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私と藤枝(3)
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廊下に足を乗せようとしていた私は、藤枝の視線の先に目を向けました。
そこは、マンホールの蓋を被せただけの、穴のようなものがある場所にございます。その蓋は、ほんの少し、中を覗くことができるほどに、穴からずれて被さっておりました。
「あのようなもの、ここのお庭にありましたでしょうか。」
「それが、私もはっきりとは覚えておりませんの。
あったような気も致しますし、無かったような気もしますわ。」
「いずれにしても、蓋がずれて少し穴が見えておりますね。
これでは、日が暮れてからや、朝方掃除当番の使用人があの穴で怪我をしてしまうかもしれません。
何より、よくお庭をお散歩なさっているお嬢様が、お転びにでもなられたら、
大変危なくございます。
私、蓋のずれを戻して参りますので、お嬢様は少し、ここでお待ちになられていて下さい。」
「藤枝、やめましょう。
貴方が危なくってよ。
何もこんな夕暮れの、足元がはっきりとしない時になさらなくても良いではないの。
貴方が怪我をしてしまうわ。
そうなってしまったら、私……。」
ざっざっざっざっ。
藤枝は、庭に敷き詰めた砂利の上を歩き、穴に近付いて行かれます。
「お嬢様は心配性にございますねぇ。
このくらいの暗さであれば、確かに少し見えづらいですが、まだまだ大丈夫にございますよ。
ちょこちょこっと、私が蓋を嵌めて、すぐにそちらへ戻りますので、お嬢様は見ていて下されば構いません。
あ、こちらに来られてはいけませんよ。
凛子様は、少々好奇心のお強いところがございますから、前もって窘(たしな)めさせて頂きます。」
ざっざっざっざっ。
藤枝は、こちらからどんどんと離れ、庭の奥に近い場所にある穴へ、足をお進めになります。
一歩、また一歩。
踏み出し足を擦る度に、庭の石が身をぶつけ合って音を鳴らします。
ざっざっざっざっ。
「藤枝、ねぇ、藤枝だったら。」
「はいはい、如何なさいました。
ほら、私はこのように穴の所まで無事に辿り着けましたよ。
今から、蓋を閉めますねっと……。」
藤枝は、腰を屈め、蓋を引きずるようなかたちでお閉めになりました。
ずずずずずずず。
カタン。
「閉まりましたよ、お嬢様。
では、今から、そちらに向かいますので、
もう少しお待ちになって下さいね。」
藤枝は、元来た道を再び歩き始めます。少し不気味な穴でもありましたから、
年甲斐もなく怖いだなんて思ってしまいましたが、こちらに歩いてくる藤枝の笑顔を見ておりますと、そんな風に思ったことが、幼稚に感じられ、何をそんなに怯えていたのかと馬鹿らしく思えて参ります。
チリン。
今日はよく鳴る風鈴に目をやりました。いつもは、あまり鳴りませんのに。それ程、風なんか吹いていますかしら。私はあまり感じられないのだけれど、風鈴にしか分からない風があるのかもしれませんわね。
ざっざっざっざっ。
ざっざっざっざっ。
チリン。
チリン。
カタン。
ずずずずずずずずずずず。
風鈴を見つめながら、いつからか聞こえなくなった藤枝が歩く音に違和感を覚え、庭に視線を向けました。
穴からそう進んできてはいない位置に藤枝が立っております。しばらく見つめていましても微動だに致しません。
「何をなさっているの。
どうして、そのような所で立ち止まっていらっしゃるの。」
「お、お嬢様……。
私、私……足を……。」
「足……。
貴方、もしかして足をくじいたのね。
ほら、私の言う通りになさらないからよ。
待っていらして。いま、誰か呼んで来ますわ。」
「お嬢様っ。」
駆けだそうとした私を、藤枝の怒鳴るような声が引き止めます。このように、声を上げた藤枝を初めて見ました私は、足を竦(すく)ませ、藤枝に視線を戻しました。
よく見ると、藤枝は血の気が失せたように真っ青で、まじまじと見なければ気が付けない程に、周囲の色闇と同化しております。
「藤枝、いかがなさったの。」
「お嬢様、どこにも行かれないで、私のお願いを聞いて下さいますか。」
「も、勿論よ。
貴方を置いて、どこにも行ったりしないわ。
約束しますから、さ、仰って。
私は、何をすれば良いの。」
「有難うございます、お嬢様、本当に有難うございます。
では……私の足を……足を見て頂けませんか。」
「足……。」
切羽詰まったようでいながら、できるだけ落ち着く素振りを装おうとする藤枝の姿から、私は見えない理解のできぬ恐怖を覚えつつ、言われた通り足を見つめます。
「お嬢様ぁ……もっと、下です……。
もっと下のぉ……足首のぉ……。」
「待って。今、見ていますから。
足首を見れば良いのよね。
けれど、藤枝。
私、さっきから貴方の足首を見ているけれど、これと言ってな……にも……。」
私の背を、嫌な汗が滑り落ちていきました。毛穴という毛穴から、汗が噴き出ているような感覚とは反対に、口の中は一切の唾液をなくしたと言っても、過言ではないくらいに渇ききっております。
肺を必死で膨らませながら、空気を吸っても痛みを感じるだけで、思うように呼吸ができません。何かの見間違いや、夢であったのなら、これ程までに苦しく痛むことはないのでしょう。
そう、これは幻や夢などではないのです。
先程閉めたはずの穴から、青白い手が伸びては、藤枝の足を掴んでいるだなんて。
嘘であって欲しいのに、どう願ってもこの痛みは現実でしかありませんでした。
「お嬢……さまぁ……。
私の足は……。」
「藤枝っ、あ、貴方の足に蔓が、蔓が絡まっていますわ……。
だから、足を力強くお振りになって、こちら側に走っていらっしゃいよ。
そ、そうすれば、つ、蔓も切れて足が動くようになるはずだわ。
ね、さ、早くこちらに走っていらして。
さぁ、早く、足元等見ずに早くっ……。」
生まれて初めて声を荒げました。私は上手く合わさらない歯を、懸命に懸命に噛み合わせ藤枝を呼びます。彼女に、足元を見せてはいけない。その一心で、声を張り上げました。
「ふ、藤枝、何をしているのっ。
さぁ、さぁ、早く。」
「つ、蔓…本当に蔓でございますか……。」
「そうよ、だから、早く、早く駆けていらしてっ。」
ですが人というの
は、どうあっても好奇心には勝つことができないものなのでしょう。
たとえそれが大きな代償と引き換えだったとしても、
勿論そうなることを薄々気が付いていたとしても、欲求からは抗えないものでございますわ。
「ふじ……。」
ずざざざざざざざざざざざざざざざっ。
「え…。」
ずずずずずずずずずずずず。
「だ……。」
カタン。
足元を覗き込む藤枝を制する為の声すら、彼女に届いたのかは分かりません。
ほんの一瞬のこと。
何に引き擦り込まれたのか気付いていたのでしょうか。
そう疑問に思えてしまうくらいのまばたきの速さで、藤枝は穴に消えて行ってしまわれました。
「あぁ……。」
言葉にならない恐怖が私の口から漏れてくるのと、ほぼ同時に廊下に座り込みました。
立っていたのが、不思議に思えてくるほど、膝から先の感覚がございません。
いつの間にか鳴き始めました虫たちの声をただ耳に流しながら、私は一人、
先程まで藤枝が立っておりました場所を見つめることしかできません。
カタン。
ずずずず。
蓋は、そっと静かにまたその口をお開きになります。
夏の夜はこんなにも寒いものだったでしょうか。
冷たくなった体を抱き、私は、ただただ、その場所を見つめておりました。
チリン。
そこは、マンホールの蓋を被せただけの、穴のようなものがある場所にございます。その蓋は、ほんの少し、中を覗くことができるほどに、穴からずれて被さっておりました。
「あのようなもの、ここのお庭にありましたでしょうか。」
「それが、私もはっきりとは覚えておりませんの。
あったような気も致しますし、無かったような気もしますわ。」
「いずれにしても、蓋がずれて少し穴が見えておりますね。
これでは、日が暮れてからや、朝方掃除当番の使用人があの穴で怪我をしてしまうかもしれません。
何より、よくお庭をお散歩なさっているお嬢様が、お転びにでもなられたら、
大変危なくございます。
私、蓋のずれを戻して参りますので、お嬢様は少し、ここでお待ちになられていて下さい。」
「藤枝、やめましょう。
貴方が危なくってよ。
何もこんな夕暮れの、足元がはっきりとしない時になさらなくても良いではないの。
貴方が怪我をしてしまうわ。
そうなってしまったら、私……。」
ざっざっざっざっ。
藤枝は、庭に敷き詰めた砂利の上を歩き、穴に近付いて行かれます。
「お嬢様は心配性にございますねぇ。
このくらいの暗さであれば、確かに少し見えづらいですが、まだまだ大丈夫にございますよ。
ちょこちょこっと、私が蓋を嵌めて、すぐにそちらへ戻りますので、お嬢様は見ていて下されば構いません。
あ、こちらに来られてはいけませんよ。
凛子様は、少々好奇心のお強いところがございますから、前もって窘(たしな)めさせて頂きます。」
ざっざっざっざっ。
藤枝は、こちらからどんどんと離れ、庭の奥に近い場所にある穴へ、足をお進めになります。
一歩、また一歩。
踏み出し足を擦る度に、庭の石が身をぶつけ合って音を鳴らします。
ざっざっざっざっ。
「藤枝、ねぇ、藤枝だったら。」
「はいはい、如何なさいました。
ほら、私はこのように穴の所まで無事に辿り着けましたよ。
今から、蓋を閉めますねっと……。」
藤枝は、腰を屈め、蓋を引きずるようなかたちでお閉めになりました。
ずずずずずずず。
カタン。
「閉まりましたよ、お嬢様。
では、今から、そちらに向かいますので、
もう少しお待ちになって下さいね。」
藤枝は、元来た道を再び歩き始めます。少し不気味な穴でもありましたから、
年甲斐もなく怖いだなんて思ってしまいましたが、こちらに歩いてくる藤枝の笑顔を見ておりますと、そんな風に思ったことが、幼稚に感じられ、何をそんなに怯えていたのかと馬鹿らしく思えて参ります。
チリン。
今日はよく鳴る風鈴に目をやりました。いつもは、あまり鳴りませんのに。それ程、風なんか吹いていますかしら。私はあまり感じられないのだけれど、風鈴にしか分からない風があるのかもしれませんわね。
ざっざっざっざっ。
ざっざっざっざっ。
チリン。
チリン。
カタン。
ずずずずずずずずずずず。
風鈴を見つめながら、いつからか聞こえなくなった藤枝が歩く音に違和感を覚え、庭に視線を向けました。
穴からそう進んできてはいない位置に藤枝が立っております。しばらく見つめていましても微動だに致しません。
「何をなさっているの。
どうして、そのような所で立ち止まっていらっしゃるの。」
「お、お嬢様……。
私、私……足を……。」
「足……。
貴方、もしかして足をくじいたのね。
ほら、私の言う通りになさらないからよ。
待っていらして。いま、誰か呼んで来ますわ。」
「お嬢様っ。」
駆けだそうとした私を、藤枝の怒鳴るような声が引き止めます。このように、声を上げた藤枝を初めて見ました私は、足を竦(すく)ませ、藤枝に視線を戻しました。
よく見ると、藤枝は血の気が失せたように真っ青で、まじまじと見なければ気が付けない程に、周囲の色闇と同化しております。
「藤枝、いかがなさったの。」
「お嬢様、どこにも行かれないで、私のお願いを聞いて下さいますか。」
「も、勿論よ。
貴方を置いて、どこにも行ったりしないわ。
約束しますから、さ、仰って。
私は、何をすれば良いの。」
「有難うございます、お嬢様、本当に有難うございます。
では……私の足を……足を見て頂けませんか。」
「足……。」
切羽詰まったようでいながら、できるだけ落ち着く素振りを装おうとする藤枝の姿から、私は見えない理解のできぬ恐怖を覚えつつ、言われた通り足を見つめます。
「お嬢様ぁ……もっと、下です……。
もっと下のぉ……足首のぉ……。」
「待って。今、見ていますから。
足首を見れば良いのよね。
けれど、藤枝。
私、さっきから貴方の足首を見ているけれど、これと言ってな……にも……。」
私の背を、嫌な汗が滑り落ちていきました。毛穴という毛穴から、汗が噴き出ているような感覚とは反対に、口の中は一切の唾液をなくしたと言っても、過言ではないくらいに渇ききっております。
肺を必死で膨らませながら、空気を吸っても痛みを感じるだけで、思うように呼吸ができません。何かの見間違いや、夢であったのなら、これ程までに苦しく痛むことはないのでしょう。
そう、これは幻や夢などではないのです。
先程閉めたはずの穴から、青白い手が伸びては、藤枝の足を掴んでいるだなんて。
嘘であって欲しいのに、どう願ってもこの痛みは現実でしかありませんでした。
「お嬢……さまぁ……。
私の足は……。」
「藤枝っ、あ、貴方の足に蔓が、蔓が絡まっていますわ……。
だから、足を力強くお振りになって、こちら側に走っていらっしゃいよ。
そ、そうすれば、つ、蔓も切れて足が動くようになるはずだわ。
ね、さ、早くこちらに走っていらして。
さぁ、早く、足元等見ずに早くっ……。」
生まれて初めて声を荒げました。私は上手く合わさらない歯を、懸命に懸命に噛み合わせ藤枝を呼びます。彼女に、足元を見せてはいけない。その一心で、声を張り上げました。
「ふ、藤枝、何をしているのっ。
さぁ、さぁ、早く。」
「つ、蔓…本当に蔓でございますか……。」
「そうよ、だから、早く、早く駆けていらしてっ。」
ですが人というの
は、どうあっても好奇心には勝つことができないものなのでしょう。
たとえそれが大きな代償と引き換えだったとしても、
勿論そうなることを薄々気が付いていたとしても、欲求からは抗えないものでございますわ。
「ふじ……。」
ずざざざざざざざざざざざざざざざっ。
「え…。」
ずずずずずずずずずずずず。
「だ……。」
カタン。
足元を覗き込む藤枝を制する為の声すら、彼女に届いたのかは分かりません。
ほんの一瞬のこと。
何に引き擦り込まれたのか気付いていたのでしょうか。
そう疑問に思えてしまうくらいのまばたきの速さで、藤枝は穴に消えて行ってしまわれました。
「あぁ……。」
言葉にならない恐怖が私の口から漏れてくるのと、ほぼ同時に廊下に座り込みました。
立っていたのが、不思議に思えてくるほど、膝から先の感覚がございません。
いつの間にか鳴き始めました虫たちの声をただ耳に流しながら、私は一人、
先程まで藤枝が立っておりました場所を見つめることしかできません。
カタン。
ずずずず。
蓋は、そっと静かにまたその口をお開きになります。
夏の夜はこんなにも寒いものだったでしょうか。
冷たくなった体を抱き、私は、ただただ、その場所を見つめておりました。
チリン。
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