石炭と水晶

小稲荷一照

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共和国軍都大本営兵站本部 共和国協定千四百四十三年立夏

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 様々あって軍都大本営兵站本部内の電話工事の完成は春のうちに滑りこむように終わった。
 電話機そのものは先に各部署に配置されたものの半ば置き去りの置物になっていて、配置からひとつきほども立った頃、突然試験の通話がおこなわれ部屋番号を確認され電話番号を通告された。問題なくすべての電話がなることあることが確認され、その翌日から本部内の電話番号帳が配られ始めた。
 電話番号帳はこれまで意識したこともないような兵站本部内の部署が記されていた。
 分冊で逓信院と療養院の電話番号帳がそれぞれついていた。
 大本営兵站本部内、と言っても軍都にある兵站本部の施設十数箇所の部局にも電話は通じていて、軍都中心から数リーグ離れた軍需物資管理倉庫にも連絡がつけられるようになっていたし、兵站本部直下ではないものの外局がある各州各地公館の連絡室にも回線は敷かれていた。
 軍都で兵站本部の配下にある人員がいる部署にはあらかた電話回線が敷かれていた。
 マリールはその大本営逓信院でおよそ彼女の性格には合わない作業をさせられていた。
 電話回線設備施設の管理業務というのは一言で言えば、火事が起きないことを確認して機械が電線の事故を疑ったら、そこに人員を派遣する仕事の元締めだった。
 あいにくマリールは機械が一体どうやって動いているのか興味も理解もなかったし、実際に管理業務で働いているのはローゼンヘン工業の人員でマリールの仕事は彼らの報告を確認して承認することだったが、物資資材の定数を逓信院の配下の人員で棚卸しすることくらいが関の山だった。
 つまり、大本営にいる誰も機械のことがわからないので、ローゼンヘン館に娘を寄せているマリールならどうだ、と云う程度の意味でしかなかった。
 アシュレイ中尉の実務能力に何か期待があったわけではなく、つまりは単なる窓口ということであるわけで、しかも全くこの電話機の不愉快なことにローゼンヘン館には通じていない。
 目の前の受話器を掴んでカチカチと電話機を空鳴らしさせるくらいにマリールは自分の配置に憤っていた。
 電話機もその大本である交換器も更にその動力を供給している発電機も完璧に動作していて、ローゼンヘン工業の社員もマリールの非公式な立場を理解していたから、マリールは清潔な部屋で全く問題の起こらない退屈な日々を過ごしていた。
 そういうマリールの不満とは全く別に、導入された電話設備の威力によって、兵站本部の内部での連絡のやり取りは極めて素早くなっていた。
 現実問題として電話口頭では口約束の危険が多すぎて、書類仕事自体は全く減ることがなかったが、ともかく書類を回すべき先が存在すること在室することを確かめたうえで稟議に回せる、という一点だけでも電話導入は威力を発揮したし、稟議という意味ではそもそもに既に書類は回っていて口頭だけで調整をすればすむこともたくさんあった。それがいちいち足を向けて空振りをしてとか、伝令に伝言を託して空振りするだけならともかく、書類を遺失して或いは奪われてという事件を回避することで、兵站本部長のクズカゴのゴミが溜まる速度もクズカゴ自体がゴミになる頻度も大いに減じた。
 未だに陰惨な部内闘争自体は根絶されたわけではないが、ともかくも兵站本部内での風通しはだいぶすっきりとして、無意味な闘争や火元の見えない騒ぎは随分と減った。
 並行して導入された電灯も部署業務の時間に融通をきかせる働きがあって、人員の都合調節がつきやすい夕刻以降という時間を会議や調整作業に充てられるようになったことは、昼夜つかずに連絡そのものは多くある大本営にとってひどく都合が良い装置だったし、夜の闇に明かりを求めた書類仕事によってボヤを恐れないで良いということは、兵站本部にとっては夢の様な知らせだった。
 煙草による失火は実のところ未だ耐えないわけだが、もともと書類をヤニで汚すことを嫌う課長のいるいくつかの部署では、この機に完全に課内禁煙が徹底され、喫煙者はホタルとして他所に飛んで吸えという課内通達が出ることになった。車両課弾薬課薪柴課のような危険物をまとめて扱う別棟のあるような課では喫煙用の掘っ立て小屋もあり、大本営の建物には火災等の緊急対応用に広く踊り場の設けられた露天の階段もあり、しばしばそういうところは部や課を超えた人々の談合に使われることもあり、会議室に持ち込む前の稟議のその前の場でもあるわけだが、電灯の灯りがそういう談合の場にも設けられると、これまでは単に寒さよけのついでの煙草のみの雑談だったものが、資料を持ち込んでの本格的な折衝になっていった。
 議事録や会議室利用或いは呼出状などの記録の残らない非公式会議を気軽におこなえ、階級や部門を無視して話ができ、酒場や飲食店と違って人数の融通がつきやすく、あたりの目も気にしないで良い、兵は襟章で追い出せば良いなどと便利に過ぎて、第二第三稟議室等という通称でそういう掘っ立て小屋が呼ばれるようになった。
 書類が動かない事柄は、官僚機構としての大本営の建前の上では意味が無いわけだが、意味がなくても成果が出るということであれば全く結構なことであったから、煙草をこのまない人々も普段より渋い顔をしながらあちこちに幾つかある喫煙所に通うことになった。
 もちろんそういう幸福な時期はあまり長く続かないわけだが、ともかくしばらくの間、電灯と煙管を囲んだ稟議室は大本営の一角の風通しをだいぶ良くしていた。
 電灯をめぐる本部員を含めた大本営の動きをクエード本部長は冷静に眺めていた。
 クエード本部長は煙草飲みで、目の前の人物がなにを好んで吸っているか銘柄がわかるほどの愛煙家だったが、誰かが書類仕事をしている部屋では吸わないことを徹底していた。
 書類の紙にうつったタバコの臭いでどこの部屋からきたものか分かることもあり、そういうハッタリで書類の出処を見破ったこともあり、書類を扱う部下を管理する上で役に立つことは可能なかぎり活かそうという努力でもあった。
 クエード兵站本部長の立場からすれば部下からの報告で、燭台の取り扱いに際しての火災により遺失、というものは真偽が読み取りにくいものだったから、ともかくも作業中の火災要因が減ることは全く歓迎すべきことだった。大本営の中の照明が裸のロウソクからホヤのついたランタンに切り替わったことはずい分昔の事だったが、それでも些細な取り扱いから大小の火災が起きることは避けられなかったし、書類仕事で火災は致命的な意味合いを持っていた。日の出ている間に書類仕事の片をつけることは一種当然の対策だったが、平時であればともかく、既に戦争を戦っている大本営でそれができるほどに人員にも戦況にも余裕はなかった。
 全員でないにせよ、幾割かの人員は昼夜徹して大本営に詰めることを求められていたし、そういう人員がいれば書類も動くのが軍隊というものであった。
 電話設備や電灯設備の管理を外部に委託していることも、兵站本部長の立場からすれば却って気楽ですらあった。
 兵站本部と言うより大本営の内部には、どこへともつかない間諜が幾筋か存在していることはほぼ確実で、誰も信用出来ない状態であることは、ここ半世紀密かな政治問題になっていた。
 その一つは魔導士の騒ぎであったし、後装小銃の騒ぎでもあった。再びここでローゼンヘン工業がその騒ぎのタネになることもありえたが、それならそれで問題はまとめておいたほうが気は楽だった。
 クエード兵站本部長の想像からすれば、少なくともこの戦争が終わるまではローゼンヘン工業は口から腕を突っ込んで心臓を動かしてくれている魔法医師でいてくれないと戦争に勝てそうもなかったし、鉄道が繋がってしまえば腕を抜いてくれる必要さえないかもしれなかった。
 クエード兵站本部長は祖国の現状をかなり悲観的にとらえていた。
 そういう中で云えば、電話設備と電灯設備の配備によって、本部内の様々な勢力派閥の敵味方の構図が次第に浮き上がってくることは、全くありがたいことだった。
 電話設備の利用報告は内容は全く明らかにしていなかったが、電話番号帳と突き合わせればどこの部局とどこの部局が頻繁に連絡しているかを突き止めることができ、あとは糸を引いてゆくことで例外的な何かを見つけるだけだった。
 兵站本部長という立場は忙しくもあるが時間もあり、管理職としての当然の嗜みとして人間観察と推理考察はクエード兵站本部長も楽しむところだった。
 大きい数とはいえ、たかだか四千の繋がっている先と繋げた数の確かな電話番号を洗うことは時間をかければ手の回ることで、国内全土で沼のあぶくのように起こっている不正を探るよりも遥かに容易かった。夏のうちに幾つかの兆候を発見して、秋のうちにそれを追う手配をして、年内に奇襲的に片をつけたことは大本営でも衝撃を与えたが、立場と道具立てが揃っていれば先に手を打った者の勝ちだった。
 クエード兵站本部長は電話における大本営での戦いにまず先勝した。
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