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五話 兎を愛する

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「別れるって……運命の番、なんだよね?」

「たしかに運命の番だが……今日のことで身に染みた。俺は晃兎が好きなんだ。運命の番とか関係ない。多分、出会ったときから、ずっと晃兎が好きなんだ」

 

 神弥さんは両手で持ったマグカップに自分の顔を映して、その情けなさを確認しているようだった。

 それから、はあ、とため息をついた。



「晃兎にも、大雅にも、俺が不誠実だったのは分かっている。晃兎と番っていながら、運命の番だからと大雅とも番った。そして大雅に隠れて、晃兎とも関係を続けた」

「私のことは、神弥さんが悪いわけじゃないよ。薬が効きにくい私のヒートを治めるために、仕方なく抱いてくれたんでしょう?」

「違う! 仕方なくなんて!」



 神弥さんが思いがけず強く否定してきたので、私は驚いた。

 違うって?

 どういうこと?



「晃兎のヒートを治めるためなんて、口実だ。俺は晃兎を抱けるなら、なんでもよかった。晃兎から漂う熟れた果実の香りをかぐと、たまらない気持ちになるんだ。晃兎をめちゃくちゃにして、抱きつぶしてしまいたい欲求を抑えられない。だから、晃兎がヒートのときにしか会わないようにしたんだ」

「私から、そんな香りが?」

「そうなんだ。出会ったときから感じていた。だから、運命の番だと思った。でも違った。大雅からはもっと、爽やかな香りがする。それこそずっとそこにいて、深呼吸したいような香り、なにか神聖な香りなんだ」



 神弥さんは眉根を寄せている。

 苦しそうだ。



「大雅と出会ったときは衝撃を感じた。その場でホテルに部屋をとって、早く自分のものにしなくてはいけないと、口説く間もなく抱いたんだ。なにかに突き動かされるように、獣のようにまぐわって、うなじに噛み付いた。そうしたら、ようやく気持ちが落ち着いたんだ。あれは間違いなくアルファの本能だろう」

 

 なんだか私のときとは、ずいぶん違うな。

 私は神弥さんに履歴書を拾ってもらったあと、食事に誘われた。

 それから自己紹介とか身の上話とかして、数回のデートのあとに体をつなげた。

 私がお付き合いをしたのは神弥さんが初めてだから、なにが一般的なのかは詳しくないけど。

 運命の番さんとは、ずいぶん突発的に関係が始まったのだけは分かった。



「大雅を独り占めできたことに悦びを感じた。これからは大雅を大切に愛して、幸せにしてやらなくてはいけないと、そう思っていたんだが――どうしても、晃兎のことが頭から離れない」



 神弥さんが前髪をぐしゃりと握りつぶす。

 それまでも、いろいろあったから髪は乱れていたけど、今はさらにぐしゃぐしゃだ。

 セットされていない髪の神弥さんは、いつもより若く見えた。

 私の名前が出てきたので、ちょっと緊張する。

 これから何を言われるのか。



「晃兎のことを忘れたくて、俺から連絡するのを止めた。でもヒートの時期になると、どうしているか気になって。薬が効かず苦しんでいるのではないかと、大学まで見に行った。そこで、ツッキーからお前を助けて欲しいと言われたんだ」

「ああ、それで、あの日に?」



 ツッキーとは、このマンションに引っ越してから数回会った。

 でもツッキーは何も言わなかったから、私は知らなかった。

 私を助けるように神弥さんに頼んでくれたのは、ツッキーだったのか。

 どうりで教えたはずもないアパートに、神弥さんが来たはずだ。

 あのアパートの周りは狭い道が多いから、神弥さんの車だと運転が大変だろうと、いつも送迎は大学の正門を利用していたんだ。

 ツッキーは大学に入ってからの友だちで、前のアパートにも何度か呼んだことがある。

 私と似たような境遇で、ツッキーも一浪していたから気が合った。

 ただ、ツッキーは地元に就職のツテがあったから、今は離れ離れになってしまった。

 御礼を言いたいけど、今更かな?

 あの日の話は、神弥さんとの間ではタブーだった。

 神弥さんの顔が般若のようになるからだ。

 その禁忌を、神弥さんが破る。



「犯されている晃兎を助けたときに、俺は後悔した。どうしてお前を放置してしまったのかと。晃兎だって俺の番だ。俺がお願いしてうなじを噛ませてもらった番だ。どうして捨てることができる? 最初は戸惑った。それまでは運命の番を見つけたアルファは、運命の番に夢中になって、ほかに番がいても見向きもしないというのが通説だった。だけど――」



 神弥さんは私に近づいてきて、両腕で私を囲う。



「こんなにも愛しいんだ。晃兎のことが。どうしてなのかずっと悩んでいたが、単純なことだったんだ。俺は晃兎が好きなんだ。ただただ、好きなんだ」



 神弥さんが私の髪の毛に口づける。

 

「アルファとかオメガとか、番とか運命の番とか、そういうの関係なしに、晃兎に惹かれる。お前の香りで発情して、抱きたいと思うのも、晃兎が晃兎だからなんだ。好きなんだ、晃兎。――愛している」



 大雅へは明日にでも話をするという神弥さんは、肋骨が痛いだろうにベッドでも私を抱きしめて眠った。

 そして翌朝――。



「行きたくないな、会社なんて」



 グズりだして、爺やさんを困らせていた。



「どうされたのですか、坊ちゃん。今まで何があろうと、仕事を疎かにされたことはないのに」

「晃兎から離れたくないんだ。目を離したすきに、いなくなったらどうする?」



 チラチラと未練がましく神弥さんに見られて、私は慌てた。

 爺やさんにも聞こえるように、はっきりと言う。



「待っているから。必ず。神弥さんの帰りを」

「本当に? もうあんなことはしないか?」

「しないよ。神弥さんの気持ちも聞いたし、これからのことを一緒に考えようって言ったよね」



 そうなのだ。

 昨夜、神弥さんは運命の番さんに別れを告げると言ったが、そう簡単に済まないのは分かっていた。

 すでに神弥さんは、運命の番さんのうなじを噛んでいる。

 うなじを噛まれたオメガは、噛んだアルファの番になり、ほかのアルファでは満たされなくなる。

 ベータの人が別れ話をするのとは、違うのだ。

 

「分かった、行ってくる。……行ってらっしゃいって、言ってくれるか?」

「言われなくても。行ってらっしゃい」

 

 神弥さんは嬉しそうにはにかみながら、爺やさんに引っ張られてマンションを出た。

 もしかしなくても遅刻しているんだろう。

 爺やさんは、最後にぺこりと私に頭を下げた。

 私もそれに頭を下げ返す。



「神弥さんが会社に行ったし、私もバイトに行こうかな」



 運命の番さんに蹴られた場所は、まだ青黒いけど、湿布のおかげで痛みはかなり引いた。

 それに、急に休むとパートさんにも心配をかけてしまう。

 人生のどん底だと思った昨夜。

 それが明けてみれば、こんなにも眩しい朝が来た。

 まだ問題はあるけれど、前を向いて行こうと思った。
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