魔法使いは退屈な商売

小稲荷一照

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序~忘れ物~

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「あー」
 畑中純一は昨晩の何次会だかで流れたバーの扉を揺すって、絶望的な悲鳴を上げた。
 八割がた完成した論文草稿を資料ごとPCごと忘れたことを思い出してゼミの始まる前に取りに来たのだが、案の定というべきか、店は開いていなかった。
 ゼミの論文は卒業には関係ないが、せっかく準備したそれなりに自信の論文をこんな形で失った自分に腹が立つやら情けないやら。
 もう酒はやめよう、
 と、
 心に誓い、
 いや、
 しかし、
 そんなことより、
 俺のかばんが。
 ぐちゃぐちゃになった心のままに、バーの押し扉に指を掛け押したり引いたりを繰り返す。
「誰かいませんかー!」
 いや居まいと分かっていても、つい大声で呼ばわるが反応がない。
 そもそも、戸口で叫んでも中に聞こえるかも怪しい。そういう作りの良い扉だった。
「あーっチックショー!」
 扉の突起にかけていた指をはずし、肩幅ひとつ分扉から下がる。
 品のよいオークか何かの木目のオイルウッドをにらみつけ、もう一歩下がる。
 雑居ビルの三階はエレベータの音もしない。
 自分の音以外がないことを耳で確かめ、扉にハイキックをくれた。
 扉は撓むような手ごたえがしたが、純一の乗せた体重と速度を受け止め、純一は元の位置より二歩ほどはじき返された。
――遠慮した。
 純一はそう思い、ステップの距離を確保してもう一度挑戦することにした。
 踵がドアにわずかに食い込んだ感触とともにミシリという骨を伝わる音。
――イケル。
 はじき返された先の扉に手を突いた瞬間そう思った。
 同時にこれまでまったく気にしていなかった背後の壁が扉であることに気がついた。
 開いたから。
 突然に光景が替わり、重心が変わり、たたらを踏んで入った部屋で声を掛けられた。
「向かいのお店は5時からですよ」
 埃っぽい空気にコーヒーの香り。
「御用があるなら、伝言は承りますが」
 声の主は姿も見せずによく響く声で応じる。
「あ、いえ、その……」
 流石に冷静になると、自分が学生とはいえ成人しており、器物損壊と不法侵入を意図した押入りという構図がみえてきた。
「……忘れ物を昨晩いたしまして、預かっていただいていないかと」
「あー、なるほど」
 合点がいったのか、あまり疑わしげな声もなく短な返事が返ってきた。
「あ、どうぞ入って御掛け下さい」
 食器の響く音が幾つかして声が促した。
 純一はせめて声の主を目にしようと戸口から進む。
 間取りは広く、奥は保健室で使うようなカーテンを使って区切っているようだ。
 純一は戸口からも見えた応接セットのソファーの傍らで立って待つことにした。
 こちらが急いでいることをアピールする意味もある。
 カーテンの奥の壁に貼られた世界地図とそこに刺さったダーツの矢をみつけたころ、足音が戸口の脇からした。
「お待たせしました。コーヒーでよかったですか?」
 ステンレスの艶やかなポットと揃いのコーヒーカップをステンのトレーに載せた男は、喫茶店のウエイターのような馴れた仕草で純一が座るだろう位置にソーサーとカップとを置くと、ポットのコーヒーを注ぎミルクピッチャーと砂糖壺を控えさせた。
 部屋の主は上座に座ると自分の分をポットから注ぎ、ポットウォーマーを被せて、席を手のひらで示し促した。
「宜しければどうぞ」
 稚気から始めた暴力行動で炊けた頭を冷やすにはありがたかったが、別にムダに時間を過ごしたいわけではない。
「あ、いえ、結構です」
 背を向けてそう言った純一に声がかかった。
「忘れ物はどんなモノですか」
 疑問というよりは確認の雰囲気のある声に純一は振り向く。
「あー、カバンですが……」
「戸口を蹴破ろうとしてみるまで慌てて必要だった中身は?畑中純一さん」
 醒めた衝動を指摘されると、さすがに居心地が悪い。
「もういいです。大丈夫ですから、また改めてきますから」
 かぶせるように言葉を返す。
 ついに体が逃げ出す。
 戸口に視線が向いた。
――いや、そうでなく。
「はい?なんで俺の名前を?」
 引き戻された視線をコーヒカップ越しにじっと観察されていたことに気がつく。
「預かっていますよ。カバンを。折角ですから、コーヒーをどうぞ」
 カップをソーサーに戻し応接テーブルに置くと、主は腰を上げてカーテンの奥に消えた。
 戻ってきた男の手にあるのは確かに昨晩バーのボックスで自分が放置したカバン。
 男はそれをソファーの勧めた席に置く。
「それだ!」
「お役に立てて光栄です」
 ソファーに飛びつくように席につき慌てて中を改める純一に知らん振りでコーヒーを注ぐと、主はカップに口をつけた。
 あるはずのものがあることを確かめると純一は立ち上がった。
「ありがとうございます。助かりました。えーと、改めて参ります」
 親切な人の名前も聞かず飛び出したことに純一が気がついたのは、バスが学校の前の停留所にさしかかった頃だった。
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