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七話 兎との幸せ

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「大雅に別れ話を切り出そうと、仕事の隙を見つけて自宅に戻ったんだ。ところが大雅はすでに家を飛び出したあとだった。俺が無断外泊をしたのだと気づいて、激怒したらしい」



 ゆっくり湯呑を手の中で回しながら神弥さんは話し続ける。



「爺やにすぐ、大雅を探すように言った。だが爺やは、どこに行ったのか分からない大雅より、居場所が分かっている晃兎にガードをつけるべきだと言う。大雅の怒りの矛先が向かうのは、俺ではなく晃兎だと。それもそうかと思って、俺のSPに晃兎を護衛するように命じた」



 もしかして、あのスーツさん?

 神弥さんのSPをしている人たちだったのか。

 

「晃兎がバイトをしているスーパーに急行して、そこからはずっと見張っていた。大雅は晃兎のバイト先までは知らなかったみたいだな。だからマンションで待ち伏せしていたんだろう」



 お茶を飲み干し、神弥さんは湯呑を茶たくに戻した。

 私もなんとなく同じ動作をする。



「まさか大雅が、あそこまで大それたことをするとは思っていなかった。別れ話を切り出した後ならまだしも、俺が無断外泊をしただけで晃兎をひき殺そうとするなんて。俺は心底、アルファとオメガの本能が恐ろしいと思ったよ。運命の番というものは、本当に幸せをもたらすのだろうかと」



 おそらくどこかにいる私の運命の番。

 しかし、出会ったとしても、今の私は神弥さんの番だ。

 果たして気持ちが募るのか、不明だ。

 噛まれたオメガは、噛んだアルファを思う。

 私も、運命の番さんも、それは変わらない。

 もともとが歪な関係なのかもしれないな、アルファもオメガも。



「大雅は今も手術中だ。どうやらシートベルトをしていなかったらしくて、体の損傷が激しいんだ。そこまでスピードが出ていなかったのが幸いして、一命は取り留めている」



 だからあんなに血が出ていたのか。

 私を待ち伏せして駐車場にずっといたのなら、その間にシートベルトは外すかもしれないし、私を見つけて急発進するときには、きちんとシートベルトをつけるなんて冷静さはないかもしれない。

 私にはすごい勢いで突っ込んできたように見えたけど、速さはそこまででもなかったらしい。

 地下駐車場からロータリーへは登りスロープになっているし、そこで減速したのか。

 

「爺やに、明日からふたりで暮らすマンションを探してもらっている。なにか要望があれば、今のうちに聞いておくが?」

「え? 今のマンションを引っ越すの?」

「ああ、エントランスが大変なことになっただろう? しばらく工事が入るから不便だしな」



 それくらいで引っ越しするんだ。

 だから、いくつもいつでも使えるマンションを持っているの?

 神弥さんの感覚にちょっとついていけない。

 

「えっと、出来ればバイト先からそう遠くないところがいいな。徒歩で通っているから」

「ああ、バイト先ではパートさんに良くしてもらっているそうだな。いいバイト先を見つけたな」

「ど、どうしてそれを……?」



 神弥さんはしまったという顔をしたが、すぐに内情を打ち明けた。



「どこでバイトしているかは、先に調べさせていたんだ。危険がないか、心配で……」



 やっぱり神弥さんは心配性だった。



「大丈夫だよ。パートさんたち、みんな優しいよ。それに、これ、私が作った玉子焼き。巻くのが上手だねっていつも褒めてくれるんだ」



 私は神弥さんに玉子焼きのパックを見せる。

 神弥さんは嬉しそうにそれを見る。



「俺と食べようと思って、持って帰ってきたのか?」

「うん……そうだよ」



 そのつもりだったけど、本人に言われるとなんだか恥ずかしい。



「一緒に食べよう。晃兎のそういうところ、可愛くて俺は好きだよ」



 神弥さんは手を伸ばして、赤くなっているだろう私の頬を撫でた。

 神弥さんの会社には、シャワーも仮眠室もあるそうだ。

 私たちはその日、会社にお泊りをした。



 ◇◆◇



 晃兎が襲われてから5年が過ぎた。

 大雅は手術のあとも意識が回復せず、しばらくは集中治療室にいた。

 ケガが快癒したあとは個室に移り、意識の回復を待つばかりとなったが、もう5年だ。



「坊ちゃん、大雅さまはもう、目覚めないほうがいいのではないですか? 目覚めて待っているのが別れ話では、また暴走するかもしれませんよ」



 爺やが過激なことを言う。

 我がままに振り回されていた爺やにとって、大雅が目の上のたんこぶだったことは否めない。

 俺が甘やかしたせいで、大雅は勝手気ままに自由奔放にふるまっていたから。

 それが大雅のためだと思っていた。

 それが大雅の幸せだと思っていたんだ。

 だがきっと、大雅が求めていたものは違うし、俺が与えなくてはいけないものも違っていたのだろう。

 最初からすれ違っていたんだな、俺たちは。



 晃兎との間には、子どもが出来た。

 子どもを産んでからも、晃兎はあのスーパーのお惣菜屋さんでバイトをしている。

 大雅が目覚めるまではと晃兎は拒んでいたが、俺がなんとか説得して結婚もしてもらった。

 晃兎には大雅を絶対に見捨てないと約束をしている。

 晃兎は唐突に俺から連絡を断たれた過去があり、それと同じ思いを大雅にさせたくないのだ。

 返す返す、俺は最低な行いをしたと後悔している。

 その償いを今度こそ、きちんとしたいと思っている。 

 

 晃兎がヒートで苦しむ様を見て、俺は大峰HDに製薬会社を取り込んだ。

 今ある薬が効きにくいオメガ向けの、ヒート対策の薬を開発・製造するために。

 この5年で治験が進み、実用化までもう少しだ。

 そんなとき、俺に爺やからの連絡が入る。

 

「大雅が目覚めた? 意識ははっきりしているのか?」

『どうやら記憶に障害があるようですが、受け答えは出来ていますよ』

「すぐに行く。桃香の迎えに、人を手配してくれ」



 桃香は、俺と晃兎の間に産まれた3歳になる愛娘だ。

 今日は俺が園へお迎えに行く日だった。

 晃兎にもメッセージを入れて、俺は大雅の病院へ急ぐ。

 大峰家のために用意されている個室に、ずっと大雅は眠っていた。

 だが今日は、ベッドに寝そべる大雅の目が開いている。

 

「わあ! 僕の運命の番でしょ? 匂いで分かったよ!」



 記憶にあるよりも、ずいぶんと幼い言動をする。

 爺やによると、大雅は俺と出会う前の記憶しかないようだ。

 つまり高校生くらいに精神が戻っているということか。

 ずっと寝たきりだったから、手足はやせ細り、髪もずいぶん抜けた。

 だけど強い瞳はそのまま、俺をしっかり捉えている。

 ああ、大雅だなと思った。

 俺は思わず零れた涙を拭った。



「どうしたの? 僕と番になろうよ。そうしたら幸せになれるよ?」

「なれないんだ。……俺たちは一度、番になった。そして幸せになれなかったんだ」
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