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新生
断章 三十才春
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鉄道が戦地の後方近くまで伸びたということ、更には鉄道軍団が線路を更に戦場に向けて伸ばし始めたという事実は驚くべき効果と意味を戦場に持ち込んだ。
軍からローゼンヘン工業に依頼があり、アタンズからさらにリザール川支流の前線拠点マイザルまで鉄道が敷かれていた。最終的に二十四号橋頭堡を経由しリザール城塞址まで線路を延ばす計画になっている。
ギゼンヌからもカラカンをようやく過ぎたところだが、三号橋頭堡を目指し更に線路を延ばす計画もある。
アタンズから先の川沿いをリザール城塞まで伸ばすという鉄道計画は、軍の全面的な協力によっておこなわれる、ということでつまりはほとんど軍用列車ということであるが、沿線の集落住民のためのものでもあって、会社としては採算の怪しげな路線ではあったが、保線の経費が軍持ちということであれば、そこは最低限の保証とみなせないこともない。
アタンズからマイザルまではおよそ二十リーグだが、健康な者が体力と意志を絞って丸一日、一般的な部隊の行軍で二日、輜重の期待込みの見込みでは三日という距離であるが、傷病兵を含んだ部隊の行軍では行李馬匹の手当が十分でもおよそ倍の五日、或いは一日伸びるか削れるかというところになる。
それが半日かからない距離になったということは、これまで助からなかった者の幾割かが命を救われるということでもあった。
リザール城塞からはアタンズまで距離で八十リーグというところで道のりでおよそ百リーグを割る程度。常識的な行軍としては十日ではややきつい距離で常識的には十五日、輜重であればおよそ十五から二十日くらい。
傷病兵を含めばおよそひとつきという距離になるから、最後の二十リーグというものの鉄道の価値はひとしおでもある。
およそ傷病兵を後送するとして、その効果は塹壕の中に戦友の遺体を積まないですむという以上の意味はなかったわけだが、途中まででも鉄道が通ったことで、必ず死ぬがだいたい死ぬ、に変わった事で多少とも気分はマシになったし、時たま広域兵站聯隊との連絡や日程の割当があたれば、鉄道駅まで保てば多分生き延びるに変わったことは塹壕の中の空気を大きく変えた。
遺体と兵隊では大違いであるわけだが、つまりはそのありようの距離を分かつ二十リーグになった。
およそこの先、線路が前線付近を通るとして五リーグより近づくことは殆どないはずだが、十リーグかそこらくらいまでは複々線化が進み、臨時操車所の設置と運営が鉄道軍団によって運営されることにはなっていた。
そうなれば傷病兵でも丸一日我慢すれば鉄道線路まではたどり着き運が良ければその日の内にアタンズで療養列車に割当があたり、さらに翌日には軍都の療養院に着いているかもしれない。
療養列車に割当があたれば、訓練中の看護兵といえども兵隊の応急手当よりはよほどマシで、行李に揺られているよりは生き延びる可能性も高かった。
これまでは戦場で戦った者達の多くは手足がちぎれるまで至らなくとも原因不明の病気で亡くなる者が多かった。
およそ狭く水の便の悪い冷たく湿気った塹壕の状態が体を冷やす悪性の風邪のようなものと考えられていた。
敗血症や破傷風は実のところ戦場や塹壕特有の病気というわけではないのだが、戦友の死体と長く過ごすうちに体力を枯らしたり、細かな傷を負ったりというもので引き起こされるひどく厄介なもので、開拓農家などでも多くの者がかかる病気だった。
他にも梅毒や肺炎という分かりやすく治りにくい病気もあった。
結局のところ、兵隊の生き死には個々の兵隊の体力というところが全てで誰もが納得していたが、十日は無理でも五日は歩けたり、五日は無理でも三日なら生命があったり、或いは三日は持たなくても半日なら意識があったりという兵隊はかなり多かった。
そういう先は見えてしまっているが、今はまだ生きているような兵隊の多くを鉄道は救った。
この数年の様々な工事の過定で人員の消耗に、それも比較的高度な作業技能を持った良質の人員の消耗に頭を悩ませていたゲリエ卿が力を尽くし、また今も連綿と投資を続けている医療技術の波及として、ローゼンヘン工業医療部は全く無視できない規模の医療技術の拠点になりおおせていた。
それは、ゲリエ卿の作る義眼や義肢といった、あからさまに美術品に踏み込んだような山を売り買いするような値段を聞けばおいそれと兵隊に使うわけにはゆかないモノとは違って、高価で希少ではあっても砂金を水代わりに飲むような金額ではない薬品と、多才で多忙なゲリエ卿の手を煩わせる必要もなくその弟子や孫弟子の手によっておこなえる手術処置であるとなれば、小銃四五丁の予算で実戦を経た古参の兵士の命が買えるなら戦没見舞金代わりに軍もカネを出すし、大抵は小銃一丁分くらいの金額と手間で兵隊は回復した。
手間と予算の上から云えば桁が動かず現場の気分の分だけ減じられるとあれば、財布の紐を固くして身構えるよりは、予算諮問会で人道を謳ってみせたほうがいくらも都合も良かった。
サルファ剤と抗生物質の威力は実に分かりやすく戦場の病気を減らした。
もちろんふたつとも魔法の薬というよりは、魂の駆動機械としての肉体を調律するための物で、肉体そのものを作ったり直したりという機能はないわけでもあったから、失った何かを治すような性質のものではなかったが、農夫鉱夫兵隊というものが日常的に体を鍛える職業でもあり、いまや傷病兵となった者たちも天来の資質としての健康体力に欠ける者はいなかったから、休養と栄養と清浄な環境を準備して僅かに適切な処置を施せば、大方のものが快方に向かった。
療養院の呻き声が死ぬことへの恐怖と後悔から、痛みと間抜けへの呪いにへと変わった。
そして励ましがただ虚ろな懺悔の響きから僅かな希望への響きを持つようになった。
当初は疑いを持たれた実験だったものが、量産試薬の追試になり、高価な新薬に代わり、陳腐な薬になる。その過程は傷病兵の多さとローゼンヘン工業の積極的な投資行動によって大きく見える形で変化をしていた。
もはや骨折や虫歯の治療くらいでは誰も死なないようになった。という事実はローゼンヘン工業の大きな貢献であった。
もちろん兵隊たちに施される治療は根治という種類のものではなかったから、再び前線へというほどに治らない者も多かったが、ともかくこれまでは失われた命の多くが繋がれ、軍も戦没見舞金の代わりに本人の戦傷勲章でオシマイにでき、幕僚が遺族に手紙を書く手間も減り、事務手続き上も予算都合上も面倒が減った。
そういう中で、事務手続き上の面倒がなかったわけではない。
盛大に国葬で見送ったはずのゴルデベルグ中佐――准将が死の淵から蘇って原隊復帰報告を果たしていた。
現地部隊はゴルデベルグ准将を戦死とみなしていたが、親族であるゲリエ卿はまだ手があると引き取り、共和国軍による国葬をしたものの共和国軍戦没墓所には外套と肩章だけが棺に収められていた。
ゴルデベルグ准将の戦死事由については過度の魔術行使による消耗とされていたものの、魔法魔術の術式効果というものにはまだ不明瞭な点が多く、特にその生命との因果については解明されていない点が多すぎたことから、丸一日ばかりの療養院と逓信院での検査の後に生存が確認され、本人の口からリザール城塞突入時の顛末について大方の報告がおこなわれ、既に各所から上がっていた不明瞭な報告や矛盾が、現場指揮官の所見と始末の報告によって新たな矛盾が起こり、三日ほどかけ最初は礼儀正しくやがて嫌味混じりに、更には胸襟開いて怒鳴り合うように、その様子を別室から見聞きしていたリザの人となりを知る者たちからは失笑とともに本人の確認がおこなわれた。
光画版登場以前から写真箱謄写版による本人の絵図記録は共和国軍の士官においてはおこなわれていて、本人写真と喚ばれていたが実のところよくできた似顔絵というところを踏み出てはおらず、絵図の記録をとった技師によってその出来は大きく左右され、時間もかかることから更新はおこなわれていなかった。
リザの本人写真も任官式の時に描かれたもので、そのあと子供を二人産んだ今のリザとは少し雰囲気が違う、リザ本人曰くどこの天使かと思ったという出来であった。
共和国全体で人別の管理というものはひどく曖昧で、共和国軍もおよそ例外というわけにもゆかず、しばしばならず者や逃亡奴隷などが人物を作るために軍籍に潜り込むということは多く、実際に新たな名前で兵隊に志願して一から自分を作ったり、或いは似た体格の者を偽ってということもあった。すり替わりの多くは単に名前借りだけなのだが、年金の受取などの詐欺事件もあって、記録の矛盾などから人別調査は憲兵隊の仕事としておこなわれる。
リザが怒鳴り始めたのはつまり詐欺師だと、あろうことか彼女の夫にまでも詐欺師としての疑いをかけていることに腹を立てたからだった。
とは云え、リザの回復――生命復活はマジンにとっても説明できない事が多く、殆どの治療内容は療養院でも伏せていた。
流石に死んだ肉体から心臓を抜いて作り物に差し替えたなぞ告げるわけにもゆかず、代わりに業務多忙を理由に引き上げることを告げ、魔血晶技術についての技術協力については応じると言質を与えると、リザの方も解放された。
好悪はともかくリザの人となりを知る人は多く、報告の内容に矛盾は散見されるものの一般的な範囲で、報告書の筆跡や単語の選択や誤字誤用の傾向という文書捜査上の特徴がゴルデベルグ准将本人と著しく一致する、というものが憲兵本部の結論だった。
髪の毛の色や瞳の色については、先行する形で療養院で化学剤治療において事件が起きていて、幾人かの患者に投与された薬剤の影響で患者の皮膚や体毛の色が赤くなったり青くなったりという事件が起きていた。
疱瘡や結核或いは敗血症というやはり難病の先行研究の一環としておこなわれた各種化学剤による臨床試験の結果で、患者はおよそ回復したのだが副作用で肌や毛の色に色素が沈着するという外観の変化を後遺症として被った。
魔法の使いすぎ、魔力の枯渇による突然死という問題は、逓信院の魔術研究の中で重大な絶界であったから、たとえそれが本当の枯渇でなかったにせよ、一旦脈が取れないほどの状態に陥った魔導士が再び立ち歩き怒鳴り散らすなどということはこれまでありえず、ゴルデベルグ准将が髪や瞳の色の変化という些細な出来事で、自らの足で歩き口で怒鳴るという出来事は全く空前の事態といってよかった。
アシュレイ大尉の復帰の折にもゲリエ卿の活躍があったことは逓信院では慶事でもあり痛恨でもあって、事件を参考に肺洗浄なる全く乱暴な措置が試みられたこともあったが、結局のところでうまくいった例はなく、逓信院の患者の多くは復帰の目処がないままに、生命維持の試験という形で丁寧かつ杜撰に扱われている。
マジンとしてもわかっていないことを説明することは難しく、おそらくは二度とうまくゆくまいと思えるような状態だったから、そんな方法を他人に声高に説明する気にはなれなかったし、血晶病の患者をどうにかして使うなどということは、まずは血晶病の患者を見つける必要があった。
そして心臓を削りだした母材の方はよほど丁寧に切り出ししても、もう三つは取ることが出来ない大きさになっている。
その時の変化もなにが原因だったのか、言葉にすることは難しい。強いてあげれば直接手でいじったこと或いは殴って衝撃を与えたことかと思わないでもないが、今にして思えばふたつきということで考えればリザの死体は奇妙に乾きすぎてもいた。
だが今となってはどうだったのか、もはやたしかめるすべもない。
代わりに軍に出征した女達に与えた記念メダルの話を説明することにした。
その説明に逓信院の技師たち導師たちは大いに興味を持った。報告書の中でゴルデベルグ准将とアシュレイ大尉が魔導の素養のない者たちに対してもかなり正確に位置や状態を把握して先読みをするように指示をしていたことが報告されていた。
千里眼或いは借目と呼ばれる他人の視界を借りることで、視界を拡大し臨場状況を把握する魔法は存在することは知られているが、ゴルデベルグ准将にはそういった魔法の才能才覚があったようには知られていなかった。
或いはいっぺんに百もの視座を獲得して、互いの兵の視覚を重ねるようにすると地上にいながら鳥のような或いは模型箱庭の中のような視座を得ることができることは予想されていて、そこに戦術的な或いは遠隔的な意識を注ぐことで様々な状況に適切に注視意識を回すことはできるだろうと考えられてはいたが、アシュレイ大尉は百を超える視座を瞬間得ていた。
女達がメダルをどう扱っているかマジンは全く知らなかったが、大きなものではなく首からかけられる細工をしているものだったから、家を離れた兵隊ぐらしであればメダルは肌身離さず胸にかけているだろう、と想像はできたし実際全員がそうしていた。
彼女ら全員が本部にいた者たちも含めて統一された視界と意識を持っていたとするなら、人為的に引き起こされた土石流によるリザール城の破砕の被害回避やその後の救出が極めて効率的だったことは不足ではあるものの、ある程度の説明がつく。
メダルそのものは連絡参謀が預かる筆記具大の杖章よりもまた全く小さいものであったが、石炭灰を精製したものを鋳溶かして結晶を作る際に魔血晶を溶かしこんだという話には技師と導師の多くが食いついた。
共和国内には魔族と呼ばれるモノの存在はあまり重視されていない。
はっきり云えば猛獣の類よりも出会う機会は少ないし、魔族の方も無制限に移動をするような捕食行動を取るわけではない。そういうものがいるという話程度に知っていればむしろ大したものという扱いだった。
逓信院でも治安的な成敗というべきか、魔血晶を求めた狩りをおこなうこともあるが、数年に一度或いは十年に一回という程度のもので二三十年前に大きく狩りをしたところで今しばらくの印杖に足りる魔血晶はあるということだった。
魔道士の数と魔血晶の数とを考えれば重要な資源関係でもあって、わずか数個の魔血晶を一気に数百に引き伸ばせるというメダルの細工の技術について技師は興味を示した。だが、圧力を調整した炉釜の中で一日数シリカという制御された穏やかな速さで結晶を釣り上げるという作業は、一言では説明しにくいものだったし、その気になれば五年でも十年でも単に設計の上の狙いとしては百年でも同じ温度同じ圧力を外界から隔絶したままに母材の表面が沸かず紙漉きのような膜に波打つ状態を維持できる装置、というものは鉄道や電算機とは違った意味で驚異の機械だった。
結晶の析出などを扱ったことのある技師はどのようにすれば大きな結晶を取り出せるかなどという子供の実験めいた秘訣、つまりはゆっくりと結晶の成長に合わせた速度で溶媒が蒸発すればよろしいなどということは理解していたが、それを適切に実地で行うための様々は最もありふれた結晶を作る食塩でさえ実はなかなかに難しく、結晶の欠損欠陥がスを作らないようにすることは計画外の不純物の有無もさることながら、様々に考えるべきことが多いということは当然に知っていた。
様々な結晶や溶媒の状態や性質にあわせて適切に環境の状態を整えることは花や虫を育てるにも似た難しさがあって、それなりに手間と準備が必要なことでもあった。
とは云え、物事の一端として魔血晶の色形や大きさを揃えることで遠話や様々な魔術に適したものになることは古くから知られていて、一方で魔血晶の結晶が崩壊性が強く一端を砕くと一気に破裂するように昇華することもすることも知られていたから、一旦別の鉱物の結晶に溶融しその上で再度結晶させ安定した形にするという技法は、今すぐに炉釜の準備ができるか結晶槽の準備ができるかどうかはさておいて、追試による立証をおこなうに足る証言だった。
過去の導師の研究が十分に意味を持つものであるとすれば、ひとつの魔血晶から分割された結晶やそれを使った装具は術式の上で同じような機能を持っているはずであったから、そういったひとつの結晶から分たれた印杖は、軍がおこなっている遠話や遠視という感覚や思考を共有する魔術の精度を飛躍的にひきあげ技術としての実用が増すはずだった。
およその話題として魔力的な資質の上で有望であったものの魔術の素養に欠けるゴルデベルグ准将が高度な魔術を行使してみせたことの意味について、逓信院の魔道士の多くは意味を捉えかねていたが、ともかくも彼女がほぼ丸二日の生き埋め状態で連続的に遠話や或いは幾度か幻燈で状況を示していたことがわかってもいた。
それが後方に意味のある形で伝わったことは連絡参謀を取りまとめていたアシュレイ大尉の行動的な指導力もあったわけだが、ともかく幾つかの要因の鍵となるであろう要素技術として、魔血晶の分割という話題が逓信院で語られたことは大きな衝撃になった。
そのことの説明を求めるための時間稼ぎにゴルデベルグ准将の原隊復帰の諮問は一般に諮問と呼ばれる面接から、査問審問と云うべき詐欺容疑者の尋問や裁判と全く変わらない性質ののものにまで踏み込んでいた。
リザの方もマジンの方も大本営がなにを求めているのか一体どういうことになったのかという話は、三日も経たず初日のうちには想像がついていたが、その証となると自身も十分に矛盾なく説明ができないことであったから、どうにもならないところでもあった。
ローゼンヘン工業を傘に来てリザの原隊復帰を取り下げれば事がすむのか、というところがふたりの示せる落とし所であったが、事態はそう簡単なものではなかった。
人の生死という過たざる大事件が時の英雄たるゴルデベルグ准将に起きたことで、大本営側の落とし所を探す者たちの腰が引けたことが、元来事実なりすましであっても犯罪事実や被害がなければ一日二日の説教ですむようなことであったはずの事柄を、憲兵本部の威信をかけたかのような騒ぎに、そして大本営の政局に結びついた事態になってしまっていた。
憲兵本部としてはいい面の皮でもあるのだが、彼らは日頃憎まれる仕事でもあり、いまさら知ったことではないと開き直っていたし、兵站本部も軍令本部もいまさら大英雄様にご登場いただいて前線配置があるわけもなし、大佐であればともかく准将ともなってしまったゴルデベルグ准将に一室を明け渡す準備はなかった。
とは云え、ゴルデベルグ准将の実務能力は若手中級幕僚の中では実績で一頭群を抜いていたし、殴り合いを現場でおこなうとして衛兵の分隊を既に着剣させて取り囲むくらいの準備をして動きを止めたほうが簡単な性質の本部部員であったから、他所の部署に投げ与えるわけにもゆかない鬼札であった。
まして面倒くさいことにゲリエ卿令夫人という立場の人物を相手にするとき、ここまで事態がこじれてしまうと、互いに立場を慮って傷なく引き下がるとなるとどうにもとどまるところをしらない状態になっていた。
ヴァージェンチウム大元帥がゴルデベルグ准将の原隊復帰の諮問の場に現れたのは、ある意味で焦げ付いてくすぶりに火をつける寸前だった様々が原因で、無論に大本営を散歩して巡っている老人の趣味というわけではない。
ただ国葬の席でゲリエ卿が大元帥から准将の襟章と勲章と略綬とを様々まとめて預かった折に、妻はまだ死んでいない、と傲然と言い切った若者の言葉の成果に興味がなかったわけではなかったから、大本営では死んだはずのゴルデベルグ准将が生き返ってなにやら揉めている、という事件は比較的早い段階で大元帥は承知していて、自分はどういう風に登場すべきであるのか、機会はあるのかと密かに楽しみにもしていた。
大元帥に楽しみにしていた登壇の機会が与えられた。そういうことだった。
英雄の死の淵からの帰還がもたらした大本営内の混乱の状況と理由というものを大元帥はおよそ把握していて、はっきり云えば将官というものの微妙な立場、大佐までは比較的実務上の責務や立場が割り当てやすいのだが、一旦将軍になると師団をもつか、本部内の部屋持ちになるという制度が様式上一般で、将軍には将軍と常設旅団司令官としての准将しかない、という階級上の行き止まりであるところが問題だった。
将軍の上に元帥というものもあるが、こちらは共和国軍においては単に引退した将軍のための年金措置上の制度で田舎に小さめの荘園が手に入るようなものでもあるが、軍政上は単なる名誉職で政治的な権利も制度上はない。
はっきり云えば五十万しかいない軍隊に百人を超える将官は既に十分に多く、二十人を超える元帥というものを考えれば、それが害悪にならないために様々に手をつくした結果とも言えるわけだが、その現場実務者の最上位者としての准将というポストは例外的に権利権限が曖昧に作られていた。
一言で言えば統帥権を持った本部部員ということでウロウロと本部を無責任に出入りしながら現場で好き放題ができる立場であったから、部屋持ちの将軍よりもよほどリザ――ゴルデベルグ准将の気質に合っていて、ストレイク大佐などはウチに招きますか等と軍令本部長と話をしてもいたが、一回二回の使い捨てであればともかく、帝国軍との戦争がひとまずの決着に向けて動き始め戦後の体制改革を睨んだ時節に大本営内の火種を身内に抱える愚は本部長の立場では犯したくなかった。
ゴルデベルグ准将の有能は誰もが知っていたが、実務の有能と政治の有能は異なる質のものであったし、戦時の有能と平時の有能もその境界もまた異なるものであった。
とは云え、ヴァーゼンチウム大元帥が登壇の機会を伺っていたのは、その必然が様々に示唆されていたからでもあった。
大元帥府の意向の強い軍政本部内では参謀本部と図って将来の人員拡大計画と予算圧縮の方策の研究を進めていた。
その内容は現役定年の延長を含み多岐にわたっていたのだが、とりあえず中短期的な話題として階級制度上の改革があった。
将軍の階級を大将から少将まで三つの階級に分けることと、特佐特尉という戦時任官専用臨時階級の設定をおこなうべきではないかというものだった。
理由は大雑把に言えば、予算都合と組織管理上の限界から長らく五十万という定員で運営されていた共和国軍がそれでは人員が不足していることが、この度の帝国との戦争で明らかになったからだった。人員の拡大は現役定年を五年伸ばすことで既に大議会の大方の流れが出来上がっていた。
今次の戦争の経過を通して大議会でも帝国軍に抵抗するためにはそれなりに平時から規模を拡大する施策の必要は認められていて、これまでは政治的な勢力としての共和国軍に疑いを持っていた者たちも、鉄道というはっきりとした国家の枠組みをみせる技術の到来で、信用や疑惑の有無はともかく、共和国軍の組織規模の見直しは受け入れる気分になっていた。新しいならず者よりは口の聞き方のあるならず者のほうがマシだという程度ではあったが、ともかく共和国の体制が刷新の必要とそれが現状の地方州には手が負えない事態であることは、様々に理解され始めていた。
退役将兵は各地方にとって比較的悪くない大方理想的な市民州民であったから、定年が五年遅くなるということは、そう言った者達の賞味期限が短くなることは意味していたが、人員の拡大はそれだけではなく、戦争のたびに慌ててバタバタと徴兵されるよりは面倒が少なかったし、そもそも無産階級を掃き清めてどこかに運んでくれるということであれば、それは悪い話ばかりでもない。
共和国全体で五十万だか百万だかという無産階級の姿が消えるということは、州市あたりで一万から数万の、金にならない稼ぎのない連中の姿が消えるということであったから、面倒も随分と減るということになるはずだった。
将来的には百万を超え二百万を割るくらいのどこか、を帝国との戦争では睨む必要が有ることは明らかで、実働兵員百万を狙うためには将官がおよそ五十人から七八十人程度。管理職部門長でおそらく百から二百が必要というところが予想されている。
実質的に倍ほどということになる。
将官はある程度上下のない方が運用現場での面倒が少ないわけだが、実際には連合作戦などで上位者が必要なこともあり、或いは管理職部門では明確に隷下組織というものが存在し、しかし隷下組織はその上位組織よりも巨大であることは当然に考えられた。
つまりは現在将軍職が横並びでいられるのは、共和国軍が小さくある地域ある職掌に一人か二人の将軍しかいない結果であるわけだが、この後組織が大型化すれば、人員規模が増え管理人員が増え必然的にヒエラルキーが複層化する。そういう話題として将軍の階層化、階級化が必要になる。
或いは部下の少ない上級将官が各地拠点を指導して巡回するということが一般化するだろう。という研究予測の成果だった。
その片鱗はゴルデベルグ准将が自らの部隊編成の折に鉄道と自動車を使って共和国中の様々な物資人員を調達して見せた例にもあって、電話鉄道自動車のみっつが揃って登場したことで、将来の共和国軍の管理職の姿も変貌するだろうという未来予測研究になっていた。
具体的な例として実績ある現場管理職としての将官として、最も新しい技術の熟練者の一人としてのゴルデベルグ准将は参謀本部としては研究に値する人物で、みすみす野に放つには惜しい人物だった。
もう一つの戦時任官専用階級の話は実際に戦争を戦う中で、軍学校修了者以外に戦場における指揮適任者という者が存在する、という予てから口の端に上っていた特務士官指名をより自由に拡大すべき、というという提言でこれも軍組織の拡大と副層的な将軍格の運用という話題にかかっている。
年金や給与という事務手続きと切り離された実務上の階級という意味合いで、特尉や特佐という任務司令官を戦時において臨時任官し部隊実務を預けることは兵員の才能を現場で認めやすくなるということだった。
つまり例えば水先案内人や山地の猟師を現地で徴発したとして、部下の有無にかかわらず小隊長格或いは部隊参謀格を与える根拠になる。
例えば土地勘や事情に通じた兵や地方民がいたとして作戦に際し臨時に佐官格を与え、幕僚会議に同席させ発言する根拠を与えやすくなる。
実務上は既におこなわれていないわけもないことであるが、階級と格というものが軍隊の秩序の根幹である以上、階級のない者に責任と発言を許すほどに軍隊の規律は甘くない。
一方で一般情報以上に何かを求めようと思えば、当然にそれに適した部外者に頼る必要もある。またさらに他方で単なる個人的な顧問に公の発言を求めることは様々に問題も多かった。
強力な軍需製造流通業の主宰であるゲリエ卿に対して軍需計画の指導を直接求められない理由も卿がデカート州においては公人であっても共和国国政においては単なる一私人で軍においては全くの部外者であるからだった。
この後、どうあっても共和国軍の人員の拡大がさけられないことは事実として、無制限に人員を増やすわけにもゆかず、ある程度に外部或いは内部の人員を活用するとしても、その根拠を整備しておく必要はある。そういう提言だった。
予算の問題を考えれば、数倍の人員増というものは短期的に対策が取れるものではなかったし、鉄道や戦車という予算上の衝撃を考えれば人材の確保という意味で有望な予算を確保できるとは現場の人間は誰もが考えていなかった。
統帥権という飴玉の魅力的な新味として臨時任官制度の拡充は手頃だろうと現場と本部の間の参謀本部は結論していた。
もちろん階級以外の方法も考えられたし、予算や事前の配置をおこなわなくて良い臨時徴募の形を取れる特尉や特佐という考え方は現場の人員管理として麻薬のような甘やかさを疑われもしたが、一方でそれも必要だろうと考えられていた。
人員拡張に関わる様々を考えれば十五年から二十年の間の時間がかかると予想されていたし、そういった長期計画で挑まなければ三倍からもっとという人員拡張は危険だった。
もちろん人員拡張の他に様々な改革施策をおこないながらということにもなっていて、それだけ予算があるかどうかは、ひとつには鉄道と電話とを通じて人々がどれだけ共和国に貢献するかでもあった。
参謀本部では鉄道と電話を使った資金的な利殖や生産拠点への融資投資などもおこなっていて、あまり大きな声ではいえないものの小さくもない金額が回転資金として運用されている。同様のことは軍令本部や兵站本部或いは憲兵本部でさえもおこなっていて、功利と悪徳の狭間を覗くような動きにつながってもいた。
責務として税金の形で収めるのと債務の形で収めるのと或いは贈賄の形で収めるのとどれがよろしいか、という三択はある意味で組織にとっての腐敗と疑獄の温床であることは事実として、帝国との戦争によって組織的政治的な混乱が引き起こされた今、様々に誰もが手元に兵粮をかき集めたがっていて、カネがないなら糧秣がないなら人材がないなら資材が資源がと、早くも次の戦争に向けた、或いは戦後に向けた主導権や未来構想に躍起になっていた。
そういう必死の鉄火場で、どういう形においても大本営内でのあらゆる資源の奪い合いの深刻化が予想される中で、戦争の英雄が墓場から蘇ったという話は、大本営の政局にとっては迷惑以外の何物でもなく、しかしそう口にすることこそも憚られるというひどく面倒な状態でもあった。
しかも彼女は誰に憚ることのない功労と戦死の合わせ技で二階級特進を経て、佐官ではなく准将になってしまった。
これまでは彼女は純粋に強力な大駒のひとつだったが、これからは自分で踊り出す機能をも身につけた駒になる。
そういうわけで、ゴルデベルグ准将の原隊復帰報告は大本営にとっては面倒くさい時に面倒くさいことが起きた、ということになった。
とりあえず嫌われ役の憲兵隊の怖いもの知らずがグダグダと引き延ばしている間に善後策を考える必要があるわけだが、どこにどう落とし込んでも閑職にみえる席しかなく、戦争がまだ終わってはいないこの時期にそれなりに見える席に英雄を座らせるわけにもゆかなかった。
気の毒な怖いもの知らずが虎の尾を踏めばなにが起こるのかは大本営の者は想像できたが、礼儀正しい憲兵は虎の尾を踏むようなことはせず、憲兵本部から出ることはないはずだから大丈夫、そのはずだった。
もちろん准将ともなれば、英雄と呼ばれずとも長い尾を持っている。
憲兵が戦場で一人寂しく敵に殺されるということは、気の毒なことだがとても多い。
割とすっきりと結婚生活を念頭に置いていたリザにとっては無任所でも一向にかまわない話であったのだが、英雄というものの扱いを考えるときにそれなりの場所がないと本人はともかく辺りの人々が落ち着かない、というそれだけのことが様々に面倒を引き起こしていた。
特にリザは国葬において様々の過去の業績、とくに誰もが殆ど忘れかけていた開戦直後のアタンズからギゼンヌまでの抵抗線の構築に尽力した実績などを掘り起こすことにつながって、彼女が最初から最後まで戦況の決定的な瞬間を支え、帝国軍の勝利への策謀を払いのけるように活躍をし続け、ついにはリザール城塞をその手に収めた、ということを人々の記憶に焼き付けることに成功した。
戦女神、地に還る。などと大仰に書きつけた新聞の類もあったくらいで、民間の地方人は単に戦争の景気付けの英雄と思っていただろうが、大本営の中では戦術級作戦級の士官としてはともかく必要なとびきりの強運というものを持っている、つまりは実戦派その中でもとびきりの実力を持っている高級将校であることを思いださせることになった。
二つの戦いで同じ戦区同じ時間を実務の上ではより重要な役割を果たしたアシュレイ大尉の実績を謳う論は殆どなく、共和国における魔道士の意味するところの後ろ暗さをマジンは思わないでもなかったが、マリールはあまり気にしていないというか、およそそういうわけで待命を希望したということでもある。
神がかりで理路整然とした高級将校という存在は、同じ組織に属する者達にとっては信仰の偶像にするか憎むべき商売敵にするかの二択で中間色の準備が殆ど存在しなかったから、ゴルデベルグ准将の存在は軍事関連の政局というべき軍政やその管理としての兵站を含む准将個人の持つ実力や資質とは全く別に、組織の政治の上では天災に近い困難さをだけ予想させるものだった。
政治の本来求める清濁敵味方を可能な限り無色なまでに混ぜ合わせ共生させるという曖昧さを作る努力にとって強烈すぎる能力と個性は有害でしかない。
それは軍隊という外敵と闘う組織にとっても同じことでどういう方法論結果論であっても、味方同士が争うような行為は全く愚かしいことであったから、派閥というものを積極的に作ることは全く利敵行為ではあったが、一方でヒエラルキーの中途に突然の頂きができることは才能や効率或いは現実的な制約という賢しい物の見え方があれば却って必然でもあった。
無為に派閥ができることを嫌って、それならば独自の善良を裁量に求める意味で統帥権というものがあり、各将官には各司令部や部局に平たく部屋を分け与えているわけだが、見目麗しい若い女の英雄将軍が死の淵から蘇った、というわかりやすい偶像に部屋のひとつもあたえないでは不満も出るし、部屋を与えるには準備が間に合わず急にすぎた。
そういうわけで大元帥の提案としてはゴルデベルグ准将に早急に部屋ひとつを与えることはできないにせよ、それができるまで部屋の準備が整う努力をおこなえる部署に准将の机を置くことだった。
具体的には大元帥府の参事の机を置くことを提案した。
事実上、大元帥の相談役或いは名代という曖昧な執事職に似た公式には空虚さを持った、しかし一方で重要な職分であったから、名誉職としては十分すぎる格があって、実務上の権限は曖昧でもあった。
問題はヴァーゼンチウム大元帥の個人的な感情と感覚によって参事の位置づけが定まるという、実務上客観的な根拠が何もない、という点であったが、つまりは大元帥預かりの准将が大元帥府に席を据えるということで、階級上の格としてはやや役不足ではあるものの一時預かりであればむしろ次を楽しみに待つというだけのことであったし、二階級特進がなく大佐ということであれば順当とも云えた。
そしてこの提案の重要な点は、ヴァーゼンチウム大元帥がゴルデベルグ准将と自ら面談をおこなうという点が何よりも優れていた。
面倒な様々を一気に棚上げして、有能な人材を大本営の何処とも衝突させることなく大元帥扱いに留保することができる上に、大元帥本人が身の証を預かるという後見をおこない、かつ実際的な権威は与え権力は与えない。登営退営のラッパや笛を鳴らす以上のことを大本営が約束する必要もなかった。
ヴァーゼンチウム大元帥は三日目にゴルデベルグ准将とその夫であるゲリエ卿を招いて夕食をゆっくりとることで、大本営内の各本部各部署から重大な政治的対立要因をひとつ取り除くことに成功し、ゴルデベルグ准将の人別と慰撫をおこない、予てよりの希望であったゲリエ卿との私的な面談を果たすことに成功した。
ヴァーゼンチウム大元帥の提案はおよそ受け入れられた。改めて新婚期間に入っていた夫妻は故郷で隠居を決め込むつもりもあった様子だったが、参事の職務は毎日の登営を求めるような職ではなかったし、実質的に大元帥の執務が滞らない間は求めに応じて相談に応じてくれれば、それ以上の何かが必要というわけでもなかった。
ヴァーゼンチウム大元帥は戦場の英雄ではなかったが、それでも共和国軍においては絶対必須の指導者である面目を示したのだった。
リザが生きていたという報せは、帝国軍の城塞ふたつが爆発したという大事件に比べれば小さいものだったが、ヴィンゼやデカートではもちろんゲリエ卿の動向は遠くの戦場の出来事よりも重大な注目の話題であったし、彼が手をつくしてなお難しい状態であることから相当に深刻な話題であること、或いは本当に死んでしまったのだろうと考えられていたが、新婚早々に連れ合いを亡くすなどということは別段ゲリエ卿ならずとも気の毒なことであったから、多くの者達は全く単純に新年と云える月の終わりに聞こえた春を思わせる報せと受け取った。
その報せに子供たちも慌ててローゼンヘン館に帰った。
もちろん誰もが等しく喜んだわけだが、中でも大喜びしたのはアーシュラだった。
暗い星空のような黒に染まった髪の色や赤いモヤに落ちる夕日の色になってしまった瞳を見てアーシュラは嘆き、しかしまた話せることを喜んだ。
驚き喜んでいたソラとユエはしかし、二人を見て涙をこぼし始めたリザを見て困惑した。
リザの中に実の母の魂が同居しているというリザの言葉はふたりにとって全く理解できない種類の言葉だったが、父がおこなっていた氷砂糖のようになった母をよみがえらせる研究が失敗に終わったことは知っていたから、その時の事件の成果がリザを蘇らせたということであれば、ともかくも喜ぶべきことだった。
ソラとユエにとってリザは父の最愛の恋人という意味での母だったから、彼女が実母としての意識を持ってくれても全く構わなかった。
ソラとユエにとっては母と呼べるのはむしろアルジェンとアウルムの二人の姉で、あいにくと生みの母の記憶もあるわけはなかった。それは当のステアにもわかっていたことで、ぼんやりとソラとユエが母として認めてくれたことだけで満足するしかなかった。
戦地にあったアルジェンとアウルムはアタンズまで下がっていた。
リザール城塞が陥落しエランゼン城塞が謎の爆発を遂げたからには短期的な作戦目標はなく、ここしばらくは空騎兵の動きもない、エランゼン城塞の生存者の確認も終わったということであれば、リザール城塞の手前に聯隊がひとつ置かれていれば十分だったし、それも帝国軍の動き次第というところだった。
リザール城塞の突入にあたって土砂に巻き込まれた戦車の殆どは戦闘に耐える状態ではなかったが、修理の手が及ばないほどの問題を抱えた車両はなかった。弾薬や備品のいくらかを陣地において途中で拾った他部隊の落伍兵や負傷兵などを載せてアタンズに落伍なく下がっていた。
戦車の修理は整備機材は疎か床面の舗装も十分ではないような未完成のアタンズの車両整備拠点では簡単だったというわけではないが、雪解けの頃までには一通りの修理と再整備が終わり、エランゼン渓谷とリザール城址を見下ろせるミヘール峠に、駐留のミルマ大佐の聯隊が配置されたころ、旧司令部跡地の丘に陣取っていた自動車聯隊が交代していた。
リザール城塞の攻略とエランゼン城塞の陥落とはごっちゃになって人々には伝わっていて、エランゼン城塞については人命救助以上には殆ど何もしていない、そして大方はそもそもエランゼン城塞まで足を伸ばしていない装甲歩兵旅団の面々は少々説明が難しい立場だったが、ともかく鉄道拠点に整備された車両基地はようやく落ち着いて機械の手入れをおこなえる時間を与えてくれた。
湯水を文字通りその如く使える拠点は前線ではありえなかったから、アルジェンとアウルムはまずは戦車の掃除から始めることになった。
二人にとってはそれぞれ家のような、子供のようなところもある機械で、前方の陣地では手入れができない分、あちこちが気になっていたところを少しづつ手を入れていた。アタンズに帰り着く頃には便所のような匂いだった車内も今ではすっかり綺麗に匂いも落ちていた。
リザの後任の聯隊参謀長に配置されていたエイディス中佐は極めて活発に現場に出向く種類の現場将校で油断をすると洗車場の機材を片付けていたりする人物でもある。リザも全く出不精ではない、むしろ本部にほとんどいることはない将校ではあったが、彼女は部隊そのものよりは、きたるべき部隊の戦力編成の需要品を掻き集めるためにローゼンヘン工業などの各商会、或いは各地方軍連絡室や軍需品倉庫、更には大本営各所を出向き訪ね歩いては、またあの閣下が、と云われるようなことを平然とやらかし続けていたから、その功労を知らない部隊においてはおよそ訓練の要所要所で無茶振りをする鬼女だったし、各地で様々にリザ――ゴルデベルグ中佐――准将閣下は鼻つまみの無頼漢も同然の扱いを受けていた。
全くそうある必要がある限りにそうした、とエイディス中佐は了承していて、実のところ軍令本部でもリザの行動の成果の評価は極めて高い。彼女をアバズレ扱いする者達組織においても、その有能の暴力が荒魂になって向かないことを礼儀正しく望むくらいにはゴルデベルグ准将の実績は際立っていた。
無事帰ってきた今になってみれば、アレは戦争の女神のような人だったと部隊の面々も懐かしんでいた。
無論、戦争を体現するような女性が勝利を求めるとして、夜叉のような鬼女以外のなにになるのかという笑いも含む。
もちろんゴルデベルグ中佐一人が計画を建てたというよりは、ラジコル大佐や各部隊長の話をまとめて、それを主計参謀であるレンゾ大尉が数字をまとめたものを切り上げる形でゴルデベルグ中佐に示したところがひとつあって、当然にそれは来るべき部隊行動においては適切かつ必要な数字ではあったのだが、同時にラジコル大佐やその他の歴戦の幕僚や部隊長たちの常識としては、想像はしていたものの仰け反るような事実としての数字であったから、思わず目を疑い我が目を伏せ控えめに割り引きたいところを主計参謀レンゾ大尉が全く無視して各所の要求を示し、幕僚たち部隊長たちの困ったような疑うような目をゴルデベルグ中佐が全く傲然と受け入れ、ラジコル大佐の決裁を促したところによる。
ラジコル大佐にとっての部隊編成完遂の立役者の一人でもあるレンゾ大尉をストレイク大佐が作戦終了後に引き抜いたことは、昇進なったラジコル准将にとっては実はちょっとした痛みを伴う人事でもあったが、目的や数字に正直な容赦のない性格という意味でレンゾ大尉はゴルデベルグ中佐と同じような扱いの難しさを部隊本部内で示していて、ひとまずの大作戦が終わったことで少佐として昇進を伴った形で軍令本部に栄転するということであれば、誰もが喜んで送り出せるという事にもなった。
歴戦の部隊長と有能参謀の中間で動揺するラジコル大佐は、物分りという意味では良すぎるところもあって、定まっていないところでは味方に付け込まれるところのある人物でもあったから、軍令本部ではというかストレイク大佐はゴルデベルグ中佐の斬りこむような容赦の無さを新設部隊編成において期待していた。そしておよそそれは完全な形で果たされ戦果として示された。
だが当然に他人のケツを高圧洗浄機で洗うような乱暴な行為が好まれるわけもなく、ゴルデベルグ中佐が戦死をせずとも早晩に部隊幹部としては更迭される必要がある、と軍令本部でも考えていて、実はリザール城塞の攻略戦の準備のさなかにはエイディス中佐が後任に指名されることは既に定まっていた。
帰還して昇進なったラジコル准将の主席幕僚にスルリとエイディス中佐が差し込まれたのは全く予定通りの出来事でもあった。
そういった本部の中での配役表における駆け引きの様々と縁のないアルジェンとアウルムにとってエイディス中佐は、セラムを偉くした感じという人物で、ウワサ話では男女の浮名に事欠かない男前の女性でもある。
戦車大隊から作戦参謀として旅団本部に異動になったセラムとエイディス中佐が並ぶと、それほど大柄というわけでもない騎兵上がりの女性将校二人であったが凛とした存在感が増し、若い連絡参謀たちにとってはむさ苦しい髭面の年寄りたちとは全く一線を画した空気感があって、これまでのゴルデベルグ・レンゾ体制の男性幕僚を圧倒する嵐を伴う花吹雪のような存在感とは異なり、爽やかな雰囲気のエイディス・マークス体制に新たな期待を感じずにはいられなかった。
現実問題としてゴルデベルグ准将の実務的政治的駆け引きと実際の部隊の赫々たる戦果を以って、装甲歩兵旅団はエイディス中佐が無理をおこなう必要のない様々な特権的状況を既に獲得していて、兵站上や装備編成上の優遇を戦果とともに誇ることを恥じる必要のない立場に立っていた。
一方でそういう当然に目立つ部隊であれば、後任の人物は勇猛ではあっても円満な人物であることが期待されてもいて、エイディス中佐は戦場の女王としての女丈夫として、匪賊の女頭目のような敵味方に凄みを利かせる人物ではなく、伝説の騎士団を率いるに相応しい女騎士の如き人物としてラジコル准将を支えることを求められていた。
型の出来上がった新設部隊としては、しかし十分な戦果実績も積んでいて、特段に前任者を否定する必要もなく、エイディス中佐も業績よりは必要を重視する人物であったので、主軸となる作戦のない部隊に波風を立てる必要もなく、状況の把握と整理に努めていた。
そういうわけで中佐が車両整備基地を訪れることはそれほど珍しいというわけではなかったが、彼女がマジンを連れていることについてはオヤと思い、またこれは珍しいほどに黒髪を蓄えた女性を連れていることにまたオヤと思った。
「どこからどう云うべきかはわからないのだが、君たちの作ったこの部隊は共和国軍の限界いっぱいを引き出したものになっている、というのは紛れも無い。なかなか興味深いよ。もちろんラジコル大佐の構想が下地にあってのことだが、大佐も絵図面は起こしたもののまさかに実現できるとは疑っていたところもあるらしい。もちろん運用は私も含めた各員の努力だが、これほどに突飛なものを使えるように揃えてみせたのは君たちの力が大きい。レンゾ少佐もマークス少佐もそこは本妻の貫禄に譲っていた」
アルジェンとアウルムの耳が、機嫌よさ気なエイディス中佐の言葉を聞きとがめた。
作業の手を止めて黒髪の女性の顔をまじまじと眺めた二人は、女性が誰であるのかは理解したが、二人の理解が追いつかない姿の女性が誰であるのか、二人は互いに目で相談して互いの困惑を確認した。
リザは黒髪じゃないし、目が白兎のように赤くはなかったし、第一ふたつき足らずであんなに髪が伸びるわけはない。国葬になったとも聞いていた。
「ゲリエ中尉。ああ、アルジェン、アウルム。ご両親がおみえだ」
エイディス中佐が笑顔で引き合わせた父親は間違いなく父親だったが、もうひとりがうまく理解できなかった。
「アルジェン、アウルム。お久しぶり。元気そうで何よりだわ。……死んでないわよ。なんか、死んだみたいにはなっていたけれど、恥ずかしながら生きているわ。……むう。疑われている。どうしよう。警戒されている。やっぱりこの目と髪は説明が難しすぎる。……ん。ああ。エイジャの村で私をかばってくれてありがとう。足首が砕けちゃったけど、もうあのときは痛くもなかったから、大丈夫だったわよ。一緒に泣いてくれて嬉しかった」
リザが困った顔で言った言葉の奇妙にエイディス中佐はマジンの顔を探したが、黒髪の女性がなにを云っているのか理解したアルジェンとアウルムは尻尾の毛を逆立てるほどに驚いて、手元の工具を作業台に取り落とした。
「母さま、……母さまなの」
ようやくエイディス中佐は思い描いていた手応えを感じて頷くと、他の作業に向かうべくその場を辞した。
死んだはずの母娘の対面をそれ以上に眺める時間は再編成中の部隊主席幕僚には許されてもいなかった。
「そう。あなた達の母さまです。ソラとユエを立派に育ててくれてありがとう。話を聞くとこの人相当無茶をさせてたみたいね」
「……母さま。なの、リザ様の顔なのに。リザ様は死んじゃったの」
アウルムが困惑したように質した。
「むずかしいのだけど、二人を合わせたような存在ってことでいいと思うわ。私にもよくわかっていないの。荒れ野のかったい土を貴方がたの背の深さまで穴を掘ることを毎日させてたゴルデベルグ准将閣下でもあることは間違いないわ。履帯引き競争とかまたやりましょうね」
「リザ様なの」
「両方、二人分って感じね。こんなに大きくなってるふたりをみて、どうしていいのかわからない自分は間違いなくステア母様だわ。……ちょっと、アナタ。転んだら助けてね」
そういいながらリザはぼんやりと二人に向かって歩みを向けた。
それは今しがたまでの動きとは全く別で、身体を使い慣れていない感じがする動きだった。
「……ふたりとも大きくなったわね。ヤダわ、なんか二人のおっぱいの高さに顔がある。子供になったみたい」
アルジェンとアウルムは顔を見合わせて笑った。
「リザ様は……、母様は軍に復帰するの」
「現役でも退役でも、将校は永久服役みたいなものだからね。配置があるかどうかは怪しいけど、この人次第というか軍次第かしら。戦争はまだ続くけど、しばらく作戦という意味では動きもなさそうだし、飽きるまでこの人とイチャイチャして過ごすのもいいかなと思っているわ」
アルジェンとアウルムは父親の顔に何かを探すようにした。
「そうなるかもしれないな。きりが良くなったらお前たちも帰っておいで。会社が大きくなったから、手伝ってほしいこともいっぱいあるし、戦争が終わるなら仕事がほしいって兵隊も連れてくればいい」
「戦争が終わらないのにキリって分かるものかな」
リザの言葉とマジンの言葉の矛盾にアルジェンは困ったように言った。
「兵隊に飽きたらでもいいぞ」
「飽きるってよくわからない。怖いなぁってのとは違うんでしょ」
難しい話を聞いたというようにアルジェンは言った。
「ヤダなぁ、って思うことはないのか」
「……父様とお話できないことかな」
しばらく考えてアルジェンが口にしたその言葉にリザは力いっぱい二人を抱きしめた。
「かわいい良い子に育ったわね」
「リザ様、母様、いたい。痛い」
本当に痛みに慌てて二人の娘が叫ぶ。
リザの膂力はかつてより数段増していて、時々本人が意識しないと危険なほどになっていた。
「ごめんなさい。なんか、今こんななのよね」
「父様とどっちが強いの」
アウルムが体の痛みを散らすように肩を揺すりながら尋ねた。
「ん。それは試したことなかった。どうなのかしら」
「ボクは痛いのは嫌だ。負けた」
リザの問いかけにあっさりとマジンは諸手を上げた。
「父様は力の加減上手いよね」
「そんなの、慣れてるからね。ずっと調整しながら生きていたし、力で捕まえるんじゃなくてくびれた部分を引っ掛けて逃がさないように捕まえればいいだけじゃないか。硬いところに無理な力をかけたら壊れるよ。滑らない位置に滑らないように手をかければいいんだ。工具も一緒だ。ハマるところにハマるように力をかけて歪を調整する方がいい」
「工具ったって、あなたの作った戦車はそんな優しい作りじゃないじゃないの」
リザが混ぜ返すように言った。
「ソレは。ヒトじゃないだろ。部品の組み付けはもともと金属の伸びや変形を活かしているから、余裕があるなら本当はネジや座金や打ちピンなんかの小さな金具のたぐいは消耗部品あつかいで毎回交換したほうがいいんだ。戦場ではそうはいかないの知っているけどさ」
「なんとかならないの」
あまりに大雑把なリザの問にマジンは苦笑する。
「どこをって話がないと改良もしにくい。具体的な要望が分かる形で報告書をまとめて会社に送ってくれ。
――見込み十五グレノルを動かすつもりの金物で出来ているから勘違いしやすいけど、履帯は本当に痛むんだ。そうしないと戦車本体を痛めちゃうしね。履板は大雑把に鉄の枠に軽金属の地を流し込んで合わせて鍛造することで軽めに作っている。ネジもそういう軽金属の地に埋まるようになっているから、履板は使っていると痛むし、整備のたびに外したりするとネジの抜き差しだけで痛む。リンクも軟鉄だからリザが力まかせにやって曲げているのは知っているが、そうしないと駆動輪もいたんじゃう。駆動輪も軸より弱く作らないと駆動軸を痛めちゃう。駆動輪も転輪も鉄と軽金属のツーピースの部材をまとめて高圧鍛造しているから各車軸よりはだいぶ弱い軽い一種の合金材料だ。
――ピンを刺しにくい歪み始めた履帯はさっさと切っちゃって塹壕の土嚢や防弾板代わりに使えばいいよ。ピンは砲弾と同じような硬い材料の管に軽金属を圧入したものでそこそこ軽くかなり丈夫だけど、履帯の方はどうあっても地面と戦車の間でどんどん痛む。ある程度、部品が馴染むのも、腐敗と発酵みたいな話で、材料の上では傷んでいるのと大差ないからね。
――そういうわけで履帯が痛むのは諦めろ。見込みでは二千リーグを超えたくらいが履帯の構造上の限界だ。三千リーグはよほど運が良くなければ走りきれまい。履帯以外の他のさまざまは、棒材でネジをでっち上げて頑張れ。溶接もろう付けも鉄道軍団の基地にあたれば出来なくはないが、むこうでは戦車をバラす余裕がないはずだ。部隊の要望がまとまったところで車両の改修は随時おこなえるし、現有のここにあるソレも改造ができる。
――キリって云えばその報告書をまとめるのもわかりやすいキリだな」
首をひねるようにリザがした。
「十五グレノルってどういうこと。半分くらいよね」
リザの知っている戦車はどちらも八グレノルを僅かに出たり入ったりするような規模のもので、どれほど荷物を積んでも十グレノルを超えることはなかったが、そうであってもその車重故に戦場では様々な苦労に見舞われることになった。
「単に見込みだよ。お前の運転で飛んだり跳ねたりしていただろ。最終的に車体の自動車としての設計だけ十分に信用できるなら、装甲や武装はその場に応じて組み付けられるようになる。設計の上では十二グレノルまでのプランはあるし、様々を気にしないプランとしては十五グレノルぐらいまでは考えてはいる。必要に応じて、武装や装備を入れ替えるつもりはある。砲塔をおろして電探とか架橋機材とか積んだりとかね。
――でも、そんなものよりも共和国軍には必要な物が他にあるだろう。帝国軍がこの後も毒ガスを作戦に組み込むなら、洗濯と風呂ができる環境を陣地に持ち込めないと話にならない。おまえの部隊には投げてやったけど、あれを前線全域に準備しないとならない。そうあるためには水と燃料を専門に扱う部隊が前線に必要だし、朝晩の兵隊の努力だけじゃ立ちゆかない。敵の事情に期待するのは問題がある。着替えを常時豊富に準備するのとどっちが簡単かわからないけど、被服の交換と入浴は毒ガス戦の基本だろう。逆に云えば湯水が潤沢に供給できるなら、あとは防毒面と個々の兵隊の注意努力だけで被害を防げる」
肩をすくめるようにマジンが言った。
「それは、なんというか、ちょっとすごく贅沢な話ね。言いたいことはわかるけど、無理じゃないかしら」
「軍隊の常識として無理な贅沢かどうかは知らないが、兵隊として愛する人を送り出している銃後の者としては、兵が生き延びるために兵が戦争を生活するために必要がある全てはなす努力はなされるべきだと信じている。それが叶うかどうかは別にしてね」
「むう。この後も帝国と戦うなら、必要か。……なに、どうしたの、あなた達」
リザが単に戦車だけでないこの先の戦争の見込みの話に思いを馳せていると、二人の娘の視線が気になったらしい。
「え、いえ、あ。うん。本当にリザ様なんだなぁって」
「ん。ああ。まぁついこの間まで戦争していたからね。母様としてはちょっと不思議な感覚だけど、あなた達が大きくなった姿と帝国との戦争は、わりと自然な感じね」
アウルムの言葉にリザは説明に惑ったように答えた。
リザとステアの融合はこの十日ほどでどんどんと進んでいて、大本営での様々な人々のやり取りの結果として、それぞれに特有の行動というものはあたかもリザの気分を変えるためのスイッチのようになっていた。
だが、内部的にはどうやらステアとしての意識が色濃いらしく、リザをリザとして扱うとときたま悲しげな顔をすることもあった。
二人の魂がリザの身体の中に収まっているという認識は客観的には理解し難い感覚でもあって、顔がおよそリザのものであることから、ついうっかりリザと名を呼んでしまうのだが、どう呼んでもやはり不自然な状態でもあった。
マリールはそのリザの状態をほぼ一瞬で見破った。
「ああ、我が君。やってしまいましたね」
少佐に昇進するや待役の手続きをとったマリールが、リザを一目見て気の毒そうな溜息をつくように言った。
「どういうことだ」
「それは魔族です」
「それ、というのはリザのことか」
「リザ姉さまの記憶と魂と意志を組み込まれてはいますが、それだけじゃないでしょう。完全な魔族です」
断定するようにマリールが言った。
「逓信院で検査も受けたが、そんなことは云われなかったぞ」
マジンが困惑したようにマリールに問いただした。
「あの人たちは自分の専門のこと以外は興味がありませんからね。リザ姉さまのことも大して見分けがついていないような人たちです」
マリールは料理屋の味を評するような気楽さで断言した。
「お前には見分けがつくのか」
「多少は。リザ姉様はなんといっても私の実の姉上も同然の方ですよ。変化には気が付きます。我が君がなにをなさったかもおおよそ想像がつきます。本当に出来る方がこの世にいるとも思いませんでしたが、伝説というか言い伝えの物語の中にはしばしば出てきた話です」
マリールは断定するように言った。
「髪の毛と眼の色が変わったっていう意味じゃないだろうな」
「そんなのより魔力の色と形が変わっています。煌々と溢れる澄んだ陽の光のようだったお姉様の魔力が玉虫色の渦のようなものに変わっています」
マリールの具体的な言葉にマジンの表情は憂いに陰る。
「それは、いけないことなのか」
マジンは自分のおこなったことをマリールに質した。
「いけない、というか、悲しいことですよ。魔族というものは永遠に生きますから。我が君が亡くなった後も生きることになります。その後は物語ではたいてい狂うものです。およその話として私の死後のことにまで責任は取れないわけですが、そういうことです」
マリールはそういう風に言った。
「つまりは私が永遠に生きてしまうだろうということを、マリールは心配してくれるのね。そうなったら私はこの人とどこか人気のないところでトグロを巻いた蛇のようにからみ合って過ごすことにするわ」
リザは韜晦するように肩をすくめた。
「鉄も石も追い越して生きることになりますよ。覚悟しておいてください。本当を云えば我が君が亡くなられる前にご自分で決着を着けることをおすすめします」
マリールの言葉に二人の眉ははねた。
「それはなに、私を殺せと言うのね」
マリールの言葉に苦笑するようにリザは言った。
「人の世が滅んだ先まで生きることを余儀なくされれば、お姉様はどうあっても狂った様に扱われることになります。おそらくこの先、我が君ほどにお姉様を手に掛けることが容易な方はいらっしゃいません」
マリールの言葉は人気のない池に放った石のような静けさを持っていたが、波紋は響いた。
「それは、嫌な提案だな」
「そうね。でも、マリールの言いたいことは分かるわ。私もあなたのいない後、それどころか、人間がいなくなった後まで生きていて嬉しいかっていう話はちょっと困る。趣味って云うほどのこともないものね。あなたみたいに何かを作る趣味があればよかった。あなたの郷では魔族を作る話って多いのかしら」
リザがマリールに尋ねた。
「作る話っていっても昔話程度で、実際に作った人はいたかどうか知りませんけど、大昔は結構あった話だったと昔話では聞いています。ただまぁ、なんというか、長生きしても不死身になってもヒトは人なので、なにが好きだの嫌いだのでなんかかんかうまくゆかないというか、そういう感じのお話ですね」
マリールの説明は如何にもボヤケたものだったが、却ってそれだけにかつての賢者の警句としては不気味さを感じさせるものだった。
「だが、ボクが出会ったことのある、まぁつまりはリザを生き返らせるために使った魔族は、なんというか、とても人間とは思えないような形をしていたぞ」
「大方の魔族は数千年数万年生きていますから、ヒトの形を保てなくなっているんでしょう。もともとヒトじゃない魔族もいたはずですし。現実、魔剣魔槍と呼ばれる古代の武器が我が家の家伝に何本がありますが、それも魔族ですよ。弓や鎧など一通り武具はありますね」
マリールの言葉は如何にも聞き捨てならないものだった。
「どういうことなんだ」
「どういうことっていうか、魔族って大昔にそういう道具のようなものとして作られたみたいですよ。メガネとか電話みたいな便利な道具として。ある意味我が君お手製の義眼とかこのメダルみたいな感じで。まさか我が君がリザ姉様を魔族として生まれ変わらせることになるとは思いませんでしたが」
マリールは問われて答えた。
「ステア、そうなのか」
なんというべきか、多少でも事態を知っていそうな名前を口にする。
「私をそう呼んじゃっていいのね、あなた。でも、マリールには私がどうなっているかちょっと正確に知ってもらって意見も欲しいわね」
リザの顔でステアが言った。マリールが目を二人の間に走らせる。
「どういうことですか。というか、ステアというのが魔族の本体の人の名前ですね」
マリールがリザに直接確認した。
「本体って云われてどっちが本体か私にもわからないわ。あなたの知るリザゴルデベルグ准将――リザゲリエの記憶と意識も私は引き継いでいるけど、その前にこの人に術式を頼んだ、というかその内容は全然デタラメだったんだけど、そういうものをそそのかしたのはステアフェイロスアエルシアアリオゲリエ。この人の最初の奥さんでソラとユエの母である私。血晶病で死んだというか、糖結晶化したわ。ともかく私は今リザとステアというこの人の死んだはずの二人の奥さんの記憶と意識で生きている。まぁ魂ってやつが記憶と意識の情報駆動という意味であれば、およそ二人分の魂ってことね。二人は直接出会っていないし、感情の上でもこのヒトとの恋愛というか新婚生活というか、まぁそういうことで記憶の上ではあまり矛盾を生じていない、ステアとしての私は十五年以上も前に半ば死んでいたしね。
――私の理解を確認するためにも、一応このまま私が説明をすると、この人はステアの体が完全に糖化してしまった後、心臓を取り出して食べ、そののちに心臓のあった位置に魔血晶を数百、一パウン以上二パウンほども詰めたのだけど、それはステアの身体に吸い込まれて消えてしまっていた。その後、新たにこの館で手に入れた魔血晶を材料の一部に混ぜ合わせて作った宝玉でセラムの義眼を作った折に残った母材で、人工の心臓を細工してステアの心臓のあった位置に組み込んでしばらく放置していた。――これが一昨年のことね」
確認するようにリザがマジンに目を向けた。
「心臓を作ったのはもう少し前の話だが、組み込みはそう一昨年のことだ。組み込んでなにが起こるかもどうなるかも分からなかったし、暇というほど暇でもなかったが朝晩くらいは状態を確認できるようになっていたからね」
マジンが補足に応えた。
「そのあと、忙しくなり始めて心臓を抜こうと思ったのだけど、思いのほかしっかり嵌っていて抜くのが難しかったから諦めたまま、三日ほど目を放した隙にステアの体がなくなり心臓がひどく重たくなって光るようになっていた」
「重くってちなみにどれほど」
マリールが問い質した。
「百三十パウンほど。百三十五パウンと八分の三。金でもあれほどに重くは成り得ない」
マジンが大雑把に数字を答えた。
「その時に拝見すればよかった」
マリールが残念そうに言った。
「もう君たちは皆前線に出ていたよ。結婚式の後の出来事だ」
マリールを慰めるようにマジンが説明した。
「ん。ということは、幾日か、途中でも朝晩に見に行っていない日があったってことですね」
「ん、む。そうだ。が」
「ああ、別段責めているわけじゃないんです。状況の確認というか整理をする頭になっているかなぁ、と自分のためですね。姉様続けてください。ステア姉さまも思いつくことがあれば」
うろたえたようなマジンの言葉にマリールが弁解するように言った。
「ありがとう。そのあと、リザが戦死。アタンズに帰ってきた遺体を回収して心臓をリザの身体に組み込んで、医療部に蓄えてあった輸血用の血液でリザの体の血液を入れ替えるのだけど、結局リザはその場で生き返らず。そのあとは私はちゃんと聞いてないわ。他にちょっと事件もあったし、少し説明して」
リザがマジンに話を振った。
「実はよく覚えていないんだ。リザの血液を入れ替えて反応を見たものの生き返る気配はなく、心臓も動かず脈もなく、脳や神経体温なんかも死んだことを示すばかりだった。そういう状態で四十日ほどすぎ、戦死から四十八日ほど過ぎたところで、殆どミイラのような状態で胸の傷が開いて心臓の光が傷から見えてしまっていた状態だったから、全部諦めるつもりで死体の心臓を殴りつけた、ような気がする。そのあと丸一日かけて帝国軍の城塞ふたつに八つ当たりの花火を落としにいっての帰り道でリザが生き返るところを見ることになった。なんかそれはこう凄まじい勢いで垢がもりもりと捨てられる光景だったんだが、リザはあまり空腹を訴えていなかったことがそういえば気になるな。その後も小食になったということもないが、ともかくその場ではリザは殆ど栄養や食事を必要とせずに一気に再生していた。そのくせ胸や尻足の膨らみや髪の毛というものは痩せていなかった。体力的にも特段どうということはなかった。身体のあちこちは如何にも新品という感じでうまく動いていない感じだったけど、体力や筋力という意味で不足しているようには見えなかった。こんな説明でいいか」
ひとまず顛末を語ったマジンはマリールに尋ねた。
「はい。およそは」
マリールは頷いた。
「それでどう思う」
「なにがでしょう」
意見を求めたマリールがきょとんと返したのにマジンは弱った顔になった。
「こんな術式で魔族が生まれるものなのか」
マジンは改めて尋ね直した。
「わかりません。ただ、結果としてリザ姉さまとステア姉様が一人分の身体で魔族として生きることになったのは事実かと。それと、今回のお話を伺うに、魔族を新生させたというよりは膨大な数の魔族をステア姉さまとリザ姉さまと我が君との三人で統合したということではないかと。二パウンってぼんやり考えていたけど、重さじゃなくて嵩でジョッキ二杯ってことですよね。それにしてもステア姉様はまぁともかく良くもこんな方法でリザ姉さまの意識が残っていたものだと思いますが、例のメダルはかけていたということですか」
「胸の谷間に食い込んじゃったわ。鎖は切ったけど引っこ抜くのに血が出る状態だった」
どれと覗き込むマリールにリザが胸元を開いてみせる。
「ああ、なんか流行りそうな位置でいい感じですね」
透かし彫りのメダルがリザの胸元に食い込んだようになっていて、そう言う装飾であるようにも見える。
「なに言ってんの。やっぱりこれ関係あるんだと思う」
「きっとあるんでしょうね。リザ姉様これ使って枯死したわけですから」
断定と云うには控えめながら自信を覗かせてマリールが言った。
「コレのせいなのかな。なんか魔法が調子良かったのは」
自分の胸元を覗き込んでリザが尋ねた。
「リザ姉様はともかく魔力という意味ではそこそこ以上に大きいですからね。力の入れ方と対象が掴めれば結構色々魔法が使えるはずなんですよ。チャンバラとか狙撃とかお得意でしょ」
「まあね」
「対象が分かりやすく同じ世界の穴を共有していると魔術の行使は協力をしやすいんですよ。リザ姉様から私宛の遠話なんて一度も成立してなかったでしょ。これまで」
思い返すようにしてリザは頷いた。
「そうすると、私からマリールへの遠話はし放題ってこと」
「お薦めはしませんが、私がメダルを身に着けている限り、まぁそうです。ついでに云えばそういうわけで私は殆ど見た瞬間にリザ姉様の異常には気が付きました」
「この人はそういうの気が付かなかったわよ」
「我が君はなんというか、そういう風に魔力を使いませんからね。それにご自分のお仕事を一切疑わかなったのでしょう。それに魔力の強い人は魔術の使い方はあまりうまくないひとが多いです。魔法はなんというかある意味で裁縫とか刺繍みたいな感じで世界の穴に模様を作ることで、周りにそれっぽい形を残すのが基本でそうでないとただ力押しに疲れるだけで世界の枠に引っかかってしまいますし」
それでリザは納得いった顔になった。
「ああ。なるほどね。私の身体は今、魔力がダダ漏れになっているのね」
「心あたりがあるのか」
マジンが尋ねた。
「あるわよ。なんとなく力や距離感がズレて生活している気分だったのだけど、魔力であちこち触りまくっていたのね。如何にもリザは自分の魔力なんて気にしたことのない人だったってことがよく分かるわ。魔法がうまく使えないことが悔しかったのにね」
リザがそう云ってしばらくして、マジンには辺りの空気感が少し変わった気がした。
「なにかやったのか」
「なにか、というか。ちょっとした修行中ね。大したことじゃないけど、魔力が吹き出すのを抑えてみている。リザは自分の魔力の質に合う導師に会えないままに魔法の開発を受けていたから、魔力の使い方が不器用なの。偶にふっと気を抜いたり入れたりすると上手くゆくのがまた歯がゆい状態で諦めてたし、私も自分でなにやっているのかよくわからなかったけど、魔法を使ってみたかったのね。でもなにをやっているかやりたいかがわかれば、基本はそれほど難しくないわ。練習は必要だけど、リザには体力と魔力は十分にあるし私には基本的な経験がある。魔術師としてはステアのほうが上ね」
誰が話しているのかわからないような口調でリザが説明した。
「それが今のお姉様の本来の魔力の色なんですね。やっぱり黄色というよりも基本は緑色ですね」
「そう言うあなたは紫なのね。あなたは濃い夜空みたいな青」
マジンにはマリールとリザの見ているものが見えていない。奇妙な感覚だがリザはマジン自身にも色を見ているらしい。
「魔力は色に見えるのか」
マジンは少し羨ましさが怪訝な声になったいることを意識したまま尋ねた。
「風景の色が変だなぁと思ってはいたのよね。目が赤くなったせいで視覚がおかしいんだと思っていた。けど、魔力でそこいらを撫で回していたのね」
長いまつげで日差しを作るようにしながら、何かを見るというよりは匂いをかぐような半眼の表情でリザが言った。
「魔力ってのは色があるのか。ボクには全然見えないんだが」
魚が空をとぶ話を尋ねているような、奇妙な感覚でマジンが尋ねた。
「色というかなんというか、湯気のような膜だけど、私はその感触を眼で感じている。前はこんな風には見えなかったわ。ステアも色というよりは匂いや温度で感じる人だった。でも時々強い魔族とかは壁を通して影とか光とかみたいにみえることもあったから、見ることが出来るのは知っていたわ。そういうわけでアナタが魔族を狩りに行ったのは私は知っていたわ。余計なことを云ったと思っていたけど、止める気もなかった」
なにを云っているのかマジンにはまるでわからなかったが、その説明を聞けばどうやってもわからないらしいことはわかった。
「リザ姉様も我が君も魔力ダダ漏らしの方ですからね。逓信院というか軍の魔導士では指導が難しい種類の魔力の資質の持ち主です。ああいう、文字の美しさが文章の価値や美しさであると考えるような人たちは、魔道を正しく教えるには向いていません。軍隊みたいな組織で仕事をする上では整った同じものを揃える必要があるのはわかりますが、そういう整ったものを並べて美しいと感じる感性は魔法魔術には向きません。魔術はどちらかという絵画や詩歌みたいなものですから、正しさの根拠は後付なんですよ。共和国軍は誇らしくみるべきところの多い組織ですけど、魔導士の教育に関しては寒村の私塾にも劣る有様ですからね。あれでよくも三千人も軍に奉職する魔導士を見つけられたと思いますよ」
退役した職場へのかなり露骨な罵倒をマリールは投げかけて鼻を鳴らした。
「ええと、どういうことだろう。ボクも魔術が使えるはずだってことなのかな」
「無意識に使っているんだと思いますよ。別段、魔法なんて使わないと使えないようなものじゃありませんよ。声とかクシャミと意味の上では大して差がありません。リザ姉様とか後方の魔導管制している魔導士からすれば状況のわかりやすい現場端末で、ほとんど四六時中状況が追える戦況水準ですよ。我が君も私はすぐわかりますけど、今メダル持ってませんね」
首を傾げるような軽く責めるような二人の視線にマジンはうろたえた。
「工作をすることが多いからね、不要な金物は身につけないようにしているんだ」
「浮気してても私には筒抜けなので、いまさら気になさらないでもよろしいですが、そのくらいには我が君の魔力は分かりやすく強いということは間違いありません。メダルつけているともうちょっと色々分かりやすく追いやすいですが、今は電話使ったほうが危険もなく簡単ですしね」
マリールの言葉は特段責める様子でもなかったが、魔力の実力保証という意味で少しばかり困惑する言葉でもあった。
「つまりなんだろう。ボクは魔法と思わないまま色々やっているということなのかな」
「だいたいそういうことだと思います。単純な物事ほど見分けをつけにくい灰色のまばらさを持っていますからね。別段、我が君の知恵や努力を疑うわけではありませんが、共和国の工房の殆どは、我が君が公に配合を公開しなければ、深絞りに適した真鍮の配合さえ見つけられなかったのですよ。あんまりあっさり秘儀を公開してみせたものだから、あちこちの工房で我こそが先に見つけていたぁ、とか大騒ぎしているのも知っていますけど、結局そう言っていた人たちも会社ほどにはまとめて地金を産しているわけではありませんし、そういうことが出来るほどに確たる何かを持っていたわけではありません。錬金術というのはそう言ってしまうと怪しげで我が君は憚るかもしれませんが、それでもやっぱり最初の数歩、方向と距離を定める指針を作るのは運になるわけですよ。更に云えば、ふつうよほどの天才であっても実際に物を作るとなれば、人の身の体力と腕力の限界から自ずと時間の制限を受けることになるわけですが、そのために普通の人は道具を準備するとしても十数グレノルというものの嵩に怯えるわけですよ。少なくともそれになれるまでは。それをなんです、あの飛行船。ああ。もう。あんなものがあるなら、早く乗せてください」
マリールは突然脱線したように立ち上がった。
「なにを言っているんだ。お前は」
「二人して退屈したからって、空の旅で、ああ、もういやらしいわね。魔力が使えるかとか、変な試し方しないでください。結構ちゃんと漏れています。伝わっています」
マリールは上気した顔でリザを睨みつけた。
「口で言うのは平気なのに、考えるのはダメなのね。わりと面倒くさい状態よね。コレって」
「ああ。もう、なんか。ウチの姉のやるようなイタズラを仕掛けないでください。冗談じゃなくて姉様はかなりの魔力を持っていてついでにそのメダル、私も持っているんですから、そんな扉を蹴っ飛ばすような力の使い方しないでも聞こえるんです。メダル持っている人たちなら感受性の強い人には今のエロ妄想、ダダ漏れでしたよ」
マリールが上気した頬を確かめるように手のひらでこすりつけながら文句を言った。
「ちゃんとマリール探ったつもりだったけど、ダダ漏れだったかしら」
「探りながら妄想垂れ流している時点でだだ漏れです。こうやるんです」
「ウヒっ……。こっコレは、結構効くわね」
刺されたようにリザが椅子の上で跳ねるようにして肩を抱いた。
「でしゃっふ。くへっ。……。うふ、リザ姉様にはこういうやり方のほうが多分魔術の習熟は早いだろうと思っていたけど、やっぱり早いですね。……ああ、ま、こんな感じですよ。結構きてますけど、流石にメダルがないと狙いにくいみたいですね。やり過ぎると危ないんでこの辺にしときましょう」
マリールはメダルを胸元から引き出すようにして机においた。
「すまん。まるでわからなかったが、そういうものなのか」
「雪合戦みたいなものですからね。魔力と完全に縁がないヒトというものも殆どいないわけですけど、窓の向きや形は様々で、同じように術式を使っても、ちゃんと分かる人とわからないヒトもいるので、お互いの訓練が必要です。我が君の場合は、なんというか日常的に魔法を使っているわけですから、無意識に無視してそれなりに鈍くなっているかもしれませんね」
悪意なさ気にマリールが評した。
「まぁ、使えないものは仕方ないな。特に使えてどうということも思いつかないし、使いすぎてうっかり死んじゃうようなのも、流石にどうかと思うしな」
「そうですよ~。お姉さま。ついウッカリ使えるので調子に乗るようなおバカさんは死んじゃうんですよ」
マリールが混ぜっ返すようにリザに言った。
「うるさいわね。あのときは必要だったのよ。いきなり土砂に埋められてみなさい。助かろうと思えば外に出るしかないでしょ。連中を鎮めるためにはある程度無理も必要だったのよ」
「結局なにやったんだ」
マジンがリザに尋ねた。
「知らない。ただシャオトアが圧縮空気の瓶を開けて、あちこちの扉を開けることを提案して窒息を防ぐことを提案したから部隊全員にそれを命令しただけよ。全部の車両に連絡参謀が乗っているわけじゃないからアレだったけど。あとは機関回して無理やり脱出しようとしていたバカをぶん殴ったくらいかしら。あんなんやられたらみんな死んじゃうわよ。まったく。ゴローズ少尉、戦車好きなのはいいけどバカなんだから」
鼻を鳴らすようにリザが言った。
「ゴローズ少尉ってのは魔導師なのか」
聞いたことのない名前にマジンが改める。
「そんなわけないじゃない。まぁ、割と運転はうまいけど」
別にメダルを持っているわけじゃないよな。
と、マジンが記憶の名前を探る間にリザが答えた。
「――そりゃそうよ。ウチのあたしの妹共じゃないわよ。なんたって男だもん。でもそれがまたかわいいんだ。威勢がいい男の子でさ、バカなんだけどね。砲を旋回させながら前進すれば泳ぐ要領で出られるはずっ。とか思ってやんの。あんな状態でそんなこと出来るわけないのにね。それにあのバカの戦車のバスケットにはイゼーヌ曹長とシルビスが引っかかってたからそんなことされたら二人が死んじゃうわよ。ああ、シルビスはあなたのお気に入りのシルビスよ。殺さないであげたんだから感謝しなさいよね」
ケラケラと思い出すようにリザが笑った。
「それをどうやって知ったんだ」
マジンが不思議そうに指摘するのに今更気がついたようにリザが首をひねった。
「どうやってって。……どうやってだろう。知らないわよ。……魔法よね。魔法だわ」
呆れた顔でマリールが鼻を鳴らした。
「まぁそうでしょうね。相手に魔術の素養がなくても無理やり伝えることが出来ないわけじゃないんですけどね。そんな後先考えないこと四五千相手にしてたら、土ん中泳ごうってのと大差ありませんから、そりゃ死にますよ。少なくともリザ姉様は小器用な魔術の使い方ができない種類の人なんですから」
云われてリザはムッとした顔になったが、思い直した様子になった。
「いいじゃないのよ。おかげで私は二階級昇進して役職のない閣下になって、結婚生活を満喫できるようになりました」
「死んじゃったんですけどね」
マリールが言う言葉にリザは首を捻った。
「あなたが云うには、もう私は死なないのよね」
「魔力が枯渇するまでは死なないでしょうね」
マリールの答えにリザは再び首を捻った。
「死ぬの死なないの」
「魔族も死にますよ。機能が止まるというか、魔血晶って魔族の死体で種みたいなものですから」
マリールの説明はマジンにも意味がわからない。
「どういうことだ」
「魔血晶は魔族の躰から取り出せる、魔族の核なんですけど再起動して再生しても同じ魔族、同じ性能性質にはならないんです。だから魔族は死ぬんです。我が君はともかく、おねえさまはご存知のはずですよ」
マリールの説明にリザはムッと口をとがらせた。
「それは知ってるわよ。私は死なないのよね」
「まぁ普通の状態では死なないと思いますよ」
「でも魔力が枯渇したら死ぬのよね」
「死ぬでしょうね」
「どういうことよ」
「リザ姉さまの魂はステア様とその土台の魔族たちの魔力の上に乗ってる上っ面だけの状態ですよ。それをお行儀よくとどめているのは我が君の魔法です。真実なにやってるかなんて私も知りませんけど、そんな状態がいつまで保つかなんて怪しいって云ってるんですよ。魔力を無駄遣いしないほうがいいと思いますよ」
溜息をつくようにマリールが口にした。
「リザの状態はおまえの推測なんだな」
「ま、推測っていうか推理というところですけど。状況からつなぎあわせただけで証拠がないっていうことなら認めますわよ」
マジンの伺うような声にマリールが傲然と疑念を受けるように答えた。
「つまりなんだ。どういうことだ」
「私がわかるわけないじゃないですか。こんなんこしゃえたあがきみのようがなんぼじゃらすとがよ。わしにったらッタらがえれんこったが、しゃあらすがよえ」
マリールが突然辛抱ちぎれたようにお国言葉で喋った。
「マリール。ああ。すまん。別段、責めてるつもりもないんだ」
「こういう話は私よりは母とか母方の祖父とかが多少得意ですよ。我が君の義眼とか義肢の細工を持ち込んだら、本気で大喜びしますよ。あのルミナスのこしらえている大鎧とか、もう絶対間違いなく大騒ぎですよ」
「ギゼンヌからも結構あるんだよな」
「山を超えるんで酔っている内に着けるほど近いってわけじゃないですけど、ここからミョルナよりは近いですよ」
「全然参考にならんな」
「ギゼンヌから馬でひとつきってところですかね」
「結構遠いな」
「まぁ山越えですからね。鉄道の使ってるミミズのお化けみたいな石臼でゴリゴリっとやっていただいたらミョルナみたく近くなると思いますよ」
気軽そうにマリールが言った。
「使っていないお城がいっぱいあるって云ってたわね」
「サウガラーとトウガラーとかコウガラーとかご存知ありませんか。わりと知られた建築家なんですが」
「トウガラーは軍都の博物館を建てた人よね」
リザは知っていたらしい。
「すまん。知らない」
「まぁちょっと古い人たちですからね。そういう人たちの師匠っていう人たちが一族の先祖にいまして、いっとき建築ブームがあったみたいなんですよね。話を聞く限りだと旦那様の工房みたいな感じでいっぱい人使って、気が向くと間道にお城を立てちゃうみたいな感じで」
マリールが軽い感じで説明をした。
「材料はどうしていたんだ」
今も材料の話は頭を悩ませ続けているマジンは期待もなくふと聞いてみた。
「聞く限りだと岩肌を切ったり掘り抜いたものを建材にして使っていたみたいです。あとはなんだか秘薬の類で固めたり溶かしたり」
思ったとおりマリールの応えは実に興味のなさそうなもので、聞いただけではまるで見当もつかない説明だった。
「本当にこの人みたいな風聞ね」
「本人たちも錬金術士っていう意識はなかったみたいなんですけど、業績がわからないんじゃ区別つきませんよね」
リザもマリールも気軽にまとめて言ってくれる。
「秘術みたいな感じだったのか」
「聞く限りそういう感じではないですけど、うち田舎じゃないですか、ヒトが地味に増えたり減ったりしているんですけど、そういう中でお家が途絶えて果てた、という感じで消えちゃったみたいなんですよね。その頃にはなんというか、そこら中にお城の数は十分あったんで、帝国との戦争には困らなかったというか」
ふーん。と薄ボンヤリと返事をしたマジンの膝にマリールが飛び乗って跨った。
「馬でゆくとひとつきとか遠いんですけどね。そういう時こそアレですよ。空飛ぶやつ。アレ使いましょう。ウチの脇、湖あるんですよ。これから夏にかけていい季節なんですよねぇ。温泉とかもあるし、行きましょう。そろそろウチのバカ親父に挨拶しときたいですし、お姉さまの状態はここで私がグダグダ云うより母か祖父方の誰かに見せたほうが早いですよ」
ふーん。とリザは小鼻を膨らませて興味ありげな笑顔になっていた。
<石炭と水晶 完>
軍からローゼンヘン工業に依頼があり、アタンズからさらにリザール川支流の前線拠点マイザルまで鉄道が敷かれていた。最終的に二十四号橋頭堡を経由しリザール城塞址まで線路を延ばす計画になっている。
ギゼンヌからもカラカンをようやく過ぎたところだが、三号橋頭堡を目指し更に線路を延ばす計画もある。
アタンズから先の川沿いをリザール城塞まで伸ばすという鉄道計画は、軍の全面的な協力によっておこなわれる、ということでつまりはほとんど軍用列車ということであるが、沿線の集落住民のためのものでもあって、会社としては採算の怪しげな路線ではあったが、保線の経費が軍持ちということであれば、そこは最低限の保証とみなせないこともない。
アタンズからマイザルまではおよそ二十リーグだが、健康な者が体力と意志を絞って丸一日、一般的な部隊の行軍で二日、輜重の期待込みの見込みでは三日という距離であるが、傷病兵を含んだ部隊の行軍では行李馬匹の手当が十分でもおよそ倍の五日、或いは一日伸びるか削れるかというところになる。
それが半日かからない距離になったということは、これまで助からなかった者の幾割かが命を救われるということでもあった。
リザール城塞からはアタンズまで距離で八十リーグというところで道のりでおよそ百リーグを割る程度。常識的な行軍としては十日ではややきつい距離で常識的には十五日、輜重であればおよそ十五から二十日くらい。
傷病兵を含めばおよそひとつきという距離になるから、最後の二十リーグというものの鉄道の価値はひとしおでもある。
およそ傷病兵を後送するとして、その効果は塹壕の中に戦友の遺体を積まないですむという以上の意味はなかったわけだが、途中まででも鉄道が通ったことで、必ず死ぬがだいたい死ぬ、に変わった事で多少とも気分はマシになったし、時たま広域兵站聯隊との連絡や日程の割当があたれば、鉄道駅まで保てば多分生き延びるに変わったことは塹壕の中の空気を大きく変えた。
遺体と兵隊では大違いであるわけだが、つまりはそのありようの距離を分かつ二十リーグになった。
およそこの先、線路が前線付近を通るとして五リーグより近づくことは殆どないはずだが、十リーグかそこらくらいまでは複々線化が進み、臨時操車所の設置と運営が鉄道軍団によって運営されることにはなっていた。
そうなれば傷病兵でも丸一日我慢すれば鉄道線路まではたどり着き運が良ければその日の内にアタンズで療養列車に割当があたり、さらに翌日には軍都の療養院に着いているかもしれない。
療養列車に割当があたれば、訓練中の看護兵といえども兵隊の応急手当よりはよほどマシで、行李に揺られているよりは生き延びる可能性も高かった。
これまでは戦場で戦った者達の多くは手足がちぎれるまで至らなくとも原因不明の病気で亡くなる者が多かった。
およそ狭く水の便の悪い冷たく湿気った塹壕の状態が体を冷やす悪性の風邪のようなものと考えられていた。
敗血症や破傷風は実のところ戦場や塹壕特有の病気というわけではないのだが、戦友の死体と長く過ごすうちに体力を枯らしたり、細かな傷を負ったりというもので引き起こされるひどく厄介なもので、開拓農家などでも多くの者がかかる病気だった。
他にも梅毒や肺炎という分かりやすく治りにくい病気もあった。
結局のところ、兵隊の生き死には個々の兵隊の体力というところが全てで誰もが納得していたが、十日は無理でも五日は歩けたり、五日は無理でも三日なら生命があったり、或いは三日は持たなくても半日なら意識があったりという兵隊はかなり多かった。
そういう先は見えてしまっているが、今はまだ生きているような兵隊の多くを鉄道は救った。
この数年の様々な工事の過定で人員の消耗に、それも比較的高度な作業技能を持った良質の人員の消耗に頭を悩ませていたゲリエ卿が力を尽くし、また今も連綿と投資を続けている医療技術の波及として、ローゼンヘン工業医療部は全く無視できない規模の医療技術の拠点になりおおせていた。
それは、ゲリエ卿の作る義眼や義肢といった、あからさまに美術品に踏み込んだような山を売り買いするような値段を聞けばおいそれと兵隊に使うわけにはゆかないモノとは違って、高価で希少ではあっても砂金を水代わりに飲むような金額ではない薬品と、多才で多忙なゲリエ卿の手を煩わせる必要もなくその弟子や孫弟子の手によっておこなえる手術処置であるとなれば、小銃四五丁の予算で実戦を経た古参の兵士の命が買えるなら戦没見舞金代わりに軍もカネを出すし、大抵は小銃一丁分くらいの金額と手間で兵隊は回復した。
手間と予算の上から云えば桁が動かず現場の気分の分だけ減じられるとあれば、財布の紐を固くして身構えるよりは、予算諮問会で人道を謳ってみせたほうがいくらも都合も良かった。
サルファ剤と抗生物質の威力は実に分かりやすく戦場の病気を減らした。
もちろんふたつとも魔法の薬というよりは、魂の駆動機械としての肉体を調律するための物で、肉体そのものを作ったり直したりという機能はないわけでもあったから、失った何かを治すような性質のものではなかったが、農夫鉱夫兵隊というものが日常的に体を鍛える職業でもあり、いまや傷病兵となった者たちも天来の資質としての健康体力に欠ける者はいなかったから、休養と栄養と清浄な環境を準備して僅かに適切な処置を施せば、大方のものが快方に向かった。
療養院の呻き声が死ぬことへの恐怖と後悔から、痛みと間抜けへの呪いにへと変わった。
そして励ましがただ虚ろな懺悔の響きから僅かな希望への響きを持つようになった。
当初は疑いを持たれた実験だったものが、量産試薬の追試になり、高価な新薬に代わり、陳腐な薬になる。その過程は傷病兵の多さとローゼンヘン工業の積極的な投資行動によって大きく見える形で変化をしていた。
もはや骨折や虫歯の治療くらいでは誰も死なないようになった。という事実はローゼンヘン工業の大きな貢献であった。
もちろん兵隊たちに施される治療は根治という種類のものではなかったから、再び前線へというほどに治らない者も多かったが、ともかくこれまでは失われた命の多くが繋がれ、軍も戦没見舞金の代わりに本人の戦傷勲章でオシマイにでき、幕僚が遺族に手紙を書く手間も減り、事務手続き上も予算都合上も面倒が減った。
そういう中で、事務手続き上の面倒がなかったわけではない。
盛大に国葬で見送ったはずのゴルデベルグ中佐――准将が死の淵から蘇って原隊復帰報告を果たしていた。
現地部隊はゴルデベルグ准将を戦死とみなしていたが、親族であるゲリエ卿はまだ手があると引き取り、共和国軍による国葬をしたものの共和国軍戦没墓所には外套と肩章だけが棺に収められていた。
ゴルデベルグ准将の戦死事由については過度の魔術行使による消耗とされていたものの、魔法魔術の術式効果というものにはまだ不明瞭な点が多く、特にその生命との因果については解明されていない点が多すぎたことから、丸一日ばかりの療養院と逓信院での検査の後に生存が確認され、本人の口からリザール城塞突入時の顛末について大方の報告がおこなわれ、既に各所から上がっていた不明瞭な報告や矛盾が、現場指揮官の所見と始末の報告によって新たな矛盾が起こり、三日ほどかけ最初は礼儀正しくやがて嫌味混じりに、更には胸襟開いて怒鳴り合うように、その様子を別室から見聞きしていたリザの人となりを知る者たちからは失笑とともに本人の確認がおこなわれた。
光画版登場以前から写真箱謄写版による本人の絵図記録は共和国軍の士官においてはおこなわれていて、本人写真と喚ばれていたが実のところよくできた似顔絵というところを踏み出てはおらず、絵図の記録をとった技師によってその出来は大きく左右され、時間もかかることから更新はおこなわれていなかった。
リザの本人写真も任官式の時に描かれたもので、そのあと子供を二人産んだ今のリザとは少し雰囲気が違う、リザ本人曰くどこの天使かと思ったという出来であった。
共和国全体で人別の管理というものはひどく曖昧で、共和国軍もおよそ例外というわけにもゆかず、しばしばならず者や逃亡奴隷などが人物を作るために軍籍に潜り込むということは多く、実際に新たな名前で兵隊に志願して一から自分を作ったり、或いは似た体格の者を偽ってということもあった。すり替わりの多くは単に名前借りだけなのだが、年金の受取などの詐欺事件もあって、記録の矛盾などから人別調査は憲兵隊の仕事としておこなわれる。
リザが怒鳴り始めたのはつまり詐欺師だと、あろうことか彼女の夫にまでも詐欺師としての疑いをかけていることに腹を立てたからだった。
とは云え、リザの回復――生命復活はマジンにとっても説明できない事が多く、殆どの治療内容は療養院でも伏せていた。
流石に死んだ肉体から心臓を抜いて作り物に差し替えたなぞ告げるわけにもゆかず、代わりに業務多忙を理由に引き上げることを告げ、魔血晶技術についての技術協力については応じると言質を与えると、リザの方も解放された。
好悪はともかくリザの人となりを知る人は多く、報告の内容に矛盾は散見されるものの一般的な範囲で、報告書の筆跡や単語の選択や誤字誤用の傾向という文書捜査上の特徴がゴルデベルグ准将本人と著しく一致する、というものが憲兵本部の結論だった。
髪の毛の色や瞳の色については、先行する形で療養院で化学剤治療において事件が起きていて、幾人かの患者に投与された薬剤の影響で患者の皮膚や体毛の色が赤くなったり青くなったりという事件が起きていた。
疱瘡や結核或いは敗血症というやはり難病の先行研究の一環としておこなわれた各種化学剤による臨床試験の結果で、患者はおよそ回復したのだが副作用で肌や毛の色に色素が沈着するという外観の変化を後遺症として被った。
魔法の使いすぎ、魔力の枯渇による突然死という問題は、逓信院の魔術研究の中で重大な絶界であったから、たとえそれが本当の枯渇でなかったにせよ、一旦脈が取れないほどの状態に陥った魔導士が再び立ち歩き怒鳴り散らすなどということはこれまでありえず、ゴルデベルグ准将が髪や瞳の色の変化という些細な出来事で、自らの足で歩き口で怒鳴るという出来事は全く空前の事態といってよかった。
アシュレイ大尉の復帰の折にもゲリエ卿の活躍があったことは逓信院では慶事でもあり痛恨でもあって、事件を参考に肺洗浄なる全く乱暴な措置が試みられたこともあったが、結局のところでうまくいった例はなく、逓信院の患者の多くは復帰の目処がないままに、生命維持の試験という形で丁寧かつ杜撰に扱われている。
マジンとしてもわかっていないことを説明することは難しく、おそらくは二度とうまくゆくまいと思えるような状態だったから、そんな方法を他人に声高に説明する気にはなれなかったし、血晶病の患者をどうにかして使うなどということは、まずは血晶病の患者を見つける必要があった。
そして心臓を削りだした母材の方はよほど丁寧に切り出ししても、もう三つは取ることが出来ない大きさになっている。
その時の変化もなにが原因だったのか、言葉にすることは難しい。強いてあげれば直接手でいじったこと或いは殴って衝撃を与えたことかと思わないでもないが、今にして思えばふたつきということで考えればリザの死体は奇妙に乾きすぎてもいた。
だが今となってはどうだったのか、もはやたしかめるすべもない。
代わりに軍に出征した女達に与えた記念メダルの話を説明することにした。
その説明に逓信院の技師たち導師たちは大いに興味を持った。報告書の中でゴルデベルグ准将とアシュレイ大尉が魔導の素養のない者たちに対してもかなり正確に位置や状態を把握して先読みをするように指示をしていたことが報告されていた。
千里眼或いは借目と呼ばれる他人の視界を借りることで、視界を拡大し臨場状況を把握する魔法は存在することは知られているが、ゴルデベルグ准将にはそういった魔法の才能才覚があったようには知られていなかった。
或いはいっぺんに百もの視座を獲得して、互いの兵の視覚を重ねるようにすると地上にいながら鳥のような或いは模型箱庭の中のような視座を得ることができることは予想されていて、そこに戦術的な或いは遠隔的な意識を注ぐことで様々な状況に適切に注視意識を回すことはできるだろうと考えられてはいたが、アシュレイ大尉は百を超える視座を瞬間得ていた。
女達がメダルをどう扱っているかマジンは全く知らなかったが、大きなものではなく首からかけられる細工をしているものだったから、家を離れた兵隊ぐらしであればメダルは肌身離さず胸にかけているだろう、と想像はできたし実際全員がそうしていた。
彼女ら全員が本部にいた者たちも含めて統一された視界と意識を持っていたとするなら、人為的に引き起こされた土石流によるリザール城の破砕の被害回避やその後の救出が極めて効率的だったことは不足ではあるものの、ある程度の説明がつく。
メダルそのものは連絡参謀が預かる筆記具大の杖章よりもまた全く小さいものであったが、石炭灰を精製したものを鋳溶かして結晶を作る際に魔血晶を溶かしこんだという話には技師と導師の多くが食いついた。
共和国内には魔族と呼ばれるモノの存在はあまり重視されていない。
はっきり云えば猛獣の類よりも出会う機会は少ないし、魔族の方も無制限に移動をするような捕食行動を取るわけではない。そういうものがいるという話程度に知っていればむしろ大したものという扱いだった。
逓信院でも治安的な成敗というべきか、魔血晶を求めた狩りをおこなうこともあるが、数年に一度或いは十年に一回という程度のもので二三十年前に大きく狩りをしたところで今しばらくの印杖に足りる魔血晶はあるということだった。
魔道士の数と魔血晶の数とを考えれば重要な資源関係でもあって、わずか数個の魔血晶を一気に数百に引き伸ばせるというメダルの細工の技術について技師は興味を示した。だが、圧力を調整した炉釜の中で一日数シリカという制御された穏やかな速さで結晶を釣り上げるという作業は、一言では説明しにくいものだったし、その気になれば五年でも十年でも単に設計の上の狙いとしては百年でも同じ温度同じ圧力を外界から隔絶したままに母材の表面が沸かず紙漉きのような膜に波打つ状態を維持できる装置、というものは鉄道や電算機とは違った意味で驚異の機械だった。
結晶の析出などを扱ったことのある技師はどのようにすれば大きな結晶を取り出せるかなどという子供の実験めいた秘訣、つまりはゆっくりと結晶の成長に合わせた速度で溶媒が蒸発すればよろしいなどということは理解していたが、それを適切に実地で行うための様々は最もありふれた結晶を作る食塩でさえ実はなかなかに難しく、結晶の欠損欠陥がスを作らないようにすることは計画外の不純物の有無もさることながら、様々に考えるべきことが多いということは当然に知っていた。
様々な結晶や溶媒の状態や性質にあわせて適切に環境の状態を整えることは花や虫を育てるにも似た難しさがあって、それなりに手間と準備が必要なことでもあった。
とは云え、物事の一端として魔血晶の色形や大きさを揃えることで遠話や様々な魔術に適したものになることは古くから知られていて、一方で魔血晶の結晶が崩壊性が強く一端を砕くと一気に破裂するように昇華することもすることも知られていたから、一旦別の鉱物の結晶に溶融しその上で再度結晶させ安定した形にするという技法は、今すぐに炉釜の準備ができるか結晶槽の準備ができるかどうかはさておいて、追試による立証をおこなうに足る証言だった。
過去の導師の研究が十分に意味を持つものであるとすれば、ひとつの魔血晶から分割された結晶やそれを使った装具は術式の上で同じような機能を持っているはずであったから、そういったひとつの結晶から分たれた印杖は、軍がおこなっている遠話や遠視という感覚や思考を共有する魔術の精度を飛躍的にひきあげ技術としての実用が増すはずだった。
およその話題として魔力的な資質の上で有望であったものの魔術の素養に欠けるゴルデベルグ准将が高度な魔術を行使してみせたことの意味について、逓信院の魔道士の多くは意味を捉えかねていたが、ともかくも彼女がほぼ丸二日の生き埋め状態で連続的に遠話や或いは幾度か幻燈で状況を示していたことがわかってもいた。
それが後方に意味のある形で伝わったことは連絡参謀を取りまとめていたアシュレイ大尉の行動的な指導力もあったわけだが、ともかく幾つかの要因の鍵となるであろう要素技術として、魔血晶の分割という話題が逓信院で語られたことは大きな衝撃になった。
そのことの説明を求めるための時間稼ぎにゴルデベルグ准将の原隊復帰の諮問は一般に諮問と呼ばれる面接から、査問審問と云うべき詐欺容疑者の尋問や裁判と全く変わらない性質ののものにまで踏み込んでいた。
リザの方もマジンの方も大本営がなにを求めているのか一体どういうことになったのかという話は、三日も経たず初日のうちには想像がついていたが、その証となると自身も十分に矛盾なく説明ができないことであったから、どうにもならないところでもあった。
ローゼンヘン工業を傘に来てリザの原隊復帰を取り下げれば事がすむのか、というところがふたりの示せる落とし所であったが、事態はそう簡単なものではなかった。
人の生死という過たざる大事件が時の英雄たるゴルデベルグ准将に起きたことで、大本営側の落とし所を探す者たちの腰が引けたことが、元来事実なりすましであっても犯罪事実や被害がなければ一日二日の説教ですむようなことであったはずの事柄を、憲兵本部の威信をかけたかのような騒ぎに、そして大本営の政局に結びついた事態になってしまっていた。
憲兵本部としてはいい面の皮でもあるのだが、彼らは日頃憎まれる仕事でもあり、いまさら知ったことではないと開き直っていたし、兵站本部も軍令本部もいまさら大英雄様にご登場いただいて前線配置があるわけもなし、大佐であればともかく准将ともなってしまったゴルデベルグ准将に一室を明け渡す準備はなかった。
とは云え、ゴルデベルグ准将の実務能力は若手中級幕僚の中では実績で一頭群を抜いていたし、殴り合いを現場でおこなうとして衛兵の分隊を既に着剣させて取り囲むくらいの準備をして動きを止めたほうが簡単な性質の本部部員であったから、他所の部署に投げ与えるわけにもゆかない鬼札であった。
まして面倒くさいことにゲリエ卿令夫人という立場の人物を相手にするとき、ここまで事態がこじれてしまうと、互いに立場を慮って傷なく引き下がるとなるとどうにもとどまるところをしらない状態になっていた。
ヴァージェンチウム大元帥がゴルデベルグ准将の原隊復帰の諮問の場に現れたのは、ある意味で焦げ付いてくすぶりに火をつける寸前だった様々が原因で、無論に大本営を散歩して巡っている老人の趣味というわけではない。
ただ国葬の席でゲリエ卿が大元帥から准将の襟章と勲章と略綬とを様々まとめて預かった折に、妻はまだ死んでいない、と傲然と言い切った若者の言葉の成果に興味がなかったわけではなかったから、大本営では死んだはずのゴルデベルグ准将が生き返ってなにやら揉めている、という事件は比較的早い段階で大元帥は承知していて、自分はどういう風に登場すべきであるのか、機会はあるのかと密かに楽しみにもしていた。
大元帥に楽しみにしていた登壇の機会が与えられた。そういうことだった。
英雄の死の淵からの帰還がもたらした大本営内の混乱の状況と理由というものを大元帥はおよそ把握していて、はっきり云えば将官というものの微妙な立場、大佐までは比較的実務上の責務や立場が割り当てやすいのだが、一旦将軍になると師団をもつか、本部内の部屋持ちになるという制度が様式上一般で、将軍には将軍と常設旅団司令官としての准将しかない、という階級上の行き止まりであるところが問題だった。
将軍の上に元帥というものもあるが、こちらは共和国軍においては単に引退した将軍のための年金措置上の制度で田舎に小さめの荘園が手に入るようなものでもあるが、軍政上は単なる名誉職で政治的な権利も制度上はない。
はっきり云えば五十万しかいない軍隊に百人を超える将官は既に十分に多く、二十人を超える元帥というものを考えれば、それが害悪にならないために様々に手をつくした結果とも言えるわけだが、その現場実務者の最上位者としての准将というポストは例外的に権利権限が曖昧に作られていた。
一言で言えば統帥権を持った本部部員ということでウロウロと本部を無責任に出入りしながら現場で好き放題ができる立場であったから、部屋持ちの将軍よりもよほどリザ――ゴルデベルグ准将の気質に合っていて、ストレイク大佐などはウチに招きますか等と軍令本部長と話をしてもいたが、一回二回の使い捨てであればともかく、帝国軍との戦争がひとまずの決着に向けて動き始め戦後の体制改革を睨んだ時節に大本営内の火種を身内に抱える愚は本部長の立場では犯したくなかった。
ゴルデベルグ准将の有能は誰もが知っていたが、実務の有能と政治の有能は異なる質のものであったし、戦時の有能と平時の有能もその境界もまた異なるものであった。
とは云え、ヴァーゼンチウム大元帥が登壇の機会を伺っていたのは、その必然が様々に示唆されていたからでもあった。
大元帥府の意向の強い軍政本部内では参謀本部と図って将来の人員拡大計画と予算圧縮の方策の研究を進めていた。
その内容は現役定年の延長を含み多岐にわたっていたのだが、とりあえず中短期的な話題として階級制度上の改革があった。
将軍の階級を大将から少将まで三つの階級に分けることと、特佐特尉という戦時任官専用臨時階級の設定をおこなうべきではないかというものだった。
理由は大雑把に言えば、予算都合と組織管理上の限界から長らく五十万という定員で運営されていた共和国軍がそれでは人員が不足していることが、この度の帝国との戦争で明らかになったからだった。人員の拡大は現役定年を五年伸ばすことで既に大議会の大方の流れが出来上がっていた。
今次の戦争の経過を通して大議会でも帝国軍に抵抗するためにはそれなりに平時から規模を拡大する施策の必要は認められていて、これまでは政治的な勢力としての共和国軍に疑いを持っていた者たちも、鉄道というはっきりとした国家の枠組みをみせる技術の到来で、信用や疑惑の有無はともかく、共和国軍の組織規模の見直しは受け入れる気分になっていた。新しいならず者よりは口の聞き方のあるならず者のほうがマシだという程度ではあったが、ともかく共和国の体制が刷新の必要とそれが現状の地方州には手が負えない事態であることは、様々に理解され始めていた。
退役将兵は各地方にとって比較的悪くない大方理想的な市民州民であったから、定年が五年遅くなるということは、そう言った者達の賞味期限が短くなることは意味していたが、人員の拡大はそれだけではなく、戦争のたびに慌ててバタバタと徴兵されるよりは面倒が少なかったし、そもそも無産階級を掃き清めてどこかに運んでくれるということであれば、それは悪い話ばかりでもない。
共和国全体で五十万だか百万だかという無産階級の姿が消えるということは、州市あたりで一万から数万の、金にならない稼ぎのない連中の姿が消えるということであったから、面倒も随分と減るということになるはずだった。
将来的には百万を超え二百万を割るくらいのどこか、を帝国との戦争では睨む必要が有ることは明らかで、実働兵員百万を狙うためには将官がおよそ五十人から七八十人程度。管理職部門長でおそらく百から二百が必要というところが予想されている。
実質的に倍ほどということになる。
将官はある程度上下のない方が運用現場での面倒が少ないわけだが、実際には連合作戦などで上位者が必要なこともあり、或いは管理職部門では明確に隷下組織というものが存在し、しかし隷下組織はその上位組織よりも巨大であることは当然に考えられた。
つまりは現在将軍職が横並びでいられるのは、共和国軍が小さくある地域ある職掌に一人か二人の将軍しかいない結果であるわけだが、この後組織が大型化すれば、人員規模が増え管理人員が増え必然的にヒエラルキーが複層化する。そういう話題として将軍の階層化、階級化が必要になる。
或いは部下の少ない上級将官が各地拠点を指導して巡回するということが一般化するだろう。という研究予測の成果だった。
その片鱗はゴルデベルグ准将が自らの部隊編成の折に鉄道と自動車を使って共和国中の様々な物資人員を調達して見せた例にもあって、電話鉄道自動車のみっつが揃って登場したことで、将来の共和国軍の管理職の姿も変貌するだろうという未来予測研究になっていた。
具体的な例として実績ある現場管理職としての将官として、最も新しい技術の熟練者の一人としてのゴルデベルグ准将は参謀本部としては研究に値する人物で、みすみす野に放つには惜しい人物だった。
もう一つの戦時任官専用階級の話は実際に戦争を戦う中で、軍学校修了者以外に戦場における指揮適任者という者が存在する、という予てから口の端に上っていた特務士官指名をより自由に拡大すべき、というという提言でこれも軍組織の拡大と副層的な将軍格の運用という話題にかかっている。
年金や給与という事務手続きと切り離された実務上の階級という意味合いで、特尉や特佐という任務司令官を戦時において臨時任官し部隊実務を預けることは兵員の才能を現場で認めやすくなるということだった。
つまり例えば水先案内人や山地の猟師を現地で徴発したとして、部下の有無にかかわらず小隊長格或いは部隊参謀格を与える根拠になる。
例えば土地勘や事情に通じた兵や地方民がいたとして作戦に際し臨時に佐官格を与え、幕僚会議に同席させ発言する根拠を与えやすくなる。
実務上は既におこなわれていないわけもないことであるが、階級と格というものが軍隊の秩序の根幹である以上、階級のない者に責任と発言を許すほどに軍隊の規律は甘くない。
一方で一般情報以上に何かを求めようと思えば、当然にそれに適した部外者に頼る必要もある。またさらに他方で単なる個人的な顧問に公の発言を求めることは様々に問題も多かった。
強力な軍需製造流通業の主宰であるゲリエ卿に対して軍需計画の指導を直接求められない理由も卿がデカート州においては公人であっても共和国国政においては単なる一私人で軍においては全くの部外者であるからだった。
この後、どうあっても共和国軍の人員の拡大がさけられないことは事実として、無制限に人員を増やすわけにもゆかず、ある程度に外部或いは内部の人員を活用するとしても、その根拠を整備しておく必要はある。そういう提言だった。
予算の問題を考えれば、数倍の人員増というものは短期的に対策が取れるものではなかったし、鉄道や戦車という予算上の衝撃を考えれば人材の確保という意味で有望な予算を確保できるとは現場の人間は誰もが考えていなかった。
統帥権という飴玉の魅力的な新味として臨時任官制度の拡充は手頃だろうと現場と本部の間の参謀本部は結論していた。
もちろん階級以外の方法も考えられたし、予算や事前の配置をおこなわなくて良い臨時徴募の形を取れる特尉や特佐という考え方は現場の人員管理として麻薬のような甘やかさを疑われもしたが、一方でそれも必要だろうと考えられていた。
人員拡張に関わる様々を考えれば十五年から二十年の間の時間がかかると予想されていたし、そういった長期計画で挑まなければ三倍からもっとという人員拡張は危険だった。
もちろん人員拡張の他に様々な改革施策をおこないながらということにもなっていて、それだけ予算があるかどうかは、ひとつには鉄道と電話とを通じて人々がどれだけ共和国に貢献するかでもあった。
参謀本部では鉄道と電話を使った資金的な利殖や生産拠点への融資投資などもおこなっていて、あまり大きな声ではいえないものの小さくもない金額が回転資金として運用されている。同様のことは軍令本部や兵站本部或いは憲兵本部でさえもおこなっていて、功利と悪徳の狭間を覗くような動きにつながってもいた。
責務として税金の形で収めるのと債務の形で収めるのと或いは贈賄の形で収めるのとどれがよろしいか、という三択はある意味で組織にとっての腐敗と疑獄の温床であることは事実として、帝国との戦争によって組織的政治的な混乱が引き起こされた今、様々に誰もが手元に兵粮をかき集めたがっていて、カネがないなら糧秣がないなら人材がないなら資材が資源がと、早くも次の戦争に向けた、或いは戦後に向けた主導権や未来構想に躍起になっていた。
そういう必死の鉄火場で、どういう形においても大本営内でのあらゆる資源の奪い合いの深刻化が予想される中で、戦争の英雄が墓場から蘇ったという話は、大本営の政局にとっては迷惑以外の何物でもなく、しかしそう口にすることこそも憚られるというひどく面倒な状態でもあった。
しかも彼女は誰に憚ることのない功労と戦死の合わせ技で二階級特進を経て、佐官ではなく准将になってしまった。
これまでは彼女は純粋に強力な大駒のひとつだったが、これからは自分で踊り出す機能をも身につけた駒になる。
そういうわけで、ゴルデベルグ准将の原隊復帰報告は大本営にとっては面倒くさい時に面倒くさいことが起きた、ということになった。
とりあえず嫌われ役の憲兵隊の怖いもの知らずがグダグダと引き延ばしている間に善後策を考える必要があるわけだが、どこにどう落とし込んでも閑職にみえる席しかなく、戦争がまだ終わってはいないこの時期にそれなりに見える席に英雄を座らせるわけにもゆかなかった。
気の毒な怖いもの知らずが虎の尾を踏めばなにが起こるのかは大本営の者は想像できたが、礼儀正しい憲兵は虎の尾を踏むようなことはせず、憲兵本部から出ることはないはずだから大丈夫、そのはずだった。
もちろん准将ともなれば、英雄と呼ばれずとも長い尾を持っている。
憲兵が戦場で一人寂しく敵に殺されるということは、気の毒なことだがとても多い。
割とすっきりと結婚生活を念頭に置いていたリザにとっては無任所でも一向にかまわない話であったのだが、英雄というものの扱いを考えるときにそれなりの場所がないと本人はともかく辺りの人々が落ち着かない、というそれだけのことが様々に面倒を引き起こしていた。
特にリザは国葬において様々の過去の業績、とくに誰もが殆ど忘れかけていた開戦直後のアタンズからギゼンヌまでの抵抗線の構築に尽力した実績などを掘り起こすことにつながって、彼女が最初から最後まで戦況の決定的な瞬間を支え、帝国軍の勝利への策謀を払いのけるように活躍をし続け、ついにはリザール城塞をその手に収めた、ということを人々の記憶に焼き付けることに成功した。
戦女神、地に還る。などと大仰に書きつけた新聞の類もあったくらいで、民間の地方人は単に戦争の景気付けの英雄と思っていただろうが、大本営の中では戦術級作戦級の士官としてはともかく必要なとびきりの強運というものを持っている、つまりは実戦派その中でもとびきりの実力を持っている高級将校であることを思いださせることになった。
二つの戦いで同じ戦区同じ時間を実務の上ではより重要な役割を果たしたアシュレイ大尉の実績を謳う論は殆どなく、共和国における魔道士の意味するところの後ろ暗さをマジンは思わないでもなかったが、マリールはあまり気にしていないというか、およそそういうわけで待命を希望したということでもある。
神がかりで理路整然とした高級将校という存在は、同じ組織に属する者達にとっては信仰の偶像にするか憎むべき商売敵にするかの二択で中間色の準備が殆ど存在しなかったから、ゴルデベルグ准将の存在は軍事関連の政局というべき軍政やその管理としての兵站を含む准将個人の持つ実力や資質とは全く別に、組織の政治の上では天災に近い困難さをだけ予想させるものだった。
政治の本来求める清濁敵味方を可能な限り無色なまでに混ぜ合わせ共生させるという曖昧さを作る努力にとって強烈すぎる能力と個性は有害でしかない。
それは軍隊という外敵と闘う組織にとっても同じことでどういう方法論結果論であっても、味方同士が争うような行為は全く愚かしいことであったから、派閥というものを積極的に作ることは全く利敵行為ではあったが、一方でヒエラルキーの中途に突然の頂きができることは才能や効率或いは現実的な制約という賢しい物の見え方があれば却って必然でもあった。
無為に派閥ができることを嫌って、それならば独自の善良を裁量に求める意味で統帥権というものがあり、各将官には各司令部や部局に平たく部屋を分け与えているわけだが、見目麗しい若い女の英雄将軍が死の淵から蘇った、というわかりやすい偶像に部屋のひとつもあたえないでは不満も出るし、部屋を与えるには準備が間に合わず急にすぎた。
そういうわけで大元帥の提案としてはゴルデベルグ准将に早急に部屋ひとつを与えることはできないにせよ、それができるまで部屋の準備が整う努力をおこなえる部署に准将の机を置くことだった。
具体的には大元帥府の参事の机を置くことを提案した。
事実上、大元帥の相談役或いは名代という曖昧な執事職に似た公式には空虚さを持った、しかし一方で重要な職分であったから、名誉職としては十分すぎる格があって、実務上の権限は曖昧でもあった。
問題はヴァーゼンチウム大元帥の個人的な感情と感覚によって参事の位置づけが定まるという、実務上客観的な根拠が何もない、という点であったが、つまりは大元帥預かりの准将が大元帥府に席を据えるということで、階級上の格としてはやや役不足ではあるものの一時預かりであればむしろ次を楽しみに待つというだけのことであったし、二階級特進がなく大佐ということであれば順当とも云えた。
そしてこの提案の重要な点は、ヴァーゼンチウム大元帥がゴルデベルグ准将と自ら面談をおこなうという点が何よりも優れていた。
面倒な様々を一気に棚上げして、有能な人材を大本営の何処とも衝突させることなく大元帥扱いに留保することができる上に、大元帥本人が身の証を預かるという後見をおこない、かつ実際的な権威は与え権力は与えない。登営退営のラッパや笛を鳴らす以上のことを大本営が約束する必要もなかった。
ヴァーゼンチウム大元帥は三日目にゴルデベルグ准将とその夫であるゲリエ卿を招いて夕食をゆっくりとることで、大本営内の各本部各部署から重大な政治的対立要因をひとつ取り除くことに成功し、ゴルデベルグ准将の人別と慰撫をおこない、予てよりの希望であったゲリエ卿との私的な面談を果たすことに成功した。
ヴァーゼンチウム大元帥の提案はおよそ受け入れられた。改めて新婚期間に入っていた夫妻は故郷で隠居を決め込むつもりもあった様子だったが、参事の職務は毎日の登営を求めるような職ではなかったし、実質的に大元帥の執務が滞らない間は求めに応じて相談に応じてくれれば、それ以上の何かが必要というわけでもなかった。
ヴァーゼンチウム大元帥は戦場の英雄ではなかったが、それでも共和国軍においては絶対必須の指導者である面目を示したのだった。
リザが生きていたという報せは、帝国軍の城塞ふたつが爆発したという大事件に比べれば小さいものだったが、ヴィンゼやデカートではもちろんゲリエ卿の動向は遠くの戦場の出来事よりも重大な注目の話題であったし、彼が手をつくしてなお難しい状態であることから相当に深刻な話題であること、或いは本当に死んでしまったのだろうと考えられていたが、新婚早々に連れ合いを亡くすなどということは別段ゲリエ卿ならずとも気の毒なことであったから、多くの者達は全く単純に新年と云える月の終わりに聞こえた春を思わせる報せと受け取った。
その報せに子供たちも慌ててローゼンヘン館に帰った。
もちろん誰もが等しく喜んだわけだが、中でも大喜びしたのはアーシュラだった。
暗い星空のような黒に染まった髪の色や赤いモヤに落ちる夕日の色になってしまった瞳を見てアーシュラは嘆き、しかしまた話せることを喜んだ。
驚き喜んでいたソラとユエはしかし、二人を見て涙をこぼし始めたリザを見て困惑した。
リザの中に実の母の魂が同居しているというリザの言葉はふたりにとって全く理解できない種類の言葉だったが、父がおこなっていた氷砂糖のようになった母をよみがえらせる研究が失敗に終わったことは知っていたから、その時の事件の成果がリザを蘇らせたということであれば、ともかくも喜ぶべきことだった。
ソラとユエにとってリザは父の最愛の恋人という意味での母だったから、彼女が実母としての意識を持ってくれても全く構わなかった。
ソラとユエにとっては母と呼べるのはむしろアルジェンとアウルムの二人の姉で、あいにくと生みの母の記憶もあるわけはなかった。それは当のステアにもわかっていたことで、ぼんやりとソラとユエが母として認めてくれたことだけで満足するしかなかった。
戦地にあったアルジェンとアウルムはアタンズまで下がっていた。
リザール城塞が陥落しエランゼン城塞が謎の爆発を遂げたからには短期的な作戦目標はなく、ここしばらくは空騎兵の動きもない、エランゼン城塞の生存者の確認も終わったということであれば、リザール城塞の手前に聯隊がひとつ置かれていれば十分だったし、それも帝国軍の動き次第というところだった。
リザール城塞の突入にあたって土砂に巻き込まれた戦車の殆どは戦闘に耐える状態ではなかったが、修理の手が及ばないほどの問題を抱えた車両はなかった。弾薬や備品のいくらかを陣地において途中で拾った他部隊の落伍兵や負傷兵などを載せてアタンズに落伍なく下がっていた。
戦車の修理は整備機材は疎か床面の舗装も十分ではないような未完成のアタンズの車両整備拠点では簡単だったというわけではないが、雪解けの頃までには一通りの修理と再整備が終わり、エランゼン渓谷とリザール城址を見下ろせるミヘール峠に、駐留のミルマ大佐の聯隊が配置されたころ、旧司令部跡地の丘に陣取っていた自動車聯隊が交代していた。
リザール城塞の攻略とエランゼン城塞の陥落とはごっちゃになって人々には伝わっていて、エランゼン城塞については人命救助以上には殆ど何もしていない、そして大方はそもそもエランゼン城塞まで足を伸ばしていない装甲歩兵旅団の面々は少々説明が難しい立場だったが、ともかく鉄道拠点に整備された車両基地はようやく落ち着いて機械の手入れをおこなえる時間を与えてくれた。
湯水を文字通りその如く使える拠点は前線ではありえなかったから、アルジェンとアウルムはまずは戦車の掃除から始めることになった。
二人にとってはそれぞれ家のような、子供のようなところもある機械で、前方の陣地では手入れができない分、あちこちが気になっていたところを少しづつ手を入れていた。アタンズに帰り着く頃には便所のような匂いだった車内も今ではすっかり綺麗に匂いも落ちていた。
リザの後任の聯隊参謀長に配置されていたエイディス中佐は極めて活発に現場に出向く種類の現場将校で油断をすると洗車場の機材を片付けていたりする人物でもある。リザも全く出不精ではない、むしろ本部にほとんどいることはない将校ではあったが、彼女は部隊そのものよりは、きたるべき部隊の戦力編成の需要品を掻き集めるためにローゼンヘン工業などの各商会、或いは各地方軍連絡室や軍需品倉庫、更には大本営各所を出向き訪ね歩いては、またあの閣下が、と云われるようなことを平然とやらかし続けていたから、その功労を知らない部隊においてはおよそ訓練の要所要所で無茶振りをする鬼女だったし、各地で様々にリザ――ゴルデベルグ中佐――准将閣下は鼻つまみの無頼漢も同然の扱いを受けていた。
全くそうある必要がある限りにそうした、とエイディス中佐は了承していて、実のところ軍令本部でもリザの行動の成果の評価は極めて高い。彼女をアバズレ扱いする者達組織においても、その有能の暴力が荒魂になって向かないことを礼儀正しく望むくらいにはゴルデベルグ准将の実績は際立っていた。
無事帰ってきた今になってみれば、アレは戦争の女神のような人だったと部隊の面々も懐かしんでいた。
無論、戦争を体現するような女性が勝利を求めるとして、夜叉のような鬼女以外のなにになるのかという笑いも含む。
もちろんゴルデベルグ中佐一人が計画を建てたというよりは、ラジコル大佐や各部隊長の話をまとめて、それを主計参謀であるレンゾ大尉が数字をまとめたものを切り上げる形でゴルデベルグ中佐に示したところがひとつあって、当然にそれは来るべき部隊行動においては適切かつ必要な数字ではあったのだが、同時にラジコル大佐やその他の歴戦の幕僚や部隊長たちの常識としては、想像はしていたものの仰け反るような事実としての数字であったから、思わず目を疑い我が目を伏せ控えめに割り引きたいところを主計参謀レンゾ大尉が全く無視して各所の要求を示し、幕僚たち部隊長たちの困ったような疑うような目をゴルデベルグ中佐が全く傲然と受け入れ、ラジコル大佐の決裁を促したところによる。
ラジコル大佐にとっての部隊編成完遂の立役者の一人でもあるレンゾ大尉をストレイク大佐が作戦終了後に引き抜いたことは、昇進なったラジコル准将にとっては実はちょっとした痛みを伴う人事でもあったが、目的や数字に正直な容赦のない性格という意味でレンゾ大尉はゴルデベルグ中佐と同じような扱いの難しさを部隊本部内で示していて、ひとまずの大作戦が終わったことで少佐として昇進を伴った形で軍令本部に栄転するということであれば、誰もが喜んで送り出せるという事にもなった。
歴戦の部隊長と有能参謀の中間で動揺するラジコル大佐は、物分りという意味では良すぎるところもあって、定まっていないところでは味方に付け込まれるところのある人物でもあったから、軍令本部ではというかストレイク大佐はゴルデベルグ中佐の斬りこむような容赦の無さを新設部隊編成において期待していた。そしておよそそれは完全な形で果たされ戦果として示された。
だが当然に他人のケツを高圧洗浄機で洗うような乱暴な行為が好まれるわけもなく、ゴルデベルグ中佐が戦死をせずとも早晩に部隊幹部としては更迭される必要がある、と軍令本部でも考えていて、実はリザール城塞の攻略戦の準備のさなかにはエイディス中佐が後任に指名されることは既に定まっていた。
帰還して昇進なったラジコル准将の主席幕僚にスルリとエイディス中佐が差し込まれたのは全く予定通りの出来事でもあった。
そういった本部の中での配役表における駆け引きの様々と縁のないアルジェンとアウルムにとってエイディス中佐は、セラムを偉くした感じという人物で、ウワサ話では男女の浮名に事欠かない男前の女性でもある。
戦車大隊から作戦参謀として旅団本部に異動になったセラムとエイディス中佐が並ぶと、それほど大柄というわけでもない騎兵上がりの女性将校二人であったが凛とした存在感が増し、若い連絡参謀たちにとってはむさ苦しい髭面の年寄りたちとは全く一線を画した空気感があって、これまでのゴルデベルグ・レンゾ体制の男性幕僚を圧倒する嵐を伴う花吹雪のような存在感とは異なり、爽やかな雰囲気のエイディス・マークス体制に新たな期待を感じずにはいられなかった。
現実問題としてゴルデベルグ准将の実務的政治的駆け引きと実際の部隊の赫々たる戦果を以って、装甲歩兵旅団はエイディス中佐が無理をおこなう必要のない様々な特権的状況を既に獲得していて、兵站上や装備編成上の優遇を戦果とともに誇ることを恥じる必要のない立場に立っていた。
一方でそういう当然に目立つ部隊であれば、後任の人物は勇猛ではあっても円満な人物であることが期待されてもいて、エイディス中佐は戦場の女王としての女丈夫として、匪賊の女頭目のような敵味方に凄みを利かせる人物ではなく、伝説の騎士団を率いるに相応しい女騎士の如き人物としてラジコル准将を支えることを求められていた。
型の出来上がった新設部隊としては、しかし十分な戦果実績も積んでいて、特段に前任者を否定する必要もなく、エイディス中佐も業績よりは必要を重視する人物であったので、主軸となる作戦のない部隊に波風を立てる必要もなく、状況の把握と整理に努めていた。
そういうわけで中佐が車両整備基地を訪れることはそれほど珍しいというわけではなかったが、彼女がマジンを連れていることについてはオヤと思い、またこれは珍しいほどに黒髪を蓄えた女性を連れていることにまたオヤと思った。
「どこからどう云うべきかはわからないのだが、君たちの作ったこの部隊は共和国軍の限界いっぱいを引き出したものになっている、というのは紛れも無い。なかなか興味深いよ。もちろんラジコル大佐の構想が下地にあってのことだが、大佐も絵図面は起こしたもののまさかに実現できるとは疑っていたところもあるらしい。もちろん運用は私も含めた各員の努力だが、これほどに突飛なものを使えるように揃えてみせたのは君たちの力が大きい。レンゾ少佐もマークス少佐もそこは本妻の貫禄に譲っていた」
アルジェンとアウルムの耳が、機嫌よさ気なエイディス中佐の言葉を聞きとがめた。
作業の手を止めて黒髪の女性の顔をまじまじと眺めた二人は、女性が誰であるのかは理解したが、二人の理解が追いつかない姿の女性が誰であるのか、二人は互いに目で相談して互いの困惑を確認した。
リザは黒髪じゃないし、目が白兎のように赤くはなかったし、第一ふたつき足らずであんなに髪が伸びるわけはない。国葬になったとも聞いていた。
「ゲリエ中尉。ああ、アルジェン、アウルム。ご両親がおみえだ」
エイディス中佐が笑顔で引き合わせた父親は間違いなく父親だったが、もうひとりがうまく理解できなかった。
「アルジェン、アウルム。お久しぶり。元気そうで何よりだわ。……死んでないわよ。なんか、死んだみたいにはなっていたけれど、恥ずかしながら生きているわ。……むう。疑われている。どうしよう。警戒されている。やっぱりこの目と髪は説明が難しすぎる。……ん。ああ。エイジャの村で私をかばってくれてありがとう。足首が砕けちゃったけど、もうあのときは痛くもなかったから、大丈夫だったわよ。一緒に泣いてくれて嬉しかった」
リザが困った顔で言った言葉の奇妙にエイディス中佐はマジンの顔を探したが、黒髪の女性がなにを云っているのか理解したアルジェンとアウルムは尻尾の毛を逆立てるほどに驚いて、手元の工具を作業台に取り落とした。
「母さま、……母さまなの」
ようやくエイディス中佐は思い描いていた手応えを感じて頷くと、他の作業に向かうべくその場を辞した。
死んだはずの母娘の対面をそれ以上に眺める時間は再編成中の部隊主席幕僚には許されてもいなかった。
「そう。あなた達の母さまです。ソラとユエを立派に育ててくれてありがとう。話を聞くとこの人相当無茶をさせてたみたいね」
「……母さま。なの、リザ様の顔なのに。リザ様は死んじゃったの」
アウルムが困惑したように質した。
「むずかしいのだけど、二人を合わせたような存在ってことでいいと思うわ。私にもよくわかっていないの。荒れ野のかったい土を貴方がたの背の深さまで穴を掘ることを毎日させてたゴルデベルグ准将閣下でもあることは間違いないわ。履帯引き競争とかまたやりましょうね」
「リザ様なの」
「両方、二人分って感じね。こんなに大きくなってるふたりをみて、どうしていいのかわからない自分は間違いなくステア母様だわ。……ちょっと、アナタ。転んだら助けてね」
そういいながらリザはぼんやりと二人に向かって歩みを向けた。
それは今しがたまでの動きとは全く別で、身体を使い慣れていない感じがする動きだった。
「……ふたりとも大きくなったわね。ヤダわ、なんか二人のおっぱいの高さに顔がある。子供になったみたい」
アルジェンとアウルムは顔を見合わせて笑った。
「リザ様は……、母様は軍に復帰するの」
「現役でも退役でも、将校は永久服役みたいなものだからね。配置があるかどうかは怪しいけど、この人次第というか軍次第かしら。戦争はまだ続くけど、しばらく作戦という意味では動きもなさそうだし、飽きるまでこの人とイチャイチャして過ごすのもいいかなと思っているわ」
アルジェンとアウルムは父親の顔に何かを探すようにした。
「そうなるかもしれないな。きりが良くなったらお前たちも帰っておいで。会社が大きくなったから、手伝ってほしいこともいっぱいあるし、戦争が終わるなら仕事がほしいって兵隊も連れてくればいい」
「戦争が終わらないのにキリって分かるものかな」
リザの言葉とマジンの言葉の矛盾にアルジェンは困ったように言った。
「兵隊に飽きたらでもいいぞ」
「飽きるってよくわからない。怖いなぁってのとは違うんでしょ」
難しい話を聞いたというようにアルジェンは言った。
「ヤダなぁ、って思うことはないのか」
「……父様とお話できないことかな」
しばらく考えてアルジェンが口にしたその言葉にリザは力いっぱい二人を抱きしめた。
「かわいい良い子に育ったわね」
「リザ様、母様、いたい。痛い」
本当に痛みに慌てて二人の娘が叫ぶ。
リザの膂力はかつてより数段増していて、時々本人が意識しないと危険なほどになっていた。
「ごめんなさい。なんか、今こんななのよね」
「父様とどっちが強いの」
アウルムが体の痛みを散らすように肩を揺すりながら尋ねた。
「ん。それは試したことなかった。どうなのかしら」
「ボクは痛いのは嫌だ。負けた」
リザの問いかけにあっさりとマジンは諸手を上げた。
「父様は力の加減上手いよね」
「そんなの、慣れてるからね。ずっと調整しながら生きていたし、力で捕まえるんじゃなくてくびれた部分を引っ掛けて逃がさないように捕まえればいいだけじゃないか。硬いところに無理な力をかけたら壊れるよ。滑らない位置に滑らないように手をかければいいんだ。工具も一緒だ。ハマるところにハマるように力をかけて歪を調整する方がいい」
「工具ったって、あなたの作った戦車はそんな優しい作りじゃないじゃないの」
リザが混ぜ返すように言った。
「ソレは。ヒトじゃないだろ。部品の組み付けはもともと金属の伸びや変形を活かしているから、余裕があるなら本当はネジや座金や打ちピンなんかの小さな金具のたぐいは消耗部品あつかいで毎回交換したほうがいいんだ。戦場ではそうはいかないの知っているけどさ」
「なんとかならないの」
あまりに大雑把なリザの問にマジンは苦笑する。
「どこをって話がないと改良もしにくい。具体的な要望が分かる形で報告書をまとめて会社に送ってくれ。
――見込み十五グレノルを動かすつもりの金物で出来ているから勘違いしやすいけど、履帯は本当に痛むんだ。そうしないと戦車本体を痛めちゃうしね。履板は大雑把に鉄の枠に軽金属の地を流し込んで合わせて鍛造することで軽めに作っている。ネジもそういう軽金属の地に埋まるようになっているから、履板は使っていると痛むし、整備のたびに外したりするとネジの抜き差しだけで痛む。リンクも軟鉄だからリザが力まかせにやって曲げているのは知っているが、そうしないと駆動輪もいたんじゃう。駆動輪も軸より弱く作らないと駆動軸を痛めちゃう。駆動輪も転輪も鉄と軽金属のツーピースの部材をまとめて高圧鍛造しているから各車軸よりはだいぶ弱い軽い一種の合金材料だ。
――ピンを刺しにくい歪み始めた履帯はさっさと切っちゃって塹壕の土嚢や防弾板代わりに使えばいいよ。ピンは砲弾と同じような硬い材料の管に軽金属を圧入したものでそこそこ軽くかなり丈夫だけど、履帯の方はどうあっても地面と戦車の間でどんどん痛む。ある程度、部品が馴染むのも、腐敗と発酵みたいな話で、材料の上では傷んでいるのと大差ないからね。
――そういうわけで履帯が痛むのは諦めろ。見込みでは二千リーグを超えたくらいが履帯の構造上の限界だ。三千リーグはよほど運が良くなければ走りきれまい。履帯以外の他のさまざまは、棒材でネジをでっち上げて頑張れ。溶接もろう付けも鉄道軍団の基地にあたれば出来なくはないが、むこうでは戦車をバラす余裕がないはずだ。部隊の要望がまとまったところで車両の改修は随時おこなえるし、現有のここにあるソレも改造ができる。
――キリって云えばその報告書をまとめるのもわかりやすいキリだな」
首をひねるようにリザがした。
「十五グレノルってどういうこと。半分くらいよね」
リザの知っている戦車はどちらも八グレノルを僅かに出たり入ったりするような規模のもので、どれほど荷物を積んでも十グレノルを超えることはなかったが、そうであってもその車重故に戦場では様々な苦労に見舞われることになった。
「単に見込みだよ。お前の運転で飛んだり跳ねたりしていただろ。最終的に車体の自動車としての設計だけ十分に信用できるなら、装甲や武装はその場に応じて組み付けられるようになる。設計の上では十二グレノルまでのプランはあるし、様々を気にしないプランとしては十五グレノルぐらいまでは考えてはいる。必要に応じて、武装や装備を入れ替えるつもりはある。砲塔をおろして電探とか架橋機材とか積んだりとかね。
――でも、そんなものよりも共和国軍には必要な物が他にあるだろう。帝国軍がこの後も毒ガスを作戦に組み込むなら、洗濯と風呂ができる環境を陣地に持ち込めないと話にならない。おまえの部隊には投げてやったけど、あれを前線全域に準備しないとならない。そうあるためには水と燃料を専門に扱う部隊が前線に必要だし、朝晩の兵隊の努力だけじゃ立ちゆかない。敵の事情に期待するのは問題がある。着替えを常時豊富に準備するのとどっちが簡単かわからないけど、被服の交換と入浴は毒ガス戦の基本だろう。逆に云えば湯水が潤沢に供給できるなら、あとは防毒面と個々の兵隊の注意努力だけで被害を防げる」
肩をすくめるようにマジンが言った。
「それは、なんというか、ちょっとすごく贅沢な話ね。言いたいことはわかるけど、無理じゃないかしら」
「軍隊の常識として無理な贅沢かどうかは知らないが、兵隊として愛する人を送り出している銃後の者としては、兵が生き延びるために兵が戦争を生活するために必要がある全てはなす努力はなされるべきだと信じている。それが叶うかどうかは別にしてね」
「むう。この後も帝国と戦うなら、必要か。……なに、どうしたの、あなた達」
リザが単に戦車だけでないこの先の戦争の見込みの話に思いを馳せていると、二人の娘の視線が気になったらしい。
「え、いえ、あ。うん。本当にリザ様なんだなぁって」
「ん。ああ。まぁついこの間まで戦争していたからね。母様としてはちょっと不思議な感覚だけど、あなた達が大きくなった姿と帝国との戦争は、わりと自然な感じね」
アウルムの言葉にリザは説明に惑ったように答えた。
リザとステアの融合はこの十日ほどでどんどんと進んでいて、大本営での様々な人々のやり取りの結果として、それぞれに特有の行動というものはあたかもリザの気分を変えるためのスイッチのようになっていた。
だが、内部的にはどうやらステアとしての意識が色濃いらしく、リザをリザとして扱うとときたま悲しげな顔をすることもあった。
二人の魂がリザの身体の中に収まっているという認識は客観的には理解し難い感覚でもあって、顔がおよそリザのものであることから、ついうっかりリザと名を呼んでしまうのだが、どう呼んでもやはり不自然な状態でもあった。
マリールはそのリザの状態をほぼ一瞬で見破った。
「ああ、我が君。やってしまいましたね」
少佐に昇進するや待役の手続きをとったマリールが、リザを一目見て気の毒そうな溜息をつくように言った。
「どういうことだ」
「それは魔族です」
「それ、というのはリザのことか」
「リザ姉さまの記憶と魂と意志を組み込まれてはいますが、それだけじゃないでしょう。完全な魔族です」
断定するようにマリールが言った。
「逓信院で検査も受けたが、そんなことは云われなかったぞ」
マジンが困惑したようにマリールに問いただした。
「あの人たちは自分の専門のこと以外は興味がありませんからね。リザ姉さまのことも大して見分けがついていないような人たちです」
マリールは料理屋の味を評するような気楽さで断言した。
「お前には見分けがつくのか」
「多少は。リザ姉様はなんといっても私の実の姉上も同然の方ですよ。変化には気が付きます。我が君がなにをなさったかもおおよそ想像がつきます。本当に出来る方がこの世にいるとも思いませんでしたが、伝説というか言い伝えの物語の中にはしばしば出てきた話です」
マリールは断定するように言った。
「髪の毛と眼の色が変わったっていう意味じゃないだろうな」
「そんなのより魔力の色と形が変わっています。煌々と溢れる澄んだ陽の光のようだったお姉様の魔力が玉虫色の渦のようなものに変わっています」
マリールの具体的な言葉にマジンの表情は憂いに陰る。
「それは、いけないことなのか」
マジンは自分のおこなったことをマリールに質した。
「いけない、というか、悲しいことですよ。魔族というものは永遠に生きますから。我が君が亡くなった後も生きることになります。その後は物語ではたいてい狂うものです。およその話として私の死後のことにまで責任は取れないわけですが、そういうことです」
マリールはそういう風に言った。
「つまりは私が永遠に生きてしまうだろうということを、マリールは心配してくれるのね。そうなったら私はこの人とどこか人気のないところでトグロを巻いた蛇のようにからみ合って過ごすことにするわ」
リザは韜晦するように肩をすくめた。
「鉄も石も追い越して生きることになりますよ。覚悟しておいてください。本当を云えば我が君が亡くなられる前にご自分で決着を着けることをおすすめします」
マリールの言葉に二人の眉ははねた。
「それはなに、私を殺せと言うのね」
マリールの言葉に苦笑するようにリザは言った。
「人の世が滅んだ先まで生きることを余儀なくされれば、お姉様はどうあっても狂った様に扱われることになります。おそらくこの先、我が君ほどにお姉様を手に掛けることが容易な方はいらっしゃいません」
マリールの言葉は人気のない池に放った石のような静けさを持っていたが、波紋は響いた。
「それは、嫌な提案だな」
「そうね。でも、マリールの言いたいことは分かるわ。私もあなたのいない後、それどころか、人間がいなくなった後まで生きていて嬉しいかっていう話はちょっと困る。趣味って云うほどのこともないものね。あなたみたいに何かを作る趣味があればよかった。あなたの郷では魔族を作る話って多いのかしら」
リザがマリールに尋ねた。
「作る話っていっても昔話程度で、実際に作った人はいたかどうか知りませんけど、大昔は結構あった話だったと昔話では聞いています。ただまぁ、なんというか、長生きしても不死身になってもヒトは人なので、なにが好きだの嫌いだのでなんかかんかうまくゆかないというか、そういう感じのお話ですね」
マリールの説明は如何にもボヤケたものだったが、却ってそれだけにかつての賢者の警句としては不気味さを感じさせるものだった。
「だが、ボクが出会ったことのある、まぁつまりはリザを生き返らせるために使った魔族は、なんというか、とても人間とは思えないような形をしていたぞ」
「大方の魔族は数千年数万年生きていますから、ヒトの形を保てなくなっているんでしょう。もともとヒトじゃない魔族もいたはずですし。現実、魔剣魔槍と呼ばれる古代の武器が我が家の家伝に何本がありますが、それも魔族ですよ。弓や鎧など一通り武具はありますね」
マリールの言葉は如何にも聞き捨てならないものだった。
「どういうことなんだ」
「どういうことっていうか、魔族って大昔にそういう道具のようなものとして作られたみたいですよ。メガネとか電話みたいな便利な道具として。ある意味我が君お手製の義眼とかこのメダルみたいな感じで。まさか我が君がリザ姉様を魔族として生まれ変わらせることになるとは思いませんでしたが」
マリールは問われて答えた。
「ステア、そうなのか」
なんというべきか、多少でも事態を知っていそうな名前を口にする。
「私をそう呼んじゃっていいのね、あなた。でも、マリールには私がどうなっているかちょっと正確に知ってもらって意見も欲しいわね」
リザの顔でステアが言った。マリールが目を二人の間に走らせる。
「どういうことですか。というか、ステアというのが魔族の本体の人の名前ですね」
マリールがリザに直接確認した。
「本体って云われてどっちが本体か私にもわからないわ。あなたの知るリザゴルデベルグ准将――リザゲリエの記憶と意識も私は引き継いでいるけど、その前にこの人に術式を頼んだ、というかその内容は全然デタラメだったんだけど、そういうものをそそのかしたのはステアフェイロスアエルシアアリオゲリエ。この人の最初の奥さんでソラとユエの母である私。血晶病で死んだというか、糖結晶化したわ。ともかく私は今リザとステアというこの人の死んだはずの二人の奥さんの記憶と意識で生きている。まぁ魂ってやつが記憶と意識の情報駆動という意味であれば、およそ二人分の魂ってことね。二人は直接出会っていないし、感情の上でもこのヒトとの恋愛というか新婚生活というか、まぁそういうことで記憶の上ではあまり矛盾を生じていない、ステアとしての私は十五年以上も前に半ば死んでいたしね。
――私の理解を確認するためにも、一応このまま私が説明をすると、この人はステアの体が完全に糖化してしまった後、心臓を取り出して食べ、そののちに心臓のあった位置に魔血晶を数百、一パウン以上二パウンほども詰めたのだけど、それはステアの身体に吸い込まれて消えてしまっていた。その後、新たにこの館で手に入れた魔血晶を材料の一部に混ぜ合わせて作った宝玉でセラムの義眼を作った折に残った母材で、人工の心臓を細工してステアの心臓のあった位置に組み込んでしばらく放置していた。――これが一昨年のことね」
確認するようにリザがマジンに目を向けた。
「心臓を作ったのはもう少し前の話だが、組み込みはそう一昨年のことだ。組み込んでなにが起こるかもどうなるかも分からなかったし、暇というほど暇でもなかったが朝晩くらいは状態を確認できるようになっていたからね」
マジンが補足に応えた。
「そのあと、忙しくなり始めて心臓を抜こうと思ったのだけど、思いのほかしっかり嵌っていて抜くのが難しかったから諦めたまま、三日ほど目を放した隙にステアの体がなくなり心臓がひどく重たくなって光るようになっていた」
「重くってちなみにどれほど」
マリールが問い質した。
「百三十パウンほど。百三十五パウンと八分の三。金でもあれほどに重くは成り得ない」
マジンが大雑把に数字を答えた。
「その時に拝見すればよかった」
マリールが残念そうに言った。
「もう君たちは皆前線に出ていたよ。結婚式の後の出来事だ」
マリールを慰めるようにマジンが説明した。
「ん。ということは、幾日か、途中でも朝晩に見に行っていない日があったってことですね」
「ん、む。そうだ。が」
「ああ、別段責めているわけじゃないんです。状況の確認というか整理をする頭になっているかなぁ、と自分のためですね。姉様続けてください。ステア姉さまも思いつくことがあれば」
うろたえたようなマジンの言葉にマリールが弁解するように言った。
「ありがとう。そのあと、リザが戦死。アタンズに帰ってきた遺体を回収して心臓をリザの身体に組み込んで、医療部に蓄えてあった輸血用の血液でリザの体の血液を入れ替えるのだけど、結局リザはその場で生き返らず。そのあとは私はちゃんと聞いてないわ。他にちょっと事件もあったし、少し説明して」
リザがマジンに話を振った。
「実はよく覚えていないんだ。リザの血液を入れ替えて反応を見たものの生き返る気配はなく、心臓も動かず脈もなく、脳や神経体温なんかも死んだことを示すばかりだった。そういう状態で四十日ほどすぎ、戦死から四十八日ほど過ぎたところで、殆どミイラのような状態で胸の傷が開いて心臓の光が傷から見えてしまっていた状態だったから、全部諦めるつもりで死体の心臓を殴りつけた、ような気がする。そのあと丸一日かけて帝国軍の城塞ふたつに八つ当たりの花火を落としにいっての帰り道でリザが生き返るところを見ることになった。なんかそれはこう凄まじい勢いで垢がもりもりと捨てられる光景だったんだが、リザはあまり空腹を訴えていなかったことがそういえば気になるな。その後も小食になったということもないが、ともかくその場ではリザは殆ど栄養や食事を必要とせずに一気に再生していた。そのくせ胸や尻足の膨らみや髪の毛というものは痩せていなかった。体力的にも特段どうということはなかった。身体のあちこちは如何にも新品という感じでうまく動いていない感じだったけど、体力や筋力という意味で不足しているようには見えなかった。こんな説明でいいか」
ひとまず顛末を語ったマジンはマリールに尋ねた。
「はい。およそは」
マリールは頷いた。
「それでどう思う」
「なにがでしょう」
意見を求めたマリールがきょとんと返したのにマジンは弱った顔になった。
「こんな術式で魔族が生まれるものなのか」
マジンは改めて尋ね直した。
「わかりません。ただ、結果としてリザ姉さまとステア姉様が一人分の身体で魔族として生きることになったのは事実かと。それと、今回のお話を伺うに、魔族を新生させたというよりは膨大な数の魔族をステア姉さまとリザ姉さまと我が君との三人で統合したということではないかと。二パウンってぼんやり考えていたけど、重さじゃなくて嵩でジョッキ二杯ってことですよね。それにしてもステア姉様はまぁともかく良くもこんな方法でリザ姉さまの意識が残っていたものだと思いますが、例のメダルはかけていたということですか」
「胸の谷間に食い込んじゃったわ。鎖は切ったけど引っこ抜くのに血が出る状態だった」
どれと覗き込むマリールにリザが胸元を開いてみせる。
「ああ、なんか流行りそうな位置でいい感じですね」
透かし彫りのメダルがリザの胸元に食い込んだようになっていて、そう言う装飾であるようにも見える。
「なに言ってんの。やっぱりこれ関係あるんだと思う」
「きっとあるんでしょうね。リザ姉様これ使って枯死したわけですから」
断定と云うには控えめながら自信を覗かせてマリールが言った。
「コレのせいなのかな。なんか魔法が調子良かったのは」
自分の胸元を覗き込んでリザが尋ねた。
「リザ姉様はともかく魔力という意味ではそこそこ以上に大きいですからね。力の入れ方と対象が掴めれば結構色々魔法が使えるはずなんですよ。チャンバラとか狙撃とかお得意でしょ」
「まあね」
「対象が分かりやすく同じ世界の穴を共有していると魔術の行使は協力をしやすいんですよ。リザ姉様から私宛の遠話なんて一度も成立してなかったでしょ。これまで」
思い返すようにしてリザは頷いた。
「そうすると、私からマリールへの遠話はし放題ってこと」
「お薦めはしませんが、私がメダルを身に着けている限り、まぁそうです。ついでに云えばそういうわけで私は殆ど見た瞬間にリザ姉様の異常には気が付きました」
「この人はそういうの気が付かなかったわよ」
「我が君はなんというか、そういう風に魔力を使いませんからね。それにご自分のお仕事を一切疑わかなったのでしょう。それに魔力の強い人は魔術の使い方はあまりうまくないひとが多いです。魔法はなんというかある意味で裁縫とか刺繍みたいな感じで世界の穴に模様を作ることで、周りにそれっぽい形を残すのが基本でそうでないとただ力押しに疲れるだけで世界の枠に引っかかってしまいますし」
それでリザは納得いった顔になった。
「ああ。なるほどね。私の身体は今、魔力がダダ漏れになっているのね」
「心あたりがあるのか」
マジンが尋ねた。
「あるわよ。なんとなく力や距離感がズレて生活している気分だったのだけど、魔力であちこち触りまくっていたのね。如何にもリザは自分の魔力なんて気にしたことのない人だったってことがよく分かるわ。魔法がうまく使えないことが悔しかったのにね」
リザがそう云ってしばらくして、マジンには辺りの空気感が少し変わった気がした。
「なにかやったのか」
「なにか、というか。ちょっとした修行中ね。大したことじゃないけど、魔力が吹き出すのを抑えてみている。リザは自分の魔力の質に合う導師に会えないままに魔法の開発を受けていたから、魔力の使い方が不器用なの。偶にふっと気を抜いたり入れたりすると上手くゆくのがまた歯がゆい状態で諦めてたし、私も自分でなにやっているのかよくわからなかったけど、魔法を使ってみたかったのね。でもなにをやっているかやりたいかがわかれば、基本はそれほど難しくないわ。練習は必要だけど、リザには体力と魔力は十分にあるし私には基本的な経験がある。魔術師としてはステアのほうが上ね」
誰が話しているのかわからないような口調でリザが説明した。
「それが今のお姉様の本来の魔力の色なんですね。やっぱり黄色というよりも基本は緑色ですね」
「そう言うあなたは紫なのね。あなたは濃い夜空みたいな青」
マジンにはマリールとリザの見ているものが見えていない。奇妙な感覚だがリザはマジン自身にも色を見ているらしい。
「魔力は色に見えるのか」
マジンは少し羨ましさが怪訝な声になったいることを意識したまま尋ねた。
「風景の色が変だなぁと思ってはいたのよね。目が赤くなったせいで視覚がおかしいんだと思っていた。けど、魔力でそこいらを撫で回していたのね」
長いまつげで日差しを作るようにしながら、何かを見るというよりは匂いをかぐような半眼の表情でリザが言った。
「魔力ってのは色があるのか。ボクには全然見えないんだが」
魚が空をとぶ話を尋ねているような、奇妙な感覚でマジンが尋ねた。
「色というかなんというか、湯気のような膜だけど、私はその感触を眼で感じている。前はこんな風には見えなかったわ。ステアも色というよりは匂いや温度で感じる人だった。でも時々強い魔族とかは壁を通して影とか光とかみたいにみえることもあったから、見ることが出来るのは知っていたわ。そういうわけでアナタが魔族を狩りに行ったのは私は知っていたわ。余計なことを云ったと思っていたけど、止める気もなかった」
なにを云っているのかマジンにはまるでわからなかったが、その説明を聞けばどうやってもわからないらしいことはわかった。
「リザ姉様も我が君も魔力ダダ漏らしの方ですからね。逓信院というか軍の魔導士では指導が難しい種類の魔力の資質の持ち主です。ああいう、文字の美しさが文章の価値や美しさであると考えるような人たちは、魔道を正しく教えるには向いていません。軍隊みたいな組織で仕事をする上では整った同じものを揃える必要があるのはわかりますが、そういう整ったものを並べて美しいと感じる感性は魔法魔術には向きません。魔術はどちらかという絵画や詩歌みたいなものですから、正しさの根拠は後付なんですよ。共和国軍は誇らしくみるべきところの多い組織ですけど、魔導士の教育に関しては寒村の私塾にも劣る有様ですからね。あれでよくも三千人も軍に奉職する魔導士を見つけられたと思いますよ」
退役した職場へのかなり露骨な罵倒をマリールは投げかけて鼻を鳴らした。
「ええと、どういうことだろう。ボクも魔術が使えるはずだってことなのかな」
「無意識に使っているんだと思いますよ。別段、魔法なんて使わないと使えないようなものじゃありませんよ。声とかクシャミと意味の上では大して差がありません。リザ姉様とか後方の魔導管制している魔導士からすれば状況のわかりやすい現場端末で、ほとんど四六時中状況が追える戦況水準ですよ。我が君も私はすぐわかりますけど、今メダル持ってませんね」
首を傾げるような軽く責めるような二人の視線にマジンはうろたえた。
「工作をすることが多いからね、不要な金物は身につけないようにしているんだ」
「浮気してても私には筒抜けなので、いまさら気になさらないでもよろしいですが、そのくらいには我が君の魔力は分かりやすく強いということは間違いありません。メダルつけているともうちょっと色々分かりやすく追いやすいですが、今は電話使ったほうが危険もなく簡単ですしね」
マリールの言葉は特段責める様子でもなかったが、魔力の実力保証という意味で少しばかり困惑する言葉でもあった。
「つまりなんだろう。ボクは魔法と思わないまま色々やっているということなのかな」
「だいたいそういうことだと思います。単純な物事ほど見分けをつけにくい灰色のまばらさを持っていますからね。別段、我が君の知恵や努力を疑うわけではありませんが、共和国の工房の殆どは、我が君が公に配合を公開しなければ、深絞りに適した真鍮の配合さえ見つけられなかったのですよ。あんまりあっさり秘儀を公開してみせたものだから、あちこちの工房で我こそが先に見つけていたぁ、とか大騒ぎしているのも知っていますけど、結局そう言っていた人たちも会社ほどにはまとめて地金を産しているわけではありませんし、そういうことが出来るほどに確たる何かを持っていたわけではありません。錬金術というのはそう言ってしまうと怪しげで我が君は憚るかもしれませんが、それでもやっぱり最初の数歩、方向と距離を定める指針を作るのは運になるわけですよ。更に云えば、ふつうよほどの天才であっても実際に物を作るとなれば、人の身の体力と腕力の限界から自ずと時間の制限を受けることになるわけですが、そのために普通の人は道具を準備するとしても十数グレノルというものの嵩に怯えるわけですよ。少なくともそれになれるまでは。それをなんです、あの飛行船。ああ。もう。あんなものがあるなら、早く乗せてください」
マリールは突然脱線したように立ち上がった。
「なにを言っているんだ。お前は」
「二人して退屈したからって、空の旅で、ああ、もういやらしいわね。魔力が使えるかとか、変な試し方しないでください。結構ちゃんと漏れています。伝わっています」
マリールは上気した顔でリザを睨みつけた。
「口で言うのは平気なのに、考えるのはダメなのね。わりと面倒くさい状態よね。コレって」
「ああ。もう、なんか。ウチの姉のやるようなイタズラを仕掛けないでください。冗談じゃなくて姉様はかなりの魔力を持っていてついでにそのメダル、私も持っているんですから、そんな扉を蹴っ飛ばすような力の使い方しないでも聞こえるんです。メダル持っている人たちなら感受性の強い人には今のエロ妄想、ダダ漏れでしたよ」
マリールが上気した頬を確かめるように手のひらでこすりつけながら文句を言った。
「ちゃんとマリール探ったつもりだったけど、ダダ漏れだったかしら」
「探りながら妄想垂れ流している時点でだだ漏れです。こうやるんです」
「ウヒっ……。こっコレは、結構効くわね」
刺されたようにリザが椅子の上で跳ねるようにして肩を抱いた。
「でしゃっふ。くへっ。……。うふ、リザ姉様にはこういうやり方のほうが多分魔術の習熟は早いだろうと思っていたけど、やっぱり早いですね。……ああ、ま、こんな感じですよ。結構きてますけど、流石にメダルがないと狙いにくいみたいですね。やり過ぎると危ないんでこの辺にしときましょう」
マリールはメダルを胸元から引き出すようにして机においた。
「すまん。まるでわからなかったが、そういうものなのか」
「雪合戦みたいなものですからね。魔力と完全に縁がないヒトというものも殆どいないわけですけど、窓の向きや形は様々で、同じように術式を使っても、ちゃんと分かる人とわからないヒトもいるので、お互いの訓練が必要です。我が君の場合は、なんというか日常的に魔法を使っているわけですから、無意識に無視してそれなりに鈍くなっているかもしれませんね」
悪意なさ気にマリールが評した。
「まぁ、使えないものは仕方ないな。特に使えてどうということも思いつかないし、使いすぎてうっかり死んじゃうようなのも、流石にどうかと思うしな」
「そうですよ~。お姉さま。ついウッカリ使えるので調子に乗るようなおバカさんは死んじゃうんですよ」
マリールが混ぜっ返すようにリザに言った。
「うるさいわね。あのときは必要だったのよ。いきなり土砂に埋められてみなさい。助かろうと思えば外に出るしかないでしょ。連中を鎮めるためにはある程度無理も必要だったのよ」
「結局なにやったんだ」
マジンがリザに尋ねた。
「知らない。ただシャオトアが圧縮空気の瓶を開けて、あちこちの扉を開けることを提案して窒息を防ぐことを提案したから部隊全員にそれを命令しただけよ。全部の車両に連絡参謀が乗っているわけじゃないからアレだったけど。あとは機関回して無理やり脱出しようとしていたバカをぶん殴ったくらいかしら。あんなんやられたらみんな死んじゃうわよ。まったく。ゴローズ少尉、戦車好きなのはいいけどバカなんだから」
鼻を鳴らすようにリザが言った。
「ゴローズ少尉ってのは魔導師なのか」
聞いたことのない名前にマジンが改める。
「そんなわけないじゃない。まぁ、割と運転はうまいけど」
別にメダルを持っているわけじゃないよな。
と、マジンが記憶の名前を探る間にリザが答えた。
「――そりゃそうよ。ウチのあたしの妹共じゃないわよ。なんたって男だもん。でもそれがまたかわいいんだ。威勢がいい男の子でさ、バカなんだけどね。砲を旋回させながら前進すれば泳ぐ要領で出られるはずっ。とか思ってやんの。あんな状態でそんなこと出来るわけないのにね。それにあのバカの戦車のバスケットにはイゼーヌ曹長とシルビスが引っかかってたからそんなことされたら二人が死んじゃうわよ。ああ、シルビスはあなたのお気に入りのシルビスよ。殺さないであげたんだから感謝しなさいよね」
ケラケラと思い出すようにリザが笑った。
「それをどうやって知ったんだ」
マジンが不思議そうに指摘するのに今更気がついたようにリザが首をひねった。
「どうやってって。……どうやってだろう。知らないわよ。……魔法よね。魔法だわ」
呆れた顔でマリールが鼻を鳴らした。
「まぁそうでしょうね。相手に魔術の素養がなくても無理やり伝えることが出来ないわけじゃないんですけどね。そんな後先考えないこと四五千相手にしてたら、土ん中泳ごうってのと大差ありませんから、そりゃ死にますよ。少なくともリザ姉様は小器用な魔術の使い方ができない種類の人なんですから」
云われてリザはムッとした顔になったが、思い直した様子になった。
「いいじゃないのよ。おかげで私は二階級昇進して役職のない閣下になって、結婚生活を満喫できるようになりました」
「死んじゃったんですけどね」
マリールが言う言葉にリザは首を捻った。
「あなたが云うには、もう私は死なないのよね」
「魔力が枯渇するまでは死なないでしょうね」
マリールの答えにリザは再び首を捻った。
「死ぬの死なないの」
「魔族も死にますよ。機能が止まるというか、魔血晶って魔族の死体で種みたいなものですから」
マリールの説明はマジンにも意味がわからない。
「どういうことだ」
「魔血晶は魔族の躰から取り出せる、魔族の核なんですけど再起動して再生しても同じ魔族、同じ性能性質にはならないんです。だから魔族は死ぬんです。我が君はともかく、おねえさまはご存知のはずですよ」
マリールの説明にリザはムッと口をとがらせた。
「それは知ってるわよ。私は死なないのよね」
「まぁ普通の状態では死なないと思いますよ」
「でも魔力が枯渇したら死ぬのよね」
「死ぬでしょうね」
「どういうことよ」
「リザ姉さまの魂はステア様とその土台の魔族たちの魔力の上に乗ってる上っ面だけの状態ですよ。それをお行儀よくとどめているのは我が君の魔法です。真実なにやってるかなんて私も知りませんけど、そんな状態がいつまで保つかなんて怪しいって云ってるんですよ。魔力を無駄遣いしないほうがいいと思いますよ」
溜息をつくようにマリールが口にした。
「リザの状態はおまえの推測なんだな」
「ま、推測っていうか推理というところですけど。状況からつなぎあわせただけで証拠がないっていうことなら認めますわよ」
マジンの伺うような声にマリールが傲然と疑念を受けるように答えた。
「つまりなんだ。どういうことだ」
「私がわかるわけないじゃないですか。こんなんこしゃえたあがきみのようがなんぼじゃらすとがよ。わしにったらッタらがえれんこったが、しゃあらすがよえ」
マリールが突然辛抱ちぎれたようにお国言葉で喋った。
「マリール。ああ。すまん。別段、責めてるつもりもないんだ」
「こういう話は私よりは母とか母方の祖父とかが多少得意ですよ。我が君の義眼とか義肢の細工を持ち込んだら、本気で大喜びしますよ。あのルミナスのこしらえている大鎧とか、もう絶対間違いなく大騒ぎですよ」
「ギゼンヌからも結構あるんだよな」
「山を超えるんで酔っている内に着けるほど近いってわけじゃないですけど、ここからミョルナよりは近いですよ」
「全然参考にならんな」
「ギゼンヌから馬でひとつきってところですかね」
「結構遠いな」
「まぁ山越えですからね。鉄道の使ってるミミズのお化けみたいな石臼でゴリゴリっとやっていただいたらミョルナみたく近くなると思いますよ」
気軽そうにマリールが言った。
「使っていないお城がいっぱいあるって云ってたわね」
「サウガラーとトウガラーとかコウガラーとかご存知ありませんか。わりと知られた建築家なんですが」
「トウガラーは軍都の博物館を建てた人よね」
リザは知っていたらしい。
「すまん。知らない」
「まぁちょっと古い人たちですからね。そういう人たちの師匠っていう人たちが一族の先祖にいまして、いっとき建築ブームがあったみたいなんですよね。話を聞く限りだと旦那様の工房みたいな感じでいっぱい人使って、気が向くと間道にお城を立てちゃうみたいな感じで」
マリールが軽い感じで説明をした。
「材料はどうしていたんだ」
今も材料の話は頭を悩ませ続けているマジンは期待もなくふと聞いてみた。
「聞く限りだと岩肌を切ったり掘り抜いたものを建材にして使っていたみたいです。あとはなんだか秘薬の類で固めたり溶かしたり」
思ったとおりマリールの応えは実に興味のなさそうなもので、聞いただけではまるで見当もつかない説明だった。
「本当にこの人みたいな風聞ね」
「本人たちも錬金術士っていう意識はなかったみたいなんですけど、業績がわからないんじゃ区別つきませんよね」
リザもマリールも気軽にまとめて言ってくれる。
「秘術みたいな感じだったのか」
「聞く限りそういう感じではないですけど、うち田舎じゃないですか、ヒトが地味に増えたり減ったりしているんですけど、そういう中でお家が途絶えて果てた、という感じで消えちゃったみたいなんですよね。その頃にはなんというか、そこら中にお城の数は十分あったんで、帝国との戦争には困らなかったというか」
ふーん。と薄ボンヤリと返事をしたマジンの膝にマリールが飛び乗って跨った。
「馬でゆくとひとつきとか遠いんですけどね。そういう時こそアレですよ。空飛ぶやつ。アレ使いましょう。ウチの脇、湖あるんですよ。これから夏にかけていい季節なんですよねぇ。温泉とかもあるし、行きましょう。そろそろウチのバカ親父に挨拶しときたいですし、お姉さまの状態はここで私がグダグダ云うより母か祖父方の誰かに見せたほうが早いですよ」
ふーん。とリザは小鼻を膨らませて興味ありげな笑顔になっていた。
<石炭と水晶 完>
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