都の自動車部に届いていた。
基本的にセミモノコックの車体はシャシーフレームに歪みがこなければ修理が容易であるから、大騒ぎするような事故でなければ問題もないのだが、一回はリアサスペンションを支えるサブフレームを交換するような事態になっている。斜めに後ろから落ちたか、車体が落ちた先に段差があるようなところだったのか、いずれにせよ数キュビットは間違いなく落下していて、どこから落ちたかどこへ落ちたかが気になるところではあったが、キャビンをぶち抜くような事故にはなっていないし、ある意味でサブフレームひとつが壊れただけでなんとかなったから自走して修理に持ち込んだとも云える。
元来四輪駆動の後輪をファラリエラは現場の応急処置で駆動しないようにして自走して修理の場に持ち込んでいた。
サブフレームが歪んだ自動車、ということは四輪独立懸架であっても車軸も歪んでいる自動車で荒野を何リーグもダラダラと走るのは正直ゾッとしない話だが、ともかくステアリング操作はできる状態だったらしい。ことによればシャシーフレームのモノコックを補強するためのサブフレームを整備のために取り外すことが難しいほどに歪が来ていたかもしれない。
そう云う所業を知っているマジンからすると、理屈っぽいというよりは無謀に荒っぽいわけだが、自分の評価が世界の評価というわけでないことはマジンもよくわかっていた。
「ファラの話はどうでもいいんです。私の話しましょうよ。せっかく私の郷に来ているんですよ」
「アンタの話なんてなにすればいいのよ。アナタが如何にバカで人様に迷惑ばっかり掛けてるかってことを説教すればいいのかしら」
「そんなわけないじゃないですか。私が如何に有能な軍人で内助の功に優れた夫人かってことを讃えましょうよ」
「外に出して子供産んだら落ち着くかと思ったら、あんまりおてんばの子供のままなのでおじいさまが嘆いてらっしゃったわよ」
「女は元気な方がつよい子が育つってお祖父様、おっしゃってくださいましたよ」
「そりゃ、アナタには期待していないってことじゃないの」
「女は子供の価値が母の価値で、上乗せされますからね。自分のことより子供ですよ。やっぱこれからは毎年ガッツリ子供作っていかないとですよ」
リザの皮肉なぞどこ吹く風でマリールは勝手なことを云って盛り上がっていた。
「なにバカなこと云ってるのよ」
「バカなことじゃありませんよ。毎年百人子供を産めば十年で千人ですよ。お屋敷に千人も女性がいるなら、あっという間に大隊どころか旅団が編成できますよ」
「二十年があっという間だって云うなら、そっちの方が、あぁあぁ、って嘆きたくなるわよ」
「別に歩兵聯隊に機械化大隊ちょこっと付けて軽旅団でいいじゃないですか」
「そんなのだって五六千とかってバッカじゃないの」
「でも、うちの母とかそれぐらい子供作れる男はいいなって云ってましたよ。女は頑張っても二十人が関の山ですからね」
「……それでアナタのお父さんは子供何人いるの」
「十五人ですよ」
「アナタはまずお父さんになんで弟と妹が五十人いないのか聞きなさい」
「忙しくて疲れているときは女の裸を見ると寝ちゃうんだって言ってました」
「お母さんはなんだって」
「妊娠していると月の障がなくて楽だけど、おっぱいがパンパンになって不意に漏れるのが困るって言ってました」
「……随分とはっきりした答えね」
「まぁ確かにアーシュラの時、ずいぶん早く漏れだして驚きましたけどね。でも毎年子供がたくさん生まれるならおっぱいは多いほうがいいですし、ある程度妊婦はまとまっていたほうが子育て楽ですよ」
「それはまぁそうかもだけど、別段一人の男じゃなくてもいいじゃないの」
「それは、アレですよ。ぷれみあむな感動に欠けますよ」
「どういうプレミアが付くって云うのよ」
「アレですよ。出産予定日がこううまい具合にズレているとか、想像と違って日にちが早くて、一体どこのタネだったのかなぁ。うわ、まさか指で妊娠してたのかしらっとかそういう想像がお楽しみなわけですよ」
「嫌な想像巡らせるわね」
「別段、発生学の上ではタマゴとタネがあれば他は関係ないですからね。我が君のお股拭ったシーツでお股こすってたら妊娠するかもしれないわけですよ」
「アナタねぇ。ショアトアが困った顔してるでしょ」
「むぅ。ダシに使わないでください」
「……。あのな。マリール。別段、ウチにいる女達はボクの子供を産んだってわけじゃないんだぞ」
「むう。我が君。実につまらない。そんな平凡軟弱なことを言ってはいけません。ここからは子供を産まなくなった女は追い出すくらいの勢いでいたほうが良いです。毎年百人子供が増えれば、あっという間に千人ですよ。まぁたしかに私も五十過ぎて子供産む元気があるかどうかは自信ないですけど、試すくらいはしたいですし、むしろやりますよ」
「まぁ、婿探しは真面目に考えることにするよ。男がいないといけないってこともないんだが、人数いないと畑仕事はしにくいし、愚痴を言うべき相手というのが定まっている方がいいだろう」
「なんッったる軟弱っ。ああ、我が君ともあろう方がなんったる惰弱であることか。ここはひとまず、ああ、そうか。マリール、オマエの腹が膨らむまで何人の女にタネを仕込めるか試してみようか、くらい言っていただかなくてはなりません。そして私は知っているっ。私の腹にタネを仕込む前にしっぽり楽しんでいたことを。殴りあいしようかっていう汗の緊張感にいい感じの倦怠感を孕んだ今朝方つうか夜中の我が君は大変よろしかった。もうなんてか一刺しいただいただけで、ああこれはタネ付くなぁって感じでしたよ」
「アンタなに言ってるかわかってるの」
「わかってます。女の身体がその気になっていれば別段男が射精する必要はあんまないよって言ってるんです」
「……。それは。そうだとしても何か……。マリール姉様。……」
今度は流石に困惑した様子でショアトアが口を挟んだ。
「だから、男が苦労したくなくて子供を作ろうと思ったら女の尻を並べて精液を薄めた物をちょこっとスポイトか何かでつけてやればいいんですよ」
「うわ。マリール。アンタ最悪」
「なに言ってるんですか。お姉様。郷の女騎士の方々は奥様ともども割とやっていることですよ」
「ああ、マリール。仮にそう云う方法で種付けてオマエは嬉しいのか」
「本当に我が君の子宝授かるなら割と」
「そういうことなら酒場の二階で春ひさいでればいいんじゃないの」
「誰でもいいわけじゃないですよ。それなりの殿方でないと。子供のタネははっきり出ますからね。特に女の子は」
「マリールが言っていることはわかったよ。世の中には子供の欲しい女がいて良人とは別に由来のしっかりした発生学上のタネで交配した子供がほしいって話もあるってことなんだな」
「堅い言葉で云えばそんな感じですかね。でももうちょっと簡単な言葉で説明もできます」
「それはどういうことさ」
「我が君には子作りの才能があります」
ふんぞり返るような鼻息で自信満々に言ったマリールの言葉にマジンは戸惑う。
「そ、それは。身も蓋もない言い方だな」
「身体が健康な男女でも、どういうわけか子供が出来ない夫婦の組み合わせってのは色々あるわけですけど、女のカラダが準備ができていても男のタネが準備できないこともあるわけですよ。男のタネも何割かはタネ以外のモノも含んでいるようですし」
「そうなの」
「色々あるみたいです。雑菌を殺したり他の男のタネを殺したり女のカラダをその気にさせたり、というタネみたいなタネの働きができないモノもあるらしくて、そういうのが多すぎる男のタネは相対的に薄くなるようですよ。タネ自体が共食いのような性質を発揮することもあるようですし。人の女は普通は猫とか犬みたいにいっぱい子供を産めるような作りってわけじゃないですからね」
「なんでそんなこと知ってるのよ。アンタ」
リザが疑うというよりも不審げに言った。
「それはわたくしお姫様ですから、他家に嫁いで実家に尽くすもよし、他家を富ますも佳しと幼いときに様々教えられてきましたから。正直共和国の実情はなんとも蛮地であることかと驚いてもおりましたが、考えてみれば牛馬に牽かせるか舟で風に任せるかしなければ庭先を幾らか出たところまで以上に歩くわけにもゆきませんし、我が城にしたところでデカートよりけして大きいというものでもありません。土地があってヒトがあっても出会いがあって学びがあるかというのとはまた別ですし、我が郷は帝国の脅しつけとその後の殴り合いとで勉強をする機会も資料も山のように残っているちょっとばかり不思議な土地ですからね。嫌味でもなんでもなく私、読み書き算盤のたぐいはお城の帳簿を読めるくらいまで仕込まれていましたし、正直軍学校の座学は退屈でした」
マリールの言葉を聞いてリザも流石に呆れて戸惑った。
「それなのに主席じゃなかったのね」
「それは今にして思えば仕方ありません。女で亜人で決闘の騒ぎ有名人ですから。お姉様も似たような理由でしょ。第一、学校の主席もらっても戦場の名誉に浴せるかはまた別ですし。本部参謀勤務じゃ、勲章もらうためには部下どころか同僚と上司にたくさん死んでいただかなくてはなりません」
「意外だな。昇進は興味が無いのに、勲章は興味が有るのか」
「昇進は配置と部下の日々の仕事じゃないですか。勲章は状況ですからね。家の者に説明するのが簡単ですよ。なんで昇進したのって説明するって云っても年次で繰り上がりとか、上の人が死んだとか、そういうのじゃ説明しても盛り上がらないですよ。むしろ上官ぶん殴って営倉に入っている間に昇進がなくなった話のほうが我が家では盛り上がりましたよ」
マリールは思い出すように不気味な笑いをこぼした。
「その程度で済んでよかったな」
「魔導連絡で自失中の部下に淫行を働くってのは、あちこちの連絡本部ではたまにあるんです。でもまぁ目の前で見ると流石に醜悪ですからね。思わずぶん殴っちゃいました」
ヘラっと軽口のように言ったマリールの言葉にマジンは呆れる。
「そんなのでも罪になるのか。昇進が無くなったって逆恨みじゃないのか」
「まぁその件は相手がもともと札付きだったので大した問題じゃなかったんですが、後日街場で見かけることがあって、手口を吹聴していたのを思わずぶん殴っちゃったのが仇になりました」
「兵隊のダボラにいちいち付き合うんじゃないわよ。どうせなんとなく喧嘩がしたかっただけなんでしょ」
「まぁだいたいそんな感じですかね。あ、いや、正義の血が騒いだんです。なんかこう少年兵士を助けよ、とかそう云う感じで。まぁ連絡参謀なんで士官扱いですけど」
「うん、なんだ。ひょっとして淫行を働かれたのってのは男なのか。ってことは女性士官なのか」
「ああ。そういうこともありますけど、殴った相手は男性です。何なんでしょうね。男でも女でも大して差がないはずなのに、こうなんとも云えない憤りが脇の下あたりから拳まで一気に駆け抜けるあの感覚は。見なかったフリしようとしていたはずなのに、いい感じで体が動いちゃって一発ぶち込んじゃったんですよ。男二人の裸とか修練場の格闘訓練とかで割りと普通にあって、そういうムキ栗のじゃれ合いと大差ないはずなんですけどね」
どういう状況でそういうところに足を踏み込んだのか全く分からないが、男性同士のハッテン場に女性が踏み込むということは、マリールの気性を考えればおよそ間違いなく喧嘩の相手を探していてのことだろうと思われた。
「まぁ、分からなくはないわね。女の裸を目の前にしてこっちを品定めをしない男ってのは牛や馬と変わらないから気楽なんだけど、そういうのが男の裸を嬉しそうにしているのはなんか色々ムカつく」
「女は同性愛の男が好きなんだとばかり思っていた」
なんと言っていいのかわからないが、一応話の区切りを求めてマジンは口にしてみた。
「好きっていうか、面倒くさくないからいいわよ。相手の内心がどうなのか知らないけど、いちいち色恋の鞘当てに引き合いに出されることもないしね。ただ、管理上面倒くさいから同性愛者は男女関係なく現場では嫌われる傾向がある。皮肉なことだけど、繊細で有能だったりするからなおさら扱いが面倒だしね。
男女の友情って結局色恋に負けるし、職務上の関係もしばしば色恋には負けるわ。幕僚とか部隊長とかやってると他人の股ぐらの盛り具合で自分の部隊の人間関係がかき回されることがよくある。
そういう流れで云えば男と女は見分けがつくけど、同性愛は見分けがつきにくいから手に負えない事態になってから気がつくことがあるわ。相手が少ないから地下組織を作りがちだしね。そういう意味じゃ男女ともに同性愛は軍では管理上嫌われている。けど、同性愛が名目の理由で昇進が突っ返されることはないわね」
「そういう意味では我が君のお家は気楽ですね。肉欲の相剋で百花どころか千も塗り固めた後で、戦争大勝利の立役者の御台所様が、愛人で何の不満があるのか、と声高に喧伝しているわけですから」
「御台所様ってのはどっちかというとセントーラのことを言うんじゃないの」
「ああ。なるほど。あちらもミンス産んでるわけですし、まぁ私からすれば義姉上ってところですか。それでなんだかお姉様的にはなにやらモヤ付くわけですね」
「モヤ付くっていうか、現実、屋敷じゃ彼女が主みたいなものじゃない」
「それは違います。お家の主は我が君です。その我が君が定められたのならお姉様が館の主です。束ねる要がどれだけ強く優れていようと、要は扇ではありません。要が抜け落ちたら、扇はバラバラになりますが、大事に扱えば要の換えは利きます」
「私が扇だっていうの」
「やだなぁ。仰ぐ人ですよ。そんなにセントーラのことが気になるんですか」
「そりゃ気になるわよ。この人も云ったけど、会社のこと全部面倒見ているのあの人なんですからね。アタシが滅茶苦茶言って車両向けの工具の類を工場が一揃え準備できるほどにさせたのだって、結局セントーラのおかげで通ったようなものなんですからね。バラ玉の代わりにネジ釘が撃てるって言ってたけど、聞いたらあんな量、鉄道でも使い捨てにはしてないって言ってたわ」
「それはそうですよ。鉄道とか電話の工員は会社では徒弟扱いなのか知りませんが、特務士官というよりも出すとこ出せば博士様ですよ。多少その気になったって兵隊がそういう人たちと同じ仕事できるわけないじゃないですか。ウチにいる一番のバカでも仕事ができるようにするのが本部幕僚の仕事です。
馬に食わせる麦粒ほどもネジを準備させたのは、ファラの言い分丸呑みにしたからですけど、他所の輜重の兵隊の都合は知りませんが、ウチではアレのおかげで随分事故も減ってました。我が君にはその節はご疑念もあったこととは思いますが、おかげで大方の者が棺に入ることなく帰ってこれました。ってことでいいんじゃないんですか」
「そんなのこの人には説明したわよ」
「我が君にはご不満があるのですか」
「土嚢に使ったと聞いた時は怒鳴りもしたが、今となってはどうでもいいよ。事情も見当は付くしね」
「古ネジや丸抱えしていた使えない部品類を随分便利に使わせていただきました」
古ネジとあっさりとマリールは口にしたが、共和国の世間一般の常識基準で言えば足掛けでも五年しか経っていない戦車は新品と大差なく、それが自損以外で破壊を起こすような戦闘は経験していない。唯一の例外はリザール城塞を囮にした空城の計による被害だったが、マリールが古ネジとか使えない部品類といったのは世間的には叩いて穴を開けなおせばまだ使えるような資材で、実際鉄道駅まで持ち帰れば修理もできるかというような捨てるには惜しいが、現場では使いにくい高価な廃物であったから、作戦後様々に問題になったし、しかしまた、圧倒的な戦功で埋め潰された話題だった。
そういう高価な廃材の捨て所としてリザール城塞を選ぶのは仕方ないとして、それを実地で戦闘指揮できなかったラジコル大佐は後方で歯噛みしていた。
だが一方で、戦術指揮の様子を極めて明瞭に報告と魔導連絡を行なうアシュレイ大尉の戦術支援ぶりと合わせて、これまでの共和国の戦争とは全く別次元の様々を見せつけられる様子で、舞台の袖から敵味方の動きを眺める機会を得たことは却ってラジコル大佐の戦争技術者としての様々を刺激していた。
「ラジコル大佐が連名して出した鉄芯入りの土嚢についての考察論文は読んだよ。参謀本部から論文査読の協力要請の申し出があった。要は、重たく固くて引っかかりのある形のある芯材を入れた土嚢は並の土嚢よりも強く、石壁のように破片を飛び散らせないってことだが、そこはまぁ間違いじゃない。ただ、陣地築城のためにそんな風に鉄を使う余裕が今の共和国軍の兵站にあるのかって云うとかなり疑問だがね」
「ラジコル大佐、そんなの書いてたの」
「ミツカーレン少佐とかそんな名前の人だよ。多分」
「ああ、マイズガーレン少佐ね。厩務参謀の」
「そんなのの参謀もいるのか。馬もいないのに」
「本部の士官はだいたい参謀ってことになってるのよ。本部要員ッて感じの言葉よ。自分ところに馬はいなくても他所の馬の面倒を見ることもあるでしょ。部隊間の伝令の主力はまだしばらくは騎馬よ。部隊が馬を使わなくても長駆してくる伝令が単騎ってことはないから厩務参謀ってのは殴り合い向きじゃなくても気の利いた将校の仕事よ」
「その中で少し気になってたんだが、爆薬入りの土嚢なんか使っていたのか」
「それは帝国軍ね。樽に爆薬と瓦礫やネジ釘を突っ込んだものを攻め手のあちこちに置いておいて、邪魔だからどかそうとすると仕掛けで爆発したりする。ウチは戦車で押しのければいいから割と簡単だったけど、重機で同じことをやると人は無事でもあちこち壊されていたくらいには威力があるわね。中身は石塊が多いから、小銃で撃ったくらいじゃ爆発しないし、動かすとなると兵隊一人馬一頭ってわけにはゆかないくらいには重たい。種類があるのか出来がまばらなのかどかしてすぐに爆発するってわけじゃなくて、やれやれという時を見計らって爆発したりもする」
「アレ、割と単純な造りなのに、始末に負えないところがあって、結局爆発させてやるのが一番簡単だったりしますよね」
「話から察するところ、そういうのを土嚢で囲っちゃえば簡単じゃないのっていう話なのかしら」
「論文の大部分は雑でもそれなりに強度のある布で作った土嚢は一キュビットほどの厚みがあれば、敵味方の小銃を凌ぐに足りるもので、鉄やガラスを芯材に加えたものは石壁を上回る強靭性を持ち、積みやすさを考慮すれば急造のレンガよりも陣地の材料に向いているって感じの内容だったかな。芯材の条件なんかはもうちょっと細かく読んだり書いたりしないと意味もわからないけど、つまりセメントに砂利を入れることで強度を上げるというのと発想や理屈の上ではそれほど変わらないし、乾いた土より濡れて締まった土のほうが重たく硬い、というそう云う論文の内容だな。経験的に兵隊が運べる土嚢の寸法も書いているんだが、長いものや手鈎をかけられる耳があるといいって書いていたな」
「ラジコル大佐は元来陣地戦の専門の方で本業おろそかにする気はないってことなら結構ね」
「ラジコル大佐からの戦勝のご挨拶みたいな面もあるでしょうね。参謀本部が論文査読を外部に委託するのは珍しいことです」
「そうね。御用聞きの往復しかしないような参謀本部が軍需の買い付け先にわざわざお知らせするような内容じゃないわね。直接商品に関わっているわけじゃないし」
マリールがそれらしい推測を述べた。
「そうなのか」
「参謀本部ってのは謂わば戦争専門の学志館みたいな戦争関係の研究所よ。自分の知恵に自信を持っている連中が商売と関係ない話でご意見伺いなんかするもんですか」
「別段、外部の人を招聘するということがないわけではないですが、どっちかというとそれは他所の仕事を拝見する形ですから、今回のように成果の査読のみというのは珍しいですよ」
「そうなのか。詳しいのか」
「私しばらく大本営勤務でしたから。逓信院は参謀本部と割合交流が多いんです。もともと一つの組織でしたし、逓信院の研究方針にはかなり参謀本部が絡んでいます。私も幾度か研究協力に出向したことがあります」
「まぁ、参謀本部ってくらいだから、おおかたの参謀はどこにどれくらいかはともかく勤務したことがあるわよ。軍学校を出た生徒は、参謀本部で書架の掃除をして軍令本部の階段を走るのが仕事みたいなものね。そういう意味じゃアルジェンとアウルムはちょっと変わったキャリアで始まったわけ」
「魔導資格持ちだとそういう雑役は殆どありませんけど、軍学校で言われていたような華やかさとはだいぶ違う現実でしたわね」
「参謀本部は、ある意味で虚学を実学として売っている組織だからね。政治が実業なのか虚業なのかという論はさておいて、兵站本部とは違う意味で怪し気な碌でもなさを抱えている組織なのよ。軍令本部の部外秘なんてのは作戦の結果が出ちゃえばどうでも良くなるものだけど、参謀本部の部外秘は関係者が全員墓の中に入った後まで秘密にしないとならないようなものもあるわ」
「そういう具体例を知っているのか」
「クーデターや叛乱計画の研究ってのは割と定期的におこなわれている」
「図上演習とかでは割と題材にされますしね」
「そんなのなんかの役に立つのか。というより、役に立ったらまずいんじゃないのか」
そう云ったマジンの顔をリザは肩をすくめて薄笑いをしてみせた。
「世間の印象とは違って参謀はいわゆる軍師ではないから、将帥とは違ってできるだけ自由に、もう一歩云えば状況が可能な限り無責任な立場から最善最良の究極を求め示すのが仕事なのよ。だから、大抵連中の云うことをそのまま使えるわけはないんだけど、それでも優秀有能な参謀の掲題提言そのものは理想や指針には成り得るの。
ま、昔話が格言を含んでいたり、戯曲の描写が示唆に富んでいるのと同じね。
で、個々のテーマとしては技術的な体系化を目指した分野もあるの。そういう人たちの大きな仕事として、装備取扱手順要目やら訓練教典とか戦術操典や作戦要務令或いは戦争法令みたいな色々ある、現場で使えるんだか使えないんだかわからないヤツをできるだけ信頼できる形で編纂して、時事に応じて改定することがあるんだけど、まぁ火の起こし方や蛇の捌き方やらから、星の位置やら太陽高度やらで位置を測ったり、かと思えば兵隊の徴募の仕方や部下の戦死を遺族に伝える手順や手紙の文例なんかも研究している。
ただ、色々やっているのは間違いなくて、内容そのものも読んだり聞いたりすればなかなか使えるものも多いのだけど、内容全てを兵隊に教えることは出来ないし、文書化はされていてもそれを閲覧する機会は殆ど無い。
私も閲覧できたのは妊娠や流産で事実上の禁足を食らって、資料整理作業のついでに興味の範囲で勉強していたからね。
まぁ当然どれも軍機ってやつで段階やグレードがいろいろ色分けされてて一言ではいえないけど、面倒くさいから軍機って言葉で便利に口を封じるわけなのよ」
「参謀本部勤務の参謀の言葉は全て軍機なので、彼らの言葉は聞かなかったことにする。ってのが兵隊の笑い話というか処世術の基本ですよね」
「直属の上官以外は大元帥の家の犬くらいに考えておけって軍令本部では云ってたわ。ある意味正しいと思う。大本営の中で中尉や大尉なんて伝書鳩だし、中佐や少佐なんてせいぜい時計番くらいの意味しかないわ。部屋持ちになってようやくだけど、それだって大方の大佐にとっては座敷牢みたいなものだし、殆どの将軍様だって奥様が怖いから仕事にかこつけて避難しているだけでしょう」
「なんか、酷い言い様だな」
「大本営なんて地方のあちこちを取り回している部隊や連絡室に比べれば建物は大きいけどやっていることはあんまり変わらないし、今の現場のことを知らない無能も大所帯だからいっぱいいる。現場を離れた幹部将校なんてあっという間に老いて朽ちるからね。
でも、ここしばらくの電話と鉄道それからそれを維持するための様々の波及で色々状況が変わってきた。特に大きいのは製紙が格段に安くなったことね。そのせいで書類のやり取りが細やかになった。口頭一番見せるだけみたいな命令書の使い方をしなくなったから、白紙の命令書箋を高々と掲げて虎の威を借りることは殆ど通用しなくなっている。デカートとか一部の商会でやっているような簡素な写真謄写での複写をおこなうことは軍ではやっていないけど、回覧されてきた命令書が付箋で重くなって書類行嚢に入りきらないようなことは起こらなくなってきた。
なにを言っているか整理が必要なら、十万人の大世帯でもただの寄り合いだから、皆自分の仕事をしていて、互いに身内ってほど親密でもないってだけよ。だけど、紙と電話が手早く普及したことで、仕事の付き合いの範囲がおどろくほど急激に広がっている」
「いいことみたいに聞こえるな」
「まぁ、元気があるうちはいいけど、大本営の建物のことを考えればあそこで生活することは出来ないし、電話と命令便箋が自由になるなら職場がどこでもいいとなれば、将軍様は気楽な稼業になるわけよ」
「悪いことなのか」
「将軍様にとっては悪いことはないわよ」
「含みのある言い方だな」
「そのうち問題になると思うけど、ならないかもしれない。現場に出ない社主が問題なく会社を回している例もある」
「我が君にはセントーラやロゼッタがおりますし、代替わりもしていないからなんとも言えないと思いますよ」
「ボクの仕事態度がよろしくないと言っているのか」
「そうは言っていないわ。でも誰もができる仕事の進め方ではないし、将軍と呼ばれる職責職掌にある人々も得手不得手があるちょっとした運命に選ばれた普通の人よ。閣下なんて呼ばれる栄誉も幸運かどうかも本当は怪しい。というか、そういう自分の軍歴を自分の才能や幸運だなんて無邪気に誇って喜ぶような人物は将軍には向かない人物よ」
「オマエの世界観は時々ひどく厳しいものになるな」
「世界観なんか知ったことですか。ともかくね。アナタがまとめて作ってよこした機械のおかげで大本営の将校たちは神の視座を手に入れたような気分になっているでしょうけど、そのうち大火傷をすることになるわ」
「おまえが前線で調子に乗って働き過ぎたみたいなことがそこらじゅうで起きるってことかな」
皮肉と言うつもりは全く無かったのだが、そういう風にさえ取れる言葉にリザはピクリと眉を跳ねさせた。
「鉄道会社も夜勤の人は多いでしょう」
「時差もあるし、当然人の寝ている時間帯にも列車は走っているからな。電話も電気も昼夜どころか嵐も吹雪も関係ない。天候が荒れることがわかっているときは人員の手当もしているが、間に合わないこともある」
「大本営も前線の本部もそこまで真面目に兵站を考えたことがなかったのよ。矢玉の飛んでこない位置に今いる人員の生命体力について、これまでは」
「これまでは、ということはこれからは違うのか。将軍様には云いたいことがあるようだが」
「将軍様というのが私のことを言っているなら、せっかく参事の席も頂いたことだし、少し考えがまとまったら大元帥には参考いただくわ。ただラトバイル准将が現場で編成した五個班八時間勤務体制ってのは面白いと思っているわ。実際には少し長くなるみたいだけど、一個か二個の班が現場でふたつが休養一個が待機で一日を回す。まぁ待機も勤務のうちって考えれば十六時間勤務だけど、電話があれば宿舎で寝てても問題ないわけだからね。電話が信頼できるならラッパ手をいちいち準備するより全然便利よ」
「それじゃあ、なにが問題なんだ。軍都は四年前に電灯も電話も敷かれただろう」
「そんなの決まってるじゃないの。将軍は一人しかいないからよ。日が昇って沈んで昇っての一日だけじゃなく、月が満ちて欠けて消えてまた満ちても休まず動く組織が既にギゼンヌでは機能しているわ。けど、それでも将軍は一人しかいないの。それに、大本営の勤務体制は建前の上では年中無休だけど、これまでは日が出ている間しか仕事にならなかったわ。蝋燭の火で地道な資料編纂や研究作業をしている参謀本部の人たちには頭が下がらないわけでもないけど、そんな紙魚みたいな生活をしている人たちは大本営では例外よ。憲兵総隊はまぁ監獄と変わらないからこれも例外だけど」
「例外は多そうだな」
「それはそうよ。建前では不眠不休で国事に挑んでいることになっているんですもの。それが建前じゃなくなったらどうなると思うのよ」
「人がたくさん必要になる」
「大きな古い建物にとっては致命的ね」
「そうなのか」
「そりゃそうよ。ウチの屋敷の改装でどれだけお金と手間をかけているか、ちょっと勘定して口にしてみなさいよ」
「まぁ、石と石炭だけで十億はくだらんね。手間はついで仕事だが十五年毎年手を入れている。だから手を入れた部分が全部残っているわけではないけどね。冷暖房や冷蔵庫なんかはもう三代目だし、風呂釜も二代目、厨房は電気とガスと上下水道に石油やアルコールと規模も内容も頻繁に変わっているところだな。有り体に屋敷の年代記を知りたいなら、ふたつの厨房を基点にするのがいい」
「自慢気ね。それを大本営でやって頂戴って言ったらどんな顔をするのかしら」
「ああ。まぁバカバカしいね。便所の整備と昇降機くらいはやってやらないこともないが、厠はどっか古井戸だか、暗渠だかに汚穢を放っているって話だったね」
「軍学校では兵站演習の一環として汚穢の始末を研究させて、馬糞と一緒に流域の農村に無料で引き取らせるようになったけど、大本営はそれぞれの建物が大きすぎてそれが五つもあるからね。つまりなにが起こると思う」
「建物の建て替えというか、新しい建物への引っ越しかな」
「十万人の引越しよ。このあと昼夜無くなる本当の不夜城になるとして、人が同じだけいるとして倍になる。まぁ、電話のおかげで伝令の用事はだいぶ減ったけど、それでも徹夜仕事を支えるつもりなら、ヒトが増えることはあっても減ることはないでしょうね」
「それはそうでしょうねぇ。逓信院でも電話とタイプライタのおかげで仕事が増えると予想するヒトは結構いました」
「金はどこから出るんだ。一体」
「そこが多分これから大問題になるわ。でも本当は金の問題よりも、引っ越しをするために時間とヒトが膨大に必要になるってところが問題なのよ。その膨大に必要になる人と時間を今の軍都は支えきれない。だからアナタの会社にケツを向けようっていう連中が絶対現れる」
「どういう風に」
「まぁ、色々あるでしょうけど、鉄道と電話と電灯を共和国に寄越せって言ってきても驚かない覚悟くらいはしておいたほうがいいわね」
「国有化か。言い出す連中もいるだろうな。だが路線計画ですら共和国全域に普及したとは云い難い状況なんだが、預けて大丈夫なものかね」
「おや、意外と驚かないのですね」
「どうせ、考えてたんでしょ。その口振りじゃ、今引き渡しても共和国は持て余しそうね」
「持て余すかどうかはわからないが、マトモな意味で投資を回収できるような計画にはならないよ。軍とは比較にならないほどの規模の赤字を定常的に垂れ流すことになる」
「投資したお金回収できているんじゃないの」
「それは、鉄道事業によってじゃないよ。鉄道周辺の不動産の売却や生産調整分の資材の回転で一部が回収できているように見えているけど、鉄道事業本体は真っ赤かだ。それは電話も電灯も一緒だ。ウチが儲かっているように見えるのははっきり云えば気のせいだ」
「でもお金にはなっているんでしょ。社債の分とか」
「タダ同然であちこちの土地を手に入れてそこで出てくるものやその土地自体を転売しているからな。鉄道計画の土地買収の余録で稼いでいるのさ。鉄道単独じゃどうやっても黒字にならない。稼ぎ口を持っている連中に転売するのが関の山だ。なぜってことはない。鉄道そのものは単なる道普請。しかもかなり高価な道普請だからだよ。道に金をつぎ込んでも道そのもので金を稼ぐことは出来ない。巨大な関所が目に見えて稼ぐようなことをすれば道は機能を失う。だから、鉄道は宿命的に稼げないんだ」
「何度かその話は聞いているけど、本当にそうなの」
「定常的な一般論としてはね。ただもちろん例外もある。鉄道そのものを目的にしているお客がいるという例外的な観光行楽客がいる。要するに旅館みたいにして列車の旅を満喫してくれるお客様でこっちの言値で様々な旅の手当を受けてくれる人たちだ。あんまり旅慣れていないお金がないわけでもないけど、どこにゆきたいというわけでもないような人たちは割と素直にこちらの案内に従ってお金を出してくれる。お金持ちよりよほど素直にね。他にこれは軍にやめてくれって云ってるんだが、軍が貨車を倉庫代わりに使っている。地味に儲かりもするんだが、管理のケツがコッチに向いているので有り体に面倒くさい。中身を改める権利がないものを管理することの面倒臭さを少しは考えてほしい」
「兵站本部には言っておくわ。それで、例外の方は行きたいところがないのに鉄道に乗るお客さんがいるってことなの」
「まぁだいたいそういうことだな」
「鉄道というものを試したいってことなのかしら」
「そういうのもある。けど、旅なんて考えたことのないような人たちがちょっとした浮いた小銭でほんの半日とか聞いたこともないような土地に足を伸ばすというそういうのが増えている。まぁ鉄道の物珍しさと世間の鬱屈からの脱出ってところだろうけど、いわゆる流れ者ではなくて市井の生業を持っている人々が娯楽として遊び半分で風景を切り替えるための気分転換に鉄道を使うようになっている」
「そういうお客さんに馬車や案内の手当をしたり写真や葉書を売りつけたりするわけですね」
「まぁそういうことだ。鉄道そのものは三等とか便乗とかで安く乗れても旅先で節制するには土地勘がないとならないし、そんなところで節制するようなヒトは浮かれ旅になんて繰り出さない。かくして鉄道そのものは全く稼ぎにならないけど、鉄道部としては稼ぎどころがない訳ではない。もちろん駅の食堂や売店やらも稼ぎどころだ。大きく儲かるってわけじゃないけどね」
「つまりなに。鉄道は不動産業やそういう一般向けの小売業で稼いでいるってこと」
「鉄道が通ることで利便が増すということが付加価値を作っているんだ。いろいろな理由で線路の左右はある程度土地をおさえていて、ただそうは云っても成行きで余計な土地というのも多いからね。そういう成行きで手に入れたものの使わなくなった土地に電線や道を伸ばしてやることで売り物にすることは多い。道が駅までと云わず線路まで通じているだけで多くの人々には魅力的に見えるようになる。電話や電気は言うまでもない」
「各地の収税人は電線を辿って行って人のいる地所を見つけるのが流行っているそうですわね」
「それは半分風聞だよ。電線の経路計画は州に報告しているから大方の人のいる土地は電線を追って辿るまでもなく州行政は把握している。それに一部の州については電灯電話には住民税が合わせて請求されていて会社が税金の収納に協力をしているところもある。デカートでもそれぞれ月に銀貨二枚割高になっている。電灯や電話を贅沢品と捉える人たちももちろんいるけど、デカート州政に限って謂えば、贅沢品というよりは人々が働くための働く気がある人達のための最初の投資と考えている。理念の上では無料にしろという言葉も元老院では出ているが、そうできないことは誰もが先刻承知で、安全な水と同じ値段に近づける努力を求む、ということになっている。デカートでは電話も電灯も稼げる商売には出来ないってことさ。
税金も色々な事故や災害に対する積立と用事がない場合には転用するを前提にした融通資金で第一の目的は電線の経路を整備するための人員の手当に使われているから、収税人が電線を追って家々を回るというよりは司法行政担当官が州の様々をくまなく回る方便として電線を追っているという感じが強い。デカートでは人別や警邏を口実にしてついでに他に色々させているわけだけど、収税はさせていないよ」
「そんな風に人を使う余裕が有るのは随分贅沢ね」
「義勇兵を公務員として一部維持する必要があったんだ。もう四期目だからね。そのまま司法や刑務行政に回すわけにはゆかないわけだけど、ぼんやり貧民窟に放り出すにももったいない連中だから一部は会社やあちこちの商会で引き取りもしたけど、公務員としてデカート州でも採用した。一部は義勇兵として再び戦地に足を向けている者や共和国軍に士官任官された者もいるけど、そういう訳で公務員はここしばらくで随分と増えたんだ。州軍と云うには貧弱だけど巡邏隊はデカート中を歩きまわっているよ。一般的な業態としては百人ほどの分隊基地があちこちにあって、五人かそこらの隊伍を組んで野山を散策して歩いている。司法権は特にないけど、公務員だから証人機能は強いし、街で雇っている保安官よりも組織力も強い。集落の自治の問題があるから保安官と完全に等価という意味ではないけど、裁判所の脇の留置所を自由に使ってよろしいという建前にもなっている」
「デカートの義勇兵ってことはアレですね。悪者に先に撃たせてやれ、敵はとってやるってあの景気の良い言葉を座右の銘にしている人たちですね」
奇妙にウキウキした様子でマリールが口にした。
「そんなことを前線では声高に叫んでいるのか」
「全部ってわけじゃないわよ。混交した地域を担当している一部だけ」
「そんなこと云っても警察軍の第一旅団って伝統的にデカート州義勇兵の多い部隊ですよね。武装の割当に自由のない憲兵よりよっぽど強力で憲兵が頭を下げて協力を願うのはあそこぐらいだって噂ですよ」
「単に下請けってことじゃないのか」
「憲兵隊がそんなに頭が柔らかければ輜重の往来ももう少し楽なんですけどね」
「下請けって云うよりは本当に協力の要請よ。戦争も長い上に戦線が上がったり下がったりしているから、いろんな風に人々が入り混じっている地域があって、解放地域というか軍の管制地域でもだれともつかない匪賊が多いのよ。そういう土地の集落を無血解放させるのが得意な部隊ってことになってるの」
「こう真っ昼間っから説得部隊と称する人たちが揃いの制服で集落の柵を囲うように並ぶわけですよ。小銃は構えず脇に杖にして。我々は巡察の警察軍だが周辺の匪賊について伺いたい、とやるわけですよ。大音声で。それだけで匪賊が寄り付かなくなるってんですからカッコいいわけですよ」
「そんな簡単にゆくのかね」
「そんな訳ないわよ。匪賊が暴発した幾つかの集落は皆殺しよ。そういうところでは説得部隊も犠牲を出している。有言実行の鑑と軍でも評価が高いわ。でも刃の上で押し相撲するようなハッタリを千人やもっとで出来るなんて頭おかしいわよ。腰の引けた連中が混じってたらそれでオシマイよ。とは言っても五年もそれで押し通せばハッタリというよりは実力で警察軍の中でも図抜けて戦闘力の高い東部戦線全域でも指折り優秀な部隊で有るってことは評判というより実績が語っている」
「マイルズ老はそういう風な人物ではないはずなんだが」
「やり始めたのはあの方よ。と言うかあの方が面倒くさい集落の説得に直に訪れて撃たれたのが事の始まりよ。さっきの文言もマイルズ卿が部隊を預けた部下のどなたかと交わした言葉らしいわ。その後は、匪賊対応の面倒臭さは敵味方の位置がはっきりしないことだからまずは敵をはっきりさせればいい。こっちから撃ちかければ全ては敵になるから、敵なら撃ちやすい、良民なら戸惑う状況を作ってやればいいってことになったのよ。デカートの義勇兵は歩兵だけど迫撃砲と機関銃を共和国軍よりも密度高く持っている部隊だから並の匪賊なんて問題にならない戦闘力もある。部下の統制の取れない匪賊のうろたえなんて数名の犠牲で皆殺しにできる」
「随分乱暴な穴の多そうな論だが」
「でもまぁ警察軍第一旅団が勇名になると多少混ぜ物があっても銀貨は銀貨というアレのおかげで宣撫活動は順調に進んだわ」
「匪賊を挑発して平らげるって考えればかなり杜撰な乱暴な対策だが」
「想像通りの事態もいくつかあったわ。正規軍でも警察軍でもね」
「我らの任務は戦地の護民。たとえ背中から撃たれてこちらに犠牲が出ても物語の悪役の悪人の真似をするな。ってのがカッコいいわけですよ。それがまた本当にできるあたりで敵味方誰もがしびれるわけです」
事実と伝聞物語をごっちゃにした様子でマリールが言った。
「アナタ、マイルズ卿に対する評価が低いようだけど、あの方はアレで勇敢な賢者よ。声高に人を小突き回すのを好むような乱暴な質ではないけど、小突き回して言いなりにできるような方じゃないし、人を小突き回すような無法を許すような方でもないわ。東部戦線を知っている軍幕僚ならあの方のやったことを評価しないわけにはゆかないし、デカートが最初の軍監としてあの方を送り込んだことの幸運を喜ばないわけにはゆかない」
たしかにそういう人物でもなければ、ヴィンゼの大きな出資者でありながら町長は他に任せ保安官などという閑職に収まって街を見守るなどということはできないだろう。明日をも知れぬ開拓地の町長という職はときに無法者と戦う以上の無法を護民の利益の下におこなう決断もある。狼と野牛と鹿と虎にはそれぞれ異なる勇気と正義がある。人の群れはそれを時処に応じて切り替えて文明としていた。
「そういう話は前線では一般的なのか」
マリールに話を振るとマリールは首を振った。
「というよりも、私が聞いたのは軍都で電話と電灯の試験運用が始まった頃からですかね。前線の様子が一般に噂話として巷間に流布するようになったのは。前線では隣り合っていない他所の部隊の様子なんて却ってあんまり噂話にはなりませんよ。噂話したいと云ったって、そんな事情に通じた上で暇な人は陣地にいませんし、そういう噂話は参謀の特権みたいなものですけど、連絡参謀は一般の参謀からは切り離されてることが多いんです。連絡参謀に情報が乗るってことは噂話ではなく一般情報として共有されるってことですから、軍として事実認定したって意味になっちゃいます。一般情報としてはもちろんそれ以前にも色々な参謀経由で大議会にお勤めの方々にはお伝えしてましたし、そういう方々が色々口の端にのせることはありましたけど、電話と鉄道とで速度や信憑性が上がったので噂話の質も量も増えたってところですね」
「噂話ってのはもっと気楽に広まるものなんじゃないのか」
「町中に限って謂えばそうですけど、軍隊の陣地ってのはそれぞれ他所の街ですからね。全員が人語を忘れていないか試したいほど暇ってわけでもないですし、陣地の兵隊はだいたい死ねとかクソとか単語レベルで人語をやり取りするようになりますよ。人の言葉を喋れる兵隊は新入りの交代の兵隊くらいですから、噂話もそういう兵隊たちが持ってきたものくらいに限られます」
「要するに前線のことを後方が気楽に知ることができるようになったのが、この五年くらいのことなのよ。それまでは没交渉もいいところ。大本営の指導が行き渡るはずもないけど、そういう風に戦争していたのよ」
「よく戦争ができてたな」
「まぁ、帝国軍もあんまり戦争をしているって意識がなかったんでしょうね。適当にやってればいずれこっちが音を上げるって思ってたかもしれないし、実際そうなりかけてもいた」
「気の毒をしたかな」
「大本営にもそう思っている人たちはたくさんいたわ」
「それは、売国の徒とか敗北主義者って奴じゃないのか」
「そうは言える人たちだし、事実自分の国務を売って利益を上げた人もいるわけだけど、反面の事実として勝利の見えない戦いでもあったのよ」
「随分諦観混じりだな」
「私とお姉さまの大勝利でも共和国軍の勝利ってのは導けませんからね。少なくとも共和国の勝利ってのを敵国の意図の粉砕っていうわかりやすい形で求めることは共和国に限っては殆ど期待できません。帝国とは事実上国交がありませんし、わかっている帝国全土を占領するわけにもゆかないし、名にしおう帝国本土を直撃できる宛もありません」
「よくそんな相手と戦争できているな」
「戦争なんて相手国があればいつでも出来るんですよ。それに帝国とは共和国協定制定以来、それ以前から千数百年ずうぅっと戦争しっぱなしということもできます。西の諸王国がよくわからない理由で紛争をふっかけてくるのと同じように東でも戦争が終わった試しもないんですよ。西方諸国が時々思いついたように送ってよこす宣戦布告なる絶縁状だか果し合いの申し込みだかみたいなお手紙のやり取りは帝国との間ではこの千年来殆どありません。ごく偶に司政官なる方が思い出した様に恭順の勧告に来るくらいですかね。うちの国が共和国と協定を結ぶ気になったのは、共和国の国軍が頼りになるというよりは、頭の悪い連中の愚痴を誰かにこぼしたいってのが半分くらいあったのは間違いありません。
まぁ今回も策源はデカートかと邦の武官たちは薄笑いと共に注目している様子ですけど、つまりはそういう縦深のある国力を羨ましく思っている事実はありますが、そのタネが顔見せに来たっていうのがこれまでとはちょっと違うッて感じです」
マリールが絡めていった言葉の意味する先であるマジンは流石に眉をしかめた。
「それで具体的にボクに何か話があるってわけじゃないんだろう」
「アレだけ色々あって、鉄道敷いてくれって以上にまだ具体的にってナニがあるってのよ」
「確かに個人的な騒ぎとしてはゲップが出るような内容だったけど、今の口振りじゃ全然これからってことじゃないか。それでキミのお母上はなにを考えているとかあるのか」
「父上じゃなくて」
「お父上はそういう意味では割りと保守的というか堅実な方だろうさ。ダビアス殿もそうおっしゃってた。献策を承認する決定をするのがお父上であっても策を示すのはあの方ではないだろう」
「色々ありますけど、母上は我が君が次にやらかすことを気にしておられました」
「やらかすってのはどういうこと。なんかオシャマなイタズラでもこの人がやるっていうのかしら」
「まぁだいたいそういうことです。経験や知見による研究や技術としての魔術の体系とは別に魔法使いというのは世界に開いた穴をそれとして本能的に使える人々のことを指す言葉なんですけど、何千人目だか何億万人目だかの魔法使いとして我が君がこの世に現れたのだろう、ということです」
「魔法使いの免許講習を開こうっていうんじゃないでしょうね」
「さすがお姉さま話が早い。だいたい基本的な話題としてはお姉様のためでもありますよ。好き放題魔術を使うとグリフが失われる可能性が常にいくらかあるわけです。人間であれば単にそれは死っていう概念に隣接したリンボウに送られるだけですけど、お姉様は既に魔族ですから、そこから先がまだあります。どういう性能の魔族になるかは当然誰にもわからないわけですが、お姉様の性格や能力的な傾向を考えればほぼ間違いなく戦闘向けの魔族が顕現するだろうと予想されています」
「ショアトアに聞かせて良いような内容なの」
「やだなぁ。ここにいるのは義理の姉妹ってことになっているはずです。それにお姉さまと我が君だけに聞かせても事が起これば、お二人だけじゃどうにもなりません。逃げるにせよ抗うにせよ身近な人々には事前の説明が必要で覚悟はしておいてもらわないと困ります」
「つまりなに。私はとてつもなく危険な存在だってことかしら」
「人間の皮が剥がれて本性がむき出しになれば、おそらくは太古の巨人や龍と同じくらいには危険でしょう。魔術の効力切れってのはまず間違いなくその皮の剥げる条件の一つなわけですけど、他にいくらか条件があるはずです」
「マリール姉様。質問です」
「なぁに。ショアトア」
「リザ姉様がそういう危険な状態になったとして、私達に何かできることがあるんでしょうか」
「良い質問ね。はっきり言えば直接できることはあまり想像できません。ただ危険な徴候が起こったときに逃げ出すなり抗うなりの心構えをしておく必要はあります。それはここにいる私達だけではなく、お屋敷にいる全員に必要なことだし、少なくともリザ姉様と我が君を身内と見做している方々には理解しておいて頂く必要があります」
「それで、この人に魔法講習をおこなうと何か私がマシになるのかしら」
「お姉様がマシにならなくても、これ以上危なくなる機会が減るといいなぁということですよ。我が君は当代随一の戦士の一人です。錬金術の素養もあります。魔法はまぁカラキシということのようですが、お姉様を魔族に転化させてしまったことを考えれば魔法が使えない素養がないということはほぼありえません。反魂の儀術に独力で至れるということはそもそも異能というべき資質です。もちろん我が君が上手く乗り切ってくれればそれが一番なのですが、たまたま危ないときにたまたま我が君が不在ということは十分にありえます」
「つまりどういうことよ。私がおかしくなったら座敷牢に閉じ込める算段を私も含めてしようってことなのかしら」
「ま、そこまで云ってよければそういうことです。この手の話は段取りと前段の成行きの周知徹底が必要ですから。兵隊の訓練や災害の備えと一緒です。そのふたつよりちょっと面倒くさくってわかりやすい説明が難しいですけど、基本覚悟を決めて日々楽しく過ごしましょうっていう決起が必要という意味でと、事件が起きれば災害と同じく独力で対処することは殆ど期待できないですから、その時に備えてということですね」
「その時っていつよ」
「わかる訳ありませんよ。千年や万年先ということもあるかもしれません。だからお姉さま自身に自覚と理解して頂く必要があるんです」
「自覚できるようなことなのかしら」
「そこは子供たちの未来の為にも自覚していただかないと。突然奇声を発したり火を噴き上げたりっていう事になるかもしれませんし、馬鹿力で家財や家具を壊しまくるという事態かもしれません」
「つまりファラの運転する自動車みたいな感じになるってことね」
「まぁああいう風に壁を突き破って出てきたり空から降ってくるかもしれません」
「私の正気を疑われているわけね」
「魔法ってものに正気があるって考え方は甘いですわよ。お姉様」
「それで、正気を失ったリザが危ないというのはわかったが、なにをどう準備すればいいんだ。よくある墳墓の玄室みたいな地下牢が必要ってことか」
「どういうものを思い描いているのかわかりませんが、そういうものもあれば心強いですね。この手の話に地下迷宮はつきものです」
「どこまで本気なのよ」
「どこまでというか、軽口ではなく事態は深刻です」
「アナタの態度は深刻な話をしているように聞こえないわよ」
「既に引き起こされた事態で、危険で深刻ではありますけど、その危険は今ここで猛威を私に振るうような種類ではありませんから。謂わば事態は既に進行したが、直ちにその被害が顕現するようなものではない。今直ちに被害はない。というところです。今のところ山に例年になく大雪が積もった、って程度の事態です。春先に起きる雪崩の被害が大きいだろうねって程度の話ですよ。今のところは」
「だが、その被害は必ず起きるんだね」
「魔族というものの性質を考えれば」
「どういう被害かはわからないんだね」
「単に伝承に基づいて、伝承と云うにはちょっとばかり生々しい先祖の記述もあります」
「悪魔がどうたらっていうお話じゃないんでしょうね」
「そういうお伽話もいっぱいあります。けど基本示唆しているところは変わりありません。つまるところお姉様はそういうお伽話の主人公になったわけです。当然このあとお伽噺の主人公らしく様々な試練が待ち構えているわけですが、それがどういうものなのかは今はわかりません。そして主人公の章が終わった後は敵役の章が始まることになっています。実のところお姉様はかっこよく共和国を救い勝利に導いた大英雄ですから、主人公の章は実は終わりで敵役の章がいきなり始まっても不思議はありません」
リザはそう聞いて、呆れるでもなく口元を一瞬尖らかせ表情を消した。
「それで私が魔族というものになったとして、なにをどうすればいいの」
「特段は。心穏やかに命健やかに。人としてあるがままに」
「マリール。なに言っているかわかっているの」
「なにって、大事なことですよ。魔族の表層にあるお姉様の存在が維持されることが、来るべき危険が顕れる事態を遠のけ緩め減らす上で一番大事なことなんです。そりゃ星の国まで往って何万年も殴り合いをしたその挙句にカラッカラになった魔族が無害なのはそれとして大地を巡っている星屑の殆どがそういう風に暴れまくった魔族の残骸なのはおそらくそういう事実として、そういう風に揮える力が今枯れないままに存在するというのが問題なんです」
「なに言っているのか、わかって言ってるの」
「冗談ってわけじゃありませんよ。むかしむかし大昔人々が星の世に出るにあたって広大な宇宙の真空に枯れない強大な力を求めるにあたって創りだした技術の果てが魔族であり魔法です。元来それは地上で揮うような種類のものではないのですが、大きな枯れない力であったことで豊かな利便を求める人々がむやみたくさんに文明に組み込んだことが事の始まりですよ。魔族も元はダニより小さなものとして作られていたそうです」
「家の中で自動車に乗るようなものぐさをした連中が多かったのね」
「そこまでわかりやすいことだったのかはわかりませんが、まぁだいたいそういうことでしょう」
「それで具体的に私たちにできることはあるんですか」
ショアトアがそこまで聞いて改めてマリールに尋ねた。
「一番はお姉さまの身に異常が迫らないことに気を使うことね。落馬とかそういう些細な怪我はおよそ大丈夫だと思うけど、溺れるとか火事とかそういう出来事はとても危ないはず」
「川に溺れたら魚になるとかそういうことかしら」
「お姉様、冗談のつもりでしょうけど、そういう可能性は大いにあります。魚ほど可愛い姿になれるかどうかは怪しいですけど、魔法の本質はそういうものですよ」
「変身なんて高級な魔法が私にできるわけないじゃないの」
「変身そのものは、元の姿に戻ることを考えないのならばそれほど難しい魔法ってわけじゃありませんよ。ただ、間違いなくグリフを傷つける行為なので魔術師の寿命を削る行為です。というか、お姉様の存在そのものが変身や変性という錬金術の極意の形です。尤もそれを我が君に云ったとして我が君にそういう自覚があるとも思えませんが、人体や魂魄に対する錬金術の応用です」
「ボクは単に形を模して心臓を作っただけなんだが、そんな大したことだったんだろうか」
「もちろん私には理解できませんけど、心臓を組み付けるときや抜くときに心臓が動くような動くべきような形に歪んだんじゃありませんか。形があって動きがあれば物事が因果によって機能するっていうのは物理の基礎じゃありませんか」
「物理というものはもう少しわかりやすい具体的な形を考えるための方便なんだがね」
「物事の最初と最後がわかっていないことを簡単に具体的にできるはずがないじゃないですか。ことは他人の起こした何万年も前の物理の結果です」
「宇宙開闢なんかより人の意志の方が遥かに業が深いな」
「ええと。つまりどういうことでしょう。私たちにできることはその。リザ様の心臓が人間らしく動いていることを確認するようにすればいいのでしょうか」
おずおずとコワエが口に出した。
「コワエ。いいこと云った。現実お姉様の体でなにが起こっているのか。およそ誰にも想像は出来ないけれど、お姉様をつつむ魔法が人間らしく振る舞うように機能している間はお姉様の人格や機能は破綻しないように人並みに人間らしくあろうと機能する。はず」
「はず。って言うけどそんな単純なことなの」
「単純なって言うけれど、魔法の原理はともかく機能は極めて単純なものですよ。人の望みを叶えようとする動きです。しばしば人の望みの曖昧さや単純さからとてつもない渦になりますけど、物事の形としてはひどく単純です。お姉様が人であることを望む限り人であることを認識する限り、お姉様は人であることができるはずですし、そうあることが我が君の望みであるはずです」
「はず、はず、ってなにもわからないのに随分と気楽に云うのね」
「まぁ、こう言っちゃなんですけど、元来極めて深刻な事態ですからね。反魂の儀法で魔族を新生させるなんて、ここしばらくなかったはずの出来事です。少なくともうちの郷では千年紀のうちで上手くいった話は聞いていません」
マリールが随分と明確に歴史上の事業を断定して口にした。
「上手くいった話ということは試みそのものはあったということか」
マジンが興味にかられて口にしてみた。
「帝国では幾度か、うちの郷でも一度か二度、共和国のどちらかでもやはり幾度かあったと聞いています。共和国では数十年前私達が生まれる少し以前にやはり試みと研究はあったようですね」
「上手くゆかないっていうのはどういうふうに上手くゆかないんだ」
「色々ですよ。基本思った通りの成果が得られないという程度の意味合いでしか伝わっていませんから、どこかまで上手くいったのか、そもそも試みがなにを試みたのかということはわかりません。うちの郷で起こったのは要はケンとバービーとの間で魔族の子供が増えないかという試みですけど、殖えたのはタダの人の子で不具がないのが良かったねというような平凡なタダビトの子供だった様子です」
「それは、拍子抜けかも知れないが、予定通りの機能だったということなんじゃないのか」
「およそそういうことだと思います。けど、そういう風に魔族の殆どは自らの来歴や機能を忘れていることが多いくらい昔のものなんですよ。それだってウチに残っているのは野生化しないくらいそれなりにマトモな扱いをしているものです」
「野生化っていうのはどういうことだ」
「およそ文字通りですよ。あちこちの土地で魔族の城とか地下迷宮とか伝説を作るような魔族が野生化した魔族です。大方わかりやすく悪さをしているような連中はここしばらく帝国が興たあとの十万年くらいで私の郷里の者達が狩り殺したわけですけど、我が君も数百の群れを潰している様子からもあちこちあるのは間違いないところです」
「ええと。つまりどういうことだ。魔族というものは結局どうなっているんだ。どうすればいいんだ」
「どうというかですね。今おそらく我が君が瞬間脳裏に描いたとおりのことが殆ど唯一の対策です。飽きるまで納得するまで存在をさせて成仏させるのが最も面倒が少ない対策です」
「なにそれって、どういうこと。私は心いっぱい饗応接待を受けていればいいってことなのかしら」
「そういう狂王のような魔族がいたのは過去間違いないところですが、そういうのをカッコ良く始末して歩いたのが我が郷里の始祖たちなので、お姉様にはそうならないようにご自愛なされませ、というのが私の口にできることです」
「魔族って結局どれだけ生きるのよ」
「私にわかるわけないじゃないですか。そんなの」
「ああ。まぁそうね。聞き方が悪かったわ。野生化していない魔族ってのは人としての意識はあるのかしら。アナタの云うケンとかバービーとかそういう人たちは」
「あいにく私はちゃんと知らないんですよね。そういう存在を。そもそも人の形や意識を保っている魔族ってのを見たことがないんです」
「アナタのドレスだか鎧だかはどういうものなの」
「まぁアレはああいうものです。色々仕掛けはありますけど、ある意味で戦車や飛行船と変わりありません。こうなんというか、会話もできるんですけど受け答えというよりは時計の文字盤やベルみたいにして必要なことだけむこうが勝手に教えてくれるというか。そういう訳で我が君と戦った折もとくに提案とか指南とかしてくれたわけでなくて、おかげで負けちゃいました。あんなにあちこちに武器の類が付いているなら最初から手足の一本も刻んでから捕まえればよかったと思ってますよ」
「捕まえも出来なかったくせになに言ってるのよ」
「こう云うと負け惜しみですけど、あのまま十番勝負をやっていれば何戦目かで我が君の動きを鎧が覚えて自動的に捕えてくれるようになったはずです。あのテープがあんなに丈夫だと思ってませんでしたし」
「あのテープ、現場で割れた履帯とか無理やり繋いで整備小隊に引き渡すのに使ってたヤツですよね。手で千切れたら金貨進呈、とか整備軍曹がよく煽ってましたけど普通無理ですよね」
「擦れとか耐候性は低くて露天には脆いからあんまりそういう風には使ってほしくないんだが」
「整備班に引き渡すまでの半日保てばいいんだから、しょうがないのよ。前線の部品備蓄なんて余裕が有るわけ無いでしょ。他所じゃあのテープで煙突割れたの繋いだり、大砲の砲座が壊れたの繋いで使ったりしてるんだから」
「そういう風に使うならもうちょっとマシなものがいくらでもあるんだが」
「そんなの皆知ってるわよ。でも邪魔にならなくて簡単に使えてそれだけ準備すればなんとかなるってのが受けてるのよ。靴でもテントでも戦車でもアレだけあればとりあえずなんとかなるなんて兵隊向きじゃない。アレと二液式の接着剤に砂混ぜて色々何とかしてたわよ」
「もともとアレ何のための工作材料なんですか」
「崩れかけのレンガ壁とか仮に工事して倒れないように止めておいたり、もう使わない扉口を目止めしたりとかそういう応急工事の仮施工用だな」
「ファラは排気管の穴塞いだり、ネジがへし折れた車の部品を縛り付けるために使ってるって言ってたわよ」
「アイツは。どうしてああなったんだ。ウチに来た時はぼんやりした育ちのよさ気なお嬢さんだったのに」
「別にファラはボンヤリしているわけじゃないって言ってるのに。アナタもいい加減ヒトを見ないわね」
「ショアトアはどう思う」
「え。レンゾ少佐ですか。どう思うって。どう答えればいいんですか」
「アイツは良い幹部、良い上官だったか。できれば具体的に簡潔に」
「え。あ。む。命令ははっきりした方でした。あと、命令の実施見積もりの意見具申を求める方でした。なにがいるかとか、どれくらいかかるとか。わりとどうにもならない話でもともかく意見具申は求めていた様子です。ボンヤリした方っていう印象は部隊の兵隊は誰も抱いていないと思います。数字とかモノとかちゃんと把握されていましたから、むしろ目を盗むのはかなり難しい幹部だったと思います」
「ほらね。あの娘、アレでしっかり者なのよ。だいたい子供生ませた女が子供産む前のままでいるわけないでしょ」
「ハンドル握らなければ、前のままのようなカンジがするんだが」
「それはアレですね。我が君の好みに合わせて作ってますね。我が君はセラム姉様の扱いが丁寧なので、そっちに寄せてるんです」
「セラムはボンヤリしてないだろ」
「アナタの云うボンヤリってのも随分いい加減で曖昧な言葉だけど、セラムも別にボンヤリはしていないけど興味のないことはコレっぱかりも気にしないっていう意味で言えば、あの娘は相当ボンヤリさんよ」
「ネンチン曹長がせっかく手入れした方のブーツを履いてくれないって時々こぼしてました。毒の泥の話があって、ガントレットとグリーブの着用徹底と車内持ち込みの禁止が部隊に通達されるちょっと前の頃までマークス少佐の靴は割と汚れてましたね」
「泥の中を動いていればしょうがないんじゃないのか」
「行軍中の士官の服装が汚れるのはしょうがないんですけど、それを綺麗にするのも従兵の仕事のウチですから。隊長っていう人たちの服装が汚れていると下士官や従兵の質が疑われるし隊長の統率も疑われるって感じです」
「中隊長と大隊長の気分の違いにあの娘あんまりついていけてないのよね。戦車大隊ってのも戦力規模も予算規模も大隊どころかそれ以上だけど、人員で考えたら中隊に毛が生えたようなものだし、戦車大隊の本部って基本戦車の中でこぢんまり納まるように編成されているから、他の部隊と違っていわゆる兵隊は殆どいないしね。千人超えるような兵隊預かっている部隊長が前線に立って兵隊と一緒に泥こねているなんて百年も前に終わったことになってるはずだったんだけど、戦車大隊じゃそうもいかないしね」
「戦車そのものも軍曹が車長で少尉と中尉が運転と砲手っていうややこしい配置も結構ありますよね。階級どうでもいい感じの会話が無線でだだ漏れになってたり」
「その辺の訓練とか全然間に合っていなかったからね。使える人間を人選して椅子に配置するのが精一杯だったわ。セラムとかそういうのなんとなくうまく丸め込んでやっちゃうから彼女の下は良いんだけど研究とかで他所に持ちだしたりが出来ないのよね」
「服装の乱れが統率の乱れだって話はわかったが、ウチにいるセラムはシャンとしている感じだったが」
「別にシャンとしていないなんて云ってないわよ。興味のないことは放ったらかしにするのも兵隊の処世術だもの。でも陣地から離れるのは負けた時か死んだ時っていう歩兵様の中隊長閣下ならともかく、助けを求める友軍の悲嘆に駆けつける戦車大隊の指揮官様としては、汗さえもバラの香りがして動くたびに風に星が舞うような、そういう爽やかな神々しさが必要なのよ」
「汗の酸っぱさを隠すには柑橘系の方が良くないか」
「その辺は研究しているものがあるなら教えて。割と真面目な話で戦場と匂いの話は深刻なの。毒ガスの話や洗濯の話はさておいてね。ともあれ私達の部隊がカッコよく勝つために色々している中であの娘のブーツは実は問題なのよ」
「本人に言ってやれよ。それにショアトアの話では直ったんだろう」
「こういう話は絶対直ることはないのよ。だからアナタも言ってやって。あの娘が騎兵隊の隊長で終わるか、カッコいい機動軍団の隊長になるかは、殆ど政治的な駆引きの段階なのよ」
「なんか、演劇の主役を決めるような話だな」
「まさにそういう局面なの」
「アレだけ実績があってそうならない可能性があるってのか」
「あの娘の性格がそういう可能性を求めていないの。それにラジコル准将はああいう好みの割には組織の波風を好まない方よ」
「つまりどういうことだ。セラムが昇進できないっていうのか」
「あの娘の昇進は別段どうでもいいんだけど、逆よ。あの娘を昇進させて何処かの間抜けが入り込んで勲章目当てに帝国領に逆侵攻とか言い出すと首が締まるようなことになるなぁと思っているわ」
「そんな馬鹿なことを思いつくような連中がいるのか」
「そりゃいっぱいいるわよ。鉄道で兵站線が好転すれば帝国に押し込めるって数千年来の復讐戦ができる機会だって息巻いている連中もいるくらいよ」
「国内の鉄道網の完成すらまだ当分先だっていうのに気の早い話だ。大元帥はそういう感じではなかったが」
「あの方はまぁ兵站って云うよりも国内の軍政を監督されている方で一段上の立場の方だし、まぁこう言っちゃ何だけど、あまり戦時向きの指導者ではないわ。尤もその御蔭で今回の戦争で国内の混乱が最小限で抑えられたとも言えるわね」
「帝国と正面切って戦うために百万動員してたら今頃凄いことになっていましたよね」「戦死者より餓死者のほうが多かったかも。命令通りに国内を動くだけで大騒ぎだっていうのに戦争なんかできるわけないわ。帝国はどうやってるのかしら。なんか大きな畜獣の馬車鉄道みたいなのは見かけたけど、アレだけじゃ百万人を何百リーグも運べるだけでしょ」
「まぁ、むこうは百万人でも送りつけて田畑耕すついでに鉄砲と矢玉を送りつけてれば、こちらが音を上げるまでのんびり過ごすつもりだったんでしょう」
「その何百万人だかに鉄砲と玉薬送りつけるだけのために、このヒト十年かかってるのよ」
「そんなの我が君の千分の一の匹夫たちだって百万人いれば我が君の千人分の仕事をするってだけのことじゃないですか。必要があるとして必要なだけおこなうという知恵も何もいらない物理を倦まず弛まずただひたすらおこなうことが兵站の極意ですよ。共和国の皆様の気合がダラシナイってだけのことです」
「理屈はマリールの言うとおりだ。帝国と共和国では市井の感覚が違いすぎる。正直、共和国に帝国の正面を押し破って戦争に勝てるだけの国力はないね」
「でもアナタ、ふらっと往って女千人もカッ攫ってきたじゃないの」
「まぁそうなんだが、別段千人ばかり拐ってきたからって傾くような国じゃないよ。人間を牛馬のように管理しながら数を揃えることができるような国なんだ」
「どういうこと。この子たちそういう扱いだったの」
「まぁ、もうちょっと色々あるんだろうが、ボクの倫理基準から云うと論外だったから、まとめて引っ拐ってきた」
「土地によっては未だに食人当番とかもあるらしいですからね」
「どういうこと。人を食べる当番でもあるっていうの」
「クジみたいなので貧乏子沢山の家を選んで、家畑に家畜を付けて揃えられるくらいの金額で家族を食肉に出させるんです。まぁむかしむかし大昔の風習で今更どうかと思うんですが、帝国も広いですからね。十万年も人の世が続いたってのに未だに龍や巨人が怖くてしょうがない人たちも多いんです。亜人とか肉に薬効があることになってたりして割と本気で信じている人も多いようですね。私とか魔術師で亜人ですからね。捕虜になったらおそらく帝国の将軍様の薬膳に滋養おいしく召し上がられると思いますよ」
マリールは何でもないように云ったが、冗談というだけでなくそういう事例が過去にあったのだろう。
「まさかそういう理由で捕虜交換の交渉がうまくゆかないんじゃないでしょうね」
リザが流石に怪訝そうに尋ねた。
「どういう理由かはともかく、戦時交渉が進まない理由はたくさんあります」
「気違い沙汰ね」
具体的な話を口にしないマリールの様子でリザも雑談として扱うことにした。
「お沙汰を出してるのが、大陸の向こうの海の向こうの皇帝陛下ともなれば、流石に何千リーグも彼方の土地には興味も理解もないってことでしょう」
「それなら無駄なちょっかいを出さない慎みを持ってほしいわ」
「うちの国も慎み深い人たちばかりというわけでもないようで、帝国との戦いが割とあっさり終わったから今度は西だって話も言い出している人がいるって逓信院では話題になっていました」
「ボクの十年の投資がアッサリか。エンドアの事業もまだ始まったばかりで、東部戦線の再占領解放も帝国軍捕虜の移送吸い上げも終わっていないっていうのに、予算が途切れそうだって話を聞いて驚いているよ。話によればエランゼン城塞が吹き飛んで戦争は終わったからもういいだろうってことらしい」
「大元帥はそういう感じではない様子だったけど、そういう参謀研究があることは聞いたわ」
「あの方は、まぁ、凡庸って云うと言葉は悪いですけど、日々満ち足りた方ですからわざわざ乱を起こすような方ではありませんが、私達みたいな小娘が戦場で活躍できたことが気に入らないご年配の方は大本営には多い様子です」
「気分はわかるけど、具体的には」
「メリガス将軍の下のレーマン中佐とかという方の従兵の方が靴紐が解けていましたので指導してやりました。ショアトアも准将がお勤めするときに恥をかかせてはダメよ」
「そういうのは許されるのか」
「兵の指導は士官の一般義務ですよ」
「いいのよ。この娘が絡んで分けのわかんないことになったんじゃないかって心配しているなら、士官が気晴らしに兵を殴るってのはよくあることよ。兵隊にとっても気安い仲の士官って扱いになるらしくって、私も復帰していきなり初日に知らない兵隊に気合入れてくれってビンタ飛ばしてきたわよ」
「兵隊ってのは相当馬鹿なのか」
「バカなのよ。ああ。うん。いや、あのね。……ああ。マリール。つまりレーマン中佐が無礼を云って腹を立てたのね」
「どちらかだかの師団の参謀様が、そんな私ごときに無礼を働くなんて。ああ。まぁ二個師団分の戦力を好きに使えるなら帝国の棄てた城塞を落とすくらいワケがないとか、股を開いて規定外員数外の装備を手に入れたとかそういう事を云ってたわけですが。ああ、まぁ、事実ですから腹は立ててませんよ。私は十年前にもお姉様とたった二人で五万からの兵隊の指揮管制が出来ることを示したわけですし」
「まぁだいたい事実ね。この人が男の尻を好むような人だったら私に昇進できるような機会はなかったわ」
「それで指導ってのは何だ」
共和国軍の内情を知らないマジンが改めて尋ねた。
「アナタがレーマンっていう中佐の名前を知るくらいにはなんかやったわけね。兵隊を投げ飛ばすくらいしたんでしょ」
「まぁだいたいそんな感じで」
「本当に靴紐は解けてたんでしょうね」
「空中では間違いなく解けていましたね」
「それでいつの出来事なのよ」
「昇進した翌週、待命許されての後ですね。晴れて軍務から足を洗える晴れやかな気分に水をさした出来事でした」
空々しく目をつむり悲しむようにマリールが言った。
「まだ先月のことじゃない。いいわ。メリガス将軍に会ってくるわよ」
「そうしてください」
「あの方、苦手なのよね」
「知っている相手なのか」
「そりゃ、准将ともなれば上役は元帥閣下と将軍閣下だけだからね。大本営に足を向けられるような現役の将軍閣下とは一応顔を合わせたわよ」
「今聞いた話だと碌でもない様子だったが、話のわかるような人物なのか」
「バカね。話のわかる官僚なんているわけないでしょ。官僚には話はわからせるのよ」
「どうやって」
「そんなの腕づく力づくに決まってるじゃないの。兵隊の親分よ。最後は殴って云うことを聴かせるのよ」
「そんなので官僚が言うことを聞くわけ無いだろう」
「まぁそうだけど、半分は気合ね。残りの半分は事前に準備をするわけだけど」
「準備でケリが付くような相手なのか。というより、お前が乗り込んで行ったらそれこそ厄介事にならないか」
「まぁなるかもしれないけどね。このバカが変な風にケンカを売ったならアナタのところに話が飛び火する前に手を打った方がいいに決まってるでしょ。少なくとも東部戦線が落ち着くまで、エンドアの開拓が落ち着くまでバカな連中を諌める必要があるのは本当だし、バカの御大将がどのくらいバカかって確かめる話はする必要があるわ」
机の下でリザとマリールが互いに蹴飛ばしたり踏んだりするのを止める気にもなれずマジンはため息をついた。
「それで、ボクにできることは」
「ないわ。あるわけ無い。……あ。いえ。あった。このバカに仕事を与えてやって。四六時中家と仕事場を離れられないような定時定時仕事があってサボれないようなの。仕事をサボったらカッチリ記録が残るような仕事。力仕事でもいいけど、そういうのだと要領いいからダメね」
「ああ。そしたら、私塾の先生やりますよ。なんでしたっけ幼稚社ですか。八年ぶりですけど、川沿いの村にありますよね。なんてったって初代塾長ですし。前の時は時たま連絡室に出頭する必要がありましたけど、今度は待役ですからね。ノンビリ出来ます。ショアトア。アナタ手伝いなさい」
「私は准将の従兵があります」
「あ、それしばらくお休み。ってか軍学校にねじ込むまで待機」
「え、な、そ、ま」
そう云われたショアトアが口をパクパクさせながら、言葉にならない様子だった。
「え、なんで今さらそんなことを言い出すのか、お姉さま、って言うか、あのね。年齢は胸に縫い付けたりしてなくても、身長は見ればわかっちゃうでしょ。二年も経てば追いつくかと思ったけど、成長期は年齢をごまかせないからね。大本営を歩き回るのに最低身長を割っているような兵隊を従兵にして連れ歩いたら、私がいろいろ咎められちゃうわよ。前線だったら別に多少のことは誰もが気にしないけど、大本営はまさにそういうところを気にするのが商売な人たちの集まりなんですからね」
「む……。ぐ」
「ショアトアはマリールと一緒にお屋敷や村の子供達に勉強を教えてあげなさい。本当はきっとアルジェンやアウルムの仕事だったんだけど、私が取り上げちゃったからね。あの娘たちが帰ってくるまでアナタが代わりをやってあげて」
「今の話の感じだと、キミはもう早速軍都でギリギリ働くつもりなのか」
「バカね。話の流れを聞いていなかったのかしら。まずはこのバカが喧嘩を売ったどこぞのバカの御大将の人となりを調べる必要があるでしょ。ギリギリ働くのはそこからよ」
「つまりそれが終わったらギリギリ働くってことかい」
「大元帥の参事ってまさにそういう仕事よ。ああ、うん。……いい。このバカに喧嘩を売られたバカは気の毒なバカだけど、本当のバカかもしれなくて、その御大将がどのくらいバカであるかを知る必要があるの。もっと云えば、その御大将が本当の大バカ、バカの王様じゃなかった場合、西部域は実はかなり危険な状況にあるとも言えるの。歴戦の将軍が戦争の兆候を嗅ぎとっているの。それが単に東部戦線に乗り込みそこなったっていう勲章目当て名声目当ての馬鹿騒ぎであればいいけど、今現役で将軍をやっているような将軍はだいたい筋の通った戦争屋よ。戦争を誰が起こすつもりなのかはともかくそういう話があるなら聞いておく必要がある」
「今度は西が戦争になるっていうことか」
「西部域は年がら年中戦争しているも同然よ。小競り合いばっかりで、まぁ隊商を助けるとか匪賊が出ただとか町や集落の支配者が変わったとか、よくわかんない理由で兵隊が苦労させられている土地。私も足を運んだことはないし、軍都からは遠いからいまいちピンとこないし、戦争の戦火自体があまり大事にならない形でいつの間にかなくなっているから戦争っていう感じもしないけど、まぁそういう土地。だから今細かい話は全然わからないけど今更言うような話ってわけでもない。戦車があるから西方征服できる、とかそういう軽々しい話ならバカメの一言だけどそうでなければ問題よね」
「ようやく新婚生活を楽しめるかと思ったら、軍都詰めか」
「このバカな義妹が変なネタを仕入れてきたから、その確認はしないとね。月に十日かそこら訪ね歩けばあらかたはわかると思うけど、どうせすぐ分かる話ってわけでもないと思う」
「お姉様が軍権を握った折にはぜひとも私をお招きください。バリバリ働きます」
十年ぐらいしてこの時の話を二人は大笑いする。
だがリザの身を案じるマジンとしては気が気でない数年を過ごすことになる。
石炭と水晶 或いは蛮族の祝祭 了
それは有耶無耶というよりは出来レースのような型に嵌めた展開で、マジンもその家人も奇妙にギクシャクした雰囲気だったが、マジンの隣りに座るマリールと彼女の母親たちはニコヤカにしていた。
マリールの父は、全く場の主にふさわしく落ち着いた態度であったが、それがどういう内心であるのかはわからないし、十数名いるはずのマリールの兄弟姉妹はこの席にはいなかった。
こちらのお城の奥方様たちが話しているのは、生まれてくるだろうマリールの子供の名前についての検討で、ある意味でマジンの望んだとおり有耶無耶ということではあったが、その展開は全く型にはめられたというしかない展開であった。
「それで婿殿はどの名前がいいと思う。私は多分次は男だと思うのだけど、デアモンとかどうかしら」
等と奥方様たちに気の早いことを云われていたが、マリールは間違いなくタネがついたと確信していたし、アーシュラの時とは感じが違うから男の子であると主張していた。
そんな何年も前のことが区別が付くほどわかるものかとマジンは思っていたが、工房で扱ったことのある鉱石なら握って成分やら苦労工夫を様々思い出すことなど割と容易いことでもあったので、そんな馬鹿なことが、と一言云ってみて追求は諦めた。
常在臨戦の将家の倣いとして、子供が多いに越したことはないが、別段子供が今すぐ必要ということもなく、家督とも直接関わりのない一旦は既に鬼籍に入った娘の扱いは、単に周囲の評判という以上の意味がない。
そのマリールの帰郷について今回の騒ぎになったのは、ステアが郷の上空をウロウロと彷徨ったことでマリールの帰郷が様々に知られることになったのと、父上の跳ね返りに対する気分の問題だけで、それも実はマジンが謁見の間の扉に掛けた斧槍を裁ち切ってみせたことで、まぁいいかという気分になっていた。
それでも武芸改を開くことになったのは、ステアの件の詳細を求めて家々のお歴々が人を走らせていたこともあったが、マリールが自分の男を見せびらかしたいと言い出したことと、謁見の間を内側からといえ押し破られた衛兵の責任を有耶無耶にするためでもある。
マジンの振る舞いは藩王陛下の気分の上で品評は終わっていても、練兵官兵務御役目怪シ気ニ付キ待役申シ渡ス以後出仕能ワズ、と衛士総代の騎士に対する事実上の極刑を宣するか否かの判断を求められてもいた。衛兵の判断としては極めて微妙だが、役目の上では身を挺してもマジンを留めるべきで、いきなり戸口に向かい打ち破ってみせたマジンの技量は並外れてはいたが、郷の者にも幾らかは似たことができる者はおり、そういう何者かがより明確な成行きとして害意を持って打ち破ることはありえた。
衛兵一隊を始末するか、練兵官を始末するべきか、始末するとして待役か転任か、或いは放逐か。いずれ叱責は免れない、それでは不足する不祥事ではあるが、その判断には平時特有の色とりどりの幅がある。
無作法の仕儀の言い分はゲリエ卿は既に自らその場で口にしていて、物的被害は大扉の閂一組と観音開きの戸口の合わせの巻銅で、いずれどうとでもなる代物であった。
最も屋外に近い城内の一室にある大仰で武張った造りの扉であったから、もちろん定期的に手を入れてはあるが、歴戦の傷も多い。戸板には傷が増えなかったが、厚み五シリカの銅の合せ板がざっくり削がれてしまったのは、斬鉄の妙技と合わせて腕の程を示す剣跡であった。
そういう様々の絡んだ武芸改の勝ち負けの結果なぞ、男の器量を示せばそれで事が足りることで、勝とうが負けようが試武の場に出てくればそれでどうとでもなることだったのを見事に勝ってみせたことは全く重畳であったが、まぁそれもどうでもよく、マリールの扱いが悪かったとはいえ魔族の甲冑を凌いで押し切ったマジンの技量は一門郎党共々文句もなく、家督に関係ない外戚という扱いであれば、全く頼もしい、と歓迎された。
全くの急展開にマジンを含めゲリエ家の一党は今ひとつ状況が飲み込めないまま、歓迎されているらしい朝食の席に招かれていた。
まさかの深夜に呼び出されたマジンは薄寝ぼけていたクライを置いて、ひとりで二番目の勝負に臨むことになった。
と云ってどの道戦うのは自分一人で朝には舟から予備の資材も届くことで、一回勝ち負け分からず、もう一回ねじ込まれても朝に勝てばいいことで、と皮算用をして訪れた立会人は女性の声だった。
問題はマリールが薄衣一枚の全裸だったことだった。
今日を逃せばまた男児出産が遠のくからお情けを、それで十番勝負全部負けますからと、熱惚けたマリールに言い寄られ、男児ができるかどうかは、むしろ男にかかっているんだが等とぼんやり考えたマジンが応じて、というよりも、奇妙な場の空気に異常を感じるまもなく勢いで盛っていたのだが、後で考えるとアレは聖堂の機能を油断してやられたような気もしている。
妙な呪文の詠唱が今も耳に残っていて、マジンとしても決闘騒ぎを有耶無耶にしたいというところで、心理的な隙を突かれた、してやられた気分でもあるのだが、それが悪いかというほどに悪くもないので、納得はゆかないが済んだことだった。
マリールの肋はやはり三本折れているらしいが、バキバキ全身の骨を折らないでも子供ができるならアーシュラの時よりはだいぶマシだと云うしかない。
少なくともマリールの父上母上と食事の席に着ける運びになったことは苦労の甲斐があったということであるし、角突き合わせたり平伏したりということなしに雑談で談笑できる立場にたどり着くまでの儀式としては、各地のそれよりも一段手早いものであるとも云えた。
「それでゲリエ卿の見解として、今後の共和国の情勢についてデカートではどう考えておられるか」
「困難と混乱を小さくしたいと考えておりますが、避けられない面も多いかと」
マジンの言葉に藩王はうなずいた。
「それは此度の帝国との戦争の影響かな」
「もちろんそれが大きいと思います。戦争に負けないための施策を様々に準備いたしましたが、なにぶん帝国との戦争に間に合わせるため様々に乱暴いたしましたから、無理が多いのは間違いありません」
「具体的には」
「人金物と様々慌ててかき集めすぎました。鉄道で北街道を固めましたが、地域で反応に格差がありますし、まだ繋がっていない土地とはさらに大きな格差があります。
鉄道事業は今後も急ぎ整備をおこなう予定ですが、そのために金と私財を会社が吸い上げれば地域を窒息枯死させることにもなりかねませんし、会社が持ち込んだとして今度は土地のヒトの心根を腐らせることにもなりかねません。
現実に鉄道が往来するワイルでは巨大な往来によって地税や住民の動き或いは鉄道の駅周辺とその他地域でわかりやすく住民の文化文物に格差ができました。
もともと厳しい土地ではあったミョルナの旧街道では商売が立ちゆかない様子です。
ワイルの時のような脅しつけの騒ぎは好ましい事態ではありませんが、性急に事を進めてゆくにあたってはいずれ避けられない事態でもありました。
十分に速度をもって共和国全域を席巻するには人材が不足していますし、現場で人を雇おうにも教育も足りません。商品の値付けも見なおしする必要があります。
今後土地土地によって大きく住みやすさが変わってくるでしょう。戦争そのものはおそらくダラダラと続くと思いますが、帝国がボクとボクの会社を名指しでなにやら云っているという話も聞きました。具体的には知りませんが、いずれ碌でもない言い分でしょう。
今後の戦争の展開に鉄道事業が必要であるのは共和国内に周知されたことかと思いますが、明暗両面を折り合いつけられるのは当面は私だけかと」
「鉄道か。この地に鉄道を敷くとしてなにが必要か」
「基本的には市があれば鉄道はどこなりと敷けます。ゆってしまえば、日々整備する必要のある街道なので、掛かりがはっきりと出てしまうこととその掛かりを厭うと使えなくなる、という特徴をご理解いただいた上で掛かりの覚悟とそれを押しても稼ぎを作る気概が必要ですが、遠くのものが大量に運べるので、必要な物が明確で手近の商いに足りないということであれば、いつ訪れるつもりなのかも怪し気な隊商に頼るよりは遥かに確実です。鉄道が敷かれ運行が滞り無く順調ならデカートからでも五日はかからないと思いますから、数が余っているようなものであればそれくらいで運べます」
「あの白い飛行船とやらは」
「どうしてもある程度、風まかせですが、当地からデカートまで丸一日ではやや怪しくおよそ二日というところでしょう。来るときは些か空で迷子になりましたが、そのくらいかと」
「どれくらい運べるものかな」
「およそ五十から百幾らかグレノルの間というところでどういう高さを飛ぶかと天候によって左右されます。天険山脈より尚高いところを飛ぶので、旅客設備はそれなりに準備していますが、千人を超えると少々狭いという感じです。小城のような外見の割には大したことがないという印象でしょうか」
「すると、今回の旅は随分と余裕があるということかな」
「そのとおりです。半ば思いつきで足を向けたので、このような運びになって恐縮ですが、全く望外の展開でした」
マジンの言葉に皮肉を感じたのか藩王は髭で笑った。
「些か急な話だが、帰路に便乗を望むことは可能だろうか。無論家族水入らずの旅ゆきであることは承知しているが」
「どちらまででしょう」
「鉄道を利用してみたいという者が家中に三十名ほどおる。その者たちをデカートまで運んでくれればたいそう助かる」
「わかりました」
「ゼフィー。これでいいな」
「はい、我が君」
ゼフィーと呼ばれた夫人が応えると、藩王は執務に赴いた。
午後は園遊会で、マリールの内縁の夫のお披露目会というところで、その前触れに色々あったおかげで準備のかかる各地のお城のご婦人方も来たい方来られる方々は粗方お出でになって、社交の場を暖めていた。
女性の騎士はいないという話だったのだが、騎士と武官とは別であるらしく、帯剣していたり銃剣付きの小銃を肩にかけたりという女性兵士はかなり多く、雰囲気からすると職分も男より下というわけではないらしい。
不思議に思っていると、各地のお城の奥方様たちが面白がって自慢の女性騎士を紹介してくれた。
この地で騎士とは収税免状と軍装免状を共に許された土地持ち領主を示す言葉で、その家長が騎士ということであるのだが、実は家長が男性であっても実務能力のない場合、或いは男性継嗣はないものの政治的な理由により家格の国への返納がおこなわれない場合、血縁女性が総代としてすべてを取り仕切っていることもあり、そういう場合に女性の騎士が生まれたりということもある。
騎士は須く男性である建前なので騎士同士で婚姻するということはなく、養子を継嗣とすることはあっても、当代で家同士が合一することはないし、養子の縁組にも当然に制度的な様々が関を設けている。財産の統合による貴族階級武装階級が大きな力を望む王権は当然にありえない。
女騎士を当主に押し立てた家は乱暴な言い方をすれば一般に裕福で軍備蓄財のある有力な家か、軍閥に支えられた強力な家か、長い大きな功労があった特別な家か、という名門の当主に女性が納まるということで、女性であっても騎士である必要があって特権的特例的な無理の結果として女騎士は様々に無理を強いられている。
背景として一夫多妻の弊害で女性血統に財産分与をすると激しく財産が細分化され、国財の統制が取れないという問題があり、女性血統は財産の継承権がないとされている。
といって、男性血統であっても息子たちに自主独立などと称して納屋一軒馬一頭のような財産分与を分家して騎士に立てたりするような家もあって、必ずしも財産がまとまって運用出来ているというわけではない。
叔父より甥が出来が良いとも限らずまた逆もあって、様々問題も多く気の毒なばかりの話も多いのだが、そういう流れの一つで女性騎士がいないわけではなく、またいると認められるわけでもない。ということである。
一種役職の性別というものが定まっていて、極端な例だと女性の騎士が女性の奥方を娶ったりという焦げ臭い悲恋めいた話もあるのだが、景気よく勇ましい奥方曰く男なんてタネみたいなものなんだから適当に間男拾って知らん顔して子供産んで、我が子なり、と云えば男よりよほど血統がはっきりしている、と言い放っていた。
ある意味でそれは全く生物的な男性血統の不確かさに対する正当な批判で、女騎士の様々の苦闘の日々を思えば人間としての非凡さを求められ、女騎士は優秀有能を日々当然と試される研鑽された人々ではあったが、云ったご夫人当人からしてその先に来るものをきちんと考えたうえでの言葉ではない。
かつてこの地に龍や巨人や悪魔たちが闊歩していた時代であれば女は文字通り家から出せない城の宝であったわけだが、既に人の当代に移って久しい今、魔法や銃砲火器が戦争の中心にあることを考えれば、戦争指導者である騎士が男だ女だ、と云うのは少々大雑把に過ぎるだろう、という程度の言葉のはずだった。
まして家伝の財産の話であれば家の話であって、当主一人の有能無能の話でさえない。
有り体に個々の家の話の最適を定められるほどに共和国の法制度や財政構造を支える流通や生産は強固ではなかったし、その配下諸邦国についても同様だった。
共和国州邦の法制度や財政を支える立場であるはずのマジンからして最小に整理された家庭制度である一夫一妻制に成行きはどうあれ真っ向逆らうような行状を示している。共和国の未開は制度としての国家よりも、信用できる組織としての血縁関係に支えられた家の必要を様々に示していた。
血族家族もそれだけでは信用出来ないものではあったが、様々に来歴や因習のある土地であれば約束としての国家制度にどれほど期待できるか怪し気もひとしおだった。
一方で封建制の家族経営というものにおいても、信用できる血族とその能力というものは貴重品で、臨戦下では男女の差を取り沙汰すことができるほど余裕が有るものでもなかったから、有能な経営判断ができるなら女性であっても構わなかったし、普段表に出すことがない女性がやっていたほうが落ち着いて作業が進められることもあって、子供を産んだあとの女性が経営計画の主軸に腰を据えることは当然に多かった。
そう云う女達は生ける帳簿のようなものであったから、ますます家から離れることができなくなってしまって、退屈を持て余し偶にある園遊会などでは日頃の鬱屈を晴らすようにはしゃぎ回るわけだが、今回はそこに新たな面子、戦死したはずのマリールとその良人とその奥方たちという者達が現れ、良人である人物は武芸改で称揚された者ということであれば、ますます話題は尽きなかった。
ゲリエ家の面々は園遊会であちこちの方々に手を惹かれるうちにバラバラに会場をめぐらされ紹介され、市を引かれる子牛のような有様であった。
引き合わされた幾人かの男女、いずれかの家門の騎士やその令夫人であったり、或いは家門の台所を預かる奥方様であったりという方々は鉄道旅行について、頻りに聞きたがっていた。それは単純に遠くの風物がどうこうというのもあったが、やけに具体的に運行の様子だったり、工事の技法だったり、機械の様々だったりというものを聞きたがる方々が多く、単純な興味という物をはみ出した雰囲気を感じるものだった。
そう云う風に昼間を過ごし、晩餐会の後にマリールの館の客間で酔い醒ましの雑談をしていた。長らく家に帰っていなかったマリールの居館は片付いてはいたものの落ち着いた趣味とはいえず、誰もがポカンと口を開けるような色合いと可愛らしい絵柄の壁や家具で埋まったキッチュな空間だった。桃色ピンク桜色と称される明るくやわらかな風合いの赤みの幅広さを想像力いっぱいにつかった内装は、桜や杏の花が何故手早く鮮やかに散るのかの理解に至るほどの圧迫感質量感を持っていた。
「こういうことならセントーラ連れてくればよかったな。昼間の園遊会、アレ鉄道事業の準備諮問の瀬踏みみたいなものだろ」
ゼフィー夫人の立場というものは基本的には財政計画の非公式の統括責任者というべきもので、マリールによればローゼンヘン館と会社の関係をお城と国に置き換えるとおよそセントーラを積極的にしたような立場で評議会の要請検討を受けての国務の査察を藩王陛下に変わって実施するような立場にあるという。
それはとてつもなく偉いんじゃないか、と思ったが、一族で経営を回そうと考えればそう云う風に偉い人が幾人かどっしり腰を下ろしている必要があって、ローゼンヘン工業の様々を日々滞り無く動かしているセントーラは恐るべき人材と改めて感じた。
もちろんセントーラ一人の能力というつもりは毛頭ないのだが、最初のノードと最後のノードの信頼と性能が系全体の信頼を決定的に左右するという意味において、セントーラの能力は絶大だった。
今現在のローゼンヘン工業の状況を体系的に理解している人物といえば、セントーラが第一人者であるのは間違いない。
「ほんっと、あなたセントーラ好きよね」
「妬いているのか」
「そりゃ妬くわよ。いない人の名前で顔明るくしちゃってさ」
「正直そりゃしょうがない。お前らより長い付き合いだもの」
不満気に鼻を鳴らしたリザにマジンは弁解した。
「アタシのほうが先に子供作ったのに、なんか納得いかない」
「兵隊にいっている間に男ができたり女ができたりとか、割りとあることだろ」
「ますますムカつく言い分ね。四人も女将校孕ませといて、そう云う口の聞き方がありますか」
「オマエがどの口で言うのか、十年前のオマエに見せてやりたいよ。それに十年前にはアイツはウチにもういて会社の計画の最初から付き合ってくれていた」
「しょぼくれてたセラムたちを連れて行ったら十年後に閣下と呼ばれるようになるって十年前の私に言ったら、大笑いして信用しなかったでしょうね」
「ファラリエラが大騒ぎしなかったら、アレを量産してやろうなんて思いもしなかったよ。作るのはいいけど、五百リーグも運ぶのはどう考えても手間が過ぎたしな」
「結局、鉄道輸送のおかげよね。輜重運用は兵站の根幹だわ」
リザがしみじみと振り返るように言っているとマリールが焦れたような顔になった。
「せっかく私の実家に来ているんですから、もうちょっと私の活躍も話しましょうよ」
「なによ、アンタなんか、戦争の最初でちょっと活躍した後は事あるごとにこの人の邪魔ばっかりしてたくせに」
リザがバカにしたように言った。
「そんなことないですよ。学校の先生とかして子供たちの面倒見てました。ちゃんと奥様然として留守番してたじゃないですか。クラウク村やゲリエ村の人達にはご領主様の奥方様って呼ばれていますよ」
「この人が量産体制の初動人員を運ばせてるときに邪魔したって聞いてるわよ。しかも屋敷に転がり込む時もなんか他所様にご迷惑おかけしたって。子供がほしいからってこの人の脇腹さしたり、腕の肉噛みちぎったり、邪魔したんじゃなくてなんだってのよ」
「むぁ。それだけ云われると、なんかアレですけど、クラウク村の人達はその時がご縁でお付き合いが始まったわけですし」
「これだけあってそれだけってこたないでしょ」
「でも、アレですよ。おねえさまに戦争引っ張られなければ、もうちょっとお役に立つはずだったんですぅ」
「そりゃこの人の仕事見てりゃ、犬でも猫でも必要ならなんでも突っ込んで仕事させるから役に立つでしょうさ。アンタが五体ばらばらにされて天井からぶら下がっててもカナリア代わりに歌謡ってりゃオルゴール代わりぐらいはできるでしょうしね。でっかいおっぱいぶら下げて哺乳瓶代わりにもなるわよね」
「ひどっ」
マリールもリザの言い様に絶句した。
「また千人も子供がいるからね。まとめて面倒見てくれる人がいるのは嬉しいんだ。今も何人かで面倒を看ているんだが、ね」
「戦争に行ってた女達がこの人の子種仕込むことになってるしね。来年年明けにも年季が終わるわけだから、兵隊ぐらしが気に入った連中以外は一旦帰ってくるわよ。半分も帰ってくれば百も仕込む必要があるんだからね」
マジンが出した助け舟をリザは蹴っ飛ばすようにして言った。
「……あのなぁ。リザ」
「アナタが仕込まないってなら、ちゃんと代わりの子種をあてがってやりなさいよ。若くて先のある女を手元に抱えてるのはまぁそれとして犬だって馬だって相手がいるといないじゃ、ぜんぜん落ち着き違うんですからね。特にアンタの家の裏に兵隊いるでしょ。ああいう連中の忠誠心ってのは金じゃ買えないけど家族や立場で買うことは出来るんだからね」
「そうなのか」
ショアトアに話を振ると流石にびっくりしたような顔になった。
「なんで、私に聞くんですか」
「そう云う風にボケなくていいの。男くわえ込んで痛がってるような子供の話はどうでもいいの。そうじゃなくて、アナタが囲ってる男がほしい女の話よ。アナタにブチ込まれてヒイヒイいいながらツヤツヤになるような成熟した大人の女たちのことよ」
「なんか嫌な言い方だなぁ」
なにを云っているのか、わからないふりを許さないリザの言葉にマジンは眉をひそめる。
ショアトアも黙ったまま口をとがらせていた。
「そう云う言い方しないと真面目に考えないでしょ、アナタ。大事な話してるのよ。このバカの話もそうだけど、若くて番と子供がほしい男女を手元で腐らせるなって言ってるのよ」
「バカって私のことですか」
ニコヤカなまま驚いた顔でマリールが確認した。
「他にどのバカが居るのよ。この人んところにどんだけ女がいると思ってんの。アンタが子供作ったとして、子供がほしい女がどれだけいるか、少なくとも五人や十人じゃ済まないわよ。千も女がいりゃ百やそこらは子供欲しいと思ってるし、数百は男欲しいって思ってるわけなんだから、一夫一妻制ってのはそれなりに雑な方法だけどそれなりに意味があることで、一夫多妻で食い扶持に困らず万々歳って云ったって、物事には限度ってのがあるんですからね。そう云うところにニコニコお腹膨らませたバカ女が奥様でございと来たら、火種以外のなんだってのよ」
「でも、もう間違いなく子種はいただきましたよ。まだ確定ってわけじゃないですけど多分本当に男の子です。ふひっふっふふっ」
「このバカ、ムカつくわね。なんかそれっぽい感じでなおさらムカつく」
「ふへっへっへっ。なんかこうお腹の奥からモワ~ンと伝わるものがありますからね。おうちの女性方が我が君の子種を欲しがる気分はわかりますよ。いいんじゃないですか、百でも千でもタネ付けてあげれば。そのくらい家人がいないと大家は回せませんよ。我が君の事業を考えれば、領民は十万やそこらじゃ利かないくらいなんですから、馬廻りで一万くらい血縁がいても別段いいと思います」
「なにバカなこと言ってるのよ」
「それがですね。バカなことってお姉さまは云うかもしれないんですけどね。我が君にはうちのお城をお任せできるといいわね、って話が母や兄姉たちの間からちょっと出てるんですよね」
「どういうことよ」
「うちの国と共和国とで係争してて帝国との戦争の流れでうやむやになっている土地で、ニジェナって土地があるんですけど、そこのお城任せる人がいるといいなぁって。そんで我が君がそこの城主になってくれるといいなぁって話があるんです。さもなきゃ、お腹のアーシュラの弟にでも」
「アンタがやればいいじゃないの」
「私女ですから」
「他のどっかの男じゃダメなの。地所のほしい騎士様いらっしゃるでしょ」
「それがですね。水はあるんですけど農地にできるような土地がないんです。山と森はあるんですけど、樵をして稼ぎ出すような土地につながってないんです。でもまぁ昔からの街道の一角でウチの土地が共和国と戦争してたような時分はそれでも重要な拠点だったわけですけど、今となっちゃ流石に人を貼り付けとくのもバカバカしいような土地になっちゃって、でも共和国にくれてやるのも業腹だって長いこと揉めてるような土地なんですけど、お屋敷の人たちで引っ越してきませんか」
「水があるならどっかの川につながってるんじゃないの」
「ギゼンヌまで一応つながってますよ。うちの土地だいたいマボータ川の源流ですからギゼ湖までつながってます。でもつながってたってそれだけで商売にできるって位置でもないんですよ。共和国的には川がつながっているからそこは俺んちだって言いやすいわけですけど。食料殆どギゼンヌ周辺から買ってくるような土地ですし。温泉が結構勢い良く出ている土地なんで、川も延々硫黄臭くて流れの淀むところとか黄色く焼けて、そういう土地が好きな薬草やら苔やらが生えているようなそういう土地です。まぁ別段一山全部そういう感じってわけでもないんですけど、大きく畑をやって収穫を得るということは出来ない土地なんですよ」
「なんか普段使わない裏道みたいな感じなんだな」
「まぁそんな感じで、早馬とかが使うような道で距離自体はあちこちに近いんです。けど、荷馬車落ち着いて通せるほど整備しているわけじゃないし、集落がないんで獣が出たり流れの匪賊が腰を下ろしたりと城が荒らされているんで困ってるんです。疎らに茶屋やってるような庵がないわけじゃないんですけど、通年やってるってわけでもないですし、往来に不便で食べ物がないから幾十人か以上置いとくわけにもゆかないし。お城も昔のやる気のある時分に作ったものだから、そんな人数じゃ守り切れないし掃除もできないような立派なお城なんですよ」
「つまり、マリールお姉さまのご家族はアレですか、そこを旦那様の土地にして鉄道の経由地にしたいなぁって考えているってことですか」
「そう。さすが、ショアトア、可愛い。賢い」
マリールに褒められて一瞬ニコヤカになりかけてバカにされたのかと疑ってショアトアの表情が複雑になる。
「そんな簡単な話ってわけじゃないんでしょ」
リザが少し尖った軍人の表情で改めた。
「まぁもちろんそうです。国の要衝の土地ですから。ウチは共和国と協定は結んでいますけど独立国ですから、どうでも良い土地の一角の所有権ならともかく要衝をまとめて他国の共和国の要人に投げ与えるわけにはゆきません」
「そこをボクが鉄道を通して城を集落として機能できるようにしろってことかな。なんか使いにくそうな土地だな」
「冬でも足やお尻を温めるには都合のいい泉や沼地があちこちあって、温泉は良いのがあるんですよ。あと、由来わからないんでアレですけど、隠し金山の話があったりとか」
「金山自体はそれなりの温泉が出るような山地であれば実はあちこちあるんだが、すぐ鉱脈が途切れたりするからそう云う廃鉱なんじゃないかな」
「だいたいそう云う生きた金鉱を他所の土地の人に上げるわけないでしょ」
「私が決闘で勝っていれば、我が君と晴れて結婚できたものを」
しみじみ残念そうにマリールが言った。
「なに言ってるの。アナタ嫁になっても相手のこの人の国籍は変わらないんでしょ」
リザがマリールの言葉に疑わしげな言葉を投げた。
「まぁ、そうですけど。でもほら、郷は妻を何人持とうが気にしない国なので、我が君が千人女をさらってきて子供生ませた話をしたら、もうすっかり母上たちなどはそういう男であれば婿にもらう価値がある、むしろうちの国にきて間男商売してもらいなさい、と」
「なに言ってるのよ。それ本当に話半分じゃないの」
リザが呆れたように言った。
「それでアレか、女騎士やらその令夫人やらが変な雰囲気だったのか」
いろいろ騒ぎを起こしておいて心当たりが多すぎだったのでその影響かと思っていたら、その他にも理由があった。
「女騎士が曲芸師や吟遊詩人を間男にするってのはウチの土地ではまだありますよ。そういう流れ者だと割合簡単に別件で処断しやすいですし、そういう人が騎士に納まることもありますし、お殿様でも子供に恵まれない方や男の子を亡くされる方も多いので、おおっぴらではないですけど継嗣では様々無理をされている方が多いんですよ。昼間の奥方様もツバメを囲ってるというか、殿様に付けられている方も大勢いるようですし、一夜の恋物語とか話のツマには鉄板ですよ」
「ああ、なんかそういう話もポロポロ出てたわね。嫌味みたいな感じでコッワーって思ってたけど、アンタみたいに子供作るためにいちいち殴り合いの決闘しないとなんないようなヒトたちだとよっぽど付き合いが良くないと子供どころじゃないわよね」
「どつきあいがよくないとって、お姉様捻りましたか。ふっへひっ」
よほど何か笑いグセがついているのか、マリールがおかしな声で吹き出すように笑った。
「マリール、なんかこれ本当に妊娠したみたいね」
呆れたようにリザが言った。
「もう、バッチリですよ。これもおねえさまが二日もぶっ通しでエロ魔術を送りつけてよこしてくださったお陰ですっ。ザッマーみろ。べぇーっ」
「そんなことしてたのか、オマエ」
「もぉ、ひっどいんですよ。私が色々お城ん中で家族に色々云われている中で、リザ姉様、魔法でずーっとエロ話。我が君のなにがいいだのどこがいいだのペタくたペタくたこっちを撫で回すように、もぉうっとおしいやら腹立つやら羨ましいやら」
マジンがリザに確認するとマリールが答えた。
「――そりゃ、五感の表現転送なんてのは魔術の基礎ではありますけどね、あんなんネチネチやられたら、心弱い相手は境界が崩れて解け死にますよ。あんな魔術の使い方するから死んじゃうんです。言っときますけどね、ホストが境界崩壊してたらお姉様も輪郭喪失に巻き込まれて死んじゃうんですよ。お姉様の身体は魔族なんですからね。グリフがなくなったら酷いことになりますよ」
マリールが一息吸って表情を改めた。
「どうなると思うのよ」
「人の形を保てなくなると思いますよ。その後どうなるかはわかりませんけど、だいたい魔族がヒトの形をしていない理由は人としてのグリフの喪失によるものです。そうなったときにどんな魔族が残るのかわかりませんけど、流石に墓石相手にお話するのは命日だけにいたしますわ。いろいろ忘れていると思いますけど、お姉様はもう死んだんです。いま生きて私と話しているのは、まぁ私もそう思っていますけど、魔術によるもので肉体的な生命によるものではありません。身体を動かしているのも魔力によるものです。だから魔力が切れたら崩壊します」
「あなたのウエディングドレスみたいな鎧みたいな感じになるのかしら」
「あんな上等になるとは思わないほうがいいですよ。あれはまぁ特別製ですよ。悲鳴を上げながら永遠に燃える石炭みたいなのも我が家では便利に使っていますけど、アレが本当に悲鳴だったらあんまりゾッとしません」
「リザの状態についてなにかわかるのか」
「ちゃんとしたことがわかるわけはありません。魔術は正直やった本人しかわからない事が多いですし、我が君がわからないということならわかりません。ただ、多分ッて言うことまででいいなら、リザ姉様を完全に置き換える存在を作ったってことだと思います。その材料に宝玉の心臓とステア姉様の氷砂糖の体とたくさんの魔血晶を使ったんでしょう。ジョッキで勘定するのが適当なほどの魔血晶が使われたと聞いて、母も贅沢に呆れていましたが、納得していました。いずれにせよ、リザ姉様の人格を完全に完璧に模倣しておそらくは肉体的な機能も模倣するように作っているはずですけど、色違い型違いなところもあるのは施術上の限界によるもので、術式として完璧ではないということです。どう完璧でないのかはわかりませんけど、馬鹿力の形で姉様自身が自覚されていると思います」
「よくわからないけど、私はリザ本人ではないのね」
「本人という概念は魔法においては存在しません。全てはグリフとしてアカシアオルゴンに存在します。あなたは我が君の魔法によってリザチェルノゴルデベルグゲリエとして望まれました。その意味においてあなたはリザ姉様です。ですが、魔法を使いすぎて主観の輪郭が崩れるとリザ姉様でいられなくなりますよ」
「私、やっぱり死んでるんですって」
リザに云われたショアトアは困った顔になった。
「そんなこと言われても困りますよ。変な風に魔法を使わないでください。死ぬようなことをすると本当に死んじゃいますよッていうことでしょう。いやですよ。また死んでるの見つけるのは」
「さすがショアトア。理解が早い」
マリールがショアトアの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「朝起きたら、心臓一個になってたとか冗談じゃないですけどね」
そこまでショアトアが言ったところで三人の秘書たちは失った目の代わりの義眼に手をやった。
「あなた達はそこまで心配しないで大丈夫。別段、食われやしないわ。園遊会で詳しい奥様方が診てくださったけど、ただのよく出来た魔法の義眼ですって。ほしいなぁって話もあったけど、それは我が君のお仕事。……それで我が君。よろしければ工房の見学をさせていただけませんかという博士の方々が幾らかいるのですけど、どうお返事いたしましょう。うちの母の件とは別なのですが」
マリールが請け負った言葉に三人は肩の力を抜いた。
マリールの言葉にマジンは首をひねった。
「あの場にそう云う雰囲気の人達はいなかったと思うんだが」
「別です。兄の領地の方々やらで、国ではちょっと身分の低い方々なんですが、兄の施策で取り立てている人たちです」
「ステアでまとめて連れてゆくのは構わないが、それでいいのかな」
「一緒の部屋にしなければ。ステアでは階を分けたほうが面倒がないかもしれません。お屋敷ではまぁ食堂も客間も多いですから」
「博士なのにそういう風に身分が低いのか。人種が違うのか。奴隷なのか。うちの工房の爺さん連中みたいな感じの」
「奴隷ってわけじゃないし、人種っていうか風習ですかね。博士ってつまり血統と関係なく出てくる学問知性に突出した才能を持つ個人じゃないですか。そういう人たちの評価って結構厄介なんですよ。頭が良くて算盤や雄弁が立っても何かに使えるとは限りませんし。兄のところはあちこちの断絶した家の領地を寄せ集めた土地なので、色々足りないものも多いんですけどしがらみの類も少ないんで、御役目にあぶれた威勢のよい博士たちをいい機会だから遊学させようかっていうことみたいです」
「そりゃいいが、明後日には出るつもりだが、間に合うのかな」
「兄にはそう伝えてあります。ダメでも飛行船の見学をさせてもらえれば、と言ってましたが」
「飛行船の見学と云って観て面白いかな」
そう云ったマジンの顔を見ているうちにマリールが口元を抑え吹き出した。
「うぷぷ。それがですね。その兄ラジウスっていう四番目なんですが、学志館の論文、いつの回のだか手に入れたらしいんですが、なんと十二万タレルも払ったらしいんですよ。それがまた読み終わっていないうちに盗まれてですね」
学志館で配布した論文は早いものでも十年は経っていないから、完全な形の複製本や私家本の印刷は出回っているという程でもないが、手控えのような抜粋と注釈をつけたものは写本の形でバラバラと存在していて、デカートではすでに当たり前になった簡便なライノタイプによる活版印刷やしばしば図表が読み取りにくくなっている写真製本によってそこそこの量が学志館の学徒を中心に安く出回っていた。
安いと云っても金貨一枚を割り込むことは稀だったが、まぁだいたいそんな感じの値段で薄手ながら読み応えのある冊子を、しかし理解の跳躍の必要な内容を一人で読み込むことはほぼ不可能であったから、そういう読み物を電灯の光の下で数名で読みこむことが一種の流行になっていた。
これまでおよそ読本読書というものは物品としても趣味としても一般には理解されないものだったが、学徒を中心に町中のあちこちで難解な本を難しい顔をして幾人かで額を寄せあっている姿が見られ、かと思えば計算尺以外に数字の用のなさそうな工房でも似合わない本を読んでいる者達が増えてきた。
金貨一枚と一言で云って流民なら一財産だし、開拓民であればその金で種芋でも籾でも壊れた農具でも一揃え或いは納屋や家の屋根壁を治すかという金額だから学生が気楽に読み捨てるにはあまりに高価でもあったが、鉄道ができてこっち日雇い旬雇い月雇いと稼ぎ口の数も質も増えていて健康で動きが人並なら鉄道駅のあたりで雨漏りのしない家を借りることは難しくなくなっていたし、日常的に読書ができるくらいに文字の読み書きに明るければ奴隷上がりの流民や亜人であっても人並みに扱われるキッカケになっていた。
そういう風潮の中で金や伝手があれば手軽に印刷ができることから詩人というモノが単にお家雇われの囲われ者から、一般向けの気の利いた代筆屋や翻案家としてちょっとした文集や歌集或いは散文などを街で売り出すようになり、一家を成す商売生業として文章書きというモノが成立するようになった。
それは鉄道沿線にバラバラと伝染するように広がり、人々の習俗に多少の変化を与えていたが、多くの土地では今のところせいぜいが、鉄道会社の博士先生がなにやらお勉強なさっている、という程度のことで留まっていた。
ローゼンヘン工業は専門の製紙工場や印刷製本工場を立ち上げていて社内資料の編纂に急ぎあたっていたが、追いかけ追いかけの仕事で紙や書籍の在庫は常に不足気味でもある。
共和国一般の市井の理解の内では、読書なるものが趣味として成立するのはまだまだ有閑な人々の高雅な嗜みとしてであって、趣味は読書と口にすれば呆れられるか唸られるかいずれ浮世離れした者と見られる有様だった。
ひとたび鉄道線を離れれば共和国での書籍は紙の生産と印刷の手間と流通の限界と国民の識字率から、極めて高価な品目で金貨数百枚という書籍は実は多い。そうあっても内容が怪し気であることも多く、記述内容の情報としての価値の他に美術品と同じような意味価値を持っていて、マジンの学志館の論文のような、極めてほぼ文字のみが並ぶような書籍は経文宗教書魔道書並に扱われることも多い。
書籍の代金が金貨千枚を超えるとなると流石に高価ではあったが、求める人々もそういうものだ、とわきまえていることも多いから、多くの人々に薄笑いの対象になることはあっても数寄者や好学の徒或いは衒学趣味の高級な必需品であり先物取引の対象でもある。
そういう時価と付加価値の付く高価な品であるから、故買目的で狙われることも多い。
「それって笑っていいことなんですか」
気の毒そうにショアトアが尋ねた。
「十五万タレル払って新しいの買ったら、そこに自分の文字で注釈の書き込みがあって書籍泥棒の一味に懸賞をかけたら、あちこちのお城の図書館長が捕まって大騒ぎですよ。で、あちこちの図書館で書庫にあるはずの稀覯本を調べてみると、全然少なくてあちこちで共有して書庫を探していると称して貸し出したり持ちだした本を取り返したりしていたという」
ショアトアに構わずマリールが笑いながら続けた。
「学校関係者としては笑えないなぁ」
「我が君の論文くらいの厚さの書籍になっちゃうと写本するって云ってもひとつきやそこらでできるものじゃないですからね」
「セメエ。論文再版の予定っていつになってたっけ」
「来月には案内の返事を取りまとめて部数を決めて、夏の講演会に間に合わせる予定です」
「十かそこら自由になるよな」
「いくらかは余る予定です。二百にならないようにはしてますけど、連絡の怪しい相手様もあるので」
「二十七万タレルはいくらなんでも気の毒だろう。デカートでなら千冊も買えるぞ。百冊差し上げたいがそんなにあっても邪魔だろうしな」
大量印刷大量製本の技術はローゼンヘン工業の社員教育を支えていた。本社社員の少なくない数が新型の印刷機や製本機の臨時運転員として、教本印刷に携わっていた。
おかげで論文資料作成の度にローゼンヘン館総出で紙を折ったり、まとめてのりを付けて製本したりという作業をしなくても良くなった。
型落ちの機械は市井に流れ、ローゼンヘン工業が製紙を事業に加えた時のような衝撃をデカートの様々に引き起こしていた。
「ああ。でも、百冊あっても困らないと思います」
マリールが云いたいことを察したように気楽に言った。
「そんな運ぶのが骨だろ。帰りはどう考えてるんだ。ギゼンヌまでは鉄道でいいとして」
いつものことながら距離感の狂ったマリールの言葉にマジンは呆れて云う。
「それより、いつまで置いておく気なの」
リザが不思議そうに改めた。
「さあ。たぶん、お屋敷がよろしいだけって感じじゃないかと」
「それでいいのか。御役目とかは」
「その御役目が定かならざる方々なので、身分もないような有様ですから」
マリールはそれでわかるだろうと云うように言った。
「それはまぁまたアレだが、俸禄がなくて身分がないということなら、ウチの社員格で預かってもいいが、それだと兄上は困るのかな。まぁなんというか、資料館の展示物くらいでもまじめに頭に入れようと思ったら一年二年じゃなかなか忙しいと思うんだが」
「お家がなくなった騎士の繋累の方々が多いので、細かなところは兄に聞いてみないとわかりませんが、立場があるわけでも身の証があるわけでもない、由来は知っていても身寄りのない人々ということなので、その辺りはそれぞれということかなと。帝国とはもう何千年だか戦っていることになっていますが、そうそうまじめに戦っているわけでもないので博士の何十人だかで揺らぐようならそれは逆の意味で心配です」
「単に各々の扶持の問題であれば、我が家預りではなく、会社の社員ということであれば、今年も二万くらいも人を雇う気はあるが、仕事はまぁ会社任せということになる。……クライ。社員募集の書類ってステアに積んでいたっけか」
「鉄道部のは確かありましたが、本社の方はどうだったか」
「条件はなにか違うんですか」
ショアトアが尋ねた。
「鉄道部は転勤はあるけど鉄道部内の異動しかないんだ。本社はまぁいろいろに変わることがある。缶詰工場とか屠殺場も本社管理だしさ、自動車とか電話がいいなぁって思って本社入っても家畜の解体現場とか山林で鉄塔に登らされたり浚渫船で船酔いすることもある。多少手当はいいんだが、思ったのと違う仕事っていうことも多い。本社人員は基本応援で回されるんだが、腰掛けのつもりで問題起こしたり、短い話が二年くらいになったりとか。バルデンの油井とか仕事が順調ならひなたぼっこして魚釣りするくらいしかない土地だからね。覚悟していても腐るよ」
「そういえばバルデンの話はなんか面倒になってるんじゃないの」
「オニート族だろう。バルデンの緑化実験がうまくいってるんだが、土地を返せと言ってきた。ラクダに草を食ませてやるくらいは構わないんだが、いろいろ難癖もつけている。こっちで色々云うのも面倒なんだが、軽くあの辺で兵隊の訓練をさせるくらいがいいかもしれない」
「警備部ってことかしら」
「本当は共和国軍がいいんだが、あの辺に鉄道敷くつもりがないわけでもないから、まぁそういうことになる。地質調査やって油井の準備しておかないと」
「あの辺、他にも石油出るのかしら」
「さぁ。正直わからないけど、水脈で油層がかき回されていないところのほうが作業はしやすいから、水の便の悪いところのほうが探しやすいと思うんだ」
「それなのに緑化するのって、いいのかしら」
「ついでに人手をかけて水を撒いているだけだ。百年千年もやって森が自立するようになれば話は別だが、三年五年で砂地が緑になったからって手を止めて家畜を入れれば半年で元の砂沙漠に逆戻りさ。土地に執着のない連中はそれでいいのか知らんが、こちとら土地を治める領主様だからね。ちょっとばかり手を考える必要がある」
「なんか、宛はあるの」
「一番いいのは連中を雇用して定住させることなんだが、あのへんはマトモな農耕文化がないんだ。それで財産や所有の概念がひどく曖昧で、婚姻や血縁という感覚も殆ど無い。他人なんかラクダや羊と一緒さ」
「それでよく社会が成り立つわね」
共和国の中には非常に尖った少数部族というべき亜人種が数多く共和国領域内に棲息しているが、オニート族もそういう国家という組織の概念の薄い人々の集団である。
亜人種が類人猿であるか人類であるかという線引は生物学的な未成熟から混乱して、しばしば骨相学や型示魔術のような伝承や占いに結びついていたし、そういうものがしばしば偏見や迷信をも生み出していた。
「まぁそのへんは文化というか、人間の本能というか、群れを保つ動物の本能というか、集団の中と外、身内と他人という概念はあるから、部族間の紛争が起こるし、取引も成立する。その程度には言葉も通じるし、オニート族も自分たちの言葉で会話をして社会を成立させているよ」
「獣の群れより少しマシって感じなのかしら」
「狼の群れとか渡り鳥みたいなのも、人里に近づいたら悪さするってわけじゃないから、マシかどうかはアレだけど、そういうことだろう」
もちろん枯れ果てた砂野原の着の身着のままの暮らしを続ける民草に何かを求めるほどに共和国も窮乏していなかったからおよそ没交渉だったが、地域地方では時たま問題になったりすることがないわけではない。
「でも取引できるならいいんじゃないの」
「そういう連中が部族の主流派、主導的立場ならな」
「ああ。そういうこと」
生物学的解剖学的な器質とは別に亜人種と呼ばれる基準の一つに言語での会話と交流が可能であることという定義があって、オニート族もかろうじて言語で交流ができるが、話のわかる人間が共和国語に通じているかは怪しい。共和国が協定での国民の扱いに男女差を認めていないことの理由の多くは広大な土地に人手が足りないというものだが、それ以上に男女の優位を土地の風習以上に認めると通商と軍事を重視する共和国の協定が求める国土の自由な往来の妨げになるからだった。
「いろいろ騒ぎは面倒だったけど、ここくらい文明的で家長が開明的な封建部族社会は正直助かるよ。開明的ってのが余所者にとって面倒が少ないって程度の意味の言葉であるのは間違いないんだが、文明的で商業的であってもワイルみたいな騒ぎになっちゃう封建部族社会もあるからね」
「そういえば、ワイルはどうなったの」
「どうもない。オアシスの部族会議にも出席していないし、ワイルのギルドとも直接公式のやり取りはない。金や人のやり取りも祭りの類も特にはない。ただ、こっちの拠点が駅だからなんとなく帯状に太い環状道路がワイルの南側に伸びていて、それを境にワイルと南ワイルッて感じで呼ばれている。警察権や打ち合いも北の端にペロドナー商会があって警備用の武装車両が幾らか控えているから、弾丸が飛び込んでこなければお互いおよそ知らんぷりしているし、むこうの手配書の人別は南側でもおこなっていて引き渡している。法的に明示された司法権はペロドナー商会にはないけど、警察権と治安責任はこの間、大議会の地方政務諮問会議で公式に承認を認められ求められた。鉄道運行施設周辺っていう曖昧な言い分だけど、共和国が仲介をしようと思い始めただけ前進した感じではある。それに話がややこしくなったら、ワイルを引き上げても良くするための準備もしてはいるんだ。ワイルを通っているのは、戦争の兵站にさっさとテコ入れしたかったからだけだから、ラギから南側に折れていってダリエルを経由するという計画もすでにある。商業的にはミョルナと南街道をつなげることは軍都につなげることよりもよほど意義深い」
「気になったんだけど、仮に本社にここの人たちを送り込むとそう云う面倒くさいところに回されるのかもしれないのよね」
「一応一年目でそう云うところに回されることはないようになってはいる。二年目からは色々だからなんとも言えないけど、警備部は本人の適性っていうか希望もあるから、どこでもいい、って本人が言って、住居の希望聞いて、適性訓練抜けないと配置されない」
「色々聞いているのね」
「職場が幅広くなったからね。部内旬報とか社内旬報で定期的に配置募集とか資格募集とかやり始めたけど、正直まだ手探りだ。単に金がいいとか、仕事のやり甲斐がとかだけじゃ身体が追いつかない職場も増えてきたんだ。バルデンみたいな果てしない砂浜みたいなところとか、エンドアみたいな緑の蒸し風呂みたいな土地とか。平気な連中は本当に全然平気なんだけど、ダメな連中はヤル気があっても本当に保たないからね。屋内作業ならそれでもなんとかなるけど、警備部ばかりは本当に危ないからさ。屋外工事作業も似たような感じで色々大変なんだが、そっちはもうちょっと余裕があるっていうか、計画が立てやすい」
「バルデンとかエンドアってお屋敷にいた女の人も幾人かゆかれているんじゃないでしたっけ」
そういえばというようにマリールが口にした。
「行ってるよ。うちの別荘があるから、春風荘のマイラみたいな感じで住んでもらってる。バルデンは周りに家もないから、騒ぎから離れてのんびり過ごすのに良い土地だと思ったんだけどね」
バルデンにある施設の管理を名目に五十人ほどの女達を置いていたが、家政婦とか施設の管理というよりは療養のために落ち着いたところで子供から離れて過ごさせるために置いている一種の修道院のような施設だった。もちろんそういう疲れきった女達だけでは立ちゆかないので幾人かついていってもいるが、会社の施設やいわゆる別荘とは少し違う。
自動車工場設備並みの大柄な設備ではあるものの構造そのものは簡素で人の手は殆どかからず、大柄な設備の常として問題が起きれば現地の人員資材だけではどうしても手が足りないことになるから、別荘というほど気楽なものではなかったし、生産設備という字面には似合わないのんびりとしたものだったが、保守点検と称する歩哨仕事があった。人気のない砂漠のことであったので、つまりそれは砂沙漠を散歩して日々過ごすということであった。
カシウス湖の浄水装置のパイロットプラントとして海水製塩淡水化施設が稼働していて、油井に隣接した石油化学プラントの余剰でオアシスめいたものを作っていた。
それはワイルにある鉄道で水を運んできた溜池とは全く違って、採算という面において石油が枯渇するまでほぼ無尽蔵に稼働する。
別荘と称しているのはその水を使って施設周辺に花を咲かせることを求めたことが、およそ日々の有閑を持て余さないための労務として家長としてマジンが求めたことであって、そういう風に使わないと海に戻すくらいしか使いみちのない真水を作れるくらいにはパイロットプラントは順調だった。
エンドアの施設はだいぶ本気で働く気になっている連中が行っている施設でふたつきずらしで年間八ヶ月を限度にふたつき休み無しの収容所管理業務の支援をおこなっている。
基本的には捕虜相手の窓口業務で役場や銀行に近い業務なのだが、帝国の言葉も共和国と一緒で方言が割とあって、両国の軍人経験者は共和国語も帝国語もだいたいそこそこ分かるのだが、大多数の植民者は自分の地域の方言しか話せなかったり、或いはそういう振りで誤魔化したりということも多く、面倒くさい事態も引き起こされている。
基本的には語彙と発音のクセということに集約されるのだが、語彙の意図するニュアンスがどの辺にあるのかということで、帝国の地方人同士の会話が成立したりしなかったり、ということが頻繁に起きている。
言葉を使った意思疎通の困難、と云えば薄笑いをするしかないような事件が頻繁に起きていて、ケヴェビッチは労務者の管理業務の一環として鎮圧ではなく整理誘導を労務者自身におこなわせていた。その支援業務にローゼンヘン館にいた帝国語に堪能な女性たちの協力を求めた。およそ二百五十名を現地にそのうち百人ほどを現場に置くことで、人心が臨界に達する前に手を打つ、というのがケヴェビッチの仕事で警察署長と云うよりは市長とか代官という職の方がやや近い。
共和国軍に出征しなかった女達の中にもそろそろ子供が人間らしくしゃべるようになり始めて屋敷に篭っているのも飽きてきた者達がいて、自らの意気を試したいという者達がちょっと難しい職場に志願した。
強面の男性と落ち着いた女性というものの価値は論理的に説明することは難しいほどの国籍を超越した普遍的価値を持っていたから、ナセーム所長も感謝を口にしていた。
自ら身の証を立てる姿勢には正直かなり助かっている。
「砂漠が病気少ないって本当なんですかね」
「どうだろう。乾燥しすぎててカビが生えないってのは本当だけど、病気が少ないかどうかはよくわからないな。でも、水を撒いた脇から乾くような土地だから日陰は涼しいってナーケンやワロウは手紙で言っていた。色々花が咲いているらしい。日当たりが良いからうまく日陰と水場を作ってやると、季節を無視した組み合わせで花が咲くみたいだよ」
「ふたりとも手紙を書いたんですか」
驚いたようにコワエが聞き返した。
「水だけあれば過ごしやすい土地だって書いてた。ワロウの方はジェヨルの代筆だったが、多少笑えるようになったってジェヨルが書いてよこした。どんな様子か気になるが、見に行って元の木阿弥じゃしょうがないし、急ぎの用もないからゴロゴロと寝て過ごせと返事は出してある」
「男嫌いの人たちね。自分の子供でもダメってのは気の毒よね」
「嫌いっていうか怖いんだろう。人の善悪なんて顔に刺青入れたり胸や背中に札付けて歩いているようじゃ社会も成り立たないんだが、とりあえず男は敵って決め打ちしないと生活が出来ないってのは気の毒な話だ」
「そんな状態でよく連れてこれたものね」
「市場に引っ張られる家畜みたいな感じで付いてきたんだろう。ウチ来てしばらくも炊事や掃除もできていたんだがね。腹が目立ってふくらんだあたりからおかしくなった」
「女の妊娠なんて兵隊の鼻にウジが湧くようなものだ、って笑って言ってる女の兵隊も多いけど、笑い話で収まらなくなったのね」
リザの言葉は兵站の都合で男女を共に前線に立たせている共和国軍にとって、必然といえる事態であり、面倒も害悪も当然に多い日常的な事件だった。
「そんなんでよくも戦争ができてるな」
「女は徴兵しないことになっているんだけど、下士官や士官はまだ全然手当が足りなくて女だらけの部隊は多いわよ。前線で徴募された部隊とか兵隊の奥さんたちが殺された旦那の代わりに機関小銃握って怒鳴りまくって走り回ってたりするし。そうでなかったら、お屋敷からあんなにざっくりお女中引っ張って兵隊にするなんて、いくら勝手も分からずでっち上げた新設部隊だからって、できるわけないじゃない」
「そんなんで大丈夫なのか」
「なにを心配しているのかよくわからないんだけど、強姦騒ぎは上官殺しと同じくらいしか起きてないわよ。前線の聯隊でもせいぜい月に一回か二回。年に十回も騒ぎになることはまずないわ。妊娠やら流産やらは部隊本部としては面倒だけど、配置転換をする事由としては割と認められているものだから、よっぽどヤル気の陣地以外では問責をすることもないわね」
リザの言葉は聞き捨てならないものだった。
「ちょっと待て。上官殺しってだいぶ減ったって聞いたんだが、毎年十人近く聯隊で死んでるのか。聯隊ってたしか四五千くらいの組織だろう」
「五千よりはだいぶ多いのが普通だけど。戦争からこっち、わからないように殺されてるだけかもしれないけど、兵隊の叛乱はだいぶ減ったわよ。なにを心配しているのかよくわからないけど、前線の若い中尉大尉の死亡事由の幾らかは兵隊の叛乱よ。まぁ叛乱って云うほど組織立っているわけじゃないけど」
リザとの感覚の違いにマジンは言葉を探す。
「その若い中尉大尉ってのがどれくらいいるんだ」
「きちんとした人数はそりゃわからないけど、小隊の管理に一人か二人。直接隊長として現場にいたり参謀として本部にいたりだけど、まぁそんなもんかしら。少尉はその倍くらい。こっちは大方現場にいるわね」
かなり想像通りの数字だったのでリザとの感覚の違いにマジンは一息ついた。
「聯隊に小隊ってのはいくつあるんだ」
「まぁ大雑把に百幾らかってところかしら。鉄砲と縁のないようなのとか名前だけしかないような小隊もあるけど」
「そうすると、オマエはいま、二百人くらいのうちが毎年十人くらい部下に殺されている、って言ってるんだが、それが割とどうでもいいことのように云ってるんだが、わかっているか」
リザの言葉にかぶせるようにマジンは口を開いた。
「まぁ、大体そうね」
あっさりと返したリザに一瞬マジンはため息をついて言葉を探った。
「そんな職場にアルジェンやアウルムを放り込むって知っていたら、軍学校になんか送り込まなかったよ」
「ん。ああ。そういうこと。あの子たちは平気よ」
「なんでそう言えるんだ」
「そんなの……ああ。うん。まぁ、兵隊の質と上官の質の問題よ」
リザは一蹴しかけ思い直したように説明を始めた。
「――基本的にうまくいっているところや忙しく働いているところで起きる事件じゃないわ。上手くいっていたところでも、激戦区から後方に下げられてぼんやりしているときに起きたりもするけど、自動車聯隊みたいな自分の仕事と他人の仕事が忙しくくっついているようなところでは、あまり起きない。
それにうちの兵隊は機械と付き合うことを覚えたからね。
自分が死んでも平気だけど置き換えが効きにくい高価な人材だって自覚もある。
幹部もそういう連中を使い捨てにしないことを心がけるようにしている。
自分たちの扱う装備の威力とその装備を扱うための日々の重要性を知っている。
鉄の塊をゴロゴロ転がして、グシャグシャに潰すような訓練をしたおかげで、自分たちがなにをしないでもちゃんと出来なきゃ死ぬし、道理のできてるうちは死なないって自覚があるから、真面目ってわけじゃないけどシャンとしています。あんな訓練がこの先もできるとは思わないけど、あの旅団に限っては上官殺しは当分殆ど心配ないわ。
適性のない士官下士官はアタシとファラとで弾いた。まぁアタシの言い分をラジコル准将とホイペット大佐が呑んだってことなんだけど、ファラが事故で殺しかねないしね」
リザは大雑把にだが、言葉を選ぶように順序立てて説明した。
「そんなんで大丈夫なのか。ファラリエラは」
ファラリエラはふわふわとした花のような笑顔とは真逆に極めて内面の規律に厳しい面があって、その琴線が非常に感度の高い爆薬じみたところがある。
共和国軍のひどく血圧の低い規律やそうせざるを得ない体制を考えれば、彼女に向いた組織とは思えない。
「一般現場向きってわけじゃないけど、自動車旅団の立ち上げには役立ってくれた。私一人じゃ道具立てまでってところで止まってたと思うけど、階段参謀連中には良い手本になってくれたわ。おかげで古参の幕僚たちは扱いに困ってたみたいだけど、機械は正論を好むって現場に染み込めば、ファラの仕事は一旦オシマイでもいいのよ」
「ボクの知っているファラリエラはそういうお硬い人間じゃなかったような気がするんだが」
リザがどこのどんなファラリエラの話をしているのか、マジンには今ひとつ実感がなかった。
「別に、今もお硬い人間じゃないわよ。ただ、押え方が上手くなって理詰めでガーッとやるようになったから、理屈っぽくて生意気だってだけよ。前はやりたいことのやり方がわからなかったみたいだけど、アナタのところで工房のおじいちゃん達や若い子に色々教わってるうちに、なんかそれっぽくなったのね。知識は付け焼き刃だけど、あれで体力と度胸はあるから、指がなくならない程度に運任せで色々やってまぁそこそこってところみたいよ。最後の方は兵隊の面倒見ている下士官連中にはアタシよりも話の通りが早いって事になってたわ。大した怪我もなく三十前に少佐殿になったら戦時下でもチョッパヤの昇進よ。アタシが云うのもなんだけどね」
考えてみれば、ファラリエラが工房の年寄り連中にどやしつけられていたのは十代から二十代への移り変わりの子供が大人になる時期だった。
少年期の最後を、戦争劈頭の無残な敗走という現実で幕を閉じた少女としてのファラリエラが、先輩のちょっとした火遊びに付き合わされた結果として、妊娠を経てこじらせたのは自動車趣味という十年前には誰もが理解し得ないオトナの遊びだった。
非力な女性でもおよそ文字通りに人の千倍の力をふるう千人力の鉄の猛獣を操る、という自動車運転を殆ど直感として理解したファラリエラは、当然に先達のいない機械の限界操作という領分に踏み込んでいた。
それはもちろん自動車乗りであれば、操作手引書はあくまで機械の機能についてのみで、それすらも工房から乗り出しであるから怪しいわけだが、そういう機械について特段に恐れもなく幾度か服をひっちゃぶき、あちこちに向う傷を付け、自動車を自走できない状態にし、或いはどこぞの納屋を壊し、という傍迷惑な実験と訓練を積み上げた結果として身に付ける感覚や作法であった。
自動車は最初から生き物にはありえない出力と速度域を限界としている機械だったから、マジンは相応に運転用の防具を準備していたが、ローゼンヘン館の敷地であったり鉄道の保線区以外の道の状態は自動車の出力速度域には全く向かない構造をしている。
くしゃみをしている間に十数キュビット空を飛んでいるなどということはよくあることで、それが水平にであるか垂直であるかもしばしば疑わしい。そういう道のほうが共和国では普通であった。
軽自動車や二輪自動車或いは原付自転車であれば、ひっくり返っても運転手一人で起こせるわけだが、その他の乗用車や貨物車では他の自動車が近くにいなければ馬の力では無理で牛を数頭使う必要があるし、同じように戦車もときたまひっくり返る。自動車の工具箱にはジャッキがふたつ入ってはいるが、それが一つでない理由や使い方に思い至る運転手は少ない。
ファラリエラも出掛けて毎回転げるわけではなかったが、無謀と挑戦の間の実験を実践としている回数は間違いなくマジンより多く、おそらくは共和国で最も多く遠く自動車で空を飛び、最も多彩な事故を体験している。荒野の途上で人が死ぬのはアタリマエのことであるから、幸いさした問題になってはいないが、幾度かは人や家畜を殺している。
自動車を運転する人間のほうが軍においてもまだまだ少数派であったから、そう云った感覚は全く理解不能な状況だし、自動車旅団が編成されそこに所属することになった幕僚たちも同様であったが、それでは部隊が立ちゆかず、最低でも原付自転車を所有することを求められた。
そう云う中でファラリエラは事実上の実技教官であったから、全く極自然に階級にかかわりなく訓練生たちのプライドを打ち砕いていた。
渡河を含む地形で騎兵の突撃や強行軍でかつては鳴らした地図参謀との伝令競技で圧勝した上でのことだったから、戦車を扱う運転手にとっては当然に導師というべき先達だったし、各車両の車長も運転手もファラリエラが危険といえばおよそ諦め、可能といえば知恵を絞る基準にしていた。
そう云う階級や職掌を飛び越えた礼賛は軍隊においては好ましいものではなく、一部の参謀が凹まされたなどというような事件そのものは割と些細ではあったが、重大なことでもあって、当然の必要としてファラリエラが旅団で果たした役割こそが旅団を精強にしたが、彼女の旅団における任期を短くもした。
全くよくあること、という一言で片付ける他には手のない仕儀で、凹まされた参謀のほうが後に気を使うような有様だったが、ともかく新規兵科新設部隊の立ち上げという困難事業においては、全くよくあることであった。
だがもちろん、栄光ある共和国軍は扱いにくいの一言で実績ある英雄を放り出すような組織ではない。
かくして誰の目にも大勝利という強烈な戦果を手土産にレンゾ大尉は少佐に昇進し、ゴルデベルグ中佐が無事存命であれば期待されていた自動車旅団の内情を手土産に軍令本部軍務課主計室に配置されることになった。
ストレイク大佐はゴルデベルグ准将の活躍を通して腕の良い猛獣使いとしての評価を定められていて、扱いにくさに関してはゴルデベルグ准将を上回るやもと目されるレンゾ少佐を預かることになった。
もちろんレンゾ少佐が活躍すればストレイク大佐は将軍になるし、彼女が大きく失態をすれば既に年齢的には配置任期更新のないストレイク大佐は昇進なく待役ということになる。
それはストレイク大佐にとってはゴルデベルグ准将の戦死によって、今次の戦争の戦闘局面での決着がつき、強力な振り駒を失った大佐がある意味で予想していた本部長からの肩叩きが、全く別の意味を持ったことを意味する。
戦争が大まかには集結したとかんがえられる折、ストレイク大佐の昇進はそもそも殆ど有り得そうもない事態だったし、一定の成果を上げている官僚が昇進とはいえ配置転換を軽々に望むような組織では組織の機能が疑われる。
今以上に昇進することに引退が見える時期まではこだわりもなかったが、年のいった娘の様な年齢のゴルデベルグ准将の妹分が転がり込んできたことで、ストレイク大佐はまだもう少し働くか、という気分に入れ替えていた。
退営のその日に准将に昇進してラッパで送られるのも悪くはないが、どうせなら将軍として部下を何人か昇進させる辞令に署名をしたいものだとストレイク大佐は考えていた。
ファラリエラが軍令本部に転属になってからまだ四半年も経っていないが、彼女の使っている乗用車は早くも二度目の修理依頼が軍都の自動車部に届いていた。
基本的にセミモノコックの車体はシャシーフレームに歪みがこなければ修理が容易であるから、大騒ぎするような事故でなければ問題もないのだが、一回はリアサスペンションを支えるサブフレームを交換するような事態になっている。斜めに後ろから落ちたか、車体が落ちた先に段差があるようなところだったのか、いずれにせよ数キュビットは間違いなく落下していて、どこから落ちたかどこへ落ちたかが気になるところではあったが、キャビンをぶち抜くような事故にはなっていないし、ある意味でサブフレームひとつが壊れただけでなんとかなったから自走して修理に持ち込んだとも云える。
元来四輪駆動の後輪をファラリエラは現場の応急処置で駆動しないようにして自走して修理の場に持ち込んでいた。
サブフレームが歪んだ自動車、ということは四輪独立懸架であっても車軸も歪んでいる自動車で荒野を何リーグもダラダラと走るのは正直ゾッとしない話だが、ともかくステアリング操作はできる状態だったらしい。ことによればシャシーフレームのモノコックを補強するためのサブフレームを整備のために取り外すことが難しいほどに歪が来ていたかもしれない。
そう云う所業を知っているマジンからすると、理屈っぽいというよりは無謀に荒っぽいわけだが、自分の評価が世界の評価というわけでないことはマジンもよくわかっていた。
「ファラの話はどうでもいいんです。私の話しましょうよ。せっかく私の郷に来ているんですよ」
「アンタの話なんてなにすればいいのよ。アナタが如何にバカで人様に迷惑ばっかり掛けてるかってことを説教すればいいのかしら」
「そんなわけないじゃないですか。私が如何に有能な軍人で内助の功に優れた夫人かってことを讃えましょうよ」
「外に出して子供産んだら落ち着くかと思ったら、あんまりおてんばの子供のままなのでおじいさまが嘆いてらっしゃったわよ」
「女は元気な方がつよい子が育つってお祖父様、おっしゃってくださいましたよ」
「そりゃ、アナタには期待していないってことじゃないの」
「女は子供の価値が母の価値で、上乗せされますからね。自分のことより子供ですよ。やっぱこれからは毎年ガッツリ子供作っていかないとですよ」
リザの皮肉なぞどこ吹く風でマリールは勝手なことを云って盛り上がっていた。
「なにバカなこと云ってるのよ」
「バカなことじゃありませんよ。毎年百人子供を産めば十年で千人ですよ。お屋敷に千人も女性がいるなら、あっという間に大隊どころか旅団が編成できますよ」
「二十年があっという間だって云うなら、そっちの方が、あぁあぁ、って嘆きたくなるわよ」
「別に歩兵聯隊に機械化大隊ちょこっと付けて軽旅団でいいじゃないですか」
「そんなのだって五六千とかってバッカじゃないの」
「でも、うちの母とかそれぐらい子供作れる男はいいなって云ってましたよ。女は頑張っても二十人が関の山ですからね」
「……それでアナタのお父さんは子供何人いるの」
「十五人ですよ」
「アナタはまずお父さんになんで弟と妹が五十人いないのか聞きなさい」
「忙しくて疲れているときは女の裸を見ると寝ちゃうんだって言ってました」
「お母さんはなんだって」
「妊娠していると月の障がなくて楽だけど、おっぱいがパンパンになって不意に漏れるのが困るって言ってました」
「……随分とはっきりした答えね」
「まぁ確かにアーシュラの時、ずいぶん早く漏れだして驚きましたけどね。でも毎年子供がたくさん生まれるならおっぱいは多いほうがいいですし、ある程度妊婦はまとまっていたほうが子育て楽ですよ」
「それはまぁそうかもだけど、別段一人の男じゃなくてもいいじゃないの」
「それは、アレですよ。ぷれみあむな感動に欠けますよ」
「どういうプレミアが付くって云うのよ」
「アレですよ。出産予定日がこううまい具合にズレているとか、想像と違って日にちが早くて、一体どこのタネだったのかなぁ。うわ、まさか指で妊娠してたのかしらっとかそういう想像がお楽しみなわけですよ」
「嫌な想像巡らせるわね」
「別段、発生学の上ではタマゴとタネがあれば他は関係ないですからね。我が君のお股拭ったシーツでお股こすってたら妊娠するかもしれないわけですよ」
「アナタねぇ。ショアトアが困った顔してるでしょ」
「むぅ。ダシに使わないでください」
「……。あのな。マリール。別段、ウチにいる女達はボクの子供を産んだってわけじゃないんだぞ」
「むう。我が君。実につまらない。そんな平凡軟弱なことを言ってはいけません。ここからは子供を産まなくなった女は追い出すくらいの勢いでいたほうが良いです。毎年百人子供が増えれば、あっという間に千人ですよ。まぁたしかに私も五十過ぎて子供産む元気があるかどうかは自信ないですけど、試すくらいはしたいですし、むしろやりますよ」
「まぁ、婿探しは真面目に考えることにするよ。男がいないといけないってこともないんだが、人数いないと畑仕事はしにくいし、愚痴を言うべき相手というのが定まっている方がいいだろう」
「なんッったる軟弱っ。ああ、我が君ともあろう方がなんったる惰弱であることか。ここはひとまず、ああ、そうか。マリール、オマエの腹が膨らむまで何人の女にタネを仕込めるか試してみようか、くらい言っていただかなくてはなりません。そして私は知っているっ。私の腹にタネを仕込む前にしっぽり楽しんでいたことを。殴りあいしようかっていう汗の緊張感にいい感じの倦怠感を孕んだ今朝方つうか夜中の我が君は大変よろしかった。もうなんてか一刺しいただいただけで、ああこれはタネ付くなぁって感じでしたよ」
「アンタなに言ってるかわかってるの」
「わかってます。女の身体がその気になっていれば別段男が射精する必要はあんまないよって言ってるんです」
「……。それは。そうだとしても何か……。マリール姉様。……」
今度は流石に困惑した様子でショアトアが口を挟んだ。
「だから、男が苦労したくなくて子供を作ろうと思ったら女の尻を並べて精液を薄めた物をちょこっとスポイトか何かでつけてやればいいんですよ」
「うわ。マリール。アンタ最悪」
「なに言ってるんですか。お姉様。郷の女騎士の方々は奥様ともども割とやっていることですよ」
「ああ、マリール。仮にそう云う方法で種付けてオマエは嬉しいのか」
「本当に我が君の子宝授かるなら割と」
「そういうことなら酒場の二階で春ひさいでればいいんじゃないの」
「誰でもいいわけじゃないですよ。それなりの殿方でないと。子供のタネははっきり出ますからね。特に女の子は」
「マリールが言っていることはわかったよ。世の中には子供の欲しい女がいて良人とは別に由来のしっかりした発生学上のタネで交配した子供がほしいって話もあるってことなんだな」
「堅い言葉で云えばそんな感じですかね。でももうちょっと簡単な言葉で説明もできます」
「それはどういうことさ」
「我が君には子作りの才能があります」
ふんぞり返るような鼻息で自信満々に言ったマリールの言葉にマジンは戸惑う。
「そ、それは。身も蓋もない言い方だな」
「身体が健康な男女でも、どういうわけか子供が出来ない夫婦の組み合わせってのは色々あるわけですけど、女のカラダが準備ができていても男のタネが準備できないこともあるわけですよ。男のタネも何割かはタネ以外のモノも含んでいるようですし」
「そうなの」
「色々あるみたいです。雑菌を殺したり他の男のタネを殺したり女のカラダをその気にさせたり、というタネみたいなタネの働きができないモノもあるらしくて、そういうのが多すぎる男のタネは相対的に薄くなるようですよ。タネ自体が共食いのような性質を発揮することもあるようですし。人の女は普通は猫とか犬みたいにいっぱい子供を産めるような作りってわけじゃないですからね」
「なんでそんなこと知ってるのよ。アンタ」
リザが疑うというよりも不審げに言った。
「それはわたくしお姫様ですから、他家に嫁いで実家に尽くすもよし、他家を富ますも佳しと幼いときに様々教えられてきましたから。正直共和国の実情はなんとも蛮地であることかと驚いてもおりましたが、考えてみれば牛馬に牽かせるか舟で風に任せるかしなければ庭先を幾らか出たところまで以上に歩くわけにもゆきませんし、我が城にしたところでデカートよりけして大きいというものでもありません。土地があってヒトがあっても出会いがあって学びがあるかというのとはまた別ですし、我が郷は帝国の脅しつけとその後の殴り合いとで勉強をする機会も資料も山のように残っているちょっとばかり不思議な土地ですからね。嫌味でもなんでもなく私、読み書き算盤のたぐいはお城の帳簿を読めるくらいまで仕込まれていましたし、正直軍学校の座学は退屈でした」
マリールの言葉を聞いてリザも流石に呆れて戸惑った。
「それなのに主席じゃなかったのね」
「それは今にして思えば仕方ありません。女で亜人で決闘の騒ぎ有名人ですから。お姉様も似たような理由でしょ。第一、学校の主席もらっても戦場の名誉に浴せるかはまた別ですし。本部参謀勤務じゃ、勲章もらうためには部下どころか同僚と上司にたくさん死んでいただかなくてはなりません」
「意外だな。昇進は興味が無いのに、勲章は興味が有るのか」
「昇進は配置と部下の日々の仕事じゃないですか。勲章は状況ですからね。家の者に説明するのが簡単ですよ。なんで昇進したのって説明するって云っても年次で繰り上がりとか、上の人が死んだとか、そういうのじゃ説明しても盛り上がらないですよ。むしろ上官ぶん殴って営倉に入っている間に昇進がなくなった話のほうが我が家では盛り上がりましたよ」
マリールは思い出すように不気味な笑いをこぼした。
「その程度で済んでよかったな」
「魔導連絡で自失中の部下に淫行を働くってのは、あちこちの連絡本部ではたまにあるんです。でもまぁ目の前で見ると流石に醜悪ですからね。思わずぶん殴っちゃいました」
ヘラっと軽口のように言ったマリールの言葉にマジンは呆れる。
「そんなのでも罪になるのか。昇進が無くなったって逆恨みじゃないのか」
「まぁその件は相手がもともと札付きだったので大した問題じゃなかったんですが、後日街場で見かけることがあって、手口を吹聴していたのを思わずぶん殴っちゃったのが仇になりました」
「兵隊のダボラにいちいち付き合うんじゃないわよ。どうせなんとなく喧嘩がしたかっただけなんでしょ」
「まぁだいたいそんな感じですかね。あ、いや、正義の血が騒いだんです。なんかこう少年兵士を助けよ、とかそう云う感じで。まぁ連絡参謀なんで士官扱いですけど」
「うん、なんだ。ひょっとして淫行を働かれたのってのは男なのか。ってことは女性士官なのか」
「ああ。そういうこともありますけど、殴った相手は男性です。何なんでしょうね。男でも女でも大して差がないはずなのに、こうなんとも云えない憤りが脇の下あたりから拳まで一気に駆け抜けるあの感覚は。見なかったフリしようとしていたはずなのに、いい感じで体が動いちゃって一発ぶち込んじゃったんですよ。男二人の裸とか修練場の格闘訓練とかで割りと普通にあって、そういうムキ栗のじゃれ合いと大差ないはずなんですけどね」
どういう状況でそういうところに足を踏み込んだのか全く分からないが、男性同士のハッテン場に女性が踏み込むということは、マリールの気性を考えればおよそ間違いなく喧嘩の相手を探していてのことだろうと思われた。
「まぁ、分からなくはないわね。女の裸を目の前にしてこっちを品定めをしない男ってのは牛や馬と変わらないから気楽なんだけど、そういうのが男の裸を嬉しそうにしているのはなんか色々ムカつく」
「女は同性愛の男が好きなんだとばかり思っていた」
なんと言っていいのかわからないが、一応話の区切りを求めてマジンは口にしてみた。
「好きっていうか、面倒くさくないからいいわよ。相手の内心がどうなのか知らないけど、いちいち色恋の鞘当てに引き合いに出されることもないしね。ただ、管理上面倒くさいから同性愛者は男女関係なく現場では嫌われる傾向がある。皮肉なことだけど、繊細で有能だったりするからなおさら扱いが面倒だしね。
男女の友情って結局色恋に負けるし、職務上の関係もしばしば色恋には負けるわ。幕僚とか部隊長とかやってると他人の股ぐらの盛り具合で自分の部隊の人間関係がかき回されることがよくある。
そういう流れで云えば男と女は見分けがつくけど、同性愛は見分けがつきにくいから手に負えない事態になってから気がつくことがあるわ。相手が少ないから地下組織を作りがちだしね。そういう意味じゃ男女ともに同性愛は軍では管理上嫌われている。けど、同性愛が名目の理由で昇進が突っ返されることはないわね」
「そういう意味では我が君のお家は気楽ですね。肉欲の相剋で百花どころか千も塗り固めた後で、戦争大勝利の立役者の御台所様が、愛人で何の不満があるのか、と声高に喧伝しているわけですから」
「御台所様ってのはどっちかというとセントーラのことを言うんじゃないの」
「ああ。なるほど。あちらもミンス産んでるわけですし、まぁ私からすれば義姉上ってところですか。それでなんだかお姉様的にはなにやらモヤ付くわけですね」
「モヤ付くっていうか、現実、屋敷じゃ彼女が主みたいなものじゃない」
「それは違います。お家の主は我が君です。その我が君が定められたのならお姉様が館の主です。束ねる要がどれだけ強く優れていようと、要は扇ではありません。要が抜け落ちたら、扇はバラバラになりますが、大事に扱えば要の換えは利きます」
「私が扇だっていうの」
「やだなぁ。仰ぐ人ですよ。そんなにセントーラのことが気になるんですか」
「そりゃ気になるわよ。この人も云ったけど、会社のこと全部面倒見ているのあの人なんですからね。アタシが滅茶苦茶言って車両向けの工具の類を工場が一揃え準備できるほどにさせたのだって、結局セントーラのおかげで通ったようなものなんですからね。バラ玉の代わりにネジ釘が撃てるって言ってたけど、聞いたらあんな量、鉄道でも使い捨てにはしてないって言ってたわ」
「それはそうですよ。鉄道とか電話の工員は会社では徒弟扱いなのか知りませんが、特務士官というよりも出すとこ出せば博士様ですよ。多少その気になったって兵隊がそういう人たちと同じ仕事できるわけないじゃないですか。ウチにいる一番のバカでも仕事ができるようにするのが本部幕僚の仕事です。
馬に食わせる麦粒ほどもネジを準備させたのは、ファラの言い分丸呑みにしたからですけど、他所の輜重の兵隊の都合は知りませんが、ウチではアレのおかげで随分事故も減ってました。我が君にはその節はご疑念もあったこととは思いますが、おかげで大方の者が棺に入ることなく帰ってこれました。ってことでいいんじゃないんですか」
「そんなのこの人には説明したわよ」
「我が君にはご不満があるのですか」
「土嚢に使ったと聞いた時は怒鳴りもしたが、今となってはどうでもいいよ。事情も見当は付くしね」
「古ネジや丸抱えしていた使えない部品類を随分便利に使わせていただきました」
古ネジとあっさりとマリールは口にしたが、共和国の世間一般の常識基準で言えば足掛けでも五年しか経っていない戦車は新品と大差なく、それが自損以外で破壊を起こすような戦闘は経験していない。唯一の例外はリザール城塞を囮にした空城の計による被害だったが、マリールが古ネジとか使えない部品類といったのは世間的には叩いて穴を開けなおせばまだ使えるような資材で、実際鉄道駅まで持ち帰れば修理もできるかというような捨てるには惜しいが、現場では使いにくい高価な廃物であったから、作戦後様々に問題になったし、しかしまた、圧倒的な戦功で埋め潰された話題だった。
そういう高価な廃材の捨て所としてリザール城塞を選ぶのは仕方ないとして、それを実地で戦闘指揮できなかったラジコル大佐は後方で歯噛みしていた。
だが一方で、戦術指揮の様子を極めて明瞭に報告と魔導連絡を行なうアシュレイ大尉の戦術支援ぶりと合わせて、これまでの共和国の戦争とは全く別次元の様々を見せつけられる様子で、舞台の袖から敵味方の動きを眺める機会を得たことは却ってラジコル大佐の戦争技術者としての様々を刺激していた。
「ラジコル大佐が連名して出した鉄芯入りの土嚢についての考察論文は読んだよ。参謀本部から論文査読の協力要請の申し出があった。要は、重たく固くて引っかかりのある形のある芯材を入れた土嚢は並の土嚢よりも強く、石壁のように破片を飛び散らせないってことだが、そこはまぁ間違いじゃない。ただ、陣地築城のためにそんな風に鉄を使う余裕が今の共和国軍の兵站にあるのかって云うとかなり疑問だがね」
「ラジコル大佐、そんなの書いてたの」
「ミツカーレン少佐とかそんな名前の人だよ。多分」
「ああ、マイズガーレン少佐ね。厩務参謀の」
「そんなのの参謀もいるのか。馬もいないのに」
「本部の士官はだいたい参謀ってことになってるのよ。本部要員ッて感じの言葉よ。自分ところに馬はいなくても他所の馬の面倒を見ることもあるでしょ。部隊間の伝令の主力はまだしばらくは騎馬よ。部隊が馬を使わなくても長駆してくる伝令が単騎ってことはないから厩務参謀ってのは殴り合い向きじゃなくても気の利いた将校の仕事よ」
「その中で少し気になってたんだが、爆薬入りの土嚢なんか使っていたのか」
「それは帝国軍ね。樽に爆薬と瓦礫やネジ釘を突っ込んだものを攻め手のあちこちに置いておいて、邪魔だからどかそうとすると仕掛けで爆発したりする。ウチは戦車で押しのければいいから割と簡単だったけど、重機で同じことをやると人は無事でもあちこち壊されていたくらいには威力があるわね。中身は石塊が多いから、小銃で撃ったくらいじゃ爆発しないし、動かすとなると兵隊一人馬一頭ってわけにはゆかないくらいには重たい。種類があるのか出来がまばらなのかどかしてすぐに爆発するってわけじゃなくて、やれやれという時を見計らって爆発したりもする」
「アレ、割と単純な造りなのに、始末に負えないところがあって、結局爆発させてやるのが一番簡単だったりしますよね」
「話から察するところ、そういうのを土嚢で囲っちゃえば簡単じゃないのっていう話なのかしら」
「論文の大部分は雑でもそれなりに強度のある布で作った土嚢は一キュビットほどの厚みがあれば、敵味方の小銃を凌ぐに足りるもので、鉄やガラスを芯材に加えたものは石壁を上回る強靭性を持ち、積みやすさを考慮すれば急造のレンガよりも陣地の材料に向いているって感じの内容だったかな。芯材の条件なんかはもうちょっと細かく読んだり書いたりしないと意味もわからないけど、つまりセメントに砂利を入れることで強度を上げるというのと発想や理屈の上ではそれほど変わらないし、乾いた土より濡れて締まった土のほうが重たく硬い、というそう云う論文の内容だな。経験的に兵隊が運べる土嚢の寸法も書いているんだが、長いものや手鈎をかけられる耳があるといいって書いていたな」
「ラジコル大佐は元来陣地戦の専門の方で本業おろそかにする気はないってことなら結構ね」
「ラジコル大佐からの戦勝のご挨拶みたいな面もあるでしょうね。参謀本部が論文査読を外部に委託するのは珍しいことです」
「そうね。御用聞きの往復しかしないような参謀本部が軍需の買い付け先にわざわざお知らせするような内容じゃないわね。直接商品に関わっているわけじゃないし」
マリールがそれらしい推測を述べた。
「そうなのか」
「参謀本部ってのは謂わば戦争専門の学志館みたいな戦争関係の研究所よ。自分の知恵に自信を持っている連中が商売と関係ない話でご意見伺いなんかするもんですか」
「別段、外部の人を招聘するということがないわけではないですが、どっちかというとそれは他所の仕事を拝見する形ですから、今回のように成果の査読のみというのは珍しいですよ」
「そうなのか。詳しいのか」
「私しばらく大本営勤務でしたから。逓信院は参謀本部と割合交流が多いんです。もともと一つの組織でしたし、逓信院の研究方針にはかなり参謀本部が絡んでいます。私も幾度か研究協力に出向したことがあります」
「まぁ、参謀本部ってくらいだから、おおかたの参謀はどこにどれくらいかはともかく勤務したことがあるわよ。軍学校を出た生徒は、参謀本部で書架の掃除をして軍令本部の階段を走るのが仕事みたいなものね。そういう意味じゃアルジェンとアウルムはちょっと変わったキャリアで始まったわけ」
「魔導資格持ちだとそういう雑役は殆どありませんけど、軍学校で言われていたような華やかさとはだいぶ違う現実でしたわね」
「参謀本部は、ある意味で虚学を実学として売っている組織だからね。政治が実業なのか虚業なのかという論はさておいて、兵站本部とは違う意味で怪し気な碌でもなさを抱えている組織なのよ。軍令本部の部外秘なんてのは作戦の結果が出ちゃえばどうでも良くなるものだけど、参謀本部の部外秘は関係者が全員墓の中に入った後まで秘密にしないとならないようなものもあるわ」
「そういう具体例を知っているのか」
「クーデターや叛乱計画の研究ってのは割と定期的におこなわれている」
「図上演習とかでは割と題材にされますしね」
「そんなのなんかの役に立つのか。というより、役に立ったらまずいんじゃないのか」
そう云ったマジンの顔をリザは肩をすくめて薄笑いをしてみせた。
「世間の印象とは違って参謀はいわゆる軍師ではないから、将帥とは違ってできるだけ自由に、もう一歩云えば状況が可能な限り無責任な立場から最善最良の究極を求め示すのが仕事なのよ。だから、大抵連中の云うことをそのまま使えるわけはないんだけど、それでも優秀有能な参謀の掲題提言そのものは理想や指針には成り得るの。
ま、昔話が格言を含んでいたり、戯曲の描写が示唆に富んでいるのと同じね。
で、個々のテーマとしては技術的な体系化を目指した分野もあるの。そういう人たちの大きな仕事として、装備取扱手順要目やら訓練教典とか戦術操典や作戦要務令或いは戦争法令みたいな色々ある、現場で使えるんだか使えないんだかわからないヤツをできるだけ信頼できる形で編纂して、時事に応じて改定することがあるんだけど、まぁ火の起こし方や蛇の捌き方やらから、星の位置やら太陽高度やらで位置を測ったり、かと思えば兵隊の徴募の仕方や部下の戦死を遺族に伝える手順や手紙の文例なんかも研究している。
ただ、色々やっているのは間違いなくて、内容そのものも読んだり聞いたりすればなかなか使えるものも多いのだけど、内容全てを兵隊に教えることは出来ないし、文書化はされていてもそれを閲覧する機会は殆ど無い。
私も閲覧できたのは妊娠や流産で事実上の禁足を食らって、資料整理作業のついでに興味の範囲で勉強していたからね。
まぁ当然どれも軍機ってやつで段階やグレードがいろいろ色分けされてて一言ではいえないけど、面倒くさいから軍機って言葉で便利に口を封じるわけなのよ」
「参謀本部勤務の参謀の言葉は全て軍機なので、彼らの言葉は聞かなかったことにする。ってのが兵隊の笑い話というか処世術の基本ですよね」
「直属の上官以外は大元帥の家の犬くらいに考えておけって軍令本部では云ってたわ。ある意味正しいと思う。大本営の中で中尉や大尉なんて伝書鳩だし、中佐や少佐なんてせいぜい時計番くらいの意味しかないわ。部屋持ちになってようやくだけど、それだって大方の大佐にとっては座敷牢みたいなものだし、殆どの将軍様だって奥様が怖いから仕事にかこつけて避難しているだけでしょう」
「なんか、酷い言い様だな」
「大本営なんて地方のあちこちを取り回している部隊や連絡室に比べれば建物は大きいけどやっていることはあんまり変わらないし、今の現場のことを知らない無能も大所帯だからいっぱいいる。現場を離れた幹部将校なんてあっという間に老いて朽ちるからね。
でも、ここしばらくの電話と鉄道それからそれを維持するための様々の波及で色々状況が変わってきた。特に大きいのは製紙が格段に安くなったことね。そのせいで書類のやり取りが細やかになった。口頭一番見せるだけみたいな命令書の使い方をしなくなったから、白紙の命令書箋を高々と掲げて虎の威を借りることは殆ど通用しなくなっている。デカートとか一部の商会でやっているような簡素な写真謄写での複写をおこなうことは軍ではやっていないけど、回覧されてきた命令書が付箋で重くなって書類行嚢に入りきらないようなことは起こらなくなってきた。
なにを言っているか整理が必要なら、十万人の大世帯でもただの寄り合いだから、皆自分の仕事をしていて、互いに身内ってほど親密でもないってだけよ。だけど、紙と電話が手早く普及したことで、仕事の付き合いの範囲がおどろくほど急激に広がっている」
「いいことみたいに聞こえるな」
「まぁ、元気があるうちはいいけど、大本営の建物のことを考えればあそこで生活することは出来ないし、電話と命令便箋が自由になるなら職場がどこでもいいとなれば、将軍様は気楽な稼業になるわけよ」
「悪いことなのか」
「将軍様にとっては悪いことはないわよ」
「含みのある言い方だな」
「そのうち問題になると思うけど、ならないかもしれない。現場に出ない社主が問題なく会社を回している例もある」
「我が君にはセントーラやロゼッタがおりますし、代替わりもしていないからなんとも言えないと思いますよ」
「ボクの仕事態度がよろしくないと言っているのか」
「そうは言っていないわ。でも誰もができる仕事の進め方ではないし、将軍と呼ばれる職責職掌にある人々も得手不得手があるちょっとした運命に選ばれた普通の人よ。閣下なんて呼ばれる栄誉も幸運かどうかも本当は怪しい。というか、そういう自分の軍歴を自分の才能や幸運だなんて無邪気に誇って喜ぶような人物は将軍には向かない人物よ」
「オマエの世界観は時々ひどく厳しいものになるな」
「世界観なんか知ったことですか。ともかくね。アナタがまとめて作ってよこした機械のおかげで大本営の将校たちは神の視座を手に入れたような気分になっているでしょうけど、そのうち大火傷をすることになるわ」
「おまえが前線で調子に乗って働き過ぎたみたいなことがそこらじゅうで起きるってことかな」
皮肉と言うつもりは全く無かったのだが、そういう風にさえ取れる言葉にリザはピクリと眉を跳ねさせた。
「鉄道会社も夜勤の人は多いでしょう」
「時差もあるし、当然人の寝ている時間帯にも列車は走っているからな。電話も電気も昼夜どころか嵐も吹雪も関係ない。天候が荒れることがわかっているときは人員の手当もしているが、間に合わないこともある」
「大本営も前線の本部もそこまで真面目に兵站を考えたことがなかったのよ。矢玉の飛んでこない位置に今いる人員の生命体力について、これまでは」
「これまでは、ということはこれからは違うのか。将軍様には云いたいことがあるようだが」
「将軍様というのが私のことを言っているなら、せっかく参事の席も頂いたことだし、少し考えがまとまったら大元帥には参考いただくわ。ただラトバイル准将が現場で編成した五個班八時間勤務体制ってのは面白いと思っているわ。実際には少し長くなるみたいだけど、一個か二個の班が現場でふたつが休養一個が待機で一日を回す。まぁ待機も勤務のうちって考えれば十六時間勤務だけど、電話があれば宿舎で寝てても問題ないわけだからね。電話が信頼できるならラッパ手をいちいち準備するより全然便利よ」
「それじゃあ、なにが問題なんだ。軍都は四年前に電灯も電話も敷かれただろう」
「そんなの決まってるじゃないの。将軍は一人しかいないからよ。日が昇って沈んで昇っての一日だけじゃなく、月が満ちて欠けて消えてまた満ちても休まず動く組織が既にギゼンヌでは機能しているわ。けど、それでも将軍は一人しかいないの。それに、大本営の勤務体制は建前の上では年中無休だけど、これまでは日が出ている間しか仕事にならなかったわ。蝋燭の火で地道な資料編纂や研究作業をしている参謀本部の人たちには頭が下がらないわけでもないけど、そんな紙魚みたいな生活をしている人たちは大本営では例外よ。憲兵総隊はまぁ監獄と変わらないからこれも例外だけど」
「例外は多そうだな」
「それはそうよ。建前では不眠不休で国事に挑んでいることになっているんですもの。それが建前じゃなくなったらどうなると思うのよ」
「人がたくさん必要になる」
「大きな古い建物にとっては致命的ね」
「そうなのか」
「そりゃそうよ。ウチの屋敷の改装でどれだけお金と手間をかけているか、ちょっと勘定して口にしてみなさいよ」
「まぁ、石と石炭だけで十億はくだらんね。手間はついで仕事だが十五年毎年手を入れている。だから手を入れた部分が全部残っているわけではないけどね。冷暖房や冷蔵庫なんかはもう三代目だし、風呂釜も二代目、厨房は電気とガスと上下水道に石油やアルコールと規模も内容も頻繁に変わっているところだな。有り体に屋敷の年代記を知りたいなら、ふたつの厨房を基点にするのがいい」
「自慢気ね。それを大本営でやって頂戴って言ったらどんな顔をするのかしら」
「ああ。まぁバカバカしいね。便所の整備と昇降機くらいはやってやらないこともないが、厠はどっか古井戸だか、暗渠だかに汚穢を放っているって話だったね」
「軍学校では兵站演習の一環として汚穢の始末を研究させて、馬糞と一緒に流域の農村に無料で引き取らせるようになったけど、大本営はそれぞれの建物が大きすぎてそれが五つもあるからね。つまりなにが起こると思う」
「建物の建て替えというか、新しい建物への引っ越しかな」
「十万人の引越しよ。このあと昼夜無くなる本当の不夜城になるとして、人が同じだけいるとして倍になる。まぁ、電話のおかげで伝令の用事はだいぶ減ったけど、それでも徹夜仕事を支えるつもりなら、ヒトが増えることはあっても減ることはないでしょうね」
「それはそうでしょうねぇ。逓信院でも電話とタイプライタのおかげで仕事が増えると予想するヒトは結構いました」
「金はどこから出るんだ。一体」
「そこが多分これから大問題になるわ。でも本当は金の問題よりも、引っ越しをするために時間とヒトが膨大に必要になるってところが問題なのよ。その膨大に必要になる人と時間を今の軍都は支えきれない。だからアナタの会社にケツを向けようっていう連中が絶対現れる」
「どういう風に」
「まぁ、色々あるでしょうけど、鉄道と電話と電灯を共和国に寄越せって言ってきても驚かない覚悟くらいはしておいたほうがいいわね」
「国有化か。言い出す連中もいるだろうな。だが路線計画ですら共和国全域に普及したとは云い難い状況なんだが、預けて大丈夫なものかね」
「おや、意外と驚かないのですね」
「どうせ、考えてたんでしょ。その口振りじゃ、今引き渡しても共和国は持て余しそうね」
「持て余すかどうかはわからないが、マトモな意味で投資を回収できるような計画にはならないよ。軍とは比較にならないほどの規模の赤字を定常的に垂れ流すことになる」
「投資したお金回収できているんじゃないの」
「それは、鉄道事業によってじゃないよ。鉄道周辺の不動産の売却や生産調整分の資材の回転で一部が回収できているように見えているけど、鉄道事業本体は真っ赤かだ。それは電話も電灯も一緒だ。ウチが儲かっているように見えるのははっきり云えば気のせいだ」
「でもお金にはなっているんでしょ。社債の分とか」
「タダ同然であちこちの土地を手に入れてそこで出てくるものやその土地自体を転売しているからな。鉄道計画の土地買収の余録で稼いでいるのさ。鉄道単独じゃどうやっても黒字にならない。稼ぎ口を持っている連中に転売するのが関の山だ。なぜってことはない。鉄道そのものは単なる道普請。しかもかなり高価な道普請だからだよ。道に金をつぎ込んでも道そのもので金を稼ぐことは出来ない。巨大な関所が目に見えて稼ぐようなことをすれば道は機能を失う。だから、鉄道は宿命的に稼げないんだ」
「何度かその話は聞いているけど、本当にそうなの」
「定常的な一般論としてはね。ただもちろん例外もある。鉄道そのものを目的にしているお客がいるという例外的な観光行楽客がいる。要するに旅館みたいにして列車の旅を満喫してくれるお客様でこっちの言値で様々な旅の手当を受けてくれる人たちだ。あんまり旅慣れていないお金がないわけでもないけど、どこにゆきたいというわけでもないような人たちは割と素直にこちらの案内に従ってお金を出してくれる。お金持ちよりよほど素直にね。他にこれは軍にやめてくれって云ってるんだが、軍が貨車を倉庫代わりに使っている。地味に儲かりもするんだが、管理のケツがコッチに向いているので有り体に面倒くさい。中身を改める権利がないものを管理することの面倒臭さを少しは考えてほしい」
「兵站本部には言っておくわ。それで、例外の方は行きたいところがないのに鉄道に乗るお客さんがいるってことなの」
「まぁだいたいそういうことだな」
「鉄道というものを試したいってことなのかしら」
「そういうのもある。けど、旅なんて考えたことのないような人たちがちょっとした浮いた小銭でほんの半日とか聞いたこともないような土地に足を伸ばすというそういうのが増えている。まぁ鉄道の物珍しさと世間の鬱屈からの脱出ってところだろうけど、いわゆる流れ者ではなくて市井の生業を持っている人々が娯楽として遊び半分で風景を切り替えるための気分転換に鉄道を使うようになっている」
「そういうお客さんに馬車や案内の手当をしたり写真や葉書を売りつけたりするわけですね」
「まぁそういうことだ。鉄道そのものは三等とか便乗とかで安く乗れても旅先で節制するには土地勘がないとならないし、そんなところで節制するようなヒトは浮かれ旅になんて繰り出さない。かくして鉄道そのものは全く稼ぎにならないけど、鉄道部としては稼ぎどころがない訳ではない。もちろん駅の食堂や売店やらも稼ぎどころだ。大きく儲かるってわけじゃないけどね」
「つまりなに。鉄道は不動産業やそういう一般向けの小売業で稼いでいるってこと」
「鉄道が通ることで利便が増すということが付加価値を作っているんだ。いろいろな理由で線路の左右はある程度土地をおさえていて、ただそうは云っても成行きで余計な土地というのも多いからね。そういう成行きで手に入れたものの使わなくなった土地に電線や道を伸ばしてやることで売り物にすることは多い。道が駅までと云わず線路まで通じているだけで多くの人々には魅力的に見えるようになる。電話や電気は言うまでもない」
「各地の収税人は電線を辿って行って人のいる地所を見つけるのが流行っているそうですわね」
「それは半分風聞だよ。電線の経路計画は州に報告しているから大方の人のいる土地は電線を追って辿るまでもなく州行政は把握している。それに一部の州については電灯電話には住民税が合わせて請求されていて会社が税金の収納に協力をしているところもある。デカートでもそれぞれ月に銀貨二枚割高になっている。電灯や電話を贅沢品と捉える人たちももちろんいるけど、デカート州政に限って謂えば、贅沢品というよりは人々が働くための働く気がある人達のための最初の投資と考えている。理念の上では無料にしろという言葉も元老院では出ているが、そうできないことは誰もが先刻承知で、安全な水と同じ値段に近づける努力を求む、ということになっている。デカートでは電話も電灯も稼げる商売には出来ないってことさ。
税金も色々な事故や災害に対する積立と用事がない場合には転用するを前提にした融通資金で第一の目的は電線の経路を整備するための人員の手当に使われているから、収税人が電線を追って家々を回るというよりは司法行政担当官が州の様々をくまなく回る方便として電線を追っているという感じが強い。デカートでは人別や警邏を口実にしてついでに他に色々させているわけだけど、収税はさせていないよ」
「そんな風に人を使う余裕が有るのは随分贅沢ね」
「義勇兵を公務員として一部維持する必要があったんだ。もう四期目だからね。そのまま司法や刑務行政に回すわけにはゆかないわけだけど、ぼんやり貧民窟に放り出すにももったいない連中だから一部は会社やあちこちの商会で引き取りもしたけど、公務員としてデカート州でも採用した。一部は義勇兵として再び戦地に足を向けている者や共和国軍に士官任官された者もいるけど、そういう訳で公務員はここしばらくで随分と増えたんだ。州軍と云うには貧弱だけど巡邏隊はデカート中を歩きまわっているよ。一般的な業態としては百人ほどの分隊基地があちこちにあって、五人かそこらの隊伍を組んで野山を散策して歩いている。司法権は特にないけど、公務員だから証人機能は強いし、街で雇っている保安官よりも組織力も強い。集落の自治の問題があるから保安官と完全に等価という意味ではないけど、裁判所の脇の留置所を自由に使ってよろしいという建前にもなっている」
「デカートの義勇兵ってことはアレですね。悪者に先に撃たせてやれ、敵はとってやるってあの景気の良い言葉を座右の銘にしている人たちですね」
奇妙にウキウキした様子でマリールが口にした。
「そんなことを前線では声高に叫んでいるのか」
「全部ってわけじゃないわよ。混交した地域を担当している一部だけ」
「そんなこと云っても警察軍の第一旅団って伝統的にデカート州義勇兵の多い部隊ですよね。武装の割当に自由のない憲兵よりよっぽど強力で憲兵が頭を下げて協力を願うのはあそこぐらいだって噂ですよ」
「単に下請けってことじゃないのか」
「憲兵隊がそんなに頭が柔らかければ輜重の往来ももう少し楽なんですけどね」
「下請けって云うよりは本当に協力の要請よ。戦争も長い上に戦線が上がったり下がったりしているから、いろんな風に人々が入り混じっている地域があって、解放地域というか軍の管制地域でもだれともつかない匪賊が多いのよ。そういう土地の集落を無血解放させるのが得意な部隊ってことになってるの」
「こう真っ昼間っから説得部隊と称する人たちが揃いの制服で集落の柵を囲うように並ぶわけですよ。小銃は構えず脇に杖にして。我々は巡察の警察軍だが周辺の匪賊について伺いたい、とやるわけですよ。大音声で。それだけで匪賊が寄り付かなくなるってんですからカッコいいわけですよ」
「そんな簡単にゆくのかね」
「そんな訳ないわよ。匪賊が暴発した幾つかの集落は皆殺しよ。そういうところでは説得部隊も犠牲を出している。有言実行の鑑と軍でも評価が高いわ。でも刃の上で押し相撲するようなハッタリを千人やもっとで出来るなんて頭おかしいわよ。腰の引けた連中が混じってたらそれでオシマイよ。とは言っても五年もそれで押し通せばハッタリというよりは実力で警察軍の中でも図抜けて戦闘力の高い東部戦線全域でも指折り優秀な部隊で有るってことは評判というより実績が語っている」
「マイルズ老はそういう風な人物ではないはずなんだが」
「やり始めたのはあの方よ。と言うかあの方が面倒くさい集落の説得に直に訪れて撃たれたのが事の始まりよ。さっきの文言もマイルズ卿が部隊を預けた部下のどなたかと交わした言葉らしいわ。その後は、匪賊対応の面倒臭さは敵味方の位置がはっきりしないことだからまずは敵をはっきりさせればいい。こっちから撃ちかければ全ては敵になるから、敵なら撃ちやすい、良民なら戸惑う状況を作ってやればいいってことになったのよ。デカートの義勇兵は歩兵だけど迫撃砲と機関銃を共和国軍よりも密度高く持っている部隊だから並の匪賊なんて問題にならない戦闘力もある。部下の統制の取れない匪賊のうろたえなんて数名の犠牲で皆殺しにできる」
「随分乱暴な穴の多そうな論だが」
「でもまぁ警察軍第一旅団が勇名になると多少混ぜ物があっても銀貨は銀貨というアレのおかげで宣撫活動は順調に進んだわ」
「匪賊を挑発して平らげるって考えればかなり杜撰な乱暴な対策だが」
「想像通りの事態もいくつかあったわ。正規軍でも警察軍でもね」
「我らの任務は戦地の護民。たとえ背中から撃たれてこちらに犠牲が出ても物語の悪役の悪人の真似をするな。ってのがカッコいいわけですよ。それがまた本当にできるあたりで敵味方誰もがしびれるわけです」
事実と伝聞物語をごっちゃにした様子でマリールが言った。
「アナタ、マイルズ卿に対する評価が低いようだけど、あの方はアレで勇敢な賢者よ。声高に人を小突き回すのを好むような乱暴な質ではないけど、小突き回して言いなりにできるような方じゃないし、人を小突き回すような無法を許すような方でもないわ。東部戦線を知っている軍幕僚ならあの方のやったことを評価しないわけにはゆかないし、デカートが最初の軍監としてあの方を送り込んだことの幸運を喜ばないわけにはゆかない」
たしかにそういう人物でもなければ、ヴィンゼの大きな出資者でありながら町長は他に任せ保安官などという閑職に収まって街を見守るなどということはできないだろう。明日をも知れぬ開拓地の町長という職はときに無法者と戦う以上の無法を護民の利益の下におこなう決断もある。狼と野牛と鹿と虎にはそれぞれ異なる勇気と正義がある。人の群れはそれを時処に応じて切り替えて文明としていた。
「そういう話は前線では一般的なのか」
マリールに話を振るとマリールは首を振った。
「というよりも、私が聞いたのは軍都で電話と電灯の試験運用が始まった頃からですかね。前線の様子が一般に噂話として巷間に流布するようになったのは。前線では隣り合っていない他所の部隊の様子なんて却ってあんまり噂話にはなりませんよ。噂話したいと云ったって、そんな事情に通じた上で暇な人は陣地にいませんし、そういう噂話は参謀の特権みたいなものですけど、連絡参謀は一般の参謀からは切り離されてることが多いんです。連絡参謀に情報が乗るってことは噂話ではなく一般情報として共有されるってことですから、軍として事実認定したって意味になっちゃいます。一般情報としてはもちろんそれ以前にも色々な参謀経由で大議会にお勤めの方々にはお伝えしてましたし、そういう方々が色々口の端にのせることはありましたけど、電話と鉄道とで速度や信憑性が上がったので噂話の質も量も増えたってところですね」
「噂話ってのはもっと気楽に広まるものなんじゃないのか」
「町中に限って謂えばそうですけど、軍隊の陣地ってのはそれぞれ他所の街ですからね。全員が人語を忘れていないか試したいほど暇ってわけでもないですし、陣地の兵隊はだいたい死ねとかクソとか単語レベルで人語をやり取りするようになりますよ。人の言葉を喋れる兵隊は新入りの交代の兵隊くらいですから、噂話もそういう兵隊たちが持ってきたものくらいに限られます」
「要するに前線のことを後方が気楽に知ることができるようになったのが、この五年くらいのことなのよ。それまでは没交渉もいいところ。大本営の指導が行き渡るはずもないけど、そういう風に戦争していたのよ」
「よく戦争ができてたな」
「まぁ、帝国軍もあんまり戦争をしているって意識がなかったんでしょうね。適当にやってればいずれこっちが音を上げるって思ってたかもしれないし、実際そうなりかけてもいた」
「気の毒をしたかな」
「大本営にもそう思っている人たちはたくさんいたわ」
「それは、売国の徒とか敗北主義者って奴じゃないのか」
「そうは言える人たちだし、事実自分の国務を売って利益を上げた人もいるわけだけど、反面の事実として勝利の見えない戦いでもあったのよ」
「随分諦観混じりだな」
「私とお姉さまの大勝利でも共和国軍の勝利ってのは導けませんからね。少なくとも共和国の勝利ってのを敵国の意図の粉砕っていうわかりやすい形で求めることは共和国に限っては殆ど期待できません。帝国とは事実上国交がありませんし、わかっている帝国全土を占領するわけにもゆかないし、名にしおう帝国本土を直撃できる宛もありません」
「よくそんな相手と戦争できているな」
「戦争なんて相手国があればいつでも出来るんですよ。それに帝国とは共和国協定制定以来、それ以前から千数百年ずうぅっと戦争しっぱなしということもできます。西の諸王国がよくわからない理由で紛争をふっかけてくるのと同じように東でも戦争が終わった試しもないんですよ。西方諸国が時々思いついたように送ってよこす宣戦布告なる絶縁状だか果し合いの申し込みだかみたいなお手紙のやり取りは帝国との間ではこの千年来殆どありません。ごく偶に司政官なる方が思い出した様に恭順の勧告に来るくらいですかね。うちの国が共和国と協定を結ぶ気になったのは、共和国の国軍が頼りになるというよりは、頭の悪い連中の愚痴を誰かにこぼしたいってのが半分くらいあったのは間違いありません。
まぁ今回も策源はデカートかと邦の武官たちは薄笑いと共に注目している様子ですけど、つまりはそういう縦深のある国力を羨ましく思っている事実はありますが、そのタネが顔見せに来たっていうのがこれまでとはちょっと違うッて感じです」
マリールが絡めていった言葉の意味する先であるマジンは流石に眉をしかめた。
「それで具体的にボクに何か話があるってわけじゃないんだろう」
「アレだけ色々あって、鉄道敷いてくれって以上にまだ具体的にってナニがあるってのよ」
「確かに個人的な騒ぎとしてはゲップが出るような内容だったけど、今の口振りじゃ全然これからってことじゃないか。それでキミのお母上はなにを考えているとかあるのか」
「父上じゃなくて」
「お父上はそういう意味では割りと保守的というか堅実な方だろうさ。ダビアス殿もそうおっしゃってた。献策を承認する決定をするのがお父上であっても策を示すのはあの方ではないだろう」
「色々ありますけど、母上は我が君が次にやらかすことを気にしておられました」
「やらかすってのはどういうこと。なんかオシャマなイタズラでもこの人がやるっていうのかしら」
「まぁだいたいそういうことです。経験や知見による研究や技術としての魔術の体系とは別に魔法使いというのは世界に開いた穴をそれとして本能的に使える人々のことを指す言葉なんですけど、何千人目だか何億万人目だかの魔法使いとして我が君がこの世に現れたのだろう、ということです」
「魔法使いの免許講習を開こうっていうんじゃないでしょうね」
「さすがお姉さま話が早い。だいたい基本的な話題としてはお姉様のためでもありますよ。好き放題魔術を使うとグリフが失われる可能性が常にいくらかあるわけです。人間であれば単にそれは死っていう概念に隣接したリンボウに送られるだけですけど、お姉様は既に魔族ですから、そこから先がまだあります。どういう性能の魔族になるかは当然誰にもわからないわけですが、お姉様の性格や能力的な傾向を考えればほぼ間違いなく戦闘向けの魔族が顕現するだろうと予想されています」
「ショアトアに聞かせて良いような内容なの」
「やだなぁ。ここにいるのは義理の姉妹ってことになっているはずです。それにお姉さまと我が君だけに聞かせても事が起これば、お二人だけじゃどうにもなりません。逃げるにせよ抗うにせよ身近な人々には事前の説明が必要で覚悟はしておいてもらわないと困ります」
「つまりなに。私はとてつもなく危険な存在だってことかしら」
「人間の皮が剥がれて本性がむき出しになれば、おそらくは太古の巨人や龍と同じくらいには危険でしょう。魔術の効力切れってのはまず間違いなくその皮の剥げる条件の一つなわけですけど、他にいくらか条件があるはずです」
「マリール姉様。質問です」
「なぁに。ショアトア」
「リザ姉様がそういう危険な状態になったとして、私達に何かできることがあるんでしょうか」
「良い質問ね。はっきり言えば直接できることはあまり想像できません。ただ危険な徴候が起こったときに逃げ出すなり抗うなりの心構えをしておく必要はあります。それはここにいる私達だけではなく、お屋敷にいる全員に必要なことだし、少なくともリザ姉様と我が君を身内と見做している方々には理解しておいて頂く必要があります」
「それで、この人に魔法講習をおこなうと何か私がマシになるのかしら」
「お姉様がマシにならなくても、これ以上危なくなる機会が減るといいなぁということですよ。我が君は当代随一の戦士の一人です。錬金術の素養もあります。魔法はまぁカラキシということのようですが、お姉様を魔族に転化させてしまったことを考えれば魔法が使えない素養がないということはほぼありえません。反魂の儀術に独力で至れるということはそもそも異能というべき資質です。もちろん我が君が上手く乗り切ってくれればそれが一番なのですが、たまたま危ないときにたまたま我が君が不在ということは十分にありえます」
「つまりどういうことよ。私がおかしくなったら座敷牢に閉じ込める算段を私も含めてしようってことなのかしら」
「ま、そこまで云ってよければそういうことです。この手の話は段取りと前段の成行きの周知徹底が必要ですから。兵隊の訓練や災害の備えと一緒です。そのふたつよりちょっと面倒くさくってわかりやすい説明が難しいですけど、基本覚悟を決めて日々楽しく過ごしましょうっていう決起が必要という意味でと、事件が起きれば災害と同じく独力で対処することは殆ど期待できないですから、その時に備えてということですね」
「その時っていつよ」
「わかる訳ありませんよ。千年や万年先ということもあるかもしれません。だからお姉さま自身に自覚と理解して頂く必要があるんです」
「自覚できるようなことなのかしら」
「そこは子供たちの未来の為にも自覚していただかないと。突然奇声を発したり火を噴き上げたりっていう事になるかもしれませんし、馬鹿力で家財や家具を壊しまくるという事態かもしれません」
「つまりファラの運転する自動車みたいな感じになるってことね」
「まぁああいう風に壁を突き破って出てきたり空から降ってくるかもしれません」
「私の正気を疑われているわけね」
「魔法ってものに正気があるって考え方は甘いですわよ。お姉様」
「それで、正気を失ったリザが危ないというのはわかったが、なにをどう準備すればいいんだ。よくある墳墓の玄室みたいな地下牢が必要ってことか」
「どういうものを思い描いているのかわかりませんが、そういうものもあれば心強いですね。この手の話に地下迷宮はつきものです」
「どこまで本気なのよ」
「どこまでというか、軽口ではなく事態は深刻です」
「アナタの態度は深刻な話をしているように聞こえないわよ」
「既に引き起こされた事態で、危険で深刻ではありますけど、その危険は今ここで猛威を私に振るうような種類ではありませんから。謂わば事態は既に進行したが、直ちにその被害が顕現するようなものではない。今直ちに被害はない。というところです。今のところ山に例年になく大雪が積もった、って程度の事態です。春先に起きる雪崩の被害が大きいだろうねって程度の話ですよ。今のところは」
「だが、その被害は必ず起きるんだね」
「魔族というものの性質を考えれば」
「どういう被害かはわからないんだね」
「単に伝承に基づいて、伝承と云うにはちょっとばかり生々しい先祖の記述もあります」
「悪魔がどうたらっていうお話じゃないんでしょうね」
「そういうお伽話もいっぱいあります。けど基本示唆しているところは変わりありません。つまるところお姉様はそういうお伽話の主人公になったわけです。当然このあとお伽噺の主人公らしく様々な試練が待ち構えているわけですが、それがどういうものなのかは今はわかりません。そして主人公の章が終わった後は敵役の章が始まることになっています。実のところお姉様はかっこよく共和国を救い勝利に導いた大英雄ですから、主人公の章は実は終わりで敵役の章がいきなり始まっても不思議はありません」
リザはそう聞いて、呆れるでもなく口元を一瞬尖らかせ表情を消した。
「それで私が魔族というものになったとして、なにをどうすればいいの」
「特段は。心穏やかに命健やかに。人としてあるがままに」
「マリール。なに言っているかわかっているの」
「なにって、大事なことですよ。魔族の表層にあるお姉様の存在が維持されることが、来るべき危険が顕れる事態を遠のけ緩め減らす上で一番大事なことなんです。そりゃ星の国まで往って何万年も殴り合いをしたその挙句にカラッカラになった魔族が無害なのはそれとして大地を巡っている星屑の殆どがそういう風に暴れまくった魔族の残骸なのはおそらくそういう事実として、そういう風に揮える力が今枯れないままに存在するというのが問題なんです」
「なに言っているのか、わかって言ってるの」
「冗談ってわけじゃありませんよ。むかしむかし大昔人々が星の世に出るにあたって広大な宇宙の真空に枯れない強大な力を求めるにあたって創りだした技術の果てが魔族であり魔法です。元来それは地上で揮うような種類のものではないのですが、大きな枯れない力であったことで豊かな利便を求める人々がむやみたくさんに文明に組み込んだことが事の始まりですよ。魔族も元はダニより小さなものとして作られていたそうです」
「家の中で自動車に乗るようなものぐさをした連中が多かったのね」
「そこまでわかりやすいことだったのかはわかりませんが、まぁだいたいそういうことでしょう」
「それで具体的に私たちにできることはあるんですか」
ショアトアがそこまで聞いて改めてマリールに尋ねた。
「一番はお姉さまの身に異常が迫らないことに気を使うことね。落馬とかそういう些細な怪我はおよそ大丈夫だと思うけど、溺れるとか火事とかそういう出来事はとても危ないはず」
「川に溺れたら魚になるとかそういうことかしら」
「お姉様、冗談のつもりでしょうけど、そういう可能性は大いにあります。魚ほど可愛い姿になれるかどうかは怪しいですけど、魔法の本質はそういうものですよ」
「変身なんて高級な魔法が私にできるわけないじゃないの」
「変身そのものは、元の姿に戻ることを考えないのならばそれほど難しい魔法ってわけじゃありませんよ。ただ、間違いなくグリフを傷つける行為なので魔術師の寿命を削る行為です。というか、お姉様の存在そのものが変身や変性という錬金術の極意の形です。尤もそれを我が君に云ったとして我が君にそういう自覚があるとも思えませんが、人体や魂魄に対する錬金術の応用です」
「ボクは単に形を模して心臓を作っただけなんだが、そんな大したことだったんだろうか」
「もちろん私には理解できませんけど、心臓を組み付けるときや抜くときに心臓が動くような動くべきような形に歪んだんじゃありませんか。形があって動きがあれば物事が因果によって機能するっていうのは物理の基礎じゃありませんか」
「物理というものはもう少しわかりやすい具体的な形を考えるための方便なんだがね」
「物事の最初と最後がわかっていないことを簡単に具体的にできるはずがないじゃないですか。ことは他人の起こした何万年も前の物理の結果です」
「宇宙開闢なんかより人の意志の方が遥かに業が深いな」
「ええと。つまりどういうことでしょう。私たちにできることはその。リザ様の心臓が人間らしく動いていることを確認するようにすればいいのでしょうか」
おずおずとコワエが口に出した。
「コワエ。いいこと云った。現実お姉様の体でなにが起こっているのか。およそ誰にも想像は出来ないけれど、お姉様をつつむ魔法が人間らしく振る舞うように機能している間はお姉様の人格や機能は破綻しないように人並みに人間らしくあろうと機能する。はず」
「はず。って言うけどそんな単純なことなの」
「単純なって言うけれど、魔法の原理はともかく機能は極めて単純なものですよ。人の望みを叶えようとする動きです。しばしば人の望みの曖昧さや単純さからとてつもない渦になりますけど、物事の形としてはひどく単純です。お姉様が人であることを望む限り人であることを認識する限り、お姉様は人であることができるはずですし、そうあることが我が君の望みであるはずです」
「はず、はず、ってなにもわからないのに随分と気楽に云うのね」
「まぁ、こう言っちゃなんですけど、元来極めて深刻な事態ですからね。反魂の儀法で魔族を新生させるなんて、ここしばらくなかったはずの出来事です。少なくともうちの郷では千年紀のうちで上手くいった話は聞いていません」
マリールが随分と明確に歴史上の事業を断定して口にした。
「上手くいった話ということは試みそのものはあったということか」
マジンが興味にかられて口にしてみた。
「帝国では幾度か、うちの郷でも一度か二度、共和国のどちらかでもやはり幾度かあったと聞いています。共和国では数十年前私達が生まれる少し以前にやはり試みと研究はあったようですね」
「上手くゆかないっていうのはどういうふうに上手くゆかないんだ」
「色々ですよ。基本思った通りの成果が得られないという程度の意味合いでしか伝わっていませんから、どこかまで上手くいったのか、そもそも試みがなにを試みたのかということはわかりません。うちの郷で起こったのは要はケンとバービーとの間で魔族の子供が増えないかという試みですけど、殖えたのはタダの人の子で不具がないのが良かったねというような平凡なタダビトの子供だった様子です」
「それは、拍子抜けかも知れないが、予定通りの機能だったということなんじゃないのか」
「およそそういうことだと思います。けど、そういう風に魔族の殆どは自らの来歴や機能を忘れていることが多いくらい昔のものなんですよ。それだってウチに残っているのは野生化しないくらいそれなりにマトモな扱いをしているものです」
「野生化っていうのはどういうことだ」
「およそ文字通りですよ。あちこちの土地で魔族の城とか地下迷宮とか伝説を作るような魔族が野生化した魔族です。大方わかりやすく悪さをしているような連中はここしばらく帝国が興たあとの十万年くらいで私の郷里の者達が狩り殺したわけですけど、我が君も数百の群れを潰している様子からもあちこちあるのは間違いないところです」
「ええと。つまりどういうことだ。魔族というものは結局どうなっているんだ。どうすればいいんだ」
「どうというかですね。今おそらく我が君が瞬間脳裏に描いたとおりのことが殆ど唯一の対策です。飽きるまで納得するまで存在をさせて成仏させるのが最も面倒が少ない対策です」
「なにそれって、どういうこと。私は心いっぱい饗応接待を受けていればいいってことなのかしら」
「そういう狂王のような魔族がいたのは過去間違いないところですが、そういうのをカッコ良く始末して歩いたのが我が郷里の始祖たちなので、お姉様にはそうならないようにご自愛なされませ、というのが私の口にできることです」
「魔族って結局どれだけ生きるのよ」
「私にわかるわけないじゃないですか。そんなの」
「ああ。まぁそうね。聞き方が悪かったわ。野生化していない魔族ってのは人としての意識はあるのかしら。アナタの云うケンとかバービーとかそういう人たちは」
「あいにく私はちゃんと知らないんですよね。そういう存在を。そもそも人の形や意識を保っている魔族ってのを見たことがないんです」
「アナタのドレスだか鎧だかはどういうものなの」
「まぁアレはああいうものです。色々仕掛けはありますけど、ある意味で戦車や飛行船と変わりありません。こうなんというか、会話もできるんですけど受け答えというよりは時計の文字盤やベルみたいにして必要なことだけむこうが勝手に教えてくれるというか。そういう訳で我が君と戦った折もとくに提案とか指南とかしてくれたわけでなくて、おかげで負けちゃいました。あんなにあちこちに武器の類が付いているなら最初から手足の一本も刻んでから捕まえればよかったと思ってますよ」
「捕まえも出来なかったくせになに言ってるのよ」
「こう云うと負け惜しみですけど、あのまま十番勝負をやっていれば何戦目かで我が君の動きを鎧が覚えて自動的に捕えてくれるようになったはずです。あのテープがあんなに丈夫だと思ってませんでしたし」
「あのテープ、現場で割れた履帯とか無理やり繋いで整備小隊に引き渡すのに使ってたヤツですよね。手で千切れたら金貨進呈、とか整備軍曹がよく煽ってましたけど普通無理ですよね」
「擦れとか耐候性は低くて露天には脆いからあんまりそういう風には使ってほしくないんだが」
「整備班に引き渡すまでの半日保てばいいんだから、しょうがないのよ。前線の部品備蓄なんて余裕が有るわけ無いでしょ。他所じゃあのテープで煙突割れたの繋いだり、大砲の砲座が壊れたの繋いで使ったりしてるんだから」
「そういう風に使うならもうちょっとマシなものがいくらでもあるんだが」
「そんなの皆知ってるわよ。でも邪魔にならなくて簡単に使えてそれだけ準備すればなんとかなるってのが受けてるのよ。靴でもテントでも戦車でもアレだけあればとりあえずなんとかなるなんて兵隊向きじゃない。アレと二液式の接着剤に砂混ぜて色々何とかしてたわよ」
「もともとアレ何のための工作材料なんですか」
「崩れかけのレンガ壁とか仮に工事して倒れないように止めておいたり、もう使わない扉口を目止めしたりとかそういう応急工事の仮施工用だな」
「ファラは排気管の穴塞いだり、ネジがへし折れた車の部品を縛り付けるために使ってるって言ってたわよ」
「アイツは。どうしてああなったんだ。ウチに来た時はぼんやりした育ちのよさ気なお嬢さんだったのに」
「別にファラはボンヤリしているわけじゃないって言ってるのに。アナタもいい加減ヒトを見ないわね」
「ショアトアはどう思う」
「え。レンゾ少佐ですか。どう思うって。どう答えればいいんですか」
「アイツは良い幹部、良い上官だったか。できれば具体的に簡潔に」
「え。あ。む。命令ははっきりした方でした。あと、命令の実施見積もりの意見具申を求める方でした。なにがいるかとか、どれくらいかかるとか。わりとどうにもならない話でもともかく意見具申は求めていた様子です。ボンヤリした方っていう印象は部隊の兵隊は誰も抱いていないと思います。数字とかモノとかちゃんと把握されていましたから、むしろ目を盗むのはかなり難しい幹部だったと思います」
「ほらね。あの娘、アレでしっかり者なのよ。だいたい子供生ませた女が子供産む前のままでいるわけないでしょ」
「ハンドル握らなければ、前のままのようなカンジがするんだが」
「それはアレですね。我が君の好みに合わせて作ってますね。我が君はセラム姉様の扱いが丁寧なので、そっちに寄せてるんです」
「セラムはボンヤリしてないだろ」
「アナタの云うボンヤリってのも随分いい加減で曖昧な言葉だけど、セラムも別にボンヤリはしていないけど興味のないことはコレっぱかりも気にしないっていう意味で言えば、あの娘は相当ボンヤリさんよ」
「ネンチン曹長がせっかく手入れした方のブーツを履いてくれないって時々こぼしてました。毒の泥の話があって、ガントレットとグリーブの着用徹底と車内持ち込みの禁止が部隊に通達されるちょっと前の頃までマークス少佐の靴は割と汚れてましたね」
「泥の中を動いていればしょうがないんじゃないのか」
「行軍中の士官の服装が汚れるのはしょうがないんですけど、それを綺麗にするのも従兵の仕事のウチですから。隊長っていう人たちの服装が汚れていると下士官や従兵の質が疑われるし隊長の統率も疑われるって感じです」
「中隊長と大隊長の気分の違いにあの娘あんまりついていけてないのよね。戦車大隊ってのも戦力規模も予算規模も大隊どころかそれ以上だけど、人員で考えたら中隊に毛が生えたようなものだし、戦車大隊の本部って基本戦車の中でこぢんまり納まるように編成されているから、他の部隊と違っていわゆる兵隊は殆どいないしね。千人超えるような兵隊預かっている部隊長が前線に立って兵隊と一緒に泥こねているなんて百年も前に終わったことになってるはずだったんだけど、戦車大隊じゃそうもいかないしね」
「戦車そのものも軍曹が車長で少尉と中尉が運転と砲手っていうややこしい配置も結構ありますよね。階級どうでもいい感じの会話が無線でだだ漏れになってたり」
「その辺の訓練とか全然間に合っていなかったからね。使える人間を人選して椅子に配置するのが精一杯だったわ。セラムとかそういうのなんとなくうまく丸め込んでやっちゃうから彼女の下は良いんだけど研究とかで他所に持ちだしたりが出来ないのよね」
「服装の乱れが統率の乱れだって話はわかったが、ウチにいるセラムはシャンとしている感じだったが」
「別にシャンとしていないなんて云ってないわよ。興味のないことは放ったらかしにするのも兵隊の処世術だもの。でも陣地から離れるのは負けた時か死んだ時っていう歩兵様の中隊長閣下ならともかく、助けを求める友軍の悲嘆に駆けつける戦車大隊の指揮官様としては、汗さえもバラの香りがして動くたびに風に星が舞うような、そういう爽やかな神々しさが必要なのよ」
「汗の酸っぱさを隠すには柑橘系の方が良くないか」
「その辺は研究しているものがあるなら教えて。割と真面目な話で戦場と匂いの話は深刻なの。毒ガスの話や洗濯の話はさておいてね。ともあれ私達の部隊がカッコよく勝つために色々している中であの娘のブーツは実は問題なのよ」
「本人に言ってやれよ。それにショアトアの話では直ったんだろう」
「こういう話は絶対直ることはないのよ。だからアナタも言ってやって。あの娘が騎兵隊の隊長で終わるか、カッコいい機動軍団の隊長になるかは、殆ど政治的な駆引きの段階なのよ」
「なんか、演劇の主役を決めるような話だな」
「まさにそういう局面なの」
「アレだけ実績があってそうならない可能性があるってのか」
「あの娘の性格がそういう可能性を求めていないの。それにラジコル准将はああいう好みの割には組織の波風を好まない方よ」
「つまりどういうことだ。セラムが昇進できないっていうのか」
「あの娘の昇進は別段どうでもいいんだけど、逆よ。あの娘を昇進させて何処かの間抜けが入り込んで勲章目当てに帝国領に逆侵攻とか言い出すと首が締まるようなことになるなぁと思っているわ」
「そんな馬鹿なことを思いつくような連中がいるのか」
「そりゃいっぱいいるわよ。鉄道で兵站線が好転すれば帝国に押し込めるって数千年来の復讐戦ができる機会だって息巻いている連中もいるくらいよ」
「国内の鉄道網の完成すらまだ当分先だっていうのに気の早い話だ。大元帥はそういう感じではなかったが」
「あの方はまぁ兵站って云うよりも国内の軍政を監督されている方で一段上の立場の方だし、まぁこう言っちゃ何だけど、あまり戦時向きの指導者ではないわ。尤もその御蔭で今回の戦争で国内の混乱が最小限で抑えられたとも言えるわね」
「帝国と正面切って戦うために百万動員してたら今頃凄いことになっていましたよね」「戦死者より餓死者のほうが多かったかも。命令通りに国内を動くだけで大騒ぎだっていうのに戦争なんかできるわけないわ。帝国はどうやってるのかしら。なんか大きな畜獣の馬車鉄道みたいなのは見かけたけど、アレだけじゃ百万人を何百リーグも運べるだけでしょ」
「まぁ、むこうは百万人でも送りつけて田畑耕すついでに鉄砲と矢玉を送りつけてれば、こちらが音を上げるまでのんびり過ごすつもりだったんでしょう」
「その何百万人だかに鉄砲と玉薬送りつけるだけのために、このヒト十年かかってるのよ」
「そんなの我が君の千分の一の匹夫たちだって百万人いれば我が君の千人分の仕事をするってだけのことじゃないですか。必要があるとして必要なだけおこなうという知恵も何もいらない物理を倦まず弛まずただひたすらおこなうことが兵站の極意ですよ。共和国の皆様の気合がダラシナイってだけのことです」
「理屈はマリールの言うとおりだ。帝国と共和国では市井の感覚が違いすぎる。正直、共和国に帝国の正面を押し破って戦争に勝てるだけの国力はないね」
「でもアナタ、ふらっと往って女千人もカッ攫ってきたじゃないの」
「まぁそうなんだが、別段千人ばかり拐ってきたからって傾くような国じゃないよ。人間を牛馬のように管理しながら数を揃えることができるような国なんだ」
「どういうこと。この子たちそういう扱いだったの」
「まぁ、もうちょっと色々あるんだろうが、ボクの倫理基準から云うと論外だったから、まとめて引っ拐ってきた」
「土地によっては未だに食人当番とかもあるらしいですからね」
「どういうこと。人を食べる当番でもあるっていうの」
「クジみたいなので貧乏子沢山の家を選んで、家畑に家畜を付けて揃えられるくらいの金額で家族を食肉に出させるんです。まぁむかしむかし大昔の風習で今更どうかと思うんですが、帝国も広いですからね。十万年も人の世が続いたってのに未だに龍や巨人が怖くてしょうがない人たちも多いんです。亜人とか肉に薬効があることになってたりして割と本気で信じている人も多いようですね。私とか魔術師で亜人ですからね。捕虜になったらおそらく帝国の将軍様の薬膳に滋養おいしく召し上がられると思いますよ」
マリールは何でもないように云ったが、冗談というだけでなくそういう事例が過去にあったのだろう。
「まさかそういう理由で捕虜交換の交渉がうまくゆかないんじゃないでしょうね」
リザが流石に怪訝そうに尋ねた。
「どういう理由かはともかく、戦時交渉が進まない理由はたくさんあります」
「気違い沙汰ね」
具体的な話を口にしないマリールの様子でリザも雑談として扱うことにした。
「お沙汰を出してるのが、大陸の向こうの海の向こうの皇帝陛下ともなれば、流石に何千リーグも彼方の土地には興味も理解もないってことでしょう」
「それなら無駄なちょっかいを出さない慎みを持ってほしいわ」
「うちの国も慎み深い人たちばかりというわけでもないようで、帝国との戦いが割とあっさり終わったから今度は西だって話も言い出している人がいるって逓信院では話題になっていました」
「ボクの十年の投資がアッサリか。エンドアの事業もまだ始まったばかりで、東部戦線の再占領解放も帝国軍捕虜の移送吸い上げも終わっていないっていうのに、予算が途切れそうだって話を聞いて驚いているよ。話によればエランゼン城塞が吹き飛んで戦争は終わったからもういいだろうってことらしい」
「大元帥はそういう感じではない様子だったけど、そういう参謀研究があることは聞いたわ」
「あの方は、まぁ、凡庸って云うと言葉は悪いですけど、日々満ち足りた方ですからわざわざ乱を起こすような方ではありませんが、私達みたいな小娘が戦場で活躍できたことが気に入らないご年配の方は大本営には多い様子です」
「気分はわかるけど、具体的には」
「メリガス将軍の下のレーマン中佐とかという方の従兵の方が靴紐が解けていましたので指導してやりました。ショアトアも准将がお勤めするときに恥をかかせてはダメよ」
「そういうのは許されるのか」
「兵の指導は士官の一般義務ですよ」
「いいのよ。この娘が絡んで分けのわかんないことになったんじゃないかって心配しているなら、士官が気晴らしに兵を殴るってのはよくあることよ。兵隊にとっても気安い仲の士官って扱いになるらしくって、私も復帰していきなり初日に知らない兵隊に気合入れてくれってビンタ飛ばしてきたわよ」
「兵隊ってのは相当馬鹿なのか」
「バカなのよ。ああ。うん。いや、あのね。……ああ。マリール。つまりレーマン中佐が無礼を云って腹を立てたのね」
「どちらかだかの師団の参謀様が、そんな私ごときに無礼を働くなんて。ああ。まぁ二個師団分の戦力を好きに使えるなら帝国の棄てた城塞を落とすくらいワケがないとか、股を開いて規定外員数外の装備を手に入れたとかそういう事を云ってたわけですが。ああ、まぁ、事実ですから腹は立ててませんよ。私は十年前にもお姉様とたった二人で五万からの兵隊の指揮管制が出来ることを示したわけですし」
「まぁだいたい事実ね。この人が男の尻を好むような人だったら私に昇進できるような機会はなかったわ」
「それで指導ってのは何だ」
共和国軍の内情を知らないマジンが改めて尋ねた。
「アナタがレーマンっていう中佐の名前を知るくらいにはなんかやったわけね。兵隊を投げ飛ばすくらいしたんでしょ」
「まぁだいたいそんな感じで」
「本当に靴紐は解けてたんでしょうね」
「空中では間違いなく解けていましたね」
「それでいつの出来事なのよ」
「昇進した翌週、待命許されての後ですね。晴れて軍務から足を洗える晴れやかな気分に水をさした出来事でした」
空々しく目をつむり悲しむようにマリールが言った。
「まだ先月のことじゃない。いいわ。メリガス将軍に会ってくるわよ」
「そうしてください」
「あの方、苦手なのよね」
「知っている相手なのか」
「そりゃ、准将ともなれば上役は元帥閣下と将軍閣下だけだからね。大本営に足を向けられるような現役の将軍閣下とは一応顔を合わせたわよ」
「今聞いた話だと碌でもない様子だったが、話のわかるような人物なのか」
「バカね。話のわかる官僚なんているわけないでしょ。官僚には話はわからせるのよ」
「どうやって」
「そんなの腕づく力づくに決まってるじゃないの。兵隊の親分よ。最後は殴って云うことを聴かせるのよ」
「そんなので官僚が言うことを聞くわけ無いだろう」
「まぁそうだけど、半分は気合ね。残りの半分は事前に準備をするわけだけど」
「準備でケリが付くような相手なのか。というより、お前が乗り込んで行ったらそれこそ厄介事にならないか」
「まぁなるかもしれないけどね。このバカが変な風にケンカを売ったならアナタのところに話が飛び火する前に手を打った方がいいに決まってるでしょ。少なくとも東部戦線が落ち着くまで、エンドアの開拓が落ち着くまでバカな連中を諌める必要があるのは本当だし、バカの御大将がどのくらいバカかって確かめる話はする必要があるわ」
机の下でリザとマリールが互いに蹴飛ばしたり踏んだりするのを止める気にもなれずマジンはため息をついた。
「それで、ボクにできることは」
「ないわ。あるわけ無い。……あ。いえ。あった。このバカに仕事を与えてやって。四六時中家と仕事場を離れられないような定時定時仕事があってサボれないようなの。仕事をサボったらカッチリ記録が残るような仕事。力仕事でもいいけど、そういうのだと要領いいからダメね」
「ああ。そしたら、私塾の先生やりますよ。なんでしたっけ幼稚社ですか。八年ぶりですけど、川沿いの村にありますよね。なんてったって初代塾長ですし。前の時は時たま連絡室に出頭する必要がありましたけど、今度は待役ですからね。ノンビリ出来ます。ショアトア。アナタ手伝いなさい」
「私は准将の従兵があります」
「あ、それしばらくお休み。ってか軍学校にねじ込むまで待機」
「え、な、そ、ま」
そう云われたショアトアが口をパクパクさせながら、言葉にならない様子だった。
「え、なんで今さらそんなことを言い出すのか、お姉さま、って言うか、あのね。年齢は胸に縫い付けたりしてなくても、身長は見ればわかっちゃうでしょ。二年も経てば追いつくかと思ったけど、成長期は年齢をごまかせないからね。大本営を歩き回るのに最低身長を割っているような兵隊を従兵にして連れ歩いたら、私がいろいろ咎められちゃうわよ。前線だったら別に多少のことは誰もが気にしないけど、大本営はまさにそういうところを気にするのが商売な人たちの集まりなんですからね」
「む……。ぐ」
「ショアトアはマリールと一緒にお屋敷や村の子供達に勉強を教えてあげなさい。本当はきっとアルジェンやアウルムの仕事だったんだけど、私が取り上げちゃったからね。あの娘たちが帰ってくるまでアナタが代わりをやってあげて」
「今の話の感じだと、キミはもう早速軍都でギリギリ働くつもりなのか」
「バカね。話の流れを聞いていなかったのかしら。まずはこのバカが喧嘩を売ったどこぞのバカの御大将の人となりを調べる必要があるでしょ。ギリギリ働くのはそこからよ」
「つまりそれが終わったらギリギリ働くってことかい」
「大元帥の参事ってまさにそういう仕事よ。ああ、うん。……いい。このバカに喧嘩を売られたバカは気の毒なバカだけど、本当のバカかもしれなくて、その御大将がどのくらいバカであるかを知る必要があるの。もっと云えば、その御大将が本当の大バカ、バカの王様じゃなかった場合、西部域は実はかなり危険な状況にあるとも言えるの。歴戦の将軍が戦争の兆候を嗅ぎとっているの。それが単に東部戦線に乗り込みそこなったっていう勲章目当て名声目当ての馬鹿騒ぎであればいいけど、今現役で将軍をやっているような将軍はだいたい筋の通った戦争屋よ。戦争を誰が起こすつもりなのかはともかくそういう話があるなら聞いておく必要がある」
「今度は西が戦争になるっていうことか」
「西部域は年がら年中戦争しているも同然よ。小競り合いばっかりで、まぁ隊商を助けるとか匪賊が出ただとか町や集落の支配者が変わったとか、よくわかんない理由で兵隊が苦労させられている土地。私も足を運んだことはないし、軍都からは遠いからいまいちピンとこないし、戦争の戦火自体があまり大事にならない形でいつの間にかなくなっているから戦争っていう感じもしないけど、まぁそういう土地。だから今細かい話は全然わからないけど今更言うような話ってわけでもない。戦車があるから西方征服できる、とかそういう軽々しい話ならバカメの一言だけどそうでなければ問題よね」
「ようやく新婚生活を楽しめるかと思ったら、軍都詰めか」
「このバカな義妹が変なネタを仕入れてきたから、その確認はしないとね。月に十日かそこら訪ね歩けばあらかたはわかると思うけど、どうせすぐ分かる話ってわけでもないと思う」
「お姉様が軍権を握った折にはぜひとも私をお招きください。バリバリ働きます」
十年ぐらいしてこの時の話を二人は大笑いする。
だがリザの身を案じるマジンとしては気が気でない数年を過ごすことになる。
石炭と水晶 或いは蛮族の祝祭 了
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久しぶりに読み返したら著者近況が更新されていて嬉しかったです。なろう、カクヨムでもブクマしてるのでノンビリ楽しみにしてます。
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なろう時代から読んでいますが、この作品ほど読みごたえがあり、自分の性癖に合致する小説は少ないので、次章待ってます❗
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