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土曜日~来客~
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――ええと、なんて名前だっけ?
ほんの数秒前に斎夜月に紹介されて忘れてはいないハズの、日本人なら聞き間違えのような気がするたいそう胡散臭い名前を畑中純一は頭の中で反芻した。
たしか――
「学習院英麻呂です。はじめまして、畑中純一さん」
目の前の色黒の、日本人としては異常とも言えるほどの色黒の男性の差し出す右手を受け取り、握手した。
「はじめまして。畑中です。よろしくお願いいたします」
黒檀を磨いたような肌は日本人の色ではないが、表情やあごのラインは日本人といえなくもないし、通ったまっすぐな鼻梁もヨーロッパ人のちょっと胡座というか三角座りに近い形よりは正座に近く、沖縄辺りの人がそのまま黒くなったのか、という気がしないでもない。身体は仕立てのいいスーツが細く見えるような長身で、純一よりも一回り背が高い。陸上やスキーの選手みたいな体型だ。
全体に黒豹が立ち上がって人懐こく笑うとこんな感じなのかというような印象の人物だった。
ただやはり真っ黒い肌に、金髪、真っ赤な目という組み合わせは、日本人である純一にはインパクトが強すぎて、流暢な日本語といかにも偽名くさい名前を名乗られると、なんと反応して良いのか困る。街中で道を聞かれたら、あいきゃのとすぴーくいんぐりっしゅ、ととりあえず言いたくなるような外見をしている。
普段この印象で損をしているか得をしているか分からないが、さぞかし奇異の目で見られるだろう、と同情混じりに思いつつ、しかしやはり異貌の美形というのは気がつかずに色々観察してしまう。おそらく本人もそうあるのに今更苦痛を感じるわけでもないようで、純一の困惑しつつも遠慮のきかない視線を面白そうに観察している。
そう、学習院と名乗った配色を完全に誤った日本語の極めて流暢な人物は、その色合いの異常さを除けば十分に日本人の美的バランスに即した美形といえる造形であった。
「因みにお名前は本名ですか。目白にそんな大学があったような」
純一は失礼とは思ったが圧倒されっぱなしでは話も始まらず、この程度で不機嫌になられるようなら逆に逃げ出すキッカケになると敢えて踏んでみた。
学習院と名乗った男は笑った。バカにしたというよりはいきなりそこか、という不意をつかれた好手に思わず笑ったという感じだった。
「うん。本名だ。だが、あの有名な大学とはなんの縁もない。いや、縁がないというのはへんかな。もともと私は古い亡命者の家系でね。グダニスク辺りに領地を持っていた貴族だったことになっている。その後ナポレオンに追われるようにロシアに逃げ込み、開国で一世を風靡していた神戸に病院を構えた。曽祖父は日露戦争で日本軍に従軍した医官だったらしいよ。革命の薫りが焦げ臭くなり始めたので親戚をまとめて呼び、日本が日清日露と良い感じだったのでそのまま帰化した。大雑把にそんな感じで明治のアタマ頃にロシア人医師として日本に来て帰化したわけだが、姓がたまたま学習院という当時宮内庁が預かっていた学校の名に音に近かったので地方の役場の人間が勘違いをしてそのまま、帰化するときにその名になった、と聞いている。もちろん元の綴りは全く違うがね」
と、黒い男は子音が沢山並ぶ綴りを書いてみせた。そして改めて、その発音で名前を自己紹介をした。唇を複雑に宙吊りにしたまま、舌を口の中で動かす発音は、いかにも異国のものだったが、学習院と名乗った男がいうには本来そういう音だそうで、何度か練習して純一が滑らかに出るようになると嬉しそうに喜んだ。
しばらく雑談という風なこともなく、お互いの最近の話を話すことになった。
彼は財閥というほど目立ったものではないが、病院や養護施設、製薬化学薬品会社、総合貿易商社など幾つかの会社の大きめの株主で、幾つかの会社についてはソコソコの融通がきく立場にあり、それなりに顔がきくという。純一が前回採用を断られた会社についても、その気があれば改めて別の部署で話を聞いてもらうことをセッティングできると思う。というようなことを言ってくれた。
「それはたいそうありがたいのですが――」
無礼は承知で、そこまで買っていただく理由が今ひとつ分からないのですが、と純一は学習院に訊いてみた。
「まぁ、そうだろう」
と、笑いを含んだ言葉で学習院は言った。
「強いてあげれば、夜月の目に止まって、女の子四人に捕まって、あの鬱陶しい水本が気にかけている、ってところでまぁ私が気に入ったというのが理由かな。――」
学習院は掌まで黒い手で自分の頬をなでると少し表情を消して純一に向き直った。
「――いやね。すると、君は自分がどれほど平凡なつもりで居るのかな。平原の真ん中でポツンと木が立っていれば、気になるものだろう。木の実が欲しいか、木陰が欲しいか、薪がほしいか、タダの道標か、それはさておき、人が何かを気にするキッカケというのはそんなようなものだ」
学習院は赤い瞳で純一の顔を眺めていた。純一が弁解の言葉を探していると、黒い男は表情を少し緩めて続けた。
「――実際に君が会社のナニかの役に立つかどうかは私には全く分からンので、私は夜月がしたように、卒業見込みの知り合いがいるんだが新卒を採る気があるか、と訊いてみる、いや、みようかと思っているのだが、君がなにか私に不安があるようならとりあえず辞めてもいい。初対面の人間にいきなり将来の話を託すのも気持ち悪いというのも分からンではないからね。私だったらとりあえず、調べる。だが――」
学習院は身を乗り出した。
「私の個人的な感覚から言えば、同時に複数の固有の女性と連続して付き合うのは少なくとも大変な体力が必要だし、よほど恥知らずか慎重な人間でなければなかなか続かない。慎重で体力のある人間というのは、物事を預けるのに向いているので、友人としては貴重だと思う。君はそういう人間だ」
そう言うと、学習院は深く腰を座り直した。
「とりあえず、今日は名刺を差し上げることにしよう。特に会社のナニというわけでないからトランプにもならないかもしれないが、連絡をくれれば一緒に何かを考えてあげることはできる。夜月がどこを気に入ったかはともかく、私は色々君のことが気に入った。――夜月、若い人と話す機会をもらって嬉しかった。今日はありがとう。けっこう楽しかった。また寄るよ」
「それはたいそう良かった。時間はどうとでもといっても、忙しいと思ってましたから」
「どこで寄り道をしてお茶を飲むかくらいは決められるさ」
そう言うと学習院は席を立った。
二人して事務所の外まで見送ると、黒いパンツスーツ姿の女性がエレベータ脇にいた。秘書か運転手らしい。妙に静かな雰囲気の女性で少々怖い。怒りとか殺意とかそういうものでないのは間違いないが、そう感じた。
そうして黒い男は去っていった。
ほんの数秒前に斎夜月に紹介されて忘れてはいないハズの、日本人なら聞き間違えのような気がするたいそう胡散臭い名前を畑中純一は頭の中で反芻した。
たしか――
「学習院英麻呂です。はじめまして、畑中純一さん」
目の前の色黒の、日本人としては異常とも言えるほどの色黒の男性の差し出す右手を受け取り、握手した。
「はじめまして。畑中です。よろしくお願いいたします」
黒檀を磨いたような肌は日本人の色ではないが、表情やあごのラインは日本人といえなくもないし、通ったまっすぐな鼻梁もヨーロッパ人のちょっと胡座というか三角座りに近い形よりは正座に近く、沖縄辺りの人がそのまま黒くなったのか、という気がしないでもない。身体は仕立てのいいスーツが細く見えるような長身で、純一よりも一回り背が高い。陸上やスキーの選手みたいな体型だ。
全体に黒豹が立ち上がって人懐こく笑うとこんな感じなのかというような印象の人物だった。
ただやはり真っ黒い肌に、金髪、真っ赤な目という組み合わせは、日本人である純一にはインパクトが強すぎて、流暢な日本語といかにも偽名くさい名前を名乗られると、なんと反応して良いのか困る。街中で道を聞かれたら、あいきゃのとすぴーくいんぐりっしゅ、ととりあえず言いたくなるような外見をしている。
普段この印象で損をしているか得をしているか分からないが、さぞかし奇異の目で見られるだろう、と同情混じりに思いつつ、しかしやはり異貌の美形というのは気がつかずに色々観察してしまう。おそらく本人もそうあるのに今更苦痛を感じるわけでもないようで、純一の困惑しつつも遠慮のきかない視線を面白そうに観察している。
そう、学習院と名乗った配色を完全に誤った日本語の極めて流暢な人物は、その色合いの異常さを除けば十分に日本人の美的バランスに即した美形といえる造形であった。
「因みにお名前は本名ですか。目白にそんな大学があったような」
純一は失礼とは思ったが圧倒されっぱなしでは話も始まらず、この程度で不機嫌になられるようなら逆に逃げ出すキッカケになると敢えて踏んでみた。
学習院と名乗った男は笑った。バカにしたというよりはいきなりそこか、という不意をつかれた好手に思わず笑ったという感じだった。
「うん。本名だ。だが、あの有名な大学とはなんの縁もない。いや、縁がないというのはへんかな。もともと私は古い亡命者の家系でね。グダニスク辺りに領地を持っていた貴族だったことになっている。その後ナポレオンに追われるようにロシアに逃げ込み、開国で一世を風靡していた神戸に病院を構えた。曽祖父は日露戦争で日本軍に従軍した医官だったらしいよ。革命の薫りが焦げ臭くなり始めたので親戚をまとめて呼び、日本が日清日露と良い感じだったのでそのまま帰化した。大雑把にそんな感じで明治のアタマ頃にロシア人医師として日本に来て帰化したわけだが、姓がたまたま学習院という当時宮内庁が預かっていた学校の名に音に近かったので地方の役場の人間が勘違いをしてそのまま、帰化するときにその名になった、と聞いている。もちろん元の綴りは全く違うがね」
と、黒い男は子音が沢山並ぶ綴りを書いてみせた。そして改めて、その発音で名前を自己紹介をした。唇を複雑に宙吊りにしたまま、舌を口の中で動かす発音は、いかにも異国のものだったが、学習院と名乗った男がいうには本来そういう音だそうで、何度か練習して純一が滑らかに出るようになると嬉しそうに喜んだ。
しばらく雑談という風なこともなく、お互いの最近の話を話すことになった。
彼は財閥というほど目立ったものではないが、病院や養護施設、製薬化学薬品会社、総合貿易商社など幾つかの会社の大きめの株主で、幾つかの会社についてはソコソコの融通がきく立場にあり、それなりに顔がきくという。純一が前回採用を断られた会社についても、その気があれば改めて別の部署で話を聞いてもらうことをセッティングできると思う。というようなことを言ってくれた。
「それはたいそうありがたいのですが――」
無礼は承知で、そこまで買っていただく理由が今ひとつ分からないのですが、と純一は学習院に訊いてみた。
「まぁ、そうだろう」
と、笑いを含んだ言葉で学習院は言った。
「強いてあげれば、夜月の目に止まって、女の子四人に捕まって、あの鬱陶しい水本が気にかけている、ってところでまぁ私が気に入ったというのが理由かな。――」
学習院は掌まで黒い手で自分の頬をなでると少し表情を消して純一に向き直った。
「――いやね。すると、君は自分がどれほど平凡なつもりで居るのかな。平原の真ん中でポツンと木が立っていれば、気になるものだろう。木の実が欲しいか、木陰が欲しいか、薪がほしいか、タダの道標か、それはさておき、人が何かを気にするキッカケというのはそんなようなものだ」
学習院は赤い瞳で純一の顔を眺めていた。純一が弁解の言葉を探していると、黒い男は表情を少し緩めて続けた。
「――実際に君が会社のナニかの役に立つかどうかは私には全く分からンので、私は夜月がしたように、卒業見込みの知り合いがいるんだが新卒を採る気があるか、と訊いてみる、いや、みようかと思っているのだが、君がなにか私に不安があるようならとりあえず辞めてもいい。初対面の人間にいきなり将来の話を託すのも気持ち悪いというのも分からンではないからね。私だったらとりあえず、調べる。だが――」
学習院は身を乗り出した。
「私の個人的な感覚から言えば、同時に複数の固有の女性と連続して付き合うのは少なくとも大変な体力が必要だし、よほど恥知らずか慎重な人間でなければなかなか続かない。慎重で体力のある人間というのは、物事を預けるのに向いているので、友人としては貴重だと思う。君はそういう人間だ」
そう言うと、学習院は深く腰を座り直した。
「とりあえず、今日は名刺を差し上げることにしよう。特に会社のナニというわけでないからトランプにもならないかもしれないが、連絡をくれれば一緒に何かを考えてあげることはできる。夜月がどこを気に入ったかはともかく、私は色々君のことが気に入った。――夜月、若い人と話す機会をもらって嬉しかった。今日はありがとう。けっこう楽しかった。また寄るよ」
「それはたいそう良かった。時間はどうとでもといっても、忙しいと思ってましたから」
「どこで寄り道をしてお茶を飲むかくらいは決められるさ」
そう言うと学習院は席を立った。
二人して事務所の外まで見送ると、黒いパンツスーツ姿の女性がエレベータ脇にいた。秘書か運転手らしい。妙に静かな雰囲気の女性で少々怖い。怒りとか殺意とかそういうものでないのは間違いないが、そう感じた。
そうして黒い男は去っていった。
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