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捕虜収容所
ローゼンヘン工業鉄道部本部 共和国協定千四百三十九年小満
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大本営からの督促めいた電話機設備の見積り希望は様々な可能性を背後に潜ませていたが、ケイチ・アッシュの水路の付け替えは冗談ではない急務になり始めていた。
鉄道経路の選定についてはマジンの楽観の度が過ぎていたことは間違いないが、ここに来て政治的な要因での面倒が雲をさしかけているのは、甚く気に入らない事態だった。
軍都までの経路にあたる各地各所の判断を覆させるなら、そろそろ何らかの方法で丸め込む必要があるところで、そのためにも最低限フラムの山師連中を黙らす勢いでトンネルを作ってしまいましょう、とマスは目つき鋭く笑ってみせた。
マスの思惑としては禁足地を承知で引き受けたカシウス湖を抜けるのにはトンネルを使って一気に抜けてしまうのが良いという判断だった。
太っているせいで目が鋭いのか、今敢えてそうしているのかよくわからない表情のマスは一応は笑っているように見える顔で自信ありげに言った。
「社主のこの報告書を見る限り、事故があれば工員は間違いなく死にます。しかも事故の程度の問題でなく、かなり些細な事故で死ねます。計画担当者としてはカシウス湖を通過するのは、カシウス湖全体の浄化計画が軌道に乗った後にしたいところです」
「カシウス湖の浄化は水を全部汲み上げた後が本番だよ。予定がないわけではないけど、だいぶ少し先の事になる」
太って息が苦しいのか他に何か意味があるのか、マスは鼻から勢い良く息を吐いた。
「正直そっちはわかりません。ただ、口にしちゃダメってだけでなく、濡れちゃダメ触れちゃダメ日差しの湯気も危ないって話では仕事になりません。オマケに返ってきた洗濯物も毒まみれって、一回二回の環境調査ならともかく線路工事ってなれば一ヶ月二ヶ月は山の測量で籠るわけですよね。うちの連中が余所より用心深く仕事するように仕込んでるったって、誰か落ちりゃ助けようとしますよ。そうなりゃまず事故が起きれば五十から死ぬってことになるでしょう」
マスは口にした冗談じみた不幸な未来に笑っていいのか怒っていいのか困ったような顔になった。
「穴掘ればいけるかね」
マジンが確認した言葉に計画主任は肩をすくめた。
「社主がいけそうもないってならやめます。なんてったって今のところ会社は社主のカネとウデで動いているだけですから、あたしらが五千いても社主がダメだってなら全然話になりません」
マスは肩をすくめるように組織の現状を要約して答えた。
「まぁ、カシウス湖の周りだけならロンパル卿にお願いすれば話はまとまるかな。で、それを見せてやれば、ミョルナの連中も多少は納得するかね」
マスの話の本題をマジンは振ってやる。確かにマスの話の流れは危惧のひとつではあるが対策が取れないわけではないし、そんなことはマスも十分承知した上で話しの枕として言ってみせたに過ぎない。カシウス湖の危険の本質が単純な有毒の環境にあるわけでないことはふたりとも承知していた。
「正直なところを言えば、見込みのある連中もいるかと。なんて言っても山師連中は遊びで穴掘ってる訳ではありません。博打打ちではあるわけでしょうが、それなりに真面目にやってるわけです。自分の命を金だかなんだかに変えようって腹なんですから、正直わたしなんかよりよっぽど真剣にやっているはずです」
「それはどうかな」
自分がやっている事業の胡散臭さ流通計画の持つ実業と虚業の灰色の部分を自覚しているマジンはそれに目をつぶる立場のマスに相槌を打ってみせた。
「それに幾つか文字通りの抜け道を見つけました」
マスは本題に入ることを決めたらしい。
マスが見つけた抜け道というのはミョルナの各地に点在する聖地の扱いについてだった。
山岳地域の民族らしく頂きや湖を聖地と定めている彼らはそこへの立ち入りを制限している。孤立峰とか気象上の境界に位置する地形とか物語の由来の土地とか地質上水質上の特殊性があるとか様々なものだった。
しかし土地に立ち入り何かを立てたり作ったりすることは禁止されているが、地下についてはとくに何があるわけでもない。例外がないわけではないが、そう云う土地はまたひどく明確に立ち入りを禁じられている。
聖地とされる地域は天険の狭間にあるミョルナ周辺でも、天下の天険で商いがなせるほどに人を集めるほどの往来もなくそもそもそれほど大きく手を入れるだけの力がなかったということもできるが、ともかく聖地について厳しく制限をされているのは地上で地下についてはそれほど厳しい扱いを受けていない。
実際に幾つかの聖地とされる地域には周辺から坑道が食い込んでいる。それほど大きなものではないものの古いものもいくつかあって、聖地の禁足は主に気象風景に由来しているということだった。
水脈等を打ちぬいてしまうと面倒になることは間違いないので、調査にはそれなりの手間と手当が必要だけれども、そうやって二リーグとか三リーグとか聖地の地下をちょこちょこと十箇所ばかり通らせてもらえば、幾つかの地権が入り組んでいたり面倒臭気な対立中の係争地を回避できるという。
細かな山襞を抜けるという話でなく、峰ひとつ山脈の小さな頂きをまるごと抜けるという話をマスはしていた。
聖地というものが存在した経緯は様々で、主たる目的は宗教的な色合いが強く自然景観の保全という意味合いが強い。一方で頂に目が届く山裾ひとつまるまる聖地にしてしまったせいで、まともな往来ができない地域がいくつも孤立してしまっているという。ひどい場合には複数の聖地に包囲されて商店も医者もないような集落が存在する。そういう村々を縫うようにトンネルを繋いでミョルナ近傍を抜けてゆくという計画素案だった。
マスは控えめな事業であるかのように言ってみせたが、馬車が通れるような径のトンネルが距離数チャージを超える規模で掘られたことはこれまでない。共和国にある幾十もの坑道も主坑こそ太いもののじっさいの採掘坑は人が肩を通せる太さ、せいぜいツルハシシャベルスコップが通る幅高さしかなかった。それ以上の厚みで鉱脈に当たることは稀だったし、大きく坑を開けることは落盤の危険にもつながった。
「アイディアとしては面白いが、仮にも聖地だろう面倒が起こるんじゃないのか」
「地元に共犯になってもらいます」
マジンはマスの話に首を傾げた。
「どういうことだ。駅を作れと云うなら採算がとれるほどの話なのか」
「駅である必要はありません」
「電気か電話か。それくらいは最初から話をしているはずだが」
マスはこれはわかるようにニヤリと笑った。
「共同線にするんです」
マスの話は旧来の街道通過を諦め、鉄道だけの専用トンネルではなく歩行者や馬車が通れるような道を新たに作るということだった。もちろん保線区は鉄道線路に沿った形で準備されているから、殆どの線路では舗装路として車両往来が可能な道路が敷かれ現実として人馬が行き交っている。
「トンネルは鉄道と歩行者は共同じゃないとまずいかね。あと、そうするとして権利はどうする」
原則として私有地であるので法制度上の優先権はローゼンヘン工業、というよりはゲリエマキシマジン個人に存在し、道義上はともかくデカート州内の法制度上であれば鉄道沿線上の人々を不法民として尽くを弑したとして罪には問われない。共和国一般と云えるほどに各州の法制度は足並みが揃ってはいなかったが、大まかなところで私有地における様々は、その土地の権利者に委ねられるところが極めて大きい。
「厳密にはわかりませんが、ミョルナに提案してみる際には地域の生活道路と街道整備の計画としたほうが良いと思います。予備的に鉄道線と電話電灯が通るとしたほうが抵抗が少ないのではないかと」
マスは首を傾げ肩の筋を伸ばすようにしながら言った。
「面白いがいくつか問題がある。ミョルナ自体もかなりの高地だがミョルナの村々といえばさらに名にしおう高山地域だ。地質上非常に複雑な成立をしている可能性がある。トンネル掘削そのものに先立つ見込み調査は可能なのか」
「それは事実上不可能ですが、夏の盛りを狙って人工地震を起こすことで事前の危険調査をおこなうことは可能かと。持ち込める量の爆薬程度で山が動くようでは問題ですが、伏流水脈等の調査はどうあっても必要です。別に聖地の破壊が目的ではないですし、地下神殿の類を掘り当てて神罰やらが降ってくるようなことを望んでいるわけではありません」
笑顔のままのマスの言葉は全く笑いを含んだものではなかった。
電話交換機の心臓部である高速計算機は複雑な波形を単純な波形成分に要素分解し整理直すことが可能で、地質解析の模擬演算に使えることは瘴気湿地の油層水層調査に実際に使われ確かめられていた。
理屈の上では最低四箇所、理想の上では三十箇所ほど、実際としては七八ヶ所ほどの観測点で地下に埋めた爆薬の振動を観測することで爆発点から観測点までの音響性質から経路上の地質構造をおおまかに読み取ることができる。
なにかあるかないかは実際に掘ってみるまで確認することはできないが、おかしな結果があれば何かあるということができるくらいには装置や計算に信頼が置けるようにはなっていた。
「君が言っていることが起きれば責任を取れるようなことではないな。そういう事態になったら真っ先に死んでいいぞ。後のことはボクがやる」
「万が一にも、とは考えていますが、もし万が一で起きれば申し訳ありませんが、そうさせていただくつもりでいます」
分かっている話の念を押すマジンにそう応えたマスの言葉には笑いが含まれていた。
マスが持ってきた展望の可能性にマジンは少し表情をゆるめた。
「とりあえず万が一の話はおいても、機材が全く足りないな」
「人材も不足しています。夏場の測量であっても高山地域一帯の地震調査というちょっとばかり特殊な問題は私自身見当がつきません。人員を回せば最低半年は張り付けることになるので、他には回せませんし」
マスは表情を緩めるマジンを咎めるように表情を締めてみせた。
「まずはカシウス湖か」
「時期と困難を考えれば両方一片にと言いたいところですが、今は近いところからということになります。願った範囲に水源があるかはともかく、あそこであれば仮に貯水層や地下空洞を打ち抜いてしまったとして手持ちの人員機材の問題ですみます」
「湖側には流すなよ」
「峰の外側からおこなうのでおよそ大丈夫でしょう」
言わずもがなのことを云われマスは少し渋い顔をした。
「――位置や規模は慎重に選ぶつもりですが、第二堰堤を再整備することが難しいようなら第四堰堤を築いたほうがいいかもしれません」
「第三堰堤は位置が悪いか」
第一堰堤は水かさにはまだ余裕があったが、構造そのものは既に何かをすること自体が危険な釣り合いで支えられていて、辛うじて漏れず崩れずという状態で、今更手を出すことはできなかった。共和国成立以前に築かれた第一堰堤第二堰堤に比べて、比較的後代数百年前に築かれた第三堰堤は堰堤両端の地質に不安があったし嵩も足りていない。
長い年月で第一堰堤は元の土木に鉱滓が金属として結びついて、目止めめいた働きをして大きな腐れや漏れを防いでいたが、結局は根拠の無い釣り合いに過ぎなかった。
第一堰堤が崩れた場合に備えて第二堰堤が築かれているが、こちらも建設から千数百年余りがすぎていた。思い出したように段階的な補強はなされていたが整備の程度は必ずしも十分とはいえず、第一堰堤から漏れ続ける汚水が増していて整備も補強も難しい状態になり始めていた。このまま第一堰堤が崩れれば押し流されるように第二堰堤も破綻することは、この百年余り地元でも危惧はされていたが、為す術がある話題でもなかった。あらん限りの知恵として第三堰堤が準備されていはいたが、規模も構造強度も到底満足できるものに仕上がったわけでもない。単に途中に坑道や湧水が川沿いにないというだけで、それも今の第一堰堤の水面の高さまでの間には全くなにも無いわけではなかった。
来るべき恐怖が現実になった場合、第三堰堤が何かを救う扶けにならないことは土地を知る者ならば誰しもが肌で理解していた。
ただ、山に暮らす人々の恐怖としてなにもしないということを許すほどに愚かでも賢くもない、人々の努力の記念碑というだけであった。
「浄水計画は実施できませんか」
直接的に答えずにマスは尋ねた。彼は一年目に鉄道工事に参加した学志館高等科修了生のひとりで大雑把ながら、ローゼンヘン館の工房でおこなわれている工作以外の事柄のいくらかを承知している学者研究者の卵だった。列車に積み込める量の汚水なら、どういう種類の汚水であれ魚が棲める程度にまで水を澄ませ、毒となっていたものを材料に変えられる技術があることはわかっていたし、鉱滓の話題を積量できる元素論として捉え、基本的には時間と燃料と設備の規模の問題として概算が想像できるだけの理解もあった。
「今はまだ難しい」
数百億グレノルという水量を処理するにはそれなりの時間と手管の他に相応の投資の覚悟が必要になる。今は、という言葉の意味は結局カシウス湖の危機を招いた言葉でもあったが、人の営みの基本でもあった。
短く答えたマジンにマスは鼻息で相槌を打って、第四堰堤の候補地と見積りを差し出した。
「安くはありませんが、ミョルナの聖域の神罰よりはよほど危険が予想されるので、まずは予めご報告を」
鉄道建設の初期に想定した金額よりも、桁として多くの物資と労力時間が必要だろう、とマスの見積りは示していた。労働人員時間という計算はたった二年の実績では概算としても怪しいものだったが、桁の下読みとして軍都まで鉄道が往って還って概ね五倍程度の数字が書かれていた。鉄道もこの先膨れ上がる可能性が大いにあっても、山の工事も同様に膨れ上がる可能性があり、ともかく難航することを示しているという以上の意味を持ちはしないが、無視すれば最悪フラムのみならずソイル全域がつまりザブバル川水系全域が毒の水に侵されることになることを示してもいる。
少なくとも維持が可能な浄水設備の建設を今すぐに夢想するよりは、遥かに現実的な期日で幾つかの鉱山を危険にさらすだけで済むという計画はマスの才覚を感じさせた。
更に予算を拡大させるオプションとして水面下に沈む領域全体をセメント漆喰砕石アスファルト等で固めることも提案していた。第一堰堤の堆積汚泥を考えれば、それだけでは不安もあったが少なくとも山系にある幾つもの水源を新たに汚染することを考えれば、素振りだけの配慮であっても必要な態度であった。
示された量のアスファルトを用立てするためには、瘴気湿地の油井の産物を十全に回す必要もありそれで足りるかは怪しい様子でもある。発泡コンクリートのパネルを基礎材に使えば砕石よりは多少鉱滓の定着が簡単かとも思ったが、今はまだそういう小手先の手段を探る段階ではなかった。
「鉱山組合と元老院に報告しないといけないな」
素案そのものは今のところ単に寸法と水かさからの必要そうな強度の概算と構造断面に地形上の設定線とを掛けあわせたもので、謂わばポンチ絵を描くための口上という程度の意味合いだったが、この手の計画で予算を小さく取ることは破綻や不満を引き起こすことになることは、二人には容易に想像もついた上での数字でもある。
それに予算を詰めると言っても、せいぜい労働者に囚人を使うとか無産階級を使うとかくらいの意味合いしかないことは間違いない。
かつてはフラムとデカートの紛争のきっかけともなった千年余りの事業の結果で、今更一年二年でどうなるような話ではないことは誰もがわかっていたが、百年保つという話でもなく、元老院では先を読める賢人と称される人たちがしばしば話題にする事業だった。
デカート州の運営は必ずしも税金だけで賄われているとはいえず、怪しげな徴発や元老院での動議の信託金や或いは直接の元老の支出などがそこに上積みされていたが、税金の十年分では足りない金額が資材の相場での実費だけで示された数字を見て、元老院がどういう反応をするのかは一種見ものだった。もちろんその場に居合わせる立場のゲリエ卿として楽しめるかどうかは全くわからない。
千年の失態を数字にしたようなその見積りは、決して日ごろ貧しい生活をしているわけでない元老でさえ目眩を起こす者が出かねない数字だった。
「そのへんはお任せいたします」
軽薄な同情の表情とともにマスは流した。
「さて、そうするとボクが聞いておくべき状況は後はなんだ」
「ワイルが強硬にならない形で、ワイルから先の土地を取得しないとミョルナまでの道を繋いだ挙句に山を下って川を下ってということになりかねません」
「それなら北の荒野に出たほうがいいんじゃないのか」
「どちらでもそれはお好きに決裁いただければ」
厳粛な表情をマスは作ってみせた。
「状況はわかった。しかし、ワイルの件はどう手を打ったらいいのかよくわからないな。急に排他的な感情が盛り上がるような機運があったのか」
マジンにはワイル周辺の印象が薄かった。
強いてあげれば荒れ地の真ん中に大きなオアシスを守るように城塞が寄り集まって建っていて、値は高いが良く躾られた女達のいる花街があるという程度か。
「産業が細い割に往来そのものは大きな土地ですから、潜在的には常に排他的な雰囲気はあるかと」
「例えば宿場で客を追い出すようなことはしないだろう」
「宿の隣に屋敷を建てたら、それはもう客とは言えないのです」
素早くマスが切り返してみせるのにマジンは目を丸くした。
「新規の産業が起こりようがないじゃないか」
ついマスに向かってマジンは驚いた口調で問うてしまった。
「新しい産業ということは旧来の産業の危機じゃないですか」
マスが目を細めるようにして澄まして答えた。
「つまりなんだ。我々が競争相手ではないことを示して、どういう方法かで地元に資金を注入すればいいということか」
「正直、大した特産産業がないので資本の注入という意味ではミョルナより難しいと思います。ミョルナはその、ウチから機材を持ち込めば生産拡大などが期待できますが、ワイルはなんというかそういうことを期待するのはなかなか難しいかと。露天掘りの鉱床も山師たちが散って久しいと一から全部ということになるでしょうし、流石に付き合いきれません」
マスが言葉を探すように言った。
「ウチで買えるような何かがあるのか」
「穀物農産物、後はサトウキビ畑と製糖所があるので菓子類くらいでしょうか。安いわけではありませんが、水が豊かというわけでもないので土地としては暴利を貪っているという印象はないでしょう。旅の中継点としては御存知の通り水や食料を確実に手に入れられる周辺唯一の土地ですが、長居するには少々剣呑な土地でもあります。以前は露天掘りの鉄鉱床もあったようですが、人を募って一からということではなかなか」
ワイルの印象を思い出そうとするのだが、ひどく物価の高い街という印象が先に立った。
大きく豊かに拓けたヴィンゼという雰囲気だったろうか。
旅程ではほとんど常に機関車であのへんの砂がちな荒れ地を突っ切っているので、盗賊らしい者達には遭っていないが、奇妙な装いの連中が手になにやら得物を持って群れをなして駆けているのを見たことはある。
「旅籠や酒場の旅商売で稼いでいるなら鉄道が継って地元に悪いことも少ないだろう」
とは言ったものの、マジン自身言葉を少し疑ってみた。
「悪いことは少ないでしょうが、良いことも少ないはずです。最悪良いことが少なすぎると人が出てゆくことになります。特産品は兵隊と奴隷と盗賊という土地ですから」
ワイルの治安の悪さを強調するようなマスの言葉にマジンは口を歪めため息を着いた。
「そういう話が出るってことは、またこれまでと違う人材が必要ってことかね」
「そろそろ退役軍人を雇ったほうがいいでしょう。できれば現場の数字に強い人が心強いです。あたしらと話が通じそうなところは物の数字だけなんで、まずは。腕っ節だけなら工事の現場の連中で十分でしょうが、将校さんにはそれなりの言葉があるはずです」
「連絡室は退役軍人の再就職とかそういうのを斡旋しているのかな」
「どうなんでしょう。そういうのは社主の奥様がたに尋ねられるのがよろしいかと。……ああ、最初のしばらくはセラム様に計画の線を引いてもらうのもいいと思います」
ゲリエ家の構成についても一通り詳しいマスが思いださせるように言った。
「彼女らは退役したってわけじゃないからな。余り会社の中のことは見せたくない。ひとまずここと新港の支社でそれぞれのことはできているだろう」
「そうしたら、やはりまともに相談ができる、なんというか参謀格の人物に経路の警護計画を建ててもらわないと責任が取りにくいですね」
「それはキミの責任ということかね」
マジンの嫌味を含んだ言葉にマスは薄笑いを浮かべた。
「まぁ、私の責任は社主に死ぬまで殴られ死刑、って決めているのでそこは良いと思うのですが、むしろ現場です。どういう裁量でどの程度なにをするかを誰が仕切るかと話で、今の状態ですと飯場の喧嘩に機関小銃を持ち込んで皆殺しにする、的なことになりかねませんし、私有地内ですので警備上の都合と強弁することもできてしまいます」
「そうするための私有地だからね」
「どういう結果で過定であっても私有地で事件が起きれば、被告でも証人でも原告でも、加害者でも被害者でも社主がいちいち事件の裁判に呼ばれることになります。直接関わっていなければ、粗方弁護士に任せて最後に裁判長の前で署名をするだけで済みますが、そんな署名をするくらいなら、うちの仕事の決裁なり視察なりしてください」
「つまり面倒が起きることが分かっているなら手を打てと。現場の警備の責任をボクの手前で総括できる人間が必要だと」
マジンの言葉にマスは頷いた。
「私も工事の責任はもちろん取りますが、運行事故やらその他の敷地内の事件にまでかかずらう時間はありません。社主が私から工事の責任を取り上げるってならまた別ですが」
マスの少し強い自己主張にマジンは地図に目をそらした。
「キミの計画ではいつまでに警備の主任が必要だ」
「私達の計画では州を跨ぐ前に何らかの手当が必要だとされていますが、マシオンに着くまでになんとかしていただければ、ワーズワス女史と弁護士の先生に時間稼ぎの手を教えてもらうことで対処できると思います」
マスの言葉の意味するところは密かに重大で面倒事のいくらかを社主ゲリエの名で潰しているということだった。
「ボクが知っておくべきことは本当に起っていないのだろうね」
ロゼッタの名前が出たことでマジンは改めて確認した。
「まぁ計画についてはとくにありません。ええと、ワーズワス女史には幾度かお世話になっておりますが、特には」
思いついたようなふりをしてマスが言った。
「どういったことで」
自分の責任ではない、という子供っぽい言い逃れじみたマスの前振りを無視して尋ねてみる。
「線路を歩いていた酔っぱらいと乱闘になりましたモイヤー工務長を引き取っていただきました。当然私有地内ですのでその件は司法の問題にはなりませんでしたが、相手が軽い出血をしていたので、デカートの警邏に引き渡したところで別件の一揉めがあったようです」
「勤務中じゃなかったのか」
マジンはつい鼻で笑ってしまった。
「そうなのですが、モイヤー工務長の上役となると社主かだれかということで、官庁にはワーズワス女史がそこそこ顔が利くので。その、モイヤー工務長も警邏に殴られてまして、黙ってられないと」
確かに私有地の中で保線をしていた業務中のモイヤーが引き渡しに際して理不尽な暴力を邏卒に受けたという事であれば問題だった。
「ボクの名前を出したのか」
「直接社主を出すと大事になることはわかっていたのでワーズワス女史に連絡をとったという感じです」
マスにとっては、ほぼ確実に春風荘にいてデカート市の官庁や商会でならある程度どこにでも顔が利くロゼッタは、十ほども年下ながら極めて重要な相談相手だった。彼女自身は十分に知識も経験も積んでいるとはいえなかったが、無為に物怖じする性格ではなく、彼女自身がゲリエ家の執事としてあちこちの官庁や商会から顔と名前を知られていたから、職務外ではあったがローゼンヘン工業の顔つなぎ役つなぎの仲介をもしばしばおこなっていた。
十八になったロゼッタは今も小娘といえるような年齢だったが、四年もゲリエ家のお使いでデカートの各官庁に出入りしていたおかげで相応の顔役になっていた。
ロゼッタはひどく多忙にしているマジンに変わり、その娘と家人の子供達との保護者役として学志館に送り込まれ、デカートでのゲリエ家の様々な取引の窓口として方々に出向かされていた。
彼女は確かに座学は好みでないというか、興味が向かないことへの理解の遅い面があったが、別に記憶力が悪いわけではなかったから、あちこちで作法院や学志館での座学の成果を自覚していた。
去年彼女は学志館の進級試験でどういうわけか習った覚えのない領域の問題や、なにやら日々のお使いで聞いたことのあるような話題についての問題を山のように出され、彼女に説明がないままに初等部の過程を終了したことを認められ、高等部哲学科に進学することになっていた。セントーラの仕込みでマジンが承認したことだった。
確かにロゼッタはお役所仕事の利用者としての適性があって、なんとなく悪くはないなと思うようになっていたが、それにしても説明がないのはどうかと思う差配だった。
彼女で話が通じない時は、セントーラかマジンかが役所の上役をつれて改めて出直してくることが習慣になっていて、元老であるマジンが役所の現場の上司を連れて視察にくるということは配置を含めた実務体制を視察するという機会にもなっていた。
手足も伸び、可愛い蕾ぶりという年齢から花も恥じらう美女への階段を登り始めたロゼッタは、概ね穏当な性格で筋の通った説明をすればそれに応じた手順を踏んでくれる人物だったが、感度の鈍い爆薬の威力が小さいというわけではないし、売られた喧嘩はともかく買うという方針は変わりがなかった。そして彼女の上役のセントーラが出てくればロゼッタ自身がとりなしをしたくなるほどの徹底的な蹂躙がおこなわれることになる。
ロゼッタは最近しばしば法律問題で相談をしているメラス司法参事を連れてモイヤーの引き渡しの場に訪れ、警邏課長に自分から出頭して協力を求めてきた市民に対して先入観を廃した扱いをするように要求した。
最低限、暴力を振るわないこと、どうしても取り調べの過程で強硬になるというなら法定代理人弁護士を立ち会わせることを求めた。
公正であるべき公務員が市民から仮託された権力を暴力として振るわないことは州の省庁の多くが憲章として掲げていたが、比較的容易に踏み躙られる一文であった。
自主的な綱紀粛正がおこなえないようであれば、元老院で取り扱うべき話題として主家に進言するとぶちあげた。
ロゼッタにしてみれば、子供の喧嘩の仲裁みたいなくだらない面倒事をどうしてみんな私に振るのかというちょっと乱暴に荒んだ気分だったので、その場に居合わせた警邏課長の名前を聞き止めて靴音高くその場を去り、礼を言いながら愚痴をこぼすモイヤーを威勢よく叱り飛ばした。
モイヤーも助けに来てくれたロゼッタをガキ扱いするには体の悪い立場で、口をつぐんで黙ってついて行くしかなかった。
まるで猛獣使いの美女が大きな獣を叱責するような光景に、メラスがクスリと失笑をこぼすとロゼッタは勢いのままジロリと睨みつけ、不案内な建物の案内をお願いしたことへの礼を丁寧に述べた。
司法局の中を場違いな雰囲気の田舎娘然とした女の子が迷子になってオドオドウロウロしていることに声をかけたことがメラスとロゼッタの再会のきっかけだった。
メラスは彼女が捕縛され作法院に引き渡す手続きをしたことは記憶していた。
様々にあって名前が変わっているようだったが、そんなことはよくある些細な事で、彼女が今ゲリエ家の執事として働いていることはメラスには少々嬉しい驚きだった。
大方の犯罪経験者はよほどの忍耐と幸運がないと無法の果てに命を落とすばかりで、裕福な生家で育ち、犯罪者の多くの貧困を知るメラスにとっては、正義の置き所に嘆く悲劇であったから、共和国に多くいる選択肢に余り恵まれない生まれの子供が、どうやら人に隠さないでいい生業に行き着いたらしいことは喜ばしいことだった。
そういうわけでロゼッタはちょっとは真面目に勉強をするかと思い始めていたところで、セントーラから、ああしろこうしろと、面倒そうな大事そうなと云われただけでわかるような命令を受け、振り回されるうちに本当に立派な執事ぶり女振りを身につけ始めていた。
メラスにとっては遠縁の娘のような感覚で、そのうち縁談でも世話してやるべきだろうか、と気安く成長を楽しんでいた。
ともかく、デカートでさえ問題が起こっているのだから、州から出れば話がわかる官警ばかりを期待することはできず、ゲリエ家の威光に頼らない体制が必要であるというマスの話は十分に納得ゆくものだった。
最終的に威光に足るような威力を事業が見せつければいいというのはそれとしていちいち社主当人やら家人やらが出張ってゆくようでは、事業としての格が疑われもする。
ましてワイル周辺が治安が悪いという話があるならなおさらだった。
単純な実力排除は手法としては難しくないが、沿線住民と長期的に揉めることは事業性質上あまり好ましくない。
基本的には石炭と鉄を中心にした様々な鉱物やいくらかの軍需品を生み出しているミョルナから道の苦労を避けて東に抜けられる街道の峠の出口という立地のせいで農作物を自給できる以上の往来があるということがワイルの状況であった。
鉄道ができて人が増えても減ってもワイル市という意味では難しい舵取りを迫られることになる。
トーンは穀倉としては小さくはないが全体に軍都に向けた商いが多く、鉄道ができた後にワイルとトーンが結ばれるとしてどうなるかは全くわからなかった。
ただひとつ間違いないのは比較的穀物に余裕のあるデカートマシオンがミョルナと結びつくことはこれまで距離によって、そしてフラムという余裕が有るわけでもないが小さくもない鉱山地があったせいで結びつきが弱かったミョルナの西側の関係が大きく変わるだろうことを意味していたし、山の険しさのせいで東側との結びつきが強かったミョルナの周辺との関係が変わると当然に立場も変わることになる。
ワイルも今となっては農地が伸び悩んでいるが、かつては周辺の荒野の中では最大規模の湧水で荒れ野の風を避けて休める森として知られていた。
今はいくつかの領主の城壁が塀でかつての森を模した林と水源を囲っているが、外から見てそれを探すことは難しく、他の街の風景と大差はない。
農地が整備され人が増えるにつれて燃料として材料として凄まじい勢いで森がなくなることに怯えた幾つかの家々が森を囲うことをしたのがひとつの流行を産んだのだが、共和国の成立でミョルナから軍都へ向けて石炭の行商が連なった途上にあったことがワイルの発展を支えた。
時代が進み周辺の森に寄せて勃っていた集落が森を刈り尽くすと、その頃は石炭行商の中継地として街道の町としての名が定まったワイルに人々が集まってきた。
命の支えであった森を刈り尽くすほどの人口を土地が支えきれなかったのである。
今ワイルは十万余りの人口があるが、それはデカートのように周辺に農地を控え不定期の労働者を求めるような形ではなく、痩せ続ける土地に追われるようにして家や活計を失った人々が身を寄せる形で膨れ上がっていた。
伝来の土地を失い町になじめず野に伏せる者も少なくなかった。
ワイルの周辺にはいくつも盗賊の町と噂される集落があって、軍が幾度も成敗をしていたが、それでことが落ち着くほどに単純な話題でもなかった。
共和国は師団本部を据えることで周辺に睨みをきかせ不定期的に兵隊として無産階級を吸い上げていたが、ワイルは万という規模の軍隊を支えられるほどに豊か、というわけではなかったので、据えられた師団本部は兵隊に仕立てた無頼を余所に追い出す役にしか立っていなかった。そういう無頼の幾らかは逃げ散り仲間とともに野に伏せ、食い扶持に困ると名を変え街に戻るということを繰り返していた。
ワイルには師団本部が据えられていたが、基本的には徴兵を含む兵站上の権限や指揮官の階級や本部の規模を含む政治的な配慮の問題で、実際には師団本部の他には聯隊規模の兵隊がいて訓練をしているだけだった。
規模が小さいものの定期的な訓練と小規模な実戦が積まれていて聯隊自体の練度は低くなかったが、孤立した町にありがちな先行きが見えず微妙に弛緩した空気の中に心根怪しげな新兵が多く、風紀や政治的な信頼性には常に疑問も持たれていた。
実際に装備や被服の流出が多く、野伏の幾らかはときに軍の輜重をも襲うほどにワイルの辺りの荒野を荒らしていたから、兵站本部では普及が進んできた機関小銃を本当に師団定数与えて良いものかという話題にもなっていた。
とはいえ、師団本部をおいているのはまさにそういう政治的信頼の証でもあったので、実態がどうあれ配備がおこなわれないわけにもいかなかった。
そういう怪しげに荒んだ地域を鉄道が走るとなれば、相応の覚悟と準備が必要だった。
組織としては責任統括者としての警備責任者が必要だったし、現場としては見た目わかりやすく武張った車輌や列車に追従できる護衛の準備が必要だった。
人員も単に腕っ節を振るう者から法律や交渉に敏い者、地場の話に詳しい者までこれまでの工事や実業の実直さ以外のものが求められるようになる。
はっきり言えばこれまでのローゼンヘン工業の人員にはあまり期待できない種類のもので、そういう人材が最低でも数百。鉄道の規模が増えるに連れて工事の人員と変わらない規模で必要になる。
運転手と乗務員に武装させるだけではいずれ足りないだろうということは想像していたもののなかなか手が回らなかったが、デカート州を出るにあたってはそろそろ準備が必要になった。
鉄道経路の選定についてはマジンの楽観の度が過ぎていたことは間違いないが、ここに来て政治的な要因での面倒が雲をさしかけているのは、甚く気に入らない事態だった。
軍都までの経路にあたる各地各所の判断を覆させるなら、そろそろ何らかの方法で丸め込む必要があるところで、そのためにも最低限フラムの山師連中を黙らす勢いでトンネルを作ってしまいましょう、とマスは目つき鋭く笑ってみせた。
マスの思惑としては禁足地を承知で引き受けたカシウス湖を抜けるのにはトンネルを使って一気に抜けてしまうのが良いという判断だった。
太っているせいで目が鋭いのか、今敢えてそうしているのかよくわからない表情のマスは一応は笑っているように見える顔で自信ありげに言った。
「社主のこの報告書を見る限り、事故があれば工員は間違いなく死にます。しかも事故の程度の問題でなく、かなり些細な事故で死ねます。計画担当者としてはカシウス湖を通過するのは、カシウス湖全体の浄化計画が軌道に乗った後にしたいところです」
「カシウス湖の浄化は水を全部汲み上げた後が本番だよ。予定がないわけではないけど、だいぶ少し先の事になる」
太って息が苦しいのか他に何か意味があるのか、マスは鼻から勢い良く息を吐いた。
「正直そっちはわかりません。ただ、口にしちゃダメってだけでなく、濡れちゃダメ触れちゃダメ日差しの湯気も危ないって話では仕事になりません。オマケに返ってきた洗濯物も毒まみれって、一回二回の環境調査ならともかく線路工事ってなれば一ヶ月二ヶ月は山の測量で籠るわけですよね。うちの連中が余所より用心深く仕事するように仕込んでるったって、誰か落ちりゃ助けようとしますよ。そうなりゃまず事故が起きれば五十から死ぬってことになるでしょう」
マスは口にした冗談じみた不幸な未来に笑っていいのか怒っていいのか困ったような顔になった。
「穴掘ればいけるかね」
マジンが確認した言葉に計画主任は肩をすくめた。
「社主がいけそうもないってならやめます。なんてったって今のところ会社は社主のカネとウデで動いているだけですから、あたしらが五千いても社主がダメだってなら全然話になりません」
マスは肩をすくめるように組織の現状を要約して答えた。
「まぁ、カシウス湖の周りだけならロンパル卿にお願いすれば話はまとまるかな。で、それを見せてやれば、ミョルナの連中も多少は納得するかね」
マスの話の本題をマジンは振ってやる。確かにマスの話の流れは危惧のひとつではあるが対策が取れないわけではないし、そんなことはマスも十分承知した上で話しの枕として言ってみせたに過ぎない。カシウス湖の危険の本質が単純な有毒の環境にあるわけでないことはふたりとも承知していた。
「正直なところを言えば、見込みのある連中もいるかと。なんて言っても山師連中は遊びで穴掘ってる訳ではありません。博打打ちではあるわけでしょうが、それなりに真面目にやってるわけです。自分の命を金だかなんだかに変えようって腹なんですから、正直わたしなんかよりよっぽど真剣にやっているはずです」
「それはどうかな」
自分がやっている事業の胡散臭さ流通計画の持つ実業と虚業の灰色の部分を自覚しているマジンはそれに目をつぶる立場のマスに相槌を打ってみせた。
「それに幾つか文字通りの抜け道を見つけました」
マスは本題に入ることを決めたらしい。
マスが見つけた抜け道というのはミョルナの各地に点在する聖地の扱いについてだった。
山岳地域の民族らしく頂きや湖を聖地と定めている彼らはそこへの立ち入りを制限している。孤立峰とか気象上の境界に位置する地形とか物語の由来の土地とか地質上水質上の特殊性があるとか様々なものだった。
しかし土地に立ち入り何かを立てたり作ったりすることは禁止されているが、地下についてはとくに何があるわけでもない。例外がないわけではないが、そう云う土地はまたひどく明確に立ち入りを禁じられている。
聖地とされる地域は天険の狭間にあるミョルナ周辺でも、天下の天険で商いがなせるほどに人を集めるほどの往来もなくそもそもそれほど大きく手を入れるだけの力がなかったということもできるが、ともかく聖地について厳しく制限をされているのは地上で地下についてはそれほど厳しい扱いを受けていない。
実際に幾つかの聖地とされる地域には周辺から坑道が食い込んでいる。それほど大きなものではないものの古いものもいくつかあって、聖地の禁足は主に気象風景に由来しているということだった。
水脈等を打ちぬいてしまうと面倒になることは間違いないので、調査にはそれなりの手間と手当が必要だけれども、そうやって二リーグとか三リーグとか聖地の地下をちょこちょこと十箇所ばかり通らせてもらえば、幾つかの地権が入り組んでいたり面倒臭気な対立中の係争地を回避できるという。
細かな山襞を抜けるという話でなく、峰ひとつ山脈の小さな頂きをまるごと抜けるという話をマスはしていた。
聖地というものが存在した経緯は様々で、主たる目的は宗教的な色合いが強く自然景観の保全という意味合いが強い。一方で頂に目が届く山裾ひとつまるまる聖地にしてしまったせいで、まともな往来ができない地域がいくつも孤立してしまっているという。ひどい場合には複数の聖地に包囲されて商店も医者もないような集落が存在する。そういう村々を縫うようにトンネルを繋いでミョルナ近傍を抜けてゆくという計画素案だった。
マスは控えめな事業であるかのように言ってみせたが、馬車が通れるような径のトンネルが距離数チャージを超える規模で掘られたことはこれまでない。共和国にある幾十もの坑道も主坑こそ太いもののじっさいの採掘坑は人が肩を通せる太さ、せいぜいツルハシシャベルスコップが通る幅高さしかなかった。それ以上の厚みで鉱脈に当たることは稀だったし、大きく坑を開けることは落盤の危険にもつながった。
「アイディアとしては面白いが、仮にも聖地だろう面倒が起こるんじゃないのか」
「地元に共犯になってもらいます」
マジンはマスの話に首を傾げた。
「どういうことだ。駅を作れと云うなら採算がとれるほどの話なのか」
「駅である必要はありません」
「電気か電話か。それくらいは最初から話をしているはずだが」
マスはこれはわかるようにニヤリと笑った。
「共同線にするんです」
マスの話は旧来の街道通過を諦め、鉄道だけの専用トンネルではなく歩行者や馬車が通れるような道を新たに作るということだった。もちろん保線区は鉄道線路に沿った形で準備されているから、殆どの線路では舗装路として車両往来が可能な道路が敷かれ現実として人馬が行き交っている。
「トンネルは鉄道と歩行者は共同じゃないとまずいかね。あと、そうするとして権利はどうする」
原則として私有地であるので法制度上の優先権はローゼンヘン工業、というよりはゲリエマキシマジン個人に存在し、道義上はともかくデカート州内の法制度上であれば鉄道沿線上の人々を不法民として尽くを弑したとして罪には問われない。共和国一般と云えるほどに各州の法制度は足並みが揃ってはいなかったが、大まかなところで私有地における様々は、その土地の権利者に委ねられるところが極めて大きい。
「厳密にはわかりませんが、ミョルナに提案してみる際には地域の生活道路と街道整備の計画としたほうが良いと思います。予備的に鉄道線と電話電灯が通るとしたほうが抵抗が少ないのではないかと」
マスは首を傾げ肩の筋を伸ばすようにしながら言った。
「面白いがいくつか問題がある。ミョルナ自体もかなりの高地だがミョルナの村々といえばさらに名にしおう高山地域だ。地質上非常に複雑な成立をしている可能性がある。トンネル掘削そのものに先立つ見込み調査は可能なのか」
「それは事実上不可能ですが、夏の盛りを狙って人工地震を起こすことで事前の危険調査をおこなうことは可能かと。持ち込める量の爆薬程度で山が動くようでは問題ですが、伏流水脈等の調査はどうあっても必要です。別に聖地の破壊が目的ではないですし、地下神殿の類を掘り当てて神罰やらが降ってくるようなことを望んでいるわけではありません」
笑顔のままのマスの言葉は全く笑いを含んだものではなかった。
電話交換機の心臓部である高速計算機は複雑な波形を単純な波形成分に要素分解し整理直すことが可能で、地質解析の模擬演算に使えることは瘴気湿地の油層水層調査に実際に使われ確かめられていた。
理屈の上では最低四箇所、理想の上では三十箇所ほど、実際としては七八ヶ所ほどの観測点で地下に埋めた爆薬の振動を観測することで爆発点から観測点までの音響性質から経路上の地質構造をおおまかに読み取ることができる。
なにかあるかないかは実際に掘ってみるまで確認することはできないが、おかしな結果があれば何かあるということができるくらいには装置や計算に信頼が置けるようにはなっていた。
「君が言っていることが起きれば責任を取れるようなことではないな。そういう事態になったら真っ先に死んでいいぞ。後のことはボクがやる」
「万が一にも、とは考えていますが、もし万が一で起きれば申し訳ありませんが、そうさせていただくつもりでいます」
分かっている話の念を押すマジンにそう応えたマスの言葉には笑いが含まれていた。
マスが持ってきた展望の可能性にマジンは少し表情をゆるめた。
「とりあえず万が一の話はおいても、機材が全く足りないな」
「人材も不足しています。夏場の測量であっても高山地域一帯の地震調査というちょっとばかり特殊な問題は私自身見当がつきません。人員を回せば最低半年は張り付けることになるので、他には回せませんし」
マスは表情を緩めるマジンを咎めるように表情を締めてみせた。
「まずはカシウス湖か」
「時期と困難を考えれば両方一片にと言いたいところですが、今は近いところからということになります。願った範囲に水源があるかはともかく、あそこであれば仮に貯水層や地下空洞を打ち抜いてしまったとして手持ちの人員機材の問題ですみます」
「湖側には流すなよ」
「峰の外側からおこなうのでおよそ大丈夫でしょう」
言わずもがなのことを云われマスは少し渋い顔をした。
「――位置や規模は慎重に選ぶつもりですが、第二堰堤を再整備することが難しいようなら第四堰堤を築いたほうがいいかもしれません」
「第三堰堤は位置が悪いか」
第一堰堤は水かさにはまだ余裕があったが、構造そのものは既に何かをすること自体が危険な釣り合いで支えられていて、辛うじて漏れず崩れずという状態で、今更手を出すことはできなかった。共和国成立以前に築かれた第一堰堤第二堰堤に比べて、比較的後代数百年前に築かれた第三堰堤は堰堤両端の地質に不安があったし嵩も足りていない。
長い年月で第一堰堤は元の土木に鉱滓が金属として結びついて、目止めめいた働きをして大きな腐れや漏れを防いでいたが、結局は根拠の無い釣り合いに過ぎなかった。
第一堰堤が崩れた場合に備えて第二堰堤が築かれているが、こちらも建設から千数百年余りがすぎていた。思い出したように段階的な補強はなされていたが整備の程度は必ずしも十分とはいえず、第一堰堤から漏れ続ける汚水が増していて整備も補強も難しい状態になり始めていた。このまま第一堰堤が崩れれば押し流されるように第二堰堤も破綻することは、この百年余り地元でも危惧はされていたが、為す術がある話題でもなかった。あらん限りの知恵として第三堰堤が準備されていはいたが、規模も構造強度も到底満足できるものに仕上がったわけでもない。単に途中に坑道や湧水が川沿いにないというだけで、それも今の第一堰堤の水面の高さまでの間には全くなにも無いわけではなかった。
来るべき恐怖が現実になった場合、第三堰堤が何かを救う扶けにならないことは土地を知る者ならば誰しもが肌で理解していた。
ただ、山に暮らす人々の恐怖としてなにもしないということを許すほどに愚かでも賢くもない、人々の努力の記念碑というだけであった。
「浄水計画は実施できませんか」
直接的に答えずにマスは尋ねた。彼は一年目に鉄道工事に参加した学志館高等科修了生のひとりで大雑把ながら、ローゼンヘン館の工房でおこなわれている工作以外の事柄のいくらかを承知している学者研究者の卵だった。列車に積み込める量の汚水なら、どういう種類の汚水であれ魚が棲める程度にまで水を澄ませ、毒となっていたものを材料に変えられる技術があることはわかっていたし、鉱滓の話題を積量できる元素論として捉え、基本的には時間と燃料と設備の規模の問題として概算が想像できるだけの理解もあった。
「今はまだ難しい」
数百億グレノルという水量を処理するにはそれなりの時間と手管の他に相応の投資の覚悟が必要になる。今は、という言葉の意味は結局カシウス湖の危機を招いた言葉でもあったが、人の営みの基本でもあった。
短く答えたマジンにマスは鼻息で相槌を打って、第四堰堤の候補地と見積りを差し出した。
「安くはありませんが、ミョルナの聖域の神罰よりはよほど危険が予想されるので、まずは予めご報告を」
鉄道建設の初期に想定した金額よりも、桁として多くの物資と労力時間が必要だろう、とマスの見積りは示していた。労働人員時間という計算はたった二年の実績では概算としても怪しいものだったが、桁の下読みとして軍都まで鉄道が往って還って概ね五倍程度の数字が書かれていた。鉄道もこの先膨れ上がる可能性が大いにあっても、山の工事も同様に膨れ上がる可能性があり、ともかく難航することを示しているという以上の意味を持ちはしないが、無視すれば最悪フラムのみならずソイル全域がつまりザブバル川水系全域が毒の水に侵されることになることを示してもいる。
少なくとも維持が可能な浄水設備の建設を今すぐに夢想するよりは、遥かに現実的な期日で幾つかの鉱山を危険にさらすだけで済むという計画はマスの才覚を感じさせた。
更に予算を拡大させるオプションとして水面下に沈む領域全体をセメント漆喰砕石アスファルト等で固めることも提案していた。第一堰堤の堆積汚泥を考えれば、それだけでは不安もあったが少なくとも山系にある幾つもの水源を新たに汚染することを考えれば、素振りだけの配慮であっても必要な態度であった。
示された量のアスファルトを用立てするためには、瘴気湿地の油井の産物を十全に回す必要もありそれで足りるかは怪しい様子でもある。発泡コンクリートのパネルを基礎材に使えば砕石よりは多少鉱滓の定着が簡単かとも思ったが、今はまだそういう小手先の手段を探る段階ではなかった。
「鉱山組合と元老院に報告しないといけないな」
素案そのものは今のところ単に寸法と水かさからの必要そうな強度の概算と構造断面に地形上の設定線とを掛けあわせたもので、謂わばポンチ絵を描くための口上という程度の意味合いだったが、この手の計画で予算を小さく取ることは破綻や不満を引き起こすことになることは、二人には容易に想像もついた上での数字でもある。
それに予算を詰めると言っても、せいぜい労働者に囚人を使うとか無産階級を使うとかくらいの意味合いしかないことは間違いない。
かつてはフラムとデカートの紛争のきっかけともなった千年余りの事業の結果で、今更一年二年でどうなるような話ではないことは誰もがわかっていたが、百年保つという話でもなく、元老院では先を読める賢人と称される人たちがしばしば話題にする事業だった。
デカート州の運営は必ずしも税金だけで賄われているとはいえず、怪しげな徴発や元老院での動議の信託金や或いは直接の元老の支出などがそこに上積みされていたが、税金の十年分では足りない金額が資材の相場での実費だけで示された数字を見て、元老院がどういう反応をするのかは一種見ものだった。もちろんその場に居合わせる立場のゲリエ卿として楽しめるかどうかは全くわからない。
千年の失態を数字にしたようなその見積りは、決して日ごろ貧しい生活をしているわけでない元老でさえ目眩を起こす者が出かねない数字だった。
「そのへんはお任せいたします」
軽薄な同情の表情とともにマスは流した。
「さて、そうするとボクが聞いておくべき状況は後はなんだ」
「ワイルが強硬にならない形で、ワイルから先の土地を取得しないとミョルナまでの道を繋いだ挙句に山を下って川を下ってということになりかねません」
「それなら北の荒野に出たほうがいいんじゃないのか」
「どちらでもそれはお好きに決裁いただければ」
厳粛な表情をマスは作ってみせた。
「状況はわかった。しかし、ワイルの件はどう手を打ったらいいのかよくわからないな。急に排他的な感情が盛り上がるような機運があったのか」
マジンにはワイル周辺の印象が薄かった。
強いてあげれば荒れ地の真ん中に大きなオアシスを守るように城塞が寄り集まって建っていて、値は高いが良く躾られた女達のいる花街があるという程度か。
「産業が細い割に往来そのものは大きな土地ですから、潜在的には常に排他的な雰囲気はあるかと」
「例えば宿場で客を追い出すようなことはしないだろう」
「宿の隣に屋敷を建てたら、それはもう客とは言えないのです」
素早くマスが切り返してみせるのにマジンは目を丸くした。
「新規の産業が起こりようがないじゃないか」
ついマスに向かってマジンは驚いた口調で問うてしまった。
「新しい産業ということは旧来の産業の危機じゃないですか」
マスが目を細めるようにして澄まして答えた。
「つまりなんだ。我々が競争相手ではないことを示して、どういう方法かで地元に資金を注入すればいいということか」
「正直、大した特産産業がないので資本の注入という意味ではミョルナより難しいと思います。ミョルナはその、ウチから機材を持ち込めば生産拡大などが期待できますが、ワイルはなんというかそういうことを期待するのはなかなか難しいかと。露天掘りの鉱床も山師たちが散って久しいと一から全部ということになるでしょうし、流石に付き合いきれません」
マスが言葉を探すように言った。
「ウチで買えるような何かがあるのか」
「穀物農産物、後はサトウキビ畑と製糖所があるので菓子類くらいでしょうか。安いわけではありませんが、水が豊かというわけでもないので土地としては暴利を貪っているという印象はないでしょう。旅の中継点としては御存知の通り水や食料を確実に手に入れられる周辺唯一の土地ですが、長居するには少々剣呑な土地でもあります。以前は露天掘りの鉄鉱床もあったようですが、人を募って一からということではなかなか」
ワイルの印象を思い出そうとするのだが、ひどく物価の高い街という印象が先に立った。
大きく豊かに拓けたヴィンゼという雰囲気だったろうか。
旅程ではほとんど常に機関車であのへんの砂がちな荒れ地を突っ切っているので、盗賊らしい者達には遭っていないが、奇妙な装いの連中が手になにやら得物を持って群れをなして駆けているのを見たことはある。
「旅籠や酒場の旅商売で稼いでいるなら鉄道が継って地元に悪いことも少ないだろう」
とは言ったものの、マジン自身言葉を少し疑ってみた。
「悪いことは少ないでしょうが、良いことも少ないはずです。最悪良いことが少なすぎると人が出てゆくことになります。特産品は兵隊と奴隷と盗賊という土地ですから」
ワイルの治安の悪さを強調するようなマスの言葉にマジンは口を歪めため息を着いた。
「そういう話が出るってことは、またこれまでと違う人材が必要ってことかね」
「そろそろ退役軍人を雇ったほうがいいでしょう。できれば現場の数字に強い人が心強いです。あたしらと話が通じそうなところは物の数字だけなんで、まずは。腕っ節だけなら工事の現場の連中で十分でしょうが、将校さんにはそれなりの言葉があるはずです」
「連絡室は退役軍人の再就職とかそういうのを斡旋しているのかな」
「どうなんでしょう。そういうのは社主の奥様がたに尋ねられるのがよろしいかと。……ああ、最初のしばらくはセラム様に計画の線を引いてもらうのもいいと思います」
ゲリエ家の構成についても一通り詳しいマスが思いださせるように言った。
「彼女らは退役したってわけじゃないからな。余り会社の中のことは見せたくない。ひとまずここと新港の支社でそれぞれのことはできているだろう」
「そうしたら、やはりまともに相談ができる、なんというか参謀格の人物に経路の警護計画を建ててもらわないと責任が取りにくいですね」
「それはキミの責任ということかね」
マジンの嫌味を含んだ言葉にマスは薄笑いを浮かべた。
「まぁ、私の責任は社主に死ぬまで殴られ死刑、って決めているのでそこは良いと思うのですが、むしろ現場です。どういう裁量でどの程度なにをするかを誰が仕切るかと話で、今の状態ですと飯場の喧嘩に機関小銃を持ち込んで皆殺しにする、的なことになりかねませんし、私有地内ですので警備上の都合と強弁することもできてしまいます」
「そうするための私有地だからね」
「どういう結果で過定であっても私有地で事件が起きれば、被告でも証人でも原告でも、加害者でも被害者でも社主がいちいち事件の裁判に呼ばれることになります。直接関わっていなければ、粗方弁護士に任せて最後に裁判長の前で署名をするだけで済みますが、そんな署名をするくらいなら、うちの仕事の決裁なり視察なりしてください」
「つまり面倒が起きることが分かっているなら手を打てと。現場の警備の責任をボクの手前で総括できる人間が必要だと」
マジンの言葉にマスは頷いた。
「私も工事の責任はもちろん取りますが、運行事故やらその他の敷地内の事件にまでかかずらう時間はありません。社主が私から工事の責任を取り上げるってならまた別ですが」
マスの少し強い自己主張にマジンは地図に目をそらした。
「キミの計画ではいつまでに警備の主任が必要だ」
「私達の計画では州を跨ぐ前に何らかの手当が必要だとされていますが、マシオンに着くまでになんとかしていただければ、ワーズワス女史と弁護士の先生に時間稼ぎの手を教えてもらうことで対処できると思います」
マスの言葉の意味するところは密かに重大で面倒事のいくらかを社主ゲリエの名で潰しているということだった。
「ボクが知っておくべきことは本当に起っていないのだろうね」
ロゼッタの名前が出たことでマジンは改めて確認した。
「まぁ計画についてはとくにありません。ええと、ワーズワス女史には幾度かお世話になっておりますが、特には」
思いついたようなふりをしてマスが言った。
「どういったことで」
自分の責任ではない、という子供っぽい言い逃れじみたマスの前振りを無視して尋ねてみる。
「線路を歩いていた酔っぱらいと乱闘になりましたモイヤー工務長を引き取っていただきました。当然私有地内ですのでその件は司法の問題にはなりませんでしたが、相手が軽い出血をしていたので、デカートの警邏に引き渡したところで別件の一揉めがあったようです」
「勤務中じゃなかったのか」
マジンはつい鼻で笑ってしまった。
「そうなのですが、モイヤー工務長の上役となると社主かだれかということで、官庁にはワーズワス女史がそこそこ顔が利くので。その、モイヤー工務長も警邏に殴られてまして、黙ってられないと」
確かに私有地の中で保線をしていた業務中のモイヤーが引き渡しに際して理不尽な暴力を邏卒に受けたという事であれば問題だった。
「ボクの名前を出したのか」
「直接社主を出すと大事になることはわかっていたのでワーズワス女史に連絡をとったという感じです」
マスにとっては、ほぼ確実に春風荘にいてデカート市の官庁や商会でならある程度どこにでも顔が利くロゼッタは、十ほども年下ながら極めて重要な相談相手だった。彼女自身は十分に知識も経験も積んでいるとはいえなかったが、無為に物怖じする性格ではなく、彼女自身がゲリエ家の執事としてあちこちの官庁や商会から顔と名前を知られていたから、職務外ではあったがローゼンヘン工業の顔つなぎ役つなぎの仲介をもしばしばおこなっていた。
十八になったロゼッタは今も小娘といえるような年齢だったが、四年もゲリエ家のお使いでデカートの各官庁に出入りしていたおかげで相応の顔役になっていた。
ロゼッタはひどく多忙にしているマジンに変わり、その娘と家人の子供達との保護者役として学志館に送り込まれ、デカートでのゲリエ家の様々な取引の窓口として方々に出向かされていた。
彼女は確かに座学は好みでないというか、興味が向かないことへの理解の遅い面があったが、別に記憶力が悪いわけではなかったから、あちこちで作法院や学志館での座学の成果を自覚していた。
去年彼女は学志館の進級試験でどういうわけか習った覚えのない領域の問題や、なにやら日々のお使いで聞いたことのあるような話題についての問題を山のように出され、彼女に説明がないままに初等部の過程を終了したことを認められ、高等部哲学科に進学することになっていた。セントーラの仕込みでマジンが承認したことだった。
確かにロゼッタはお役所仕事の利用者としての適性があって、なんとなく悪くはないなと思うようになっていたが、それにしても説明がないのはどうかと思う差配だった。
彼女で話が通じない時は、セントーラかマジンかが役所の上役をつれて改めて出直してくることが習慣になっていて、元老であるマジンが役所の現場の上司を連れて視察にくるということは配置を含めた実務体制を視察するという機会にもなっていた。
手足も伸び、可愛い蕾ぶりという年齢から花も恥じらう美女への階段を登り始めたロゼッタは、概ね穏当な性格で筋の通った説明をすればそれに応じた手順を踏んでくれる人物だったが、感度の鈍い爆薬の威力が小さいというわけではないし、売られた喧嘩はともかく買うという方針は変わりがなかった。そして彼女の上役のセントーラが出てくればロゼッタ自身がとりなしをしたくなるほどの徹底的な蹂躙がおこなわれることになる。
ロゼッタは最近しばしば法律問題で相談をしているメラス司法参事を連れてモイヤーの引き渡しの場に訪れ、警邏課長に自分から出頭して協力を求めてきた市民に対して先入観を廃した扱いをするように要求した。
最低限、暴力を振るわないこと、どうしても取り調べの過程で強硬になるというなら法定代理人弁護士を立ち会わせることを求めた。
公正であるべき公務員が市民から仮託された権力を暴力として振るわないことは州の省庁の多くが憲章として掲げていたが、比較的容易に踏み躙られる一文であった。
自主的な綱紀粛正がおこなえないようであれば、元老院で取り扱うべき話題として主家に進言するとぶちあげた。
ロゼッタにしてみれば、子供の喧嘩の仲裁みたいなくだらない面倒事をどうしてみんな私に振るのかというちょっと乱暴に荒んだ気分だったので、その場に居合わせた警邏課長の名前を聞き止めて靴音高くその場を去り、礼を言いながら愚痴をこぼすモイヤーを威勢よく叱り飛ばした。
モイヤーも助けに来てくれたロゼッタをガキ扱いするには体の悪い立場で、口をつぐんで黙ってついて行くしかなかった。
まるで猛獣使いの美女が大きな獣を叱責するような光景に、メラスがクスリと失笑をこぼすとロゼッタは勢いのままジロリと睨みつけ、不案内な建物の案内をお願いしたことへの礼を丁寧に述べた。
司法局の中を場違いな雰囲気の田舎娘然とした女の子が迷子になってオドオドウロウロしていることに声をかけたことがメラスとロゼッタの再会のきっかけだった。
メラスは彼女が捕縛され作法院に引き渡す手続きをしたことは記憶していた。
様々にあって名前が変わっているようだったが、そんなことはよくある些細な事で、彼女が今ゲリエ家の執事として働いていることはメラスには少々嬉しい驚きだった。
大方の犯罪経験者はよほどの忍耐と幸運がないと無法の果てに命を落とすばかりで、裕福な生家で育ち、犯罪者の多くの貧困を知るメラスにとっては、正義の置き所に嘆く悲劇であったから、共和国に多くいる選択肢に余り恵まれない生まれの子供が、どうやら人に隠さないでいい生業に行き着いたらしいことは喜ばしいことだった。
そういうわけでロゼッタはちょっとは真面目に勉強をするかと思い始めていたところで、セントーラから、ああしろこうしろと、面倒そうな大事そうなと云われただけでわかるような命令を受け、振り回されるうちに本当に立派な執事ぶり女振りを身につけ始めていた。
メラスにとっては遠縁の娘のような感覚で、そのうち縁談でも世話してやるべきだろうか、と気安く成長を楽しんでいた。
ともかく、デカートでさえ問題が起こっているのだから、州から出れば話がわかる官警ばかりを期待することはできず、ゲリエ家の威光に頼らない体制が必要であるというマスの話は十分に納得ゆくものだった。
最終的に威光に足るような威力を事業が見せつければいいというのはそれとしていちいち社主当人やら家人やらが出張ってゆくようでは、事業としての格が疑われもする。
ましてワイル周辺が治安が悪いという話があるならなおさらだった。
単純な実力排除は手法としては難しくないが、沿線住民と長期的に揉めることは事業性質上あまり好ましくない。
基本的には石炭と鉄を中心にした様々な鉱物やいくらかの軍需品を生み出しているミョルナから道の苦労を避けて東に抜けられる街道の峠の出口という立地のせいで農作物を自給できる以上の往来があるということがワイルの状況であった。
鉄道ができて人が増えても減ってもワイル市という意味では難しい舵取りを迫られることになる。
トーンは穀倉としては小さくはないが全体に軍都に向けた商いが多く、鉄道ができた後にワイルとトーンが結ばれるとしてどうなるかは全くわからなかった。
ただひとつ間違いないのは比較的穀物に余裕のあるデカートマシオンがミョルナと結びつくことはこれまで距離によって、そしてフラムという余裕が有るわけでもないが小さくもない鉱山地があったせいで結びつきが弱かったミョルナの西側の関係が大きく変わるだろうことを意味していたし、山の険しさのせいで東側との結びつきが強かったミョルナの周辺との関係が変わると当然に立場も変わることになる。
ワイルも今となっては農地が伸び悩んでいるが、かつては周辺の荒野の中では最大規模の湧水で荒れ野の風を避けて休める森として知られていた。
今はいくつかの領主の城壁が塀でかつての森を模した林と水源を囲っているが、外から見てそれを探すことは難しく、他の街の風景と大差はない。
農地が整備され人が増えるにつれて燃料として材料として凄まじい勢いで森がなくなることに怯えた幾つかの家々が森を囲うことをしたのがひとつの流行を産んだのだが、共和国の成立でミョルナから軍都へ向けて石炭の行商が連なった途上にあったことがワイルの発展を支えた。
時代が進み周辺の森に寄せて勃っていた集落が森を刈り尽くすと、その頃は石炭行商の中継地として街道の町としての名が定まったワイルに人々が集まってきた。
命の支えであった森を刈り尽くすほどの人口を土地が支えきれなかったのである。
今ワイルは十万余りの人口があるが、それはデカートのように周辺に農地を控え不定期の労働者を求めるような形ではなく、痩せ続ける土地に追われるようにして家や活計を失った人々が身を寄せる形で膨れ上がっていた。
伝来の土地を失い町になじめず野に伏せる者も少なくなかった。
ワイルの周辺にはいくつも盗賊の町と噂される集落があって、軍が幾度も成敗をしていたが、それでことが落ち着くほどに単純な話題でもなかった。
共和国は師団本部を据えることで周辺に睨みをきかせ不定期的に兵隊として無産階級を吸い上げていたが、ワイルは万という規模の軍隊を支えられるほどに豊か、というわけではなかったので、据えられた師団本部は兵隊に仕立てた無頼を余所に追い出す役にしか立っていなかった。そういう無頼の幾らかは逃げ散り仲間とともに野に伏せ、食い扶持に困ると名を変え街に戻るということを繰り返していた。
ワイルには師団本部が据えられていたが、基本的には徴兵を含む兵站上の権限や指揮官の階級や本部の規模を含む政治的な配慮の問題で、実際には師団本部の他には聯隊規模の兵隊がいて訓練をしているだけだった。
規模が小さいものの定期的な訓練と小規模な実戦が積まれていて聯隊自体の練度は低くなかったが、孤立した町にありがちな先行きが見えず微妙に弛緩した空気の中に心根怪しげな新兵が多く、風紀や政治的な信頼性には常に疑問も持たれていた。
実際に装備や被服の流出が多く、野伏の幾らかはときに軍の輜重をも襲うほどにワイルの辺りの荒野を荒らしていたから、兵站本部では普及が進んできた機関小銃を本当に師団定数与えて良いものかという話題にもなっていた。
とはいえ、師団本部をおいているのはまさにそういう政治的信頼の証でもあったので、実態がどうあれ配備がおこなわれないわけにもいかなかった。
そういう怪しげに荒んだ地域を鉄道が走るとなれば、相応の覚悟と準備が必要だった。
組織としては責任統括者としての警備責任者が必要だったし、現場としては見た目わかりやすく武張った車輌や列車に追従できる護衛の準備が必要だった。
人員も単に腕っ節を振るう者から法律や交渉に敏い者、地場の話に詳しい者までこれまでの工事や実業の実直さ以外のものが求められるようになる。
はっきり言えばこれまでのローゼンヘン工業の人員にはあまり期待できない種類のもので、そういう人材が最低でも数百。鉄道の規模が増えるに連れて工事の人員と変わらない規模で必要になる。
運転手と乗務員に武装させるだけではいずれ足りないだろうということは想像していたもののなかなか手が回らなかったが、デカート州を出るにあたってはそろそろ準備が必要になった。
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