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土曜日~魔女の水晶玉~
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あの初公判で水本弁護士が公判の一時停止を申し入れて、次回の公判を一週間後とする旨の裁定が裁判長によって下った。
物証は概ね出揃っていると確信して起訴内容に関して、万全の自信を持っていた検事はひどく心外な顔をして水本弁護士に顔を向け、休廷を申し入れ水本弁護士に食ってかかったが、そもそも今回の事態は法廷でのヤリトリに慣れていない純一に、丸投げの形で証言を要求した検事の判断ミスが思わぬ足を救われる自体を招いたという、水本弁護士の反撃に検事も自らの判断ミスを認めた。簡単にいえばこんな感じだが実際にはもう少し激烈な言葉が水本弁護士の口からは出ていた。
「だが、公判の停止を申し入れると不利を認めることになるぞ」
そういう負け惜しみじみた検事の言葉を水本弁護士は鼻を鳴らして、それこそがアンタの過失責任だ、と言い放った。
被告人弁護士は一週間というのは異例の短さと多少の不信を漏らしたが、水本弁護士のコチラが確認したいのは、畑中純一の個人事情に他ならず本人からの協力は容易に得られるものと信じており物証と違ってその場合は迅速に得られるはずだ、という説明に裁判長は納得した。
「いずれにせよ、ソチラには現場でけが人はなくコチラでは少なくとも畑中氏はナイフによって刺傷を受けている。そちらの言い分については不愉快とは思うが、利益関係が金銭のみでないのは強姦事件においては明確であることは認める。物証状況の全て状況のすべてはコチラが圧倒的に有利だが、畑中氏に瑕瑾アリという疑いを持たれたままでは全く不愉快で、さらには空言で公判を混乱させるというソチラの行動は名誉毀損も視野に入れて、こののちの損害賠償請求での論点として組み入れる要があると判断して、この場においては一旦中断、確認をさせていただきたいと思う」
そんな風に水本弁護士は休廷の後に公判の場で宣言し、圧倒的な自信を見せた。
「――済まなかったね。慣れない法廷で長時間証言させるなんて、仕事でなければ私も避けたいくらいだ」
巧妙にマスコミをかわした水本弁護士はタクシーを拾うとその車中でそんな風に切り出した。
「こちらこそスミマセン。変な風に足を引っ張ったようで」
水本弁護士の言葉はつまるところ、彼は好きでやっているから弁護士を続けているという風にも聞こえたが、純一は素直に頷いた。
「……この手の犯罪被害者の扱いはなかなか複雑でね。常識的な倫理ではなかなか公判までさえ保たせられないんだ。幸い君たちは学生という身分であることで、比較的日本の倫理からは緩やかな位置にいることができる。君のような若い男には少々辛いと思うが、話を聞く限り悪くない人選だったと思っている」
純一は何を水本弁護士がナニを言っているかよく分からなかったので、そのテラテラの禿頭から揃えた髭をながめ顎までおりて目に戻るまでマジマジとその顔を観察してしまった。
「――決して強要や誘導をした覚えはない。だが、事態の進行を放置してとくに警告もしなかった。彼女らの引越し先の候補を直接紹介したのも、保証人の話をふったのも私だしね。まぁどうなっているかは知らないし私の立場では知りたくもないが、想像出来ることは多い。どこかでハメを外すこと、外していると認識することはつらい思いを忘れさせるには重要な行為だ。結果として一度ならず君の命を救う結果になったことも意図しない余禄としても悪いこととは思えない。どうしろこうしろと言う立場にないのは分かった上で、畑中くん、君はよくやっていると思う。今日の出来事はプロの側の油断による失敗だ。全く済まなかった。申し訳なく思っています」
水本弁護士はそう言って、まっすぐ純一に頭を下げた。
そんな風に初めての公判の日は、純一にとって勝利とは程遠い感慨を持って暮れていった。
まっすぐ家に帰っても、ナニかどうにもという気分だったので、純一は阿吽魔法探偵事務所を尋ねた。
「なるほど。あの後そんなことが。――でもまぁ気にすることでもないですよ。水本先生の言うとおり、物証も状況も有利ですからね。単なる嫌がらせの域は出ません」
純一の口から法廷の様子を聞いた夜月はそんな風にいつものように気楽そうに言った。
普段ならば心強い夜月の言葉も今の純一には他人事のように語られている風で不安を煽る。そんな純一の反応に夜月は苦笑した。
倫理的な動揺があっても、事実としての犯罪の痕跡は消えず、裁判の問題としては意味に揺らぎはない。
ひとたび法廷を離れ、ぼんやりとしているうちに落ち着いてきた。だが、そのことを持っても自分が犯罪の追及の障害になったのではないか。そんな風な危惧は拭えなかった。
「――畑中さんは妻帯しているわけでもないので、あまり問題と緊張する必要はないんですけどね。本当は」
夜月はそんな純一の生真面目さを慰撫するように言った。
純一の論理的な思考は、巧妙な被告人弁護士の印象誘導がおこなわれたに過ぎないという理解を示していたが、その対象に選ばれたのは純一本人で、ソレは以降の傷害・誘拐・殺人未遂事件の裁判を睨んでのモノであるという、すこしばかり長期的な影響を狙ってのことと理解していたので、対策の困難を思うとやはり気が晴れなかった。
「あー、ひょっとして先のご自身の裁判のことを想像して気に病んでらっしゃいます?うん。まぁあ、気分は分かりますがね。手札がなくなったから、相手が早々に切り札切っただけだと思いますよ。私ならもう少し後で切りますね。例えば、畑中さんの誘拐の裁判のときとかに」
「どういう事です」
夜月の話題が単なる慰撫から雰囲気を改めたことで、純一の興味が変わった。
「どう、という聞き方をされると困ります。が、単なる疑問と想像の話です。ふむ、じゃぁ同じ意味なんですが、目線を変えてみましょう。なぜ、彼らは骨折している期間に畑中さんを誘拐しなかったのか、という疑問です」
「――単にひとりになるタイミングを狙ったからでは」
純一は夜月の問い掛けの意味は分かったが、想像がめぐらない自分に気がついた。
「彼らは江田氏が畑中さんを強襲したあとに三週間見過ごした。なぜでしょう」
「――俺が入院してその後、引っ越したから居場所がわからなくて……ではないでしょうか」
「分からない?――私は知ろうとしていなかったのだと思います。つまり、当初は市川氏はあまり積極的に畑中さんに関わるつもりがなかったのだろうと想像します。たぶん、年が明けるくらいまでは」
「そしたらなぜ……」
純一は自分がなぜ襲われたのか理由については市川の口から聞いていたが、なぜあのタイミングだったのかについては考えが及ばなかった。そもそも自分の不利になるのに、自らの手でなぜ純一を害そうと考えるに至ったのか。
「どこかで唆されたのでしょうね。それこそ畑中さんが利益を得るために暗躍し、あるいは彼が主張するように兄上とご両親を害したというように」
「誰が、なぜ?」
「さてソコまでは。ただ、まぁ私は多少不自然と思っていますよ。たとえ交通事故の問題があったとしてもなかったとしても」
夜月は純一がこれまで全く想像もしていなかったような内容を口にした。
「――あるいは別件での偶然が重なったのかもしれませんが、思いついて殺す、という方法にしては拉致・誘拐・監禁というのは少々計画性が必要です、過去において現場として利用した実績があるにしても。という犯罪の性質を考えてみても、もう少し襲いやすいシチュエーションはあったはずと私は思うのですよ。学校の駐輪場がいかに人目につきにくいと言ってもね。つまり彼らはどういう方法かで畑中さんのバイクを特定できるほどの情報を得ていたのでしょう」
「それは……ネット上の協力者」
夜月はニヤリとした。
「すると、そのあたりになんらかのログが残るはずですね。データそのものは残らなくても通信記録はあるんで、あちこちにキャッシュはされているでしょうね」
「でも、警察もそこはチェックしているのでは」
純一は夜月の思考に追いついてきたことは理解したがしかし、幾分の理解の満足はできていないことを実感して補足を求める。
「警察も事後処理では間に合わないでしょうね」
夜月はあっさりと言った。
「――ただその手の物をアーカイブしたがるコレクターはいます。総じてそういったコレクターはコレクター同士のネットワークを通じてニヤニヤとするものだとは思いませんか」
純一には具体的に閃くものはないが、気分的には分かった。
「斎さんにはにはそういった知り合いがいるんですか」
純一の問いに夜月はニヤリと笑った。
「向かいのご主人に聞いてみましょう。彼のコレクションはなかなかのものですよ。個人的に私もその手のネタはニヤニヤするものだと思うので、おおっぴらな協力が得られるかどうか今ひとつ分からないのですが、畑中さんがくだらなく虐められるのは私の気に入りません」
虐められ~という夜月の言葉にすこしばかりピクリとつつかれた純一はつい反応を示した。
「――気に入りませんか。まぁそういう気概は大事ですが、そういうつもりなら猶更ですね」
「気に入らないということはないんですが、どういう風に頼むつもりなんですか」
純一は夜月に訊いてみた。
「その筋では知らぬ人のいない、伝説の魔法使いのひとりですからね。引退したっていう話も聞いてはいますが、まぁ弟子のひとりも教えてくれと……いや、冗談というつもりもありません。彼はアレで顔を見せない世界では、かなり顔の広い人物ですからね。フォーラムのサバトのログがほしい。とか、最近、車載レールガンを実際に使った話に関わった連中を教えて欲しい。とか言うとたぶんあっさりと訊いてみてくれると思います」
「――未了の事件なのでしばらく黙っていてくれるような人物の協力が欲しいと思いまして」
開店準備中のギルガメッシュタバーンに純一を連れて訪れた夜月が、事件の背景の大雑把な話の流れを酒場のマスターに説明して言った。
「へぇ。大変な事になってますねぇ。こう言っては失礼ですが、リアルってのは面白いなぁ。流石にボクはもうなんというか面倒事に自分からってのは飽きてきたところですが、そこまでの冒険活劇ってのが現実にあるとは思いませんでした。そういうのは斎さんみたいな探偵さんの仕事のような気もしますが、こっちの……畑中さんがねぇ。……そこまで来ると外馬っていうかファンダムがあるかもしれませんね。個人名を挙げているかどうかは分かりませんが、訊いてみましょう」
マスターは、県の名前、サバト、連続集団強姦事件、リニアガン、と【リアル活劇募集】、というタイトルでどこかのチャットルームに書き込みをした。
「斎さん、とりあえず動いてみたんで少し気長に待っていてください。畑中さん、良ければ奥へどうぞ。店の注文もしてくれると助かります」
「あ、そういえば、秘密捜査官ジュン、とかそんな名前でネットに上がっていたと知り合いが……」
「ほう、それはナカナカ良いキーワードだ」
純一の言葉にマスターがキーワードを追加する。
客がまだ来ないバーで、マスターは仕込みの片手間にたまに入る手がかりを精査している。
「なかなかいいのが引っかからないなぁ。畑中さんの中学高校とかそんなのが出てきてもしょうがないんだが。……お、大物だ」
手持ちぶたさでぼんやりしていた純一が幾つかグラスを干した頃、マスターがそんなことを言った。
BWV九八八。純一には分からないがそのハンドルネームにはマスターが唸るだけの価値があるらしい。
示されたアドレスではパランパランと軽くバラけつつ、しかし早く流麗に流れるチェンバロのアリアが響く。
――こんにちは、お久しぶりです。ギルガメッシュ。
音楽以外は愛想のない画面に文字が出た。
《呼びかけに応じてくれてありがとう。サバトフォーラムのログを含めて秘密捜査官ジュンの情報をお持ちなら分けて欲しい》
――持っています。オフで良ければお分けしましょう。お一人でおいでください。
マスターの申し出に意外とモニターの向こうの人物は鷹揚に応じた。少しマスターは首を捻った。
「俺が行っていいなら出向きます。場所はどこですか」
《お願いしたい。いつどちらで?》
画面は日にち時間と住所を示してきたが、目印のような情報はなかった。
しばらく待っていると音楽が終わり、ブラウザが四〇四ノットファウンドのメッセージを示した。
そんなことがあって、土曜の夕刻、約束の時間のだいぶ前に純一は市販されている一番大きな容量のハードディスクドライブを持ってバッティングセンターに来ていた。
法廷で受けたヘコミ具合の純一を見事に膨らますくらいの役には立っていて、既に水本弁護士から法廷での概要を聞いていた四人が心配していたのをほろ酔い気分で軽く受け流すくらいにはなっていた。
あまりに自然なので、四人の方が心配になるくらいに純一は自然に振舞っていた。
純一は昼食を皆と摂るとバッティングセンターに向かった。もちろん身体を動かしている方が気分が楽だったからだ。
手の中でバットが軋むのは、完全に安全な暴力を感じさせて純一はかなり気に入っていた。
過日のようにホームランパネルを無理に狙わなければ、ほとんど完璧にバットはボールを捉え、実に気持ちよい打撃音と共に衝撃を手元に伝えていた。純一は自分の勘違いを認識して、ただただバットを振り時間を潰していた。日が傾くまでにはホームランパネルを何度か打球が叩いていたが、鳴ってみれば苦笑してしまうほどの感覚だった。
プロ用、と銘打たれた球速と球種がランダムに出てくるケージに入って、純一はさらにバットを振っていた。
最初に準備したコインが無くなるまで、結局ホームランパネルを叩くことはなかったが、最初は泳がされ続けていた軟球にも次第に目と体が慣れてきて、楽しいと思える程度に良い当たりが出てきたところで、コインが無くなったことで純一はかなり満足していた。
あまりに調子が良かったので、危うく待ち合わせの時間を過ぎてもケージに篭ってしまいそうな勢いと気分だったが、さすがにそこは自重してコインへの両替は諦めてベンチの扇風機で風を浴びて待った。汗で重く湿気っていた縮緬のバスタオルが風に乾き始めた頃、金城基女史が現れた。
「やぁ、こんにちは。まだこんばんはって時間じゃないよね。待たせたかな」
そんな風に金城がベンチに腰を下ろしていた純一に声をかけた。
「あ、こんにちは、金城さん。いや、え?なんか約束してましたっけ?」
そう返事した純一を金城は少し怪訝に眺めた。
「うん?君じゃなかったのか?私に用があったのは」
「え?なんのことです」
純一は素で返してしまった。
「いや、てっきり君が法廷でオッチョコチョイの検事に振り回されたから、慌てて無罪の証拠を探しているもんだ、と思ったんだが違ったのか。仕方ない。身体動かして帰ることにするか」
「え?」
少し不機嫌そうな素振りの金城に、純一はようやく不思議な偶然に思い至った。
「金城さんが待ち合わせの相手だったんですか」
「うん?……どの待ち合わせだ?」
ケージに向かおうとする金城が少しいじわるな顔になって純一に訊いた。
「あーええと、金城さんがBWV九八八さんですか?ここを指定した待ち合わせの相手の」
「君が伝説のギルガメッシュとは思えないな。秘密捜査官ジュンくん」
慌てた純一を金城が笑いが吹き出すのを堪えるようになぶる。
「――だが、まぁあの伝説的な人物に頼みごとができるレベルのリアルの知り合いってのは、なるほど秘密捜査官らしい人脈ね。ますます気に入ったわ」
純一の困った顔を見たことで満足したのか金城が笑う。
「あ、ありがとうございます。ハードディスクドライブを持ってきました」
意味や価値は分からないが、なんとなくスゴいことなんだという印象は純一にもあった。
「うん。ああ、私は君のファンだからね。この前貰ったこの靴のお礼ってことでもいいよ」
「いや、でも俺はこんな大きなドライブいらないんで」
「ふうん?最近はいろいろ家電とかでも使えるんだけど、まぁそういうなら交換に貰っておこう。――コレがサバトの立ち上げの辺りからのフォーラムのログとサバトフォーラムのログ、あとは秘密捜査官ジュンの記事マトメなんかが入ったハードディスクドライブ。非合法な方法は使ってないけど、出処は警察関係には言わないでおいて。砂場が荒らされるのは嬉しくないから」
セカンドバッグから金城が静電気防止袋に入ったハードディスクドライブを取り出し示す。
「ありがとうございます。金城さん」
「どういたしまして。結構分量多いから早めに弁護士さんに見せた方がいいわよ。ソレ使うつもりなら」
金城はそんな風に指摘した。
「そうします。ありがとうございます」
「じゃぁ、ココまで来たし、私は少し身体動かして帰ることにするから。……裁判がんばってね。」
純一が水本弁護士の事務所に持ち込んだソレは事件のほぼすべての構造を明らかにすると同時に、純一に対する幾つかの企てがある種のエンターテイメントのように示されていた。
物証は概ね出揃っていると確信して起訴内容に関して、万全の自信を持っていた検事はひどく心外な顔をして水本弁護士に顔を向け、休廷を申し入れ水本弁護士に食ってかかったが、そもそも今回の事態は法廷でのヤリトリに慣れていない純一に、丸投げの形で証言を要求した検事の判断ミスが思わぬ足を救われる自体を招いたという、水本弁護士の反撃に検事も自らの判断ミスを認めた。簡単にいえばこんな感じだが実際にはもう少し激烈な言葉が水本弁護士の口からは出ていた。
「だが、公判の停止を申し入れると不利を認めることになるぞ」
そういう負け惜しみじみた検事の言葉を水本弁護士は鼻を鳴らして、それこそがアンタの過失責任だ、と言い放った。
被告人弁護士は一週間というのは異例の短さと多少の不信を漏らしたが、水本弁護士のコチラが確認したいのは、畑中純一の個人事情に他ならず本人からの協力は容易に得られるものと信じており物証と違ってその場合は迅速に得られるはずだ、という説明に裁判長は納得した。
「いずれにせよ、ソチラには現場でけが人はなくコチラでは少なくとも畑中氏はナイフによって刺傷を受けている。そちらの言い分については不愉快とは思うが、利益関係が金銭のみでないのは強姦事件においては明確であることは認める。物証状況の全て状況のすべてはコチラが圧倒的に有利だが、畑中氏に瑕瑾アリという疑いを持たれたままでは全く不愉快で、さらには空言で公判を混乱させるというソチラの行動は名誉毀損も視野に入れて、こののちの損害賠償請求での論点として組み入れる要があると判断して、この場においては一旦中断、確認をさせていただきたいと思う」
そんな風に水本弁護士は休廷の後に公判の場で宣言し、圧倒的な自信を見せた。
「――済まなかったね。慣れない法廷で長時間証言させるなんて、仕事でなければ私も避けたいくらいだ」
巧妙にマスコミをかわした水本弁護士はタクシーを拾うとその車中でそんな風に切り出した。
「こちらこそスミマセン。変な風に足を引っ張ったようで」
水本弁護士の言葉はつまるところ、彼は好きでやっているから弁護士を続けているという風にも聞こえたが、純一は素直に頷いた。
「……この手の犯罪被害者の扱いはなかなか複雑でね。常識的な倫理ではなかなか公判までさえ保たせられないんだ。幸い君たちは学生という身分であることで、比較的日本の倫理からは緩やかな位置にいることができる。君のような若い男には少々辛いと思うが、話を聞く限り悪くない人選だったと思っている」
純一は何を水本弁護士がナニを言っているかよく分からなかったので、そのテラテラの禿頭から揃えた髭をながめ顎までおりて目に戻るまでマジマジとその顔を観察してしまった。
「――決して強要や誘導をした覚えはない。だが、事態の進行を放置してとくに警告もしなかった。彼女らの引越し先の候補を直接紹介したのも、保証人の話をふったのも私だしね。まぁどうなっているかは知らないし私の立場では知りたくもないが、想像出来ることは多い。どこかでハメを外すこと、外していると認識することはつらい思いを忘れさせるには重要な行為だ。結果として一度ならず君の命を救う結果になったことも意図しない余禄としても悪いこととは思えない。どうしろこうしろと言う立場にないのは分かった上で、畑中くん、君はよくやっていると思う。今日の出来事はプロの側の油断による失敗だ。全く済まなかった。申し訳なく思っています」
水本弁護士はそう言って、まっすぐ純一に頭を下げた。
そんな風に初めての公判の日は、純一にとって勝利とは程遠い感慨を持って暮れていった。
まっすぐ家に帰っても、ナニかどうにもという気分だったので、純一は阿吽魔法探偵事務所を尋ねた。
「なるほど。あの後そんなことが。――でもまぁ気にすることでもないですよ。水本先生の言うとおり、物証も状況も有利ですからね。単なる嫌がらせの域は出ません」
純一の口から法廷の様子を聞いた夜月はそんな風にいつものように気楽そうに言った。
普段ならば心強い夜月の言葉も今の純一には他人事のように語られている風で不安を煽る。そんな純一の反応に夜月は苦笑した。
倫理的な動揺があっても、事実としての犯罪の痕跡は消えず、裁判の問題としては意味に揺らぎはない。
ひとたび法廷を離れ、ぼんやりとしているうちに落ち着いてきた。だが、そのことを持っても自分が犯罪の追及の障害になったのではないか。そんな風な危惧は拭えなかった。
「――畑中さんは妻帯しているわけでもないので、あまり問題と緊張する必要はないんですけどね。本当は」
夜月はそんな純一の生真面目さを慰撫するように言った。
純一の論理的な思考は、巧妙な被告人弁護士の印象誘導がおこなわれたに過ぎないという理解を示していたが、その対象に選ばれたのは純一本人で、ソレは以降の傷害・誘拐・殺人未遂事件の裁判を睨んでのモノであるという、すこしばかり長期的な影響を狙ってのことと理解していたので、対策の困難を思うとやはり気が晴れなかった。
「あー、ひょっとして先のご自身の裁判のことを想像して気に病んでらっしゃいます?うん。まぁあ、気分は分かりますがね。手札がなくなったから、相手が早々に切り札切っただけだと思いますよ。私ならもう少し後で切りますね。例えば、畑中さんの誘拐の裁判のときとかに」
「どういう事です」
夜月の話題が単なる慰撫から雰囲気を改めたことで、純一の興味が変わった。
「どう、という聞き方をされると困ります。が、単なる疑問と想像の話です。ふむ、じゃぁ同じ意味なんですが、目線を変えてみましょう。なぜ、彼らは骨折している期間に畑中さんを誘拐しなかったのか、という疑問です」
「――単にひとりになるタイミングを狙ったからでは」
純一は夜月の問い掛けの意味は分かったが、想像がめぐらない自分に気がついた。
「彼らは江田氏が畑中さんを強襲したあとに三週間見過ごした。なぜでしょう」
「――俺が入院してその後、引っ越したから居場所がわからなくて……ではないでしょうか」
「分からない?――私は知ろうとしていなかったのだと思います。つまり、当初は市川氏はあまり積極的に畑中さんに関わるつもりがなかったのだろうと想像します。たぶん、年が明けるくらいまでは」
「そしたらなぜ……」
純一は自分がなぜ襲われたのか理由については市川の口から聞いていたが、なぜあのタイミングだったのかについては考えが及ばなかった。そもそも自分の不利になるのに、自らの手でなぜ純一を害そうと考えるに至ったのか。
「どこかで唆されたのでしょうね。それこそ畑中さんが利益を得るために暗躍し、あるいは彼が主張するように兄上とご両親を害したというように」
「誰が、なぜ?」
「さてソコまでは。ただ、まぁ私は多少不自然と思っていますよ。たとえ交通事故の問題があったとしてもなかったとしても」
夜月は純一がこれまで全く想像もしていなかったような内容を口にした。
「――あるいは別件での偶然が重なったのかもしれませんが、思いついて殺す、という方法にしては拉致・誘拐・監禁というのは少々計画性が必要です、過去において現場として利用した実績があるにしても。という犯罪の性質を考えてみても、もう少し襲いやすいシチュエーションはあったはずと私は思うのですよ。学校の駐輪場がいかに人目につきにくいと言ってもね。つまり彼らはどういう方法かで畑中さんのバイクを特定できるほどの情報を得ていたのでしょう」
「それは……ネット上の協力者」
夜月はニヤリとした。
「すると、そのあたりになんらかのログが残るはずですね。データそのものは残らなくても通信記録はあるんで、あちこちにキャッシュはされているでしょうね」
「でも、警察もそこはチェックしているのでは」
純一は夜月の思考に追いついてきたことは理解したがしかし、幾分の理解の満足はできていないことを実感して補足を求める。
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夜月はあっさりと言った。
「――ただその手の物をアーカイブしたがるコレクターはいます。総じてそういったコレクターはコレクター同士のネットワークを通じてニヤニヤとするものだとは思いませんか」
純一には具体的に閃くものはないが、気分的には分かった。
「斎さんにはにはそういった知り合いがいるんですか」
純一の問いに夜月はニヤリと笑った。
「向かいのご主人に聞いてみましょう。彼のコレクションはなかなかのものですよ。個人的に私もその手のネタはニヤニヤするものだと思うので、おおっぴらな協力が得られるかどうか今ひとつ分からないのですが、畑中さんがくだらなく虐められるのは私の気に入りません」
虐められ~という夜月の言葉にすこしばかりピクリとつつかれた純一はつい反応を示した。
「――気に入りませんか。まぁそういう気概は大事ですが、そういうつもりなら猶更ですね」
「気に入らないということはないんですが、どういう風に頼むつもりなんですか」
純一は夜月に訊いてみた。
「その筋では知らぬ人のいない、伝説の魔法使いのひとりですからね。引退したっていう話も聞いてはいますが、まぁ弟子のひとりも教えてくれと……いや、冗談というつもりもありません。彼はアレで顔を見せない世界では、かなり顔の広い人物ですからね。フォーラムのサバトのログがほしい。とか、最近、車載レールガンを実際に使った話に関わった連中を教えて欲しい。とか言うとたぶんあっさりと訊いてみてくれると思います」
「――未了の事件なのでしばらく黙っていてくれるような人物の協力が欲しいと思いまして」
開店準備中のギルガメッシュタバーンに純一を連れて訪れた夜月が、事件の背景の大雑把な話の流れを酒場のマスターに説明して言った。
「へぇ。大変な事になってますねぇ。こう言っては失礼ですが、リアルってのは面白いなぁ。流石にボクはもうなんというか面倒事に自分からってのは飽きてきたところですが、そこまでの冒険活劇ってのが現実にあるとは思いませんでした。そういうのは斎さんみたいな探偵さんの仕事のような気もしますが、こっちの……畑中さんがねぇ。……そこまで来ると外馬っていうかファンダムがあるかもしれませんね。個人名を挙げているかどうかは分かりませんが、訊いてみましょう」
マスターは、県の名前、サバト、連続集団強姦事件、リニアガン、と【リアル活劇募集】、というタイトルでどこかのチャットルームに書き込みをした。
「斎さん、とりあえず動いてみたんで少し気長に待っていてください。畑中さん、良ければ奥へどうぞ。店の注文もしてくれると助かります」
「あ、そういえば、秘密捜査官ジュン、とかそんな名前でネットに上がっていたと知り合いが……」
「ほう、それはナカナカ良いキーワードだ」
純一の言葉にマスターがキーワードを追加する。
客がまだ来ないバーで、マスターは仕込みの片手間にたまに入る手がかりを精査している。
「なかなかいいのが引っかからないなぁ。畑中さんの中学高校とかそんなのが出てきてもしょうがないんだが。……お、大物だ」
手持ちぶたさでぼんやりしていた純一が幾つかグラスを干した頃、マスターがそんなことを言った。
BWV九八八。純一には分からないがそのハンドルネームにはマスターが唸るだけの価値があるらしい。
示されたアドレスではパランパランと軽くバラけつつ、しかし早く流麗に流れるチェンバロのアリアが響く。
――こんにちは、お久しぶりです。ギルガメッシュ。
音楽以外は愛想のない画面に文字が出た。
《呼びかけに応じてくれてありがとう。サバトフォーラムのログを含めて秘密捜査官ジュンの情報をお持ちなら分けて欲しい》
――持っています。オフで良ければお分けしましょう。お一人でおいでください。
マスターの申し出に意外とモニターの向こうの人物は鷹揚に応じた。少しマスターは首を捻った。
「俺が行っていいなら出向きます。場所はどこですか」
《お願いしたい。いつどちらで?》
画面は日にち時間と住所を示してきたが、目印のような情報はなかった。
しばらく待っていると音楽が終わり、ブラウザが四〇四ノットファウンドのメッセージを示した。
そんなことがあって、土曜の夕刻、約束の時間のだいぶ前に純一は市販されている一番大きな容量のハードディスクドライブを持ってバッティングセンターに来ていた。
法廷で受けたヘコミ具合の純一を見事に膨らますくらいの役には立っていて、既に水本弁護士から法廷での概要を聞いていた四人が心配していたのをほろ酔い気分で軽く受け流すくらいにはなっていた。
あまりに自然なので、四人の方が心配になるくらいに純一は自然に振舞っていた。
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手の中でバットが軋むのは、完全に安全な暴力を感じさせて純一はかなり気に入っていた。
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プロ用、と銘打たれた球速と球種がランダムに出てくるケージに入って、純一はさらにバットを振っていた。
最初に準備したコインが無くなるまで、結局ホームランパネルを叩くことはなかったが、最初は泳がされ続けていた軟球にも次第に目と体が慣れてきて、楽しいと思える程度に良い当たりが出てきたところで、コインが無くなったことで純一はかなり満足していた。
あまりに調子が良かったので、危うく待ち合わせの時間を過ぎてもケージに篭ってしまいそうな勢いと気分だったが、さすがにそこは自重してコインへの両替は諦めてベンチの扇風機で風を浴びて待った。汗で重く湿気っていた縮緬のバスタオルが風に乾き始めた頃、金城基女史が現れた。
「やぁ、こんにちは。まだこんばんはって時間じゃないよね。待たせたかな」
そんな風に金城がベンチに腰を下ろしていた純一に声をかけた。
「あ、こんにちは、金城さん。いや、え?なんか約束してましたっけ?」
そう返事した純一を金城は少し怪訝に眺めた。
「うん?君じゃなかったのか?私に用があったのは」
「え?なんのことです」
純一は素で返してしまった。
「いや、てっきり君が法廷でオッチョコチョイの検事に振り回されたから、慌てて無罪の証拠を探しているもんだ、と思ったんだが違ったのか。仕方ない。身体動かして帰ることにするか」
「え?」
少し不機嫌そうな素振りの金城に、純一はようやく不思議な偶然に思い至った。
「金城さんが待ち合わせの相手だったんですか」
「うん?……どの待ち合わせだ?」
ケージに向かおうとする金城が少しいじわるな顔になって純一に訊いた。
「あーええと、金城さんがBWV九八八さんですか?ここを指定した待ち合わせの相手の」
「君が伝説のギルガメッシュとは思えないな。秘密捜査官ジュンくん」
慌てた純一を金城が笑いが吹き出すのを堪えるようになぶる。
「――だが、まぁあの伝説的な人物に頼みごとができるレベルのリアルの知り合いってのは、なるほど秘密捜査官らしい人脈ね。ますます気に入ったわ」
純一の困った顔を見たことで満足したのか金城が笑う。
「あ、ありがとうございます。ハードディスクドライブを持ってきました」
意味や価値は分からないが、なんとなくスゴいことなんだという印象は純一にもあった。
「うん。ああ、私は君のファンだからね。この前貰ったこの靴のお礼ってことでもいいよ」
「いや、でも俺はこんな大きなドライブいらないんで」
「ふうん?最近はいろいろ家電とかでも使えるんだけど、まぁそういうなら交換に貰っておこう。――コレがサバトの立ち上げの辺りからのフォーラムのログとサバトフォーラムのログ、あとは秘密捜査官ジュンの記事マトメなんかが入ったハードディスクドライブ。非合法な方法は使ってないけど、出処は警察関係には言わないでおいて。砂場が荒らされるのは嬉しくないから」
セカンドバッグから金城が静電気防止袋に入ったハードディスクドライブを取り出し示す。
「ありがとうございます。金城さん」
「どういたしまして。結構分量多いから早めに弁護士さんに見せた方がいいわよ。ソレ使うつもりなら」
金城はそんな風に指摘した。
「そうします。ありがとうございます」
「じゃぁ、ココまで来たし、私は少し身体動かして帰ることにするから。……裁判がんばってね。」
純一が水本弁護士の事務所に持ち込んだソレは事件のほぼすべての構造を明らかにすると同時に、純一に対する幾つかの企てがある種のエンターテイメントのように示されていた。
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側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
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