茜空に咲く彼岸花

沖方菊野

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二章二

ウレタカジツ(3)

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 廃れた匂いがする。


 鈴音は土方の後を歩きながら、先行く彼の広い背を見つめていた。


 いつの時代になっても人々の差は変わらない。


 前方を歩く背にある着物の縫い目を見ながらも、自然と左右の様子が視界に映る。彼女は長い息をついた。

 生まれついた家でその者の全てが決まる。

 それは幾つの時代を経てきても不変であった。天皇や将軍、元号や町並み、人々の流行や様子が変化していこうと、それが変わることはない。

 白粉の香りが漂う場所と、饐(す)えた臭いが充満する場所しか、この世の中には存在しないのである。

 言い換えれば、どちらか片方のみでは成り立たない。


 きっとこれから先もこのままなのだろう。


 変われば良いのに。


 そう思うことは、いつも何故か変わってはくれない。

 それを変えていこうとした者の背を、鈴音は思い出す。

 生まれや育ちを気にもせず、自分を受け入れてくれた者。
 自由に生きようとする彼女に微笑みを向けた者。

 もう今はいない者。

 その者が生きていたのであれば、世の中はもっと変わったのだろうか、と何度も抱いてきた疑念を、普段と変わらず頭を振って掻き消す鈴音。


 世の中が変わったかどうか。


 そんな偽善染みた考えは、彼女にとっては何だって良かったからだ。

 人の世が良くなれば良い、そうなるように革命を起こしたい。

 鈴音は、そんな大層を成し得たいと野望を抱いたことは一切なかった。

 好きな場所に行き、好きなものを食べ、とにかく思うがままに。


 自分の求めるままにある。


 自分と自分が想う大事な者達が、そうあれる。


 ただそれだけを胸に生きている。


 そのためだけに生きていく。



 そう、約束したから……あいつと……。


 鈴音がその者の名を心に唱えようとしたとき、前方の背にぶつかった。

 見れば土方が歩みを止めている。
 彼女の鼻先に触れた土方の着物は、柔らかな香に土の臭いが織り込まれていた。
 






「だぁぁぁぁっからっ。
そうじゃねぇんだって。」


 覇王が乱暴に頭を掻きむしると、八番組組長の藤堂は肩を縮めながら焦った。


「すみませんっ。」


 その華奢な肩に、二番組組長の沖田は笑顔で手を乗せた。


「藤堂さん、気にする必要なんてありませんよ。


稽古に遅刻してくるようなこんな人に。」


 沖田は笑顔のまま、覇王に冷めた眼差しを向けた。

 三人が集まる場所は、新選組屯所内にある小部屋。
 鈴音と静代に宛がわれている小さな部屋であった。
 文机と布団、鈴音達が持ち込んだ行李が置かれるだけの飾り気のない質素で必要最低限な空間。

 使い主の不在なこの部屋で、彼らは霊力の鍛錬を行っていた。彼ら、といっても覇王は教える側であるため、鍛錬を行っているのは人間の二人だけになる。

 サトリの一件以降、鈴音の提案により霊力鍛錬が計画されることになった。

 最初に新選組の組長・幹部達から始まり、そこである程度の力がつけば、組長達が所属する隊士達にその霊力の鍛錬を付けていくという内容である。

 その計画自体に突飛さはなく、単純であるにも関わらず、新選組の人間が思うほどに事態は進行をしていなかった。


 大きな要因としては二つ。

 一つは、霊力の覚醒には時間がかかるということ。覚醒の機会やその力の差、それを使いこなすための鍛錬には型がない。
 習得するための流れのような基礎はあるが、これをしたからといって確実に結果を成すという手順がないのである。

 まさしく十人十色の鍛錬。

 あらゆることに個人のきっかけが重要であり、それらは手探りで時間を要した。
 世間には言葉や理屈で教えられることと、そうでないことがある。
 術そのものは前者であるが、その術を使うための源を掘り返すのは後者。
 だからこそ、覇王でさえも鍛錬に頭を抱えていた。上手く説明のしようがないのである。その説明のない言葉の並びから感覚を読み取り、実行できた者しか霊力は覚醒されない。

 僅かばかりの才能や感の良さがあれば、すぐに成し得もするが、当然、そんな者は多く存在しないものだ。

 何度言っても伝わらず、こちらの意図とは異なることばかりをする人間二人に覇王は苛立っていた。

 そればかりでなく、最強と自称する自身に出来ないことがある、というのも歯がゆく、彼の苛立ちを増させている。

 普段であれば、こんな面倒ごとは鈴音に押しつけているのであるが、今日はその鈴音が鍛錬をつけられないため、覇王が渋々屯所に顔を出したのだ。


 そうして要因の二つ目。

 現状の鍛錬を秘密裏にしか行えないということ。正確に言えば、新選組を預かり、今回の妖物退治の密命を下してきた会津藩の許可が下りるまでの隠密鍛錬である。
 本来の剣術の稽古とは違い、妖物退治は密命。

 上手く取り繋ぎ話を運ばなければ、新選組が密かに覇王達の手を借りていること、許可が出るよりも前に鍛錬を始めていることが露見してしまう。


 いや……あの男なら、そんなへまはしないか。


 覇王は屯所に姿のない、いけすかない鬼の顔を思い浮かべた。

 そんな自身の行為だけで唾を吐き飛ばしたい気になったが、覇王は溜息をつくことでその衝動を抑えこむ。 

 気にくわない相手ではあるが、人をまとめあげ、事を運ぶための才と勢いを備えている。
  
 
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