茜空に咲く彼岸花

沖方菊野

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二章二

ウレタカジツ(2)

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「どうするのじゃ、次は。」


 人混みに紛れながら鈴音の背を見送っている女に、老人は問いかけた。
 だが、女は口を開こうとせず、ただ遠退く背に視線を送っている。


 機嫌が悪いのか。


 老人は女に気付かれないよう鼻先で笑う。
 面には微塵も見せはしなかったが、さとりの一件、何か計画とは違うことが起こっていたのか。


「さぁ、参りましょう。」


 老人の思考の刻を遮るかのように、女がくるりと向きを変える。
 心底心持ち穏やかでないときは、呼び掛けなどもありはしない。
 つまりは、腹の虫の居所が悪いということではないのか、と老人は女と肩を並べる。


「戦よりも女子の方が難しいこともあるよの。」


 白髪の顎髭を撫でる老人を、女はあからさまに鼻で笑う。


「秋の天気と同じにございますから。」


「ほぉ、言うではないか。
ならば今のお主も、それにあてはまるのか。」


「何のことですか。
別に私はいつもと変わりませんよ。」


「そのようだの。」


「機嫌が悪いはずありませんでしょう。
さとりの一件は上手くいった、全ては私の策略通りに順調です。

……それに……。」


 女の足がぴたりと止まる。


「何でも良いのですよ、事の大なり小なりなど。
今、最も重要なことは鈴音と、あの者達の絆が深まること。

ただ、それがあれば良いのです。」


 老人は振り返る。

 そこには笑う般若の姿。

 冷たいものが老いぼれの背を駆け上がっていく。


 恐ろしい。


 その一言につきた。

 それ以上のモノなど、この世の中にはきっと存在しないだろう。

 奥歯を噛みしめた老人は、同時に哀れんだ。 そこまでに顔を歪ませてしまうような何が、あの女の中にあるのか。


 いや、何があったからそうなったのか。


 共に策を興じる者ではあるが、老人は女の身の上を知り得ていない。深く詮索をし、そっぽを向かれでもしたら、自身の野望も手に入れることができなくなる。

 それを思うと、下らぬ好奇心の種火を燃やしあげるほどの衝動は起こらない。

 老人にとって、女はその程度のモノで良いのである。

 何より老人自身が、策士である女の手駒でしかないからだ。
 共闘などという言葉を口にすることがあったとしても、それは名ばかりの文言。
 お互いの関係性を表すのに、勝手の良い言葉なだけである。


 だが……もしわしの望みが叶ったのなら……。


 老人は女をその場に残し歩き出す。

 自身の願望が現実となった先のことを考え歩を運ぶ。
 そうなった時を思うと、女の手駒のままでいるのは老人の癪に障った。女の存在が鼻持ちならなく思えてきて、一泡吹かせたいような気もしてくる。

 でも、どんな嫌味や小言を言われようが、今は堪える時期であることを老人はよく知っていた。


 彼は生前もそうしていたからだ。


 ひたすらに堪え、その転機が起こるのを待つ。


 そのきっかけさえ読み違えなければ、大政を得ることも容易い。


 勿論、本当の意味でただ呑気に待っているだけでは、何の意味もないのであるが。

 自分自身の武勇を思い出すとき、老人は決まって女を抱きたくなった。

 幾つになろうと、生の時が止まろうと血はたぎるもの。

 老親は薄く笑みながら、身なりの綺麗な女に近づく。体裁を良くしているように見えるが、所詮は家柄の見栄でしかないのだろう。

 近づくほどに女の着物が古ぼけた繕いまみれのものであることがよく見える。

 武家の家柄でありながらも、火の車である家計のために夜鷹を行う女はそれなりにいた。 老人は懐から金子を取り出す。

 買えもしない小間物を眺める女の脇に立つと、密かにその手にそれを握らせる。

 女ははっと驚くが、握らされたものの感触でそれが何であるのか察すると、声を上げることもない。

 老人がにやりと笑うと、黄ばんだ歯が覗く。

 自尊心の高いものを蹂躙させた瞬間が一番心地が良い。

 老人が歩き出すと、女は黙って後を追ってくる。


 そこではたと気がつく。


 鈴音に拘るあの女を従わせるのに必要なのは、鈴音だけではないか……と。


 滴りそうな涎を隠すため、彼は口元に袖をあて歩き続けた。

 










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