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「アルテンブルク公爵家のトルデリーゼ! 貴様との婚約は破棄する! そして、俺は真実の愛で結ばれたギーゼラと結婚してアルテンブルク公爵となる!」
王立学院の授業の一環である模擬夜会の会場でそう場違いな宣言をしたのは現国王の第二王子であるザームエルだ。
そのザームエルの宣言にほくそ笑んだ者数名。その一人は今名前を声高に呼ばれ婚約破棄宣言を受けたトルデリーゼだった。
(ああ、長かった。10年も掛かったわ。これで漸く解放される)
トルデリーゼは静々と歩み出ると腰を折り一礼する。
「畏まりましてございます。早速父公爵に申し出て婚約破棄の手続きを進めさせていただきます」
そしてザームエルを見つめはっきりと告げた。
「もちろん、不貞行為による殿下有責での婚約破棄であり、今後一切当公爵家が殿下を援助することはございません。殿下は当公爵家とは一切の関わりがなくなりますゆえ、アルテンブルク公爵位に就くことは出来ませぬことご承知おきくださいませね」
トルデリーゼの言っている意味が解らないのだろうザームエルはキョトンとした表情をしている。そんな元婚約者を内心で哂いながら、トルデリーゼは踵を返した。彼女が会場を出ていくのと同時にバイルシュミット公爵家のヴォルデマールがそれに並ぶ。
「トルデリーゼ嬢、エスコートさせていただくよ」
「ヴォルデマール卿、ありがたく受けさせていただきますわ」
そうして彼女たちに続くのは二家の分家や寄り子の子女たちだ。トルデリーゼたちを守るかのように付き従う。彼らにとっての主家は王家ではなく公爵家なのだ。
また、一定以上の常識と知能を持つ学生も我先にと会場を出ていく。国政そのものが動くことはなかろうが、少なくとも何らかの情勢変化はある。一刻も早く当主たる両親に報告しなければならない。
そうして会場から約3分の2の学生が消えた。残っているのはザームエルとギーゼラの取り巻きや彼らの関係を不貞ではなく真実の愛などと戯けたお花畑思考をしていた愚か者だけだった。
「お、おい! 待て、トルデリーゼ!! まだお前の罪を暴いていない!!」
ザームエルはそんなことを叫んだが、既にトルデリーゼは会場から消えている。
本当は今頃、トルデリーゼは自分に泣いて詫び、自分はそれを寛大にも許してやってギーゼラを愛妾として認めさせていたはずなのに。愚か者のザームエルでも一応は正妻はトルデリーゼにしなければいけないことは理解していた。本当は最愛のギーゼラを妻にしたかったが、それは出来ないと母から何度も説明されていた。不満ではあるが自分が公爵になるためには仕方がないのだとぼんやりとは解っていた。公爵になってしまえばどうにでもなるから、自分が爵位を継いだらトルデリーゼと離縁するか場合によっては殺してしまってギーゼラを後妻に迎えればいいと思っていたのだ。
そのための一歩がこの婚約破棄宣言だった。自分を愛しているトルデリーゼは婚約破棄を回避するために自分の主張を受け入れるだろうと確信していたのだ。
それなのにトルデリーゼはあっさりと了承した。おまけに今後公爵家は一切の援助をしないと言った。援助など受けていたはずはないのだが、とザームエルは首をかしげる。単にザームエルが知らないだけでザームエルやその生母である国王の愛妾ゲルトルーデが贅沢する資金は全てアルテンブルク公爵家からの援助だった。
しかもトルデリーゼはザームエルが公爵となることはないとふざけたことを言う。一体どうなっているのだとザームエルの頭は疑問符でいっぱいになった。
「ねぇ、ザームエル様ぁ、どういうこと? ザームエル様はアルテンブルク公爵になるんじゃないの?」
愛しいギーゼラが可愛らしく袖を引いて尋ねてくるが、ザームエルにもさっぱり解らない。
「ああ、そうだ。どうやら俺に婚約破棄されてトルデリーゼは頭がおかしくなったみたいだな」
頭がおかしいのはお前だと突っ込む者はいない。そう突っ込める真面な思考の持ち主は既にとっくに会場を出ている。残っているのはザームエルと同様に頭の足りない者だけだ。
母は自分がアルテンブルク公爵になるんだと言っていた。母の言うことに間違いなどあるはずがない。だから、自分はアルテンブルク公爵になる。何の心配もいらない。
頭の足りないザームエルは面倒な思考を放棄して、ギーゼラや取り巻きを伴い、自身の離宮(正確には愛妾ゲルトルーデの離宮)へと意気揚々と戻っていった。少々計画とは違ってしまったが、婚約破棄することは出来たのだから十分だと皆で祝うことにしたのだ。
尤も、ザームエルが喜びに浮かれていられたのは翌日の昼過ぎまでのことだった。
そして、その翌日にはザームエルはギーゼラの生家であるディーツ男爵家への婿入りが決まるのだった。
王宮で開かれていた模擬夜会の会場を出たトルデリーゼは満足げに微笑みつつ家路をたどっていた。馬車にはヴォルデマールも同乗している。未婚の男女が二人きりになるわけにはいかず、トルデリーゼの侍女も同乗している。ヴォルデマールの従者は馭者席だ。
「長かったね、リーゼ。早速書類を整えて、君の婚約破棄が成立したらすぐに手続き出来るように進めなければ」
「ええ、マール幸い届を扱う部署の長は我が分家の者。早急に手続きしてくれると思いますわ」
ヴォルデマールの言葉にトルデリーゼは微笑む。10年前からずっと耐えてきた。全てはこの日のために。尤も、予想ではあと2年はかかると思っていた。市井の流行小説では卒業謝恩パーティでの婚約破棄宣言が定番だったからだ。それを待ちきれなかったのか、ザームエルとギーゼラは模擬夜会で騒ぎを起こしてくれた。
「愚か者たちのおかげで学院卒業後すぐに結婚できそうだ」
ヴォルデマールが嬉しそうに言う。卒業までには2年あるのだから十分に準備期間を取ったうえで最短で結婚が出来そうだ。
二人にとって、いや、彼らの両親にとってもトルデリーゼとザームエルの婚約は不本意極まりないものだった。
そもそもトルデリーゼには他の相手との婚約が調いつつあったのだ。幼馴染であり同格の公爵家バイルシュミット家の三男ヴォルデマールが相手だった。お互いに初恋同士で、小さなころから二人は将来の結婚の約束をしていた。
両家の家族もそれを微笑ましく見守る幼い恋人たち。それがトルデリーゼとヴォルデマールだった。
しかし、二人の婚約が調う寸前で王家が横槍を入れてきた。力ある公爵家同士の婚約は権力の偏りを招くというのが許されなかった理由だ。
それが建前であることは明らかだった。全くの嘘や口実というわけでもなかった。無能なお飾りの王家に代わり、貴族を統括しているのがアルテンブルク・バイルシュミット二つの公爵家だった。それぞれの当主は国王の従兄弟と再従兄弟にあたる。そんな家同士が婚姻で結び付くことを王家は嫌ったのだろう。
けれど、国王にはそれ以上の狙いがあった。それが第二王子ザームエルとアルテンブルク公爵家の後嗣トルデリーゼの婚姻だ。王家はアルテンブルク公爵家に対し、トルデリーゼとザームエルの婚約を命じたのだ。
第二王子ザームエルは国王と愛称ゲルトルーデの間に生まれた子で便宜上第二王子とは呼ばれているが王位継承権を持たない。このエッシェンバッハ王国では王妃と側室の子は王位継承権を持つが、愛妾の子には王族としての権利は一切与えられないのだ。もちろん、権利が与えられないから王族の義務も発生しない。
ゲルトルーデが側室となれなかったのは子爵家の出身であるからだ。ゲルトルーデは国王が王太子で学生であったころからの愛人だった。国王はゲルトルーデを正妻にしたかったようだが、王室典範によって王妃(王太子妃)になれる条件は細かく定められており、ゲルトルーデはその条件を何一つ満たしていなかった。更に側室も伯爵家以上と王室典範に定められており、国王(当時は王太子)は私的な愛妾としてゲルトルーデを囲うしかなかった。
そんなゲルトルーデの子であるザームエルは王族としての権利を持たず、成人後には臣下に下るしかない。臣籍降下する際、王妃所生であれば公爵位を与えられるが、側室・愛妾所生の子は母親の実家に準じた爵位が与えられる。臣籍降下の際に与えられる支度金も当然ながらその爵位に準じた額となる。
つまり、子爵家出身のゲルトルーデの子であるザームエルは子爵位を与えられ、彼らの現在の生活からすれば雀の涙ほどのはした金しか与えられずに王家を出ていくことになる。
そこで孫の将来のためにゲルトルーデの父親が画策したのが裕福な高位貴族への婿入りだ。脳内がお花畑で全く頼りにならない娘夫婦に代わってゲルトルーデの父である子爵が説得して王に命じさせた。そして狙われたのがアルテンブルク公爵家の後嗣となったトルデリーゼだった。
トルデリーゼはアルテンブルク公爵家の唯一子というわけではない。しかし、兄と妹はそれぞれの事情によってアルテンブルク公爵家の後嗣とはなれないため、トルデリーゼが次期公爵と定まっていた。
兄マクシミリアンは隣国の大公家へ養子に出ることが決まっている。大公家は母の実家であり、アルテンブルク公爵家よりも格式が高い。おまけに隣国は女性が継嗣となることを認めておらず、男子相続しか出来ないという事情があり、マクシミリアンが養子になることが決まっていた。
また、妹のメヒティルデは生まれながらにして聖属性魔法の適性が高く、神の愛し子として神殿に入ることが決まっていた。既に週のうち半分は神殿に通っており、成人後は神殿にて女神官長となる。婚姻して神殿を辞することは可能だが、当人は生涯独身で神に仕えると決めている。
将来の女公爵となるトルデリーゼに婿入りすれば、ザームエルは生活水準を落とさず貴族でいられる。寧ろ国王の私費によって全ての費用を賄わねばならない現状より余程裕福な暮らしが出来るだろう。そんな狙いで結ばれた婚約だった。
そして、お飾りの王──つまり無能で無知な国王と愛妾ゲルトルーデは愚かにもザームエルが公爵になれると勘違いしていた。
エッシェンバッハ王国は女性にも王位及び爵位継承が認められている。それでも政治の世界は男性社会であり、余計な軋轢を生まぬため、また娘に余計な苦労をさせたくない親心もあってか入り婿が爵位を継ぐことも認められている。
但し、それには条件がある。これは貴族法に明確に定められている。貴族家はそれぞれの家で魔法を継承しており、血統を重視する。だからこその条件だ。因みに爵位は入り婿が持つが、当主はその血筋である妻だ。当主と爵位持ちが別人となるという捻じれが起きることになる。
入り婿の爵位継承条件は以下のようになっている。
①入り婿が爵位を継承するのは、女性後継者の親である現爵位所持者の死去後であること。
②女性後継者である妻が次代となる子(男女問わず)生んでいること。
③次代が成人した当日に爵位は自動的に譲られること。
要は明確に『中継ぎに過ぎない』と定められているのだ。ついでに婚外子を設けた瞬間に爵位は正妻である元々の後継者に移行することも定められている。
そういったこともあり、大抵は入り婿が爵位を継ぐ前に祖父から孫へ爵位継承が行われる。孫が成人するときでも祖父は50代後半から60代であり、また魔力の強い上位貴族は長命な傾向にあることから、入り婿が爵位を継承することはほぼないと言っていい。国王はそんなことも気づいていなかった。
そんな理由もあり、たとえ愚かな第二王子ザームエルが婿入りしてもアルテンブルク公爵家が乗っ取られることはないだろう。とはいえ、やはりトルデリーゼにとってザームエルとの婚約が不本意であることに変わりはなかった。
なお、お飾り王家から持ち込まれた婚約なのだから、有力な貴族であるアルテンブルク公爵家が拒否できないはずがないと思われがちだが、そう簡単なことでもない。寧ろ力のない王家と力ある公爵家だからこそ、容易には断れないと言ったほうがいい。
アルテンブルク公爵家もバイルシュミット公爵家も力のない王家を盛り立て国家を健全に運営する必要がある。ゆえに、他の貴族に明白に王家に反発する姿を見せるわけにはいかないし、余程の案件、それこそ国家存亡に関わるようなことでもなければ王家に逆らうことはしない。
つまり、第二王子ザームエルの婿入り程度であればトルデリーゼや現アルテンブルク公爵でどうにでも制御できるため、逆に断ることが出来なかったのだ。
だからといってトルデリーゼは愚物の妻となることは許容できなかった。彼女は幼馴染であるヴォルデマールとの結婚を諦めてはいなかった。それはヴォルデマールも同様であり、更にはトルデリーゼの家族やヴォルデマールの家族も同様だった。
そうして彼女たちは考えた。アルテンブルク公爵家から断れないのであれば、ザームエルがアルテンブルク公爵家への婿入りを拒むように、トルデリーゼとの婚姻を嫌がるように仕向ければいいという結論に達した。ザームエルに甘い愛妾ゲルトルーデは彼が強く望めばそれを許すだろうし、国王はゲルトルーデが願えばそれを認めるだろう。
短絡的な思考しか出来ない彼らはその後のことなど考えられないに違いない。唯一真面だったブレーンの前子爵(ゲルトルーデの父親)が孫の将来のためにゲルトルーデを唆し国王を操って結んだ婚約だ。しかし、その前子爵も既に亡い。跡を継いだのはゲルトルーデの弟だが、こちらもゲルトルーデと似たり寄ったりなお花畑の住人であり、前子爵時代はそれなりに裕福だった子爵家も今では随分傾いて貧乏貴族の仲間入りをしている。
そういった状況もあり、トルデリーゼは必死に考えて策を練った。ザームエルの性質を見極めるためにザームエルの誘いは断らなかった。正確には祖父の前子爵の根回しによってゲルトルーデが婚約者の交流の場として設けたお茶会だが、その場にトルデリーゼは嫌がることなく出向いた。
そうしてトルデリーゼはザームエルが怠惰で愚かなことを見抜いた。そしてやたらと自尊心が高いことも。この大陸最高峰のアベレシト山よりも高いくらいの根拠のない高い自尊心を持っている。そのくせ努力を嫌い、勉学も剣術も嫌う。おまけに劣等感も強い。自分よりも少しでも優秀な者を嫌い、彼の周囲にいる遊び相手は皆彼と似たり寄ったりな能力と性質の者ばかりだ。
そんなザームエルの性質を踏まえてトルデリーゼは両親と相談して方針を定めた。ザームエルに嫌われ、かつ周囲には責められない方法。そうしてトルデリーゼは次期公爵にふさわしくなるべく勉学に励み、公爵令嬢にふさわしい気品と礼儀を身に着けた。そう、トルデリーゼは『完璧な令嬢』であり『完璧な次期公爵』となることにしたのだ。自尊心が高く劣等感の強いザームエルが一番嫌うであろう姿になるために。
と同時にアルテンブルク公爵はザームエルの劣等感を刺激するためにトルデリーゼと同じ次期公爵としての教育も施した。もちろん、ザームエルがそれらを習得し怠惰な性質が改善されれば、トルデリーゼもアルテンブルク公爵家もザームエルを婿として受け入れるつもりだった。トルデリーゼが嫌われるように仕向けるとはいえ、ザームエルを殊更貶めるつもりもなかったし、愚かに教育するつもりもなかったのだ。ザームエルが次期公爵の婿としてふさわしくなれば、トルデリーゼは貴族令嬢の義務を果たすためザームエルと婚姻し良き妻になるつもりだった。
ヴォルデマールもまたそれを受け入れていた。彼はトルデリーゼとしか結婚するつもりはなかったが、学院卒業までにトルデリーゼとザームエルの婚約がなくならなければ、トルデリーゼのことは諦める覚悟もしていた。
しかし、そんなトルデリーゼとヴォルデマールの覚悟も心配も無用のものだった。国王とゲルトルーデに溺愛されたザームエルの性質が変わることはなかった。公爵家での教育も1ヶ月もしないうちに拒否したし、トルデリーゼとザームエルが顔を合わせるのはゲルトルーデが招くお茶会だけだった。それも前子爵が亡くなってからは半年に一度開かれるかどうかという頻度になった。
ザームエルは優秀なトルデリーゼを妬み『高慢ちきな嫌味女』と罵り、第二次性徴を迎えるとトルデリーゼを放ってあちらの花からこちらの花へと節操なく飛び回るようになった。高位貴族の令嬢というだけでトルデリーゼを嫌うゲルトルーデも諌めるどころかザームエルの言動を助長するかのようにトルデリーゼを貶したこともあって、ザームエルは益々トルデリーゼを嫌い蔑ろにするようになっていった。
学院に入るころになるとトルデリーゼは若い世代の淑女の鏡、最高の淑女と呼ばれるようになっていた。そんなトルデリーゼが気に入らないのか、益々ザームエルは彼女を蔑ろにした。
「王家から望まれた婚約ですもの、わたくしは殿下に忠実にお仕えするしかございませんわ」
そう言って学院でのザームエルの愚行の尻拭いをし、健気にザームエルを諌めるトルデリーゼに対して学院生は同情的だった。派閥的に敵対関係にある貴族の子女でさえ、トルデリーゼに同情した。トルデリーゼに同意・同情する大多数とザームエルの取り巻きである少数に学生は分裂していた。
そしてそういった学院の雰囲気を知ったヴォルデマールもザームエルの婚約破棄を一層進めるための策を実行に移した。分家や寄り子の伝手を使い、敵対派閥の寄り子である某男爵家の令嬢をザームエルの傍に送り込んだのだ。
その敵対派閥にはちょうど同年代がいなかった。これでは王家と懇意にしようにも難しい。学院には王太子である第一王子、次期王妃となるはずのその婚約者もいる。そんな中に敵対派閥は同年代がいないことに焦っていた。だからヴォルデマールは伝手の伝手を使う形でその派閥に側室候補は無理でも次期王妃の侍女候補に出来る娘はいないのかと唆した。側室候補であれば上位貴族でなければならないが、次期王妃の侍女候補(暗に愛妾候補と言っているも同意)であれば下位貴族でも構わない。そうして派閥の長は己の寄り子にちょうどいい娘がいることを知ったのだ。
その男爵家は王都から離れた田舎に領地を持ち、鄙には稀な美しい娘がいる。年齢はちょうど学院1年にあたるが、地方のあまり裕福ではない下位貴族ゆえ娘は学院に入学していなかった。派閥の長はその娘を王立学院に入学させるように男爵に命じた。寄り親直々の要請に男爵はこれも出世のチャンスとばかりに娘を編入させることにした。王都に中古の小さな屋敷を借り、学院の入学費用は寄り親から低金利で貸し付けてもらった。
派閥の長としては男爵の娘が上手く王太子の気に入られれば己の養女として側室にしてもいいとも思った。それほどに娘は美しかった。そうして父親とともに王都にやってきた娘に『学院には王太子殿下がいる。お前のような美しい娘であればすぐに気に入られるだろう』と唆したのだ。
派閥の長である貴族はその娘をよく理解していなかった。慌てて探し出し呼び寄せたために調査不足で紹介した寄り子の言葉を鵜呑みにしていた。
しかし、策を練ったヴォルデマールは違った。学院に入学する数年前から適任者を探していたのだ。だから、娘が王都に憧れ市井の流行小説の内容を鵜呑みにするようなお花畑であることを知っていた。そして、無骨で厳つい容貌の王太子よりも、いかにも王子様然としたザームエルに擦り寄るであろうことも。そんな娘を探していたのだから当然だ。
そうして、入学から2ヶ月遅れで娘は学院に編入した。それがディーツ男爵令嬢ギーゼラだった。
学院に編入してからほどなくザームエルとギーゼラは出会った。ギーゼラは天真爛漫と紙一重な傍若無人さを持っていたし、これまで田舎に引き籠っていたことからお茶会などの子供の社交も経験したことがなく礼儀と作法を全く知らなかった。更に派閥の長が認めたほどの美貌も持っている。美しいというよりは愛らしいといった容貌で、見た目だけならば可憐な美少女だった。
入学から間もない時期の編入とその美貌であっという間に噂になり、その礼儀のなさと図々しさで更に噂は加速した。当然それはザームエルの耳にも入り、興味を持ったザームエルがギーゼラを呼びつけたのが二人の出会いだった。
そこからは坂道を転げ落ちるかのように早かった。ギーゼラは王都から離れた領地にいたことからか王族に関する基本的な知識もなく、学院に複数の王子がいるとは思いもしなかった。王太子という地位と王子の違いもよく理解していなかった。だから派閥の長から『王太子に近づけ』と言われたときも『王太子って王子様のことだよね』としか理解していなかった。
そして、王子様から呼び出しを受け、目の前に現れたのは流行小説から出てきたのではないかというほど美しい王子様だ。あっという間に恋に落ちた。ある意味擦れていないギーゼラはザームエルが何をしても『すごい』『素敵』と喜び、褒めた。それがザームエルの自尊心を満足させ、ザームエルはどんどんギーゼラに溺れていった。
「やだぁ、ザームエル様ったらぁ」
「ギーゼラは可愛いな。どこぞの高慢ちきな婚約者とは大違いだ」
王立学院の中庭や食堂、空き教室で堂々と不貞行為に溺れる愚かなカップルの誕生だ。すっかりギーゼラは自分が流行小説のヒロインになった気分にだった。美しい王子様と可憐な男爵令嬢。王子様には意地悪で美人の高位貴族令嬢の婚約者がいる。王子様は無理やり結ばれた婚約だと言っていた。きっと嫉妬深くて意地悪な人に違いない。そう、物語の悪役令嬢みたいな。ギーゼラはどんどん妄想を暴走させ、それを真実だと思い込むようになった。
学院で軽侮の対象となっているザームエルに侍るギーゼラは良識ある学生からは遠巻きにされていた。一方でザームエルの取り巻きにもちやほやされ、その婚約者からは苦言を呈され、時には嫌がらせもされた。ギーゼラはそれら全ての敬遠と嫌がらせをトルデリーゼの仕業だと思い込んだ。悪役令嬢が手下を使って嫌がらせをしているんだと。
そうして悲劇のヒロインである己に酔い、ザームエルに泣きつく。ザームエルはそれを真に受けてトルデリーゼを責め立てる。それによってトルデリーゼを慕う学生たちは益々ザームエルとギーゼラから遠ざかっていく。
やがてそれはギーゼラの寄り親である派閥の長の耳に入ることとなった。慌てたのは長である貴族だ。ギーゼラは狙いの王太子ではなく、厄介者のザームエルに侍っているではないか。目論見が崩れ去り手を打とうとしたが遅かった。派閥の長が動こうとしたその前日にザームエルは模擬夜会でやらかすのである。
その日、トルデリーゼは幸せを噛み締めていた。目の前には愛しいヴォルデマールがお茶を飲んでいる。今は二人だけの茶会だ。もちろん、侍女や侍従はいるが、彼らは目に入らず話の聞こえない場所で控えていてくれる。漸く10年ぶりに叶った婚約者との時間にトルデリーゼはこの上もない幸せを感じていた。
「この日が来るのが待ち遠しかったよ」
「わたくしもですわ。ずっと待っていてくださってありがとう、マール」
模擬夜会の翌日、無事に婚約は破棄された。夜会から帰宅したときには既に両公爵家には伝達されており、ヴォルデマールの両親もアルテンブルク公爵家の屋敷に揃っていた。アルテンブルク公爵はすぐに婚約破棄の書類を纏め(実は既に作ってあり後は日付を入れるだけになっていた)、両公爵は婚約に関する書類を纏め婚約許可申請書にサインをした(これも既に日付を入れサインするだけになっていた)。
そうして翌日王城に出向き国王を脅したりすかしたりしながら婚約破棄届と婚約許可申請書にサインをさせた。国王は色々とごねていたが、婚約破棄は貴様の大事な息子の願いだと威圧感たっぷりに言い聞かせ承諾させた。愛妾ゲルトルーデは公爵家からの支援金がなくなることでやはり文句を言っているらしく、それについて国王はグチグチと言っていたものの、『愛妾には貴様たちと同じく真実の愛で結ばれたのだから祝福すべきことだとでも言え』と助言してやった。
本来ならばザームエル有責のため王家(というより国王)が慰謝料を支払うところだが、王族として扱われないザームエルのために王家の予算は使えない。なので慰謝料代わりにザームエルをギーゼラの実家ディーツ男爵家に婿入りさせることを了承させた。ギーゼラに兄弟はおらず一応跡取り娘だったことからちょうどいいとばかりにアルテンブルク公爵はそれを了承させた。
欲をかかなければザームエルは子爵位を与えられるはずだったが、トルデリーゼと婚約破棄したことから本来よりも低い爵位につくこととなったわけである。しかも臣籍降下であれば領地は王都に近い王領の一部を与えられるはずだったが、王都から遠く離れた田舎に引っ込むことになる。自業自得だ。
国王と愛妾ゲルトルーデはアルテンブルク公爵家の支援がなくなり、これまでのような贅沢は出来なくなった。しかも王妃にザームエルの失態を責められ早期の退位を迫られている。本来ならばトルデリーゼとザームエルの結婚を前提とした支援金だったため、ザームエル有責の婚約破棄であればその返還が求められてもおかしくなかった。事実、婚約破棄の手続きに同席していた王妃は返還についての話もしようとしたのだが、ザームエルが婚姻後は領地に引き籠ることと愛妾ゲルトルーデが今後一切アルテンブルク・バイルシュミット公爵家に関わらないこと、国王退位後は国王とともにゲルトルーデもディーツ男爵領に行くことを条件としてアルテンブルク公爵は支援金返還を求めなかった。元々トルデリーゼが王家に嫁いだ場合の化粧料の10分の1の金額だったため、アルテンブルク公爵家にとってははした金にすぎなかったのだ。
そして2年後。学院を卒業し成人したトルデリーゼとヴォルデマールが王都の神殿で結婚式を挙げたころ、前国王と愛妾ゲルトルーデ、ザームエルとギーゼラは遠い男爵領へと旅立った。その表情は神殿で幸せいっぱいのトルデリーゼとヴォルデマールとは正反対のものだったという。
王立学院の授業の一環である模擬夜会の会場でそう場違いな宣言をしたのは現国王の第二王子であるザームエルだ。
そのザームエルの宣言にほくそ笑んだ者数名。その一人は今名前を声高に呼ばれ婚約破棄宣言を受けたトルデリーゼだった。
(ああ、長かった。10年も掛かったわ。これで漸く解放される)
トルデリーゼは静々と歩み出ると腰を折り一礼する。
「畏まりましてございます。早速父公爵に申し出て婚約破棄の手続きを進めさせていただきます」
そしてザームエルを見つめはっきりと告げた。
「もちろん、不貞行為による殿下有責での婚約破棄であり、今後一切当公爵家が殿下を援助することはございません。殿下は当公爵家とは一切の関わりがなくなりますゆえ、アルテンブルク公爵位に就くことは出来ませぬことご承知おきくださいませね」
トルデリーゼの言っている意味が解らないのだろうザームエルはキョトンとした表情をしている。そんな元婚約者を内心で哂いながら、トルデリーゼは踵を返した。彼女が会場を出ていくのと同時にバイルシュミット公爵家のヴォルデマールがそれに並ぶ。
「トルデリーゼ嬢、エスコートさせていただくよ」
「ヴォルデマール卿、ありがたく受けさせていただきますわ」
そうして彼女たちに続くのは二家の分家や寄り子の子女たちだ。トルデリーゼたちを守るかのように付き従う。彼らにとっての主家は王家ではなく公爵家なのだ。
また、一定以上の常識と知能を持つ学生も我先にと会場を出ていく。国政そのものが動くことはなかろうが、少なくとも何らかの情勢変化はある。一刻も早く当主たる両親に報告しなければならない。
そうして会場から約3分の2の学生が消えた。残っているのはザームエルとギーゼラの取り巻きや彼らの関係を不貞ではなく真実の愛などと戯けたお花畑思考をしていた愚か者だけだった。
「お、おい! 待て、トルデリーゼ!! まだお前の罪を暴いていない!!」
ザームエルはそんなことを叫んだが、既にトルデリーゼは会場から消えている。
本当は今頃、トルデリーゼは自分に泣いて詫び、自分はそれを寛大にも許してやってギーゼラを愛妾として認めさせていたはずなのに。愚か者のザームエルでも一応は正妻はトルデリーゼにしなければいけないことは理解していた。本当は最愛のギーゼラを妻にしたかったが、それは出来ないと母から何度も説明されていた。不満ではあるが自分が公爵になるためには仕方がないのだとぼんやりとは解っていた。公爵になってしまえばどうにでもなるから、自分が爵位を継いだらトルデリーゼと離縁するか場合によっては殺してしまってギーゼラを後妻に迎えればいいと思っていたのだ。
そのための一歩がこの婚約破棄宣言だった。自分を愛しているトルデリーゼは婚約破棄を回避するために自分の主張を受け入れるだろうと確信していたのだ。
それなのにトルデリーゼはあっさりと了承した。おまけに今後公爵家は一切の援助をしないと言った。援助など受けていたはずはないのだが、とザームエルは首をかしげる。単にザームエルが知らないだけでザームエルやその生母である国王の愛妾ゲルトルーデが贅沢する資金は全てアルテンブルク公爵家からの援助だった。
しかもトルデリーゼはザームエルが公爵となることはないとふざけたことを言う。一体どうなっているのだとザームエルの頭は疑問符でいっぱいになった。
「ねぇ、ザームエル様ぁ、どういうこと? ザームエル様はアルテンブルク公爵になるんじゃないの?」
愛しいギーゼラが可愛らしく袖を引いて尋ねてくるが、ザームエルにもさっぱり解らない。
「ああ、そうだ。どうやら俺に婚約破棄されてトルデリーゼは頭がおかしくなったみたいだな」
頭がおかしいのはお前だと突っ込む者はいない。そう突っ込める真面な思考の持ち主は既にとっくに会場を出ている。残っているのはザームエルと同様に頭の足りない者だけだ。
母は自分がアルテンブルク公爵になるんだと言っていた。母の言うことに間違いなどあるはずがない。だから、自分はアルテンブルク公爵になる。何の心配もいらない。
頭の足りないザームエルは面倒な思考を放棄して、ギーゼラや取り巻きを伴い、自身の離宮(正確には愛妾ゲルトルーデの離宮)へと意気揚々と戻っていった。少々計画とは違ってしまったが、婚約破棄することは出来たのだから十分だと皆で祝うことにしたのだ。
尤も、ザームエルが喜びに浮かれていられたのは翌日の昼過ぎまでのことだった。
そして、その翌日にはザームエルはギーゼラの生家であるディーツ男爵家への婿入りが決まるのだった。
王宮で開かれていた模擬夜会の会場を出たトルデリーゼは満足げに微笑みつつ家路をたどっていた。馬車にはヴォルデマールも同乗している。未婚の男女が二人きりになるわけにはいかず、トルデリーゼの侍女も同乗している。ヴォルデマールの従者は馭者席だ。
「長かったね、リーゼ。早速書類を整えて、君の婚約破棄が成立したらすぐに手続き出来るように進めなければ」
「ええ、マール幸い届を扱う部署の長は我が分家の者。早急に手続きしてくれると思いますわ」
ヴォルデマールの言葉にトルデリーゼは微笑む。10年前からずっと耐えてきた。全てはこの日のために。尤も、予想ではあと2年はかかると思っていた。市井の流行小説では卒業謝恩パーティでの婚約破棄宣言が定番だったからだ。それを待ちきれなかったのか、ザームエルとギーゼラは模擬夜会で騒ぎを起こしてくれた。
「愚か者たちのおかげで学院卒業後すぐに結婚できそうだ」
ヴォルデマールが嬉しそうに言う。卒業までには2年あるのだから十分に準備期間を取ったうえで最短で結婚が出来そうだ。
二人にとって、いや、彼らの両親にとってもトルデリーゼとザームエルの婚約は不本意極まりないものだった。
そもそもトルデリーゼには他の相手との婚約が調いつつあったのだ。幼馴染であり同格の公爵家バイルシュミット家の三男ヴォルデマールが相手だった。お互いに初恋同士で、小さなころから二人は将来の結婚の約束をしていた。
両家の家族もそれを微笑ましく見守る幼い恋人たち。それがトルデリーゼとヴォルデマールだった。
しかし、二人の婚約が調う寸前で王家が横槍を入れてきた。力ある公爵家同士の婚約は権力の偏りを招くというのが許されなかった理由だ。
それが建前であることは明らかだった。全くの嘘や口実というわけでもなかった。無能なお飾りの王家に代わり、貴族を統括しているのがアルテンブルク・バイルシュミット二つの公爵家だった。それぞれの当主は国王の従兄弟と再従兄弟にあたる。そんな家同士が婚姻で結び付くことを王家は嫌ったのだろう。
けれど、国王にはそれ以上の狙いがあった。それが第二王子ザームエルとアルテンブルク公爵家の後嗣トルデリーゼの婚姻だ。王家はアルテンブルク公爵家に対し、トルデリーゼとザームエルの婚約を命じたのだ。
第二王子ザームエルは国王と愛称ゲルトルーデの間に生まれた子で便宜上第二王子とは呼ばれているが王位継承権を持たない。このエッシェンバッハ王国では王妃と側室の子は王位継承権を持つが、愛妾の子には王族としての権利は一切与えられないのだ。もちろん、権利が与えられないから王族の義務も発生しない。
ゲルトルーデが側室となれなかったのは子爵家の出身であるからだ。ゲルトルーデは国王が王太子で学生であったころからの愛人だった。国王はゲルトルーデを正妻にしたかったようだが、王室典範によって王妃(王太子妃)になれる条件は細かく定められており、ゲルトルーデはその条件を何一つ満たしていなかった。更に側室も伯爵家以上と王室典範に定められており、国王(当時は王太子)は私的な愛妾としてゲルトルーデを囲うしかなかった。
そんなゲルトルーデの子であるザームエルは王族としての権利を持たず、成人後には臣下に下るしかない。臣籍降下する際、王妃所生であれば公爵位を与えられるが、側室・愛妾所生の子は母親の実家に準じた爵位が与えられる。臣籍降下の際に与えられる支度金も当然ながらその爵位に準じた額となる。
つまり、子爵家出身のゲルトルーデの子であるザームエルは子爵位を与えられ、彼らの現在の生活からすれば雀の涙ほどのはした金しか与えられずに王家を出ていくことになる。
そこで孫の将来のためにゲルトルーデの父親が画策したのが裕福な高位貴族への婿入りだ。脳内がお花畑で全く頼りにならない娘夫婦に代わってゲルトルーデの父である子爵が説得して王に命じさせた。そして狙われたのがアルテンブルク公爵家の後嗣となったトルデリーゼだった。
トルデリーゼはアルテンブルク公爵家の唯一子というわけではない。しかし、兄と妹はそれぞれの事情によってアルテンブルク公爵家の後嗣とはなれないため、トルデリーゼが次期公爵と定まっていた。
兄マクシミリアンは隣国の大公家へ養子に出ることが決まっている。大公家は母の実家であり、アルテンブルク公爵家よりも格式が高い。おまけに隣国は女性が継嗣となることを認めておらず、男子相続しか出来ないという事情があり、マクシミリアンが養子になることが決まっていた。
また、妹のメヒティルデは生まれながらにして聖属性魔法の適性が高く、神の愛し子として神殿に入ることが決まっていた。既に週のうち半分は神殿に通っており、成人後は神殿にて女神官長となる。婚姻して神殿を辞することは可能だが、当人は生涯独身で神に仕えると決めている。
将来の女公爵となるトルデリーゼに婿入りすれば、ザームエルは生活水準を落とさず貴族でいられる。寧ろ国王の私費によって全ての費用を賄わねばならない現状より余程裕福な暮らしが出来るだろう。そんな狙いで結ばれた婚約だった。
そして、お飾りの王──つまり無能で無知な国王と愛妾ゲルトルーデは愚かにもザームエルが公爵になれると勘違いしていた。
エッシェンバッハ王国は女性にも王位及び爵位継承が認められている。それでも政治の世界は男性社会であり、余計な軋轢を生まぬため、また娘に余計な苦労をさせたくない親心もあってか入り婿が爵位を継ぐことも認められている。
但し、それには条件がある。これは貴族法に明確に定められている。貴族家はそれぞれの家で魔法を継承しており、血統を重視する。だからこその条件だ。因みに爵位は入り婿が持つが、当主はその血筋である妻だ。当主と爵位持ちが別人となるという捻じれが起きることになる。
入り婿の爵位継承条件は以下のようになっている。
①入り婿が爵位を継承するのは、女性後継者の親である現爵位所持者の死去後であること。
②女性後継者である妻が次代となる子(男女問わず)生んでいること。
③次代が成人した当日に爵位は自動的に譲られること。
要は明確に『中継ぎに過ぎない』と定められているのだ。ついでに婚外子を設けた瞬間に爵位は正妻である元々の後継者に移行することも定められている。
そういったこともあり、大抵は入り婿が爵位を継ぐ前に祖父から孫へ爵位継承が行われる。孫が成人するときでも祖父は50代後半から60代であり、また魔力の強い上位貴族は長命な傾向にあることから、入り婿が爵位を継承することはほぼないと言っていい。国王はそんなことも気づいていなかった。
そんな理由もあり、たとえ愚かな第二王子ザームエルが婿入りしてもアルテンブルク公爵家が乗っ取られることはないだろう。とはいえ、やはりトルデリーゼにとってザームエルとの婚約が不本意であることに変わりはなかった。
なお、お飾り王家から持ち込まれた婚約なのだから、有力な貴族であるアルテンブルク公爵家が拒否できないはずがないと思われがちだが、そう簡単なことでもない。寧ろ力のない王家と力ある公爵家だからこそ、容易には断れないと言ったほうがいい。
アルテンブルク公爵家もバイルシュミット公爵家も力のない王家を盛り立て国家を健全に運営する必要がある。ゆえに、他の貴族に明白に王家に反発する姿を見せるわけにはいかないし、余程の案件、それこそ国家存亡に関わるようなことでもなければ王家に逆らうことはしない。
つまり、第二王子ザームエルの婿入り程度であればトルデリーゼや現アルテンブルク公爵でどうにでも制御できるため、逆に断ることが出来なかったのだ。
だからといってトルデリーゼは愚物の妻となることは許容できなかった。彼女は幼馴染であるヴォルデマールとの結婚を諦めてはいなかった。それはヴォルデマールも同様であり、更にはトルデリーゼの家族やヴォルデマールの家族も同様だった。
そうして彼女たちは考えた。アルテンブルク公爵家から断れないのであれば、ザームエルがアルテンブルク公爵家への婿入りを拒むように、トルデリーゼとの婚姻を嫌がるように仕向ければいいという結論に達した。ザームエルに甘い愛妾ゲルトルーデは彼が強く望めばそれを許すだろうし、国王はゲルトルーデが願えばそれを認めるだろう。
短絡的な思考しか出来ない彼らはその後のことなど考えられないに違いない。唯一真面だったブレーンの前子爵(ゲルトルーデの父親)が孫の将来のためにゲルトルーデを唆し国王を操って結んだ婚約だ。しかし、その前子爵も既に亡い。跡を継いだのはゲルトルーデの弟だが、こちらもゲルトルーデと似たり寄ったりなお花畑の住人であり、前子爵時代はそれなりに裕福だった子爵家も今では随分傾いて貧乏貴族の仲間入りをしている。
そういった状況もあり、トルデリーゼは必死に考えて策を練った。ザームエルの性質を見極めるためにザームエルの誘いは断らなかった。正確には祖父の前子爵の根回しによってゲルトルーデが婚約者の交流の場として設けたお茶会だが、その場にトルデリーゼは嫌がることなく出向いた。
そうしてトルデリーゼはザームエルが怠惰で愚かなことを見抜いた。そしてやたらと自尊心が高いことも。この大陸最高峰のアベレシト山よりも高いくらいの根拠のない高い自尊心を持っている。そのくせ努力を嫌い、勉学も剣術も嫌う。おまけに劣等感も強い。自分よりも少しでも優秀な者を嫌い、彼の周囲にいる遊び相手は皆彼と似たり寄ったりな能力と性質の者ばかりだ。
そんなザームエルの性質を踏まえてトルデリーゼは両親と相談して方針を定めた。ザームエルに嫌われ、かつ周囲には責められない方法。そうしてトルデリーゼは次期公爵にふさわしくなるべく勉学に励み、公爵令嬢にふさわしい気品と礼儀を身に着けた。そう、トルデリーゼは『完璧な令嬢』であり『完璧な次期公爵』となることにしたのだ。自尊心が高く劣等感の強いザームエルが一番嫌うであろう姿になるために。
と同時にアルテンブルク公爵はザームエルの劣等感を刺激するためにトルデリーゼと同じ次期公爵としての教育も施した。もちろん、ザームエルがそれらを習得し怠惰な性質が改善されれば、トルデリーゼもアルテンブルク公爵家もザームエルを婿として受け入れるつもりだった。トルデリーゼが嫌われるように仕向けるとはいえ、ザームエルを殊更貶めるつもりもなかったし、愚かに教育するつもりもなかったのだ。ザームエルが次期公爵の婿としてふさわしくなれば、トルデリーゼは貴族令嬢の義務を果たすためザームエルと婚姻し良き妻になるつもりだった。
ヴォルデマールもまたそれを受け入れていた。彼はトルデリーゼとしか結婚するつもりはなかったが、学院卒業までにトルデリーゼとザームエルの婚約がなくならなければ、トルデリーゼのことは諦める覚悟もしていた。
しかし、そんなトルデリーゼとヴォルデマールの覚悟も心配も無用のものだった。国王とゲルトルーデに溺愛されたザームエルの性質が変わることはなかった。公爵家での教育も1ヶ月もしないうちに拒否したし、トルデリーゼとザームエルが顔を合わせるのはゲルトルーデが招くお茶会だけだった。それも前子爵が亡くなってからは半年に一度開かれるかどうかという頻度になった。
ザームエルは優秀なトルデリーゼを妬み『高慢ちきな嫌味女』と罵り、第二次性徴を迎えるとトルデリーゼを放ってあちらの花からこちらの花へと節操なく飛び回るようになった。高位貴族の令嬢というだけでトルデリーゼを嫌うゲルトルーデも諌めるどころかザームエルの言動を助長するかのようにトルデリーゼを貶したこともあって、ザームエルは益々トルデリーゼを嫌い蔑ろにするようになっていった。
学院に入るころになるとトルデリーゼは若い世代の淑女の鏡、最高の淑女と呼ばれるようになっていた。そんなトルデリーゼが気に入らないのか、益々ザームエルは彼女を蔑ろにした。
「王家から望まれた婚約ですもの、わたくしは殿下に忠実にお仕えするしかございませんわ」
そう言って学院でのザームエルの愚行の尻拭いをし、健気にザームエルを諌めるトルデリーゼに対して学院生は同情的だった。派閥的に敵対関係にある貴族の子女でさえ、トルデリーゼに同情した。トルデリーゼに同意・同情する大多数とザームエルの取り巻きである少数に学生は分裂していた。
そしてそういった学院の雰囲気を知ったヴォルデマールもザームエルの婚約破棄を一層進めるための策を実行に移した。分家や寄り子の伝手を使い、敵対派閥の寄り子である某男爵家の令嬢をザームエルの傍に送り込んだのだ。
その敵対派閥にはちょうど同年代がいなかった。これでは王家と懇意にしようにも難しい。学院には王太子である第一王子、次期王妃となるはずのその婚約者もいる。そんな中に敵対派閥は同年代がいないことに焦っていた。だからヴォルデマールは伝手の伝手を使う形でその派閥に側室候補は無理でも次期王妃の侍女候補に出来る娘はいないのかと唆した。側室候補であれば上位貴族でなければならないが、次期王妃の侍女候補(暗に愛妾候補と言っているも同意)であれば下位貴族でも構わない。そうして派閥の長は己の寄り子にちょうどいい娘がいることを知ったのだ。
その男爵家は王都から離れた田舎に領地を持ち、鄙には稀な美しい娘がいる。年齢はちょうど学院1年にあたるが、地方のあまり裕福ではない下位貴族ゆえ娘は学院に入学していなかった。派閥の長はその娘を王立学院に入学させるように男爵に命じた。寄り親直々の要請に男爵はこれも出世のチャンスとばかりに娘を編入させることにした。王都に中古の小さな屋敷を借り、学院の入学費用は寄り親から低金利で貸し付けてもらった。
派閥の長としては男爵の娘が上手く王太子の気に入られれば己の養女として側室にしてもいいとも思った。それほどに娘は美しかった。そうして父親とともに王都にやってきた娘に『学院には王太子殿下がいる。お前のような美しい娘であればすぐに気に入られるだろう』と唆したのだ。
派閥の長である貴族はその娘をよく理解していなかった。慌てて探し出し呼び寄せたために調査不足で紹介した寄り子の言葉を鵜呑みにしていた。
しかし、策を練ったヴォルデマールは違った。学院に入学する数年前から適任者を探していたのだ。だから、娘が王都に憧れ市井の流行小説の内容を鵜呑みにするようなお花畑であることを知っていた。そして、無骨で厳つい容貌の王太子よりも、いかにも王子様然としたザームエルに擦り寄るであろうことも。そんな娘を探していたのだから当然だ。
そうして、入学から2ヶ月遅れで娘は学院に編入した。それがディーツ男爵令嬢ギーゼラだった。
学院に編入してからほどなくザームエルとギーゼラは出会った。ギーゼラは天真爛漫と紙一重な傍若無人さを持っていたし、これまで田舎に引き籠っていたことからお茶会などの子供の社交も経験したことがなく礼儀と作法を全く知らなかった。更に派閥の長が認めたほどの美貌も持っている。美しいというよりは愛らしいといった容貌で、見た目だけならば可憐な美少女だった。
入学から間もない時期の編入とその美貌であっという間に噂になり、その礼儀のなさと図々しさで更に噂は加速した。当然それはザームエルの耳にも入り、興味を持ったザームエルがギーゼラを呼びつけたのが二人の出会いだった。
そこからは坂道を転げ落ちるかのように早かった。ギーゼラは王都から離れた領地にいたことからか王族に関する基本的な知識もなく、学院に複数の王子がいるとは思いもしなかった。王太子という地位と王子の違いもよく理解していなかった。だから派閥の長から『王太子に近づけ』と言われたときも『王太子って王子様のことだよね』としか理解していなかった。
そして、王子様から呼び出しを受け、目の前に現れたのは流行小説から出てきたのではないかというほど美しい王子様だ。あっという間に恋に落ちた。ある意味擦れていないギーゼラはザームエルが何をしても『すごい』『素敵』と喜び、褒めた。それがザームエルの自尊心を満足させ、ザームエルはどんどんギーゼラに溺れていった。
「やだぁ、ザームエル様ったらぁ」
「ギーゼラは可愛いな。どこぞの高慢ちきな婚約者とは大違いだ」
王立学院の中庭や食堂、空き教室で堂々と不貞行為に溺れる愚かなカップルの誕生だ。すっかりギーゼラは自分が流行小説のヒロインになった気分にだった。美しい王子様と可憐な男爵令嬢。王子様には意地悪で美人の高位貴族令嬢の婚約者がいる。王子様は無理やり結ばれた婚約だと言っていた。きっと嫉妬深くて意地悪な人に違いない。そう、物語の悪役令嬢みたいな。ギーゼラはどんどん妄想を暴走させ、それを真実だと思い込むようになった。
学院で軽侮の対象となっているザームエルに侍るギーゼラは良識ある学生からは遠巻きにされていた。一方でザームエルの取り巻きにもちやほやされ、その婚約者からは苦言を呈され、時には嫌がらせもされた。ギーゼラはそれら全ての敬遠と嫌がらせをトルデリーゼの仕業だと思い込んだ。悪役令嬢が手下を使って嫌がらせをしているんだと。
そうして悲劇のヒロインである己に酔い、ザームエルに泣きつく。ザームエルはそれを真に受けてトルデリーゼを責め立てる。それによってトルデリーゼを慕う学生たちは益々ザームエルとギーゼラから遠ざかっていく。
やがてそれはギーゼラの寄り親である派閥の長の耳に入ることとなった。慌てたのは長である貴族だ。ギーゼラは狙いの王太子ではなく、厄介者のザームエルに侍っているではないか。目論見が崩れ去り手を打とうとしたが遅かった。派閥の長が動こうとしたその前日にザームエルは模擬夜会でやらかすのである。
その日、トルデリーゼは幸せを噛み締めていた。目の前には愛しいヴォルデマールがお茶を飲んでいる。今は二人だけの茶会だ。もちろん、侍女や侍従はいるが、彼らは目に入らず話の聞こえない場所で控えていてくれる。漸く10年ぶりに叶った婚約者との時間にトルデリーゼはこの上もない幸せを感じていた。
「この日が来るのが待ち遠しかったよ」
「わたくしもですわ。ずっと待っていてくださってありがとう、マール」
模擬夜会の翌日、無事に婚約は破棄された。夜会から帰宅したときには既に両公爵家には伝達されており、ヴォルデマールの両親もアルテンブルク公爵家の屋敷に揃っていた。アルテンブルク公爵はすぐに婚約破棄の書類を纏め(実は既に作ってあり後は日付を入れるだけになっていた)、両公爵は婚約に関する書類を纏め婚約許可申請書にサインをした(これも既に日付を入れサインするだけになっていた)。
そうして翌日王城に出向き国王を脅したりすかしたりしながら婚約破棄届と婚約許可申請書にサインをさせた。国王は色々とごねていたが、婚約破棄は貴様の大事な息子の願いだと威圧感たっぷりに言い聞かせ承諾させた。愛妾ゲルトルーデは公爵家からの支援金がなくなることでやはり文句を言っているらしく、それについて国王はグチグチと言っていたものの、『愛妾には貴様たちと同じく真実の愛で結ばれたのだから祝福すべきことだとでも言え』と助言してやった。
本来ならばザームエル有責のため王家(というより国王)が慰謝料を支払うところだが、王族として扱われないザームエルのために王家の予算は使えない。なので慰謝料代わりにザームエルをギーゼラの実家ディーツ男爵家に婿入りさせることを了承させた。ギーゼラに兄弟はおらず一応跡取り娘だったことからちょうどいいとばかりにアルテンブルク公爵はそれを了承させた。
欲をかかなければザームエルは子爵位を与えられるはずだったが、トルデリーゼと婚約破棄したことから本来よりも低い爵位につくこととなったわけである。しかも臣籍降下であれば領地は王都に近い王領の一部を与えられるはずだったが、王都から遠く離れた田舎に引っ込むことになる。自業自得だ。
国王と愛妾ゲルトルーデはアルテンブルク公爵家の支援がなくなり、これまでのような贅沢は出来なくなった。しかも王妃にザームエルの失態を責められ早期の退位を迫られている。本来ならばトルデリーゼとザームエルの結婚を前提とした支援金だったため、ザームエル有責の婚約破棄であればその返還が求められてもおかしくなかった。事実、婚約破棄の手続きに同席していた王妃は返還についての話もしようとしたのだが、ザームエルが婚姻後は領地に引き籠ることと愛妾ゲルトルーデが今後一切アルテンブルク・バイルシュミット公爵家に関わらないこと、国王退位後は国王とともにゲルトルーデもディーツ男爵領に行くことを条件としてアルテンブルク公爵は支援金返還を求めなかった。元々トルデリーゼが王家に嫁いだ場合の化粧料の10分の1の金額だったため、アルテンブルク公爵家にとってははした金にすぎなかったのだ。
そして2年後。学院を卒業し成人したトルデリーゼとヴォルデマールが王都の神殿で結婚式を挙げたころ、前国王と愛妾ゲルトルーデ、ザームエルとギーゼラは遠い男爵領へと旅立った。その表情は神殿で幸せいっぱいのトルデリーゼとヴォルデマールとは正反対のものだったという。
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