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八話 エーリカの夢
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僕に会ったことで、母はずいぶん気力に満ちているようだった。
「奥様のお世話を長らく任されていますが、自ら朝食を取りたいとおっしゃられたのは今日が初めてです。きっとヴェルナーさまが一緒に食べようと誘ってくださったからでしょう」
使用人頭はニコニコしていた。
そうだったのか。
なんのけなしに母を朝食に誘ったが、それならば良かった。
ゆっくりとしか歩けない母を、食堂までエスコートする。
エーリカから、少しでも歩いたほうがいいと教えられたから、抱き上げて運ぶことは止めた。
柔らかい日差しがレースのカーテンに弾かれ、テーブルに並んだ皿へきらめきをこぼす。
その皿には、爽やかな朝もビックリの肉の塊。
なんと僕のために、料理長が朝から肉を焼いてくれたのだ。
実は騎士団の朝食でも肉が出るのだが、こんなにいい肉ではない。
そしてエーリカの前には飾り切りされた可愛らしい果物の数々。
料理長の歓迎の心を感じた。
母の前には滋養によさそうな野菜のスープが置かれる。
これはいつも用意されているものだそうだ。
エーリカと母、そして僕で囲んだ食卓は思いの外にぎやかなものとなった。
母の食べる量は少なかったが、それでも僕が美味しいと言ったものを食べたがり、料理長が泣いて喜んでいた。
母の食欲を見てエーリカがさっそく助言する。
「奥様、これからは野菜のスープだけでなく、もっと食べられるものの種類を増やしていきましょう。足りない栄養を薬で補給することもできますが、日々の食事から摂るのが体にとっては自然なんです。それから食事の量をいきなり多くするよりは、食事をする回数を多くしましょう。三食以外に、お菓子をつまみながらヴェルナーとお茶を飲む時間をもうけませんか?」
「それは素敵な提案だわ。ヴェル、どうかしら? 私と一緒にお茶を飲んでくれる?」
出会ったときからそうだったが、母は僕をヴェルと呼ぶ。
小さい頃の愛称だったんだろう。
呼んでくれる人がいなくなったことで、僕も忘れていた。
「もちろんです」
「ヴェルナーにはお茶の時間の前に奥様とお散歩をすることもお勧めするわ。少し動いたあとの方が、摂取したものが体に取り込まれやすいの」
「まあ、それもいいわね! ここは山の頂だから、眺望のいい場所があるのよ。ヴェルにも見てもらいたいわ」
母がウキウキしているのが伝わる。
これまでほとんど部屋にこもりきりで、僕の絵を日がな一日眺めて過ごしていたと聞いた。
国王陛下が眺望のいい場所に連れ出しても、王都のある方ばかりを見ていたそうだ。
母にとって残してきた僕の存在は大きく、片時も忘れることが出来なかったのだろう。
「お散歩は日差しの柔らかい午前に、午後からはヴェルナーと体操をしてもらいます。奥様の体は凝り固まっていて稼働領域が随分と狭まっていますから、このままでは思わぬ怪我をすることもあるでしょう。少しずつ体をほぐして、それと共に筋肉もつけていきましょうね」
エーリカはうまいこと僕を餌にしている。
母は僕と一緒に出来ることはなんでも積極的にやりたがる。
しかも喜んでやるのだから、僕だって嬉しい。
三人で始めた療養生活は、想像していた以上に楽しいものだった。
◇◆◇
「エーリカ、見てちょうだい。ヴェルがお散歩のときに拾ったきれいな石をプレゼントしてくれたの。この子は石を拾うのが大好きでね、小さい頃からこうしてよくプレゼントしてくれたのよ。今でも宝物として大事にとってあるわ」
知らなかった。
今日の散歩道に、なんとなく心惹かれるキラキラした石があったんだ。
それを拾って手の中でもてあそんでいたら、母が嬉しそうな顔をしていた。
だからその場でプレゼントしたのだが。
昔からしていたのか。
「いいことですよ、奥様。そうして思い出に残るものを、これからもたくさん作ってください。そして心が寂しくなったら思い出の品を見るんです。幸せの再生と言って、精神的に上向く有用な効果があるんですよ」
エーリカに勧められて、母はここで僕と過ごす毎日を日記に残している。
毎晩、最初の一日目から読み返しているのだそうだ。
だんだん長くなるのだから、読むのも大変じゃないかと聞いたことがある。
しかし、エーリカの言うように、読めば読むだけ幸せになるのだそうだ。
ここでは同じようなことしかしていないし、書くことも少ないのかと僕は思ったが、僕が何を美味しそうに食べたとか、エーリカからこんなことを聞いたとか、ほんとうに他愛のないことまで母は詳細に書き記していた。
「今日のお菓子の中では、ヴェルはチョコと胡桃のクッキーがお気に入りだったわね。私も食べてみたけど、香ばしく胡桃が炒ってあって、コリコリした歯触りも良かったわ」
「奥様、ちゃんとお茶にミルクは入れましたか?」
「もちろんよ、だってヴェルが監視しているのですもの。たっぷり入れたわ」
ミルクは骨を強くするから、相性のよいナッツのお菓子が出たときはなるべくお茶に入れるようにと、これもエーリカの指導だ。
食べ物も、同時に摂るといいものと、駄目なものがあるそうだ。
エーリカの知識は薬に留まらず、底が知れない。
療養先に滞在してもう半月になるが、母は元気になる一方だ。
今ではずいぶんと散歩の距離も延びたし、食事の量も増えた。
細いだけだった体にも、筋肉と脂肪がつき始めている。
一人だけ僕たちと一緒に残ってくれていた医者も喜んでいた。
「やはり同性同士というのは気兼ねせず相談も出来て、いいものです。私はどう頑張っても、奥様のおじいちゃんにしかなれません。それでは話しにくいこともあるでしょうから」
「先生の医師という立場は揺るぎませんよ。それは薬師である私が侵していい領域ではありません。だけど女性同士じゃないと話しにくいことというのは、確かにあると経験上からも思います」
「もっとこの界隈に女性が増えるといいのですが、頭の固い男性陣ばかりで。まだまだですな」
大きな課題だと医者は溜め息をつく。
エーリカもそれには思うところがあるようだった。
その日の夜、星がきれいだからとエーリカを散歩に誘った。
僕はときどき、こうしてエーリカを連れ出す。
ずっと母についているのも大変だろうし、なにより僕がエーリカと話したかったから。
「エーリカはどうして薬師になったのですか?」
今日の医者の話を聞いていて、ふと思ったことだった。
医師にも薬師にも女性は少ない。
それなのになぜ、薬師という職業を選んだのだろう。
「私の生まれた田舎はね、田舎すぎて医師はいないの。かろうじて通いの薬師がいるくらい。でも私たちは足元を見られて、高い薬を買わされる。だから自分たちで薬の知識を身につけるのが普通だったわ」
王都でしか生活したことのない僕には、エーリカの田舎の話は驚きだった。
医者のいない場所で大怪我でもしたらどうするんだ。
もしかしたらエーリカが死んでいたかもしれない未来にゾッとする。
「とくに男性の薬師は女性の病気に無頓着なの。だから女性たちは女性たちの間で、秘伝のように知識を受け継いできたわ。私の薬の知識もそう。ほとんどがおばあちゃんに教わったものよ」
エーリカの果てしない知識を目の当たりにしている僕には、そのエーリカのおばあちゃんが魔女かなにかに思えた。
きっと何代も何代も、知識を積み重ねてきたのだろう。
自分たちの子孫の命を守るために。
「私が田舎を飛び出して薬師になったのはね、王都で一旗あげようと思ったからなの。ここで商売を軌道に乗せて、田舎にいる薬師並みに知識のある子たちを呼び寄せて、女性ばかりの大きな薬店を開きたいの。女性特有の病気に苦しんでいる人は数多くいるわ。そしてそれを男性の医師に相談しづらくて困っている人もね。私たちがそういう人たちの救世主になれるんじゃないかと思っているの」
壮大だった。
思っていた以上に壮大な理由だった。
そしてこれがエーリカの言っていた、大きな夢なのだと分かった。
エーリカに、いつ自分の気持ちを告白しようかとタイミングを計っていた僕は、うっかりその夢に飲まれてしまって、黙り込むしかできなかった。
「奥様のお世話を長らく任されていますが、自ら朝食を取りたいとおっしゃられたのは今日が初めてです。きっとヴェルナーさまが一緒に食べようと誘ってくださったからでしょう」
使用人頭はニコニコしていた。
そうだったのか。
なんのけなしに母を朝食に誘ったが、それならば良かった。
ゆっくりとしか歩けない母を、食堂までエスコートする。
エーリカから、少しでも歩いたほうがいいと教えられたから、抱き上げて運ぶことは止めた。
柔らかい日差しがレースのカーテンに弾かれ、テーブルに並んだ皿へきらめきをこぼす。
その皿には、爽やかな朝もビックリの肉の塊。
なんと僕のために、料理長が朝から肉を焼いてくれたのだ。
実は騎士団の朝食でも肉が出るのだが、こんなにいい肉ではない。
そしてエーリカの前には飾り切りされた可愛らしい果物の数々。
料理長の歓迎の心を感じた。
母の前には滋養によさそうな野菜のスープが置かれる。
これはいつも用意されているものだそうだ。
エーリカと母、そして僕で囲んだ食卓は思いの外にぎやかなものとなった。
母の食べる量は少なかったが、それでも僕が美味しいと言ったものを食べたがり、料理長が泣いて喜んでいた。
母の食欲を見てエーリカがさっそく助言する。
「奥様、これからは野菜のスープだけでなく、もっと食べられるものの種類を増やしていきましょう。足りない栄養を薬で補給することもできますが、日々の食事から摂るのが体にとっては自然なんです。それから食事の量をいきなり多くするよりは、食事をする回数を多くしましょう。三食以外に、お菓子をつまみながらヴェルナーとお茶を飲む時間をもうけませんか?」
「それは素敵な提案だわ。ヴェル、どうかしら? 私と一緒にお茶を飲んでくれる?」
出会ったときからそうだったが、母は僕をヴェルと呼ぶ。
小さい頃の愛称だったんだろう。
呼んでくれる人がいなくなったことで、僕も忘れていた。
「もちろんです」
「ヴェルナーにはお茶の時間の前に奥様とお散歩をすることもお勧めするわ。少し動いたあとの方が、摂取したものが体に取り込まれやすいの」
「まあ、それもいいわね! ここは山の頂だから、眺望のいい場所があるのよ。ヴェルにも見てもらいたいわ」
母がウキウキしているのが伝わる。
これまでほとんど部屋にこもりきりで、僕の絵を日がな一日眺めて過ごしていたと聞いた。
国王陛下が眺望のいい場所に連れ出しても、王都のある方ばかりを見ていたそうだ。
母にとって残してきた僕の存在は大きく、片時も忘れることが出来なかったのだろう。
「お散歩は日差しの柔らかい午前に、午後からはヴェルナーと体操をしてもらいます。奥様の体は凝り固まっていて稼働領域が随分と狭まっていますから、このままでは思わぬ怪我をすることもあるでしょう。少しずつ体をほぐして、それと共に筋肉もつけていきましょうね」
エーリカはうまいこと僕を餌にしている。
母は僕と一緒に出来ることはなんでも積極的にやりたがる。
しかも喜んでやるのだから、僕だって嬉しい。
三人で始めた療養生活は、想像していた以上に楽しいものだった。
◇◆◇
「エーリカ、見てちょうだい。ヴェルがお散歩のときに拾ったきれいな石をプレゼントしてくれたの。この子は石を拾うのが大好きでね、小さい頃からこうしてよくプレゼントしてくれたのよ。今でも宝物として大事にとってあるわ」
知らなかった。
今日の散歩道に、なんとなく心惹かれるキラキラした石があったんだ。
それを拾って手の中でもてあそんでいたら、母が嬉しそうな顔をしていた。
だからその場でプレゼントしたのだが。
昔からしていたのか。
「いいことですよ、奥様。そうして思い出に残るものを、これからもたくさん作ってください。そして心が寂しくなったら思い出の品を見るんです。幸せの再生と言って、精神的に上向く有用な効果があるんですよ」
エーリカに勧められて、母はここで僕と過ごす毎日を日記に残している。
毎晩、最初の一日目から読み返しているのだそうだ。
だんだん長くなるのだから、読むのも大変じゃないかと聞いたことがある。
しかし、エーリカの言うように、読めば読むだけ幸せになるのだそうだ。
ここでは同じようなことしかしていないし、書くことも少ないのかと僕は思ったが、僕が何を美味しそうに食べたとか、エーリカからこんなことを聞いたとか、ほんとうに他愛のないことまで母は詳細に書き記していた。
「今日のお菓子の中では、ヴェルはチョコと胡桃のクッキーがお気に入りだったわね。私も食べてみたけど、香ばしく胡桃が炒ってあって、コリコリした歯触りも良かったわ」
「奥様、ちゃんとお茶にミルクは入れましたか?」
「もちろんよ、だってヴェルが監視しているのですもの。たっぷり入れたわ」
ミルクは骨を強くするから、相性のよいナッツのお菓子が出たときはなるべくお茶に入れるようにと、これもエーリカの指導だ。
食べ物も、同時に摂るといいものと、駄目なものがあるそうだ。
エーリカの知識は薬に留まらず、底が知れない。
療養先に滞在してもう半月になるが、母は元気になる一方だ。
今ではずいぶんと散歩の距離も延びたし、食事の量も増えた。
細いだけだった体にも、筋肉と脂肪がつき始めている。
一人だけ僕たちと一緒に残ってくれていた医者も喜んでいた。
「やはり同性同士というのは気兼ねせず相談も出来て、いいものです。私はどう頑張っても、奥様のおじいちゃんにしかなれません。それでは話しにくいこともあるでしょうから」
「先生の医師という立場は揺るぎませんよ。それは薬師である私が侵していい領域ではありません。だけど女性同士じゃないと話しにくいことというのは、確かにあると経験上からも思います」
「もっとこの界隈に女性が増えるといいのですが、頭の固い男性陣ばかりで。まだまだですな」
大きな課題だと医者は溜め息をつく。
エーリカもそれには思うところがあるようだった。
その日の夜、星がきれいだからとエーリカを散歩に誘った。
僕はときどき、こうしてエーリカを連れ出す。
ずっと母についているのも大変だろうし、なにより僕がエーリカと話したかったから。
「エーリカはどうして薬師になったのですか?」
今日の医者の話を聞いていて、ふと思ったことだった。
医師にも薬師にも女性は少ない。
それなのになぜ、薬師という職業を選んだのだろう。
「私の生まれた田舎はね、田舎すぎて医師はいないの。かろうじて通いの薬師がいるくらい。でも私たちは足元を見られて、高い薬を買わされる。だから自分たちで薬の知識を身につけるのが普通だったわ」
王都でしか生活したことのない僕には、エーリカの田舎の話は驚きだった。
医者のいない場所で大怪我でもしたらどうするんだ。
もしかしたらエーリカが死んでいたかもしれない未来にゾッとする。
「とくに男性の薬師は女性の病気に無頓着なの。だから女性たちは女性たちの間で、秘伝のように知識を受け継いできたわ。私の薬の知識もそう。ほとんどがおばあちゃんに教わったものよ」
エーリカの果てしない知識を目の当たりにしている僕には、そのエーリカのおばあちゃんが魔女かなにかに思えた。
きっと何代も何代も、知識を積み重ねてきたのだろう。
自分たちの子孫の命を守るために。
「私が田舎を飛び出して薬師になったのはね、王都で一旗あげようと思ったからなの。ここで商売を軌道に乗せて、田舎にいる薬師並みに知識のある子たちを呼び寄せて、女性ばかりの大きな薬店を開きたいの。女性特有の病気に苦しんでいる人は数多くいるわ。そしてそれを男性の医師に相談しづらくて困っている人もね。私たちがそういう人たちの救世主になれるんじゃないかと思っているの」
壮大だった。
思っていた以上に壮大な理由だった。
そしてこれがエーリカの言っていた、大きな夢なのだと分かった。
エーリカに、いつ自分の気持ちを告白しようかとタイミングを計っていた僕は、うっかりその夢に飲まれてしまって、黙り込むしかできなかった。
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