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つちうるおうてむしあつし

第21話 式神遣い

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「ちょっと待って、あたし、本当になにも知らない!」

 そう叫んだあたしは、ソファ席から勢いを付けて立ち上がった。
 立ち上がる瞬間に、テーブルのふちに膝を打ち付けて、しびれと痛みが走る。
 視界の端で、蘭の黄色い花粉がまたこぼれた。
 
「なにかアッキちゃんが、あたしのことを勘違いしてるってことだけしか、分からないの!!」

 衝撃でずれたソファと、大きなパーティテーブルの間で叫ぶ。
 だめだ、こんなに興奮したら。
 ……興奮したら――? どうなるんだっけ――?

 後ろから、ぺったらぺったらとした間の抜けた足音が近づいてくることに、あたしは気づいていたけれどほとんど意識はしていなかった。
 喫茶店のくせに油っこい床を、ゴム製のサンダルの底を貼り付けてはがしながら、足音が近づく。
 足音は、あたしのすぐ後ろで止まった。
 樟脳しょうのうと粉っぽい香水と線香と湿布とケチャップの混じった匂いがする。

「あんた、式神遣ってんの?」

 酒焼けした声と同時に、右腕を強くつかまれた。

 振り向くと、リリィのママが、鳥の脚みたいな骨ばった手であたしの腕をつかんでいた。

「式……神……?」
「これは式神と契約したアザだろうが」

 あたしの腕を汚いものでも触ったみたいに振り払ってママが言う。
 解放された腕を見ると、またあの指の形のアザが浮き上がっていた。
 
「出ていきな。式神遣いはうちの店に入れたくないよ」

 重々しく、ママから言い渡される。
 声は大きいが、はらんでいる怒気は静かなものだ。
 突然の事態にとまどって言葉を失うあたしに、アッキちゃんは何も言ってくれない。
 あたしひとりでは何も言い返せないし、動くこともできなかった。
 アッキちゃんに助けを求めたいけれど、振り向いて、彼女がいまどんな顔をしているのかを知ってしまうのが怖い。
 
 そんなあたしの様子を見て、ママが大げさにため息をつく。
 
「何度も言わせないでちょうだい。出ていって。何も知らないのかもしれないけど、は式神を遣う人間とは一緒にいられない。式神を遣うのはセーマン派だけだ。そして式神は式神と共鳴する。あんたが居るだけで、この店が危険にさらされる」

 ママがそう言いながら、手の甲の大きな湿布を剥がす。
 そこにあったのは、アッキちゃんと同じ格子柄だ。

「ど、どういう、こと? ママもアッキちゃんと同じなの? ねえ、なんでなにも言ってくれないの?」

 驚きのままアッキちゃんを振り返ると、曇った赤い瞳をふせて、キャップを深く被った彼女がいた。

「ねえ、なにか言ってよ! あたし本当になにも分からないんだってば」
「……ちょっとあたしも、混乱してる。リリィのママの件までは言わなくてもいいかなって思ったの。それに、もえも話してくれていないことがあるんじゃないの? 本当の本当になんの心当たりもないって、信じにくい。まさかと思ってたけど、やっぱり式神遣いだったなんて……」

 アッキちゃんの言葉、態度、表情。存在全部であたしをチクチクと刺している。
 ショックだった。

 アッキちゃんは、じゃあどんな気持ちで『全快祝い』なんて花まで用意して、この店で待ってたの?
 限りなく黒に近いと疑いながら、それでも一縷いちるの望みを白の側に賭けていたっていうの?
 それこそバカげてると思うし、あたしは実際的に無実なわけだけど。
 白だよ。そう、白いはず。ただ、真っ白かと言われると、あたしの自信はだんだんに揺らいでくる。

 だっていくら鈍いあたしでも、舞火の件をアッキちゃんに黙っていたのは、もしかして良くなかったのかな? って考え始めたから。
 舞火に会った日に、あたしはおかしな夢を見た。
 あのおかしな夢に出てきたのは、紫の粉。くにゃくにゃもだえる人たち。不思議な儀式でひとつになりかけたあたし達が、紫の粉を放つあたしに邪魔をされて――それで夢のなかのアッキちゃんは、『完全』になり損ねた。

 舞火はあたしの右腕をつかんで、言ったのだ。

 ――どんな力が欲しい? アッキを守るために。イメージしてみて? イメージすればきっと叶う。
 ――さなぎからは、どんな虫が出てくる?

 そうして生まれたのが、毒蛾……?

「あ、あたし……あたしは本当に何も、こんなことが起こるなんて、何も知らなかった」
「じゃあいいよ。帰りな。熱、下がって良かったね」

 そう言って手を振るアッキちゃんは、チェキのときと同じアイドルの表情になっていた。
 Sin-sの【傲慢】担当アッキちゃんとして、あたしにバイバイをしている。また来てね、次のライブも。そう言ってるみたいな顔だ。

「待って! まだ話せてないことがあるの! 黙ってたことは謝るから、だから、もう少しだけ話をさせて! あたしの考える通りなら、アッキちゃんは今、すごく危ない状況だから!」
「例えば、友だちがセーマン派になってるとか?」
「違う、違うの! あたしは勝手に利用されたの! 守りたいって気持ちに、つけ込まれた!」

 ふん、と後ろで鼻を鳴らす音がする。

「とにかく、あたしの店でこれ以上騒がないで出ていきな。……アッキ! あんたも一緒に出ていくんだよ」
 
 ママの言葉に、アッキが不平の声を上げたそうにする。
 慌ててあたしはアッキの手を引いて立たせると、店の出入り口に向かって駆け出した。
 アッキちゃんは、素直にあたしに手を引かれてついてくる。
 
 店を飛び出したあたし達の背後で、自重でドアが閉まろうとする音がした。

 「解決しなかったら、リリィの敷居は二度とまたがせられないよ!」

 ママのしわがれた声が、閉まりかけるドアの隙間からこぼれて届く。
 ドアが閉まりきってみれば、お昼どき前の地下飲食店街の廊下は、しいんと静まり返っていた。
 

 地下飲食店街の単調な蛍光灯のあかりの下、行くあてのないあたし達は座り込んでいた。
 煌々こうこうと照らされれば照らされるほどに夜の暗さを思い出させるような、そんな地下街の長い廊下がお尻に冷たい。
 あたしは全て話そうと決意して、細かいことを思い出しながら、話しはじめた。
 
 アッキちゃんの部屋の最寄り駅で、舞火と出会ったこと。おまじないめいた言葉を吐かれたこと。
 赤い蝶に後を付けられて、追い払ったこと。
 おかしな夢を見たこと。夢の内容。
 あと、それをアッキちゃんに話していなかったことの謝罪も。
 
「――だから、舞火はあやしい。舞火があたしに何かしたんだと思う。それと合わせて、Sin-sの内部にも何か工作してる奴がいると思う」
「なんでそう思うの?」
戴天たいてんに届いたプレゼントの中のメッセージカードだよ。あたしは断じてそんなプレもカードも送ってない。毒蛾事件のあとで、当日のプレを受け取ったんでしょ? Sin-s内部にいる人間なら、戴天に渡す前のプレのなかに、紛れ込ませることくらい出来るんじゃない?」
「スタッフとか、メンバーとか、ってことだよね」
「そう! それであやしいのが――」
「でも、あたし、もえの言うことをどこまで信じていいのか分からないよ……」

 しゅん、という音が聞こえそうなくらい、アッキちゃんは落ち込んでいた。

「アッキちゃん、あたしが話してなかったこと、怒ってるよね。でも聞いてほしいの」
「怒るって感情が分からないんだよ。ただすごく疲れるなあって、思っただけ。もえを疑わないといけないのは、疲れる。狙われるのも、守られるのも、ダルい。聞くのも、ダルい」
「アッキちゃん……」

 短い沈黙のあと、アッキちゃんは観念したようにキャップをとって、床に置いた。
 
「全部がダルいんだよね、本当に。生きてるだけでダルい。そもそも生きてるって言えるのかって体なんだけどさ」

 はは、という乾いた笑いを漏らして、アッキちゃんが言葉を続ける。
 
「リリィのババアくらい長生きしても、結局毎月の揺り戻しには苦しむことになる。風邪っていったのはね、あれは黄泉返り人の成長痛みたいなもんだよ。大潮の新月の夜に起こるんだ、大体ひとつき分の老化現象が一気にね。今回はね、なんか、今までにないくらい重くて痛かった。それは話したくなくて話してなかった。ごめん」
 
 ヘビの脱皮みたいなものだろうか、と想像する。
 新月の夜に、アッキちゃんの皮膚がべろんと全部はがれて、どこか濡れた質感のアッキちゃんが新たに生まれるところを。
 あたしがそんなことを考えている間にも、アッキちゃんの言葉は止まらない。

「あまりに痛いから不安だった。古いあたしのからのしたから、形のない不完全なあたしが出てきたらどうしようって。だからもえを呼んだけど、来れないっていうから」
「ごめん。それで、桃娘タオニャンに頼ったら、また怖い目にあったんだね。あたしが嫉妬深くて、ウカツで、未熟だからだ……守るなんて言って、全然だめだね」

 そう、とも、違う、ともアッキちゃんは返してこなかった。
 代わりに、廊下の向こうから人の足音が近づいてきた。別の入り口から飲食店街に降りてきたらしい。

 足音の主は、ランチ営業をしている店舗の店員らしかった。シャッターを開け、看板を出し、店の前を清掃する。
 時折あたし達の方を気にする気配があった。その気配に追い出されるようにして、あたし達は地下街の階段を上がった。
 盛夏の新宿の街が、陽炎かげろうのなかに浮かんでいた。
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