魔法使いは退屈な商売

小稲荷一照

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木曜日~ネコ探し~

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 ゼミ論文の資料を輪講している時から昨日の行方不明の猫のことが気になっていた。
 輪講そのものは順調でというか、あらかた今年度分は完了した内容で新しいものはなかったのもあって、退屈していたせいもある。
 ここからは生のデータが必要で、先輩たちの実験の資料がまとまるのを待たないと話が進まなさそうだが、先輩たちは実験が今ひとつ順調でないらしく少し荒れていて、混ぜてもらう雰囲気ではあまりない。ここまでのデータを見せて貰ったこともあるが、データが線形に並ばず、年内に実験値を一通り得るというのはムリになったらしい。実験装置がオカシイ、というのが結論のようだが、じゃぁドコだ、というところで詰まっているようだ。
 大工仕事になればやることは多いのだが、そこまでも進んでいない。
 あまり詰まるようなら、実際のデータを使った講義は諦めて理論的な話題、他の研究論文の読み込みに戻ることになる。つまり、英語論文の翻訳だ。
 そんなわけで、妙にテンションが低かった。
 せめて、気がかりだった猫の件がどうなったか、好転していればこの妙にクサクサした気分も晴れるだろう、そんなわけで事務所に足を向けた。
 雑居ビルの三階のバーの扉はモザイクパターンになっていて、店がすでに開いていることを示していた。早かったり遅かったりするようだが、看板はビルの入口にある黒い鉄のフロア表示だけで、時間も特に書かれていない。バーの常識的な時間ということなのだろうが、この店もたいがい控えめな商売をしているらしい。類は友を呼ぶというやつか、ご近所の誼かやはり控えめな商売をしている探偵事務所の扉に手をかけると、覚えのある声が扉の向こうから漏れ聞こえる。
 普段静かだからあまり気にしていなかったが、音が意外と漏れるものだ、と扉を開けると、いやコレは仕方ないかという勢いで、昨日の女性が歌うように喋りまくっていた。
 怒鳴っているというよりは感極まって讃えているような様子で、何時間そうしていたのか分からないが、昨日と同じで女性の前のカップの中には満たされた紅茶が手付かずと思われる形で置かれ、夜月はカップを抱えるような姿勢で紅茶を飲んでいた。
 扉を開けた純一に気がついた夜月は一瞬に顔を輝かせ立ち上がった。
「ご苦労さん、おかえりなさい。あ、うん。調査はどうでしたか」
「あ、只今戻りました。あー、えーと――。」
 調査という言葉の意味はよく分からないが、女性の独演会のターンを終わりにしたいことは明らかだった。
「――お客様ですか。どうしましょう」
 夜月が立ち上がったことで女性は一瞬言葉を止めた。
「すみません。別件で調査に出していた者が戻ってきたようです。丁寧なお褒めの言葉をいただきまして恐縮ですが、既に十分にいただきました。急ぎの仕事なものですから、申し訳ありません。本日はお引き取りいただきたく存じます」
「ああ、いえ、それでは私の気が済みませんわ」
「いいえ、奥様。すでにお心はたっぷりいただきました」
 妙に気取った発音で夜月が言った。
「それではまた困ったときは参ります」
「いいえ、魔術師の戦いで同じカードを切ることは死を意味します。電話も手紙もエグリゴリを行使するような相手には極めて危険です。エグリゴリのような隙を突くタイプの敵には城壁も不浄を集られ、却って乗っとられることとなります。掃除とゴミの処分、不用品の撤去をおこない手洗い入浴を徹底して、清浄を心がけるのが一番です。特に猫は不浄に敏感なので、悪霊を見つけてくれる良い番兵になります。猫を洗うときは無香料のベビーシャンプーが良いでしょう。日本では朝晩祖霊を祀るのが一般的で教信を得られやすいので、霊的にも安定します。折を見て寺社仏閣をめぐり魔術的な痕跡を洗うのもよいです。あまり高度に霊的なことをおこなうと突出してしまい、魔術攻撃の良い標的刻印になります。魔術戦闘もトレンドはステルスです。静かに密やかに目立たぬように。森の中の木々と同じように市井の人々をマネるのです」
 女性の荷物をまとめ手をとり、戸口に導きつつ夜月は捲くし立てる。
 女性を送り出すと戻ってきたその手には封筒があった。
「はぁー、うん。お茶をいれてくださると大変に助かります」
「その様子だと猫が見つかったんですか」
「そうなんです。が、まぁご覧のとおりで感極まったそのままに、お礼にお出でになったという次第で」
 よほど疲れたのか、夜月はソファーでなくデスクに引揚げ、背もたれに背伸びをした腕をからげる。
「来てくれて助かりました」
「しかし、大丈夫ですか、あの人」
 キッチンに向かいながら純一はちょっと気になった。
「あ、うん。まぁ、大丈夫でしょう。魔術とか悪魔云々はともかくとして、掃除とゴミの始末をしていれば猫が家の中で迷子になるような迷宮はなくなるでしょうし、寺社仏閣巡りは体を動かす良い題目になります。パラノイアに限らず不安症が軽度の運動で解消できることは統計的にも立証されていますし、わざわざ調べて探偵事務所に足を運ぶような人なら、もともとアクティブな傾向があります。やるべき事を興味のある形で示唆してあげれば問題は自分で解決すると思いますよ」
 よほど疲れたのか、デスクチェアを軋ませストレッチをしながら夜月は言った。
「いや、そうでなくて、また来ないかと」
「あ、うん。問題がひとつも解決しなければまた来るでしょうね――」
 机の上の封筒を手にとって厚みを測るようにしならせると、夜月は勘定もせずにデスクの引き出しに放り込んだ。
「――まぁ、でも、たぶん自宅の迷宮から猫が発掘できただけでお金が出せる生活をしているなら、外出する機会があれば助けてくれる人にも幾人か会えるでしょう」
 純一はそう言った夜月の顔に奇妙な喜びをみつけた。どうやら、斎夜月という人間は働くのはともかく探偵事務所を開いていることは好きらしい。
 それはさておき、と気分を変えて昨日と同じタイミングで、一呼吸おいて少し急いで紅茶をいれてみる。
 最後の最後で昨日は確認が取れていないが、基本的に間違っていないことと、目指すところがかなり近いことはわかった。
 だらしなくもたれかかっている夜月のデスクにカップソーサーを準備して紅茶を注ぐ。
「はい、いただきます」
 夜月は体をくねらせながら向き直り言うと、紅茶をすすった。
「どうですか」
「あー、うん。飲んでみました?」
 言われて純一はカップに口を付ける。
――お、出来た。
「――うん、こんな感じでないですかねぇ。まぁ色々調整は出来ますが、お店をやるなら同じように出す方が重要ですし、素人ならこれだけ美味しければ文句も出ないでしょう」
 満足げに夜月は言った。
「――あぁ、なかなかだ。……じゃぁ、お茶を一服して落ち着いたら晩ご飯でも食べに行きましょうか。奢りますよ」
 堅さのある銀行の封筒を軽く振って夜月が誘った。
 近くで評判の少しお高いトンカツ屋で純一は夕食をご馳走になった。
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