茜空に咲く彼岸花

沖方菊野

文字の大きさ
上 下
26 / 112

第一章 ヒトダスケ (25)

しおりを挟む
 雪のちらつく中、
遠ざかって行く広い背に手を伸ばす。
指の合間から白い粒が去って行くように、
その背中もどんどん遠くなっていく。


 あらん限りの声を出し、呼び止めようとするが、声帯を奪われてしまったかのように何の声を出す
こともできない。喉にぴったりな蓋が取り付けられたみたいだった。


 声が出せないならと、
急いで足を動かし追い付こうとするが、
寸も近づけることがなく黒い濁流に足下をさらわれ流されてしまう。
もがけばもがくほど濁流はうねりを増し、
その身を捕らえていく。


 呼吸ができない。


 足に力が入らない。


 あいつを。


 あいつを見失ってしまう……。


 待って、まさっ……。


 嗚咽混じりのむせ返るような咳に、思わず体を
起こす。

 満月だろうか。

 皓皓とした月の明かりが、障子の紙をすり抜けて鈴音の顔を照らしている。

 酷い寝汗を袂で拭い、部屋を見渡すが目当ての
人影は見当たらない。


 静代はどこに行ったのだろうか。


 側にいて欲しいと求める時に限って、
何故いないのだろう。静代もあいつも。


 さっき見た夢が、無性に心許ない気持ちを
起こさせる。


 眠るつもりはなかった。
その必要のなくなった鈴音は、睡眠を取ることなく生きていくことができた。
 
 これはもう随分昔に、彼女が失ったものの一つである。

 それだというのに、体は染みついた習慣を忘れることが出来ない。 
 眠るという行為が生きるうえで必要のないものになったとしても、肉体にはその記憶が残っているようで、何もせず、ぼーっとしているといつしか意識が飛んでいるような状態になってしまう。


 だが、どれほど長く意識が飛ぼうが、
あのまどろみや睡眠のあとの心地よい感覚を得られることはない。

 ただ、次に目を開けたとき、時間が長く進んでいるか、短く進んでいるかのことでしかなかった。そうしてそんなときには決まって、見たくもない悪夢のような世界を旅してしまう。


 だから彼女は、そうなってしまわないように、
体が睡眠の記憶を蘇らせてしまわないように気をつけてはいるが、今回はうっかりしてしまった。


 橋の魔の毒牙から毒と呪による傷を受けた鈴音は、二・三日熱にうかされていたからだ。眠りという習慣に体が持っていかれないように、遠くなる気の中で集中はしていたものの、気がついたら大量の汗に着物を湿気らせていた。


 生き物の体はよくできたものだ。


 鈴音は、自嘲気味に鼻で笑うと汗ばんだ胸元に手を入れる。

 指先に生ぬるく湿った銭の感触が伝わった。首元から長く垂らされた紐に通された九文の銭が、豊かな山の膨らみに重なるようにぶら下げられている。

 その銭を鈴音は、一枚ずつ順に何度も指で撫でた。

 そんなことをしても、胸を包み込もうとしている心細さが消え失せることはないが、幾分かは
慰められるように思える。


 気休めに思える行為を数度繰り返した後、
障子の向こうの気配に向かって口を開いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

女官になるはずだった妃

夜空 筒
恋愛
女官になる。 そう聞いていたはずなのに。 あれよあれよという間に、着飾られた私は自国の皇帝の妃の一人になっていた。 しかし、皇帝のお迎えもなく 「忙しいから、もう後宮に入っていいよ」 そんなノリの言葉を彼の側近から賜って後宮入りした私。 秘書省監のならびに本の虫である父を持つ、そんな私も無類の読書好き。 朝議が始まる早朝に、私は父が働く文徳楼に通っている。 そこで好きな著者の本を借りては、殿舎に籠る毎日。 皇帝のお渡りもないし、既に皇后に一番近い妃もいる。 縁付くには程遠い私が、ある日を境に平穏だった日常を壊される羽目になる。 誰とも褥を共にしない皇帝と、女官になるつもりで入ってきた本の虫妃の話。 更新はまばらですが、完結させたいとは思っています。 多分…

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!

ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、 1年以内に妊娠そして出産。 跡継ぎを産んで女主人以上の 役割を果たしていたし、 円満だと思っていた。 夫の本音を聞くまでは。 そして息子が他人に思えた。 いてもいなくてもいい存在?萎んだ花? 分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。 * 作り話です * 完結保証付き * 暇つぶしにどうぞ

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

処理中です...