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エピローグ

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「僕はずっと父の影を張り付けて書いていたんです。官能小説家の父が死んでからずっと」

 ことり先生が、唐突にそう切り出した。
 彼はコーヒーをとっくに飲み終えていて、私の前のフラペチーノは残り三分の一ほどになっていた。
 
「影、ですか」

「影です。イメージとしては体の後ろにこう、背負うみたいにして張り付けていました」

「見守ってもらっていたってことですか?」

 話の先が見えなくて、そう問うと、ことり先生は静かに首を横に振った。

「世界が見えないように、後ろから目を覆ってくれていたような感じです。僕の世界には僕と父と父の小説しかなかった。父が死んでから、ひとりで放り出された世界に耐えられなかったんですね」

 肩をすぼめて、ことり先生が自嘲気味に笑う。
 
「お父様が大好きだったんですね」

「分かりません。それしか無かっただけですから。でも、鹿ノ子さんのおかげで……」

 そう言ってことり先生が顔を上げる。正面から、目が合った。

「鹿ノ子さんのおかげで、父の影を、背中から下ろせた気がします」

「私のおかげ、ですか? ことり先生が頑張っただけだと思うのですが」

 思わず首をかしげると、ことり先生は腕をぐるっと回した。マッサージのあとで、肩こりが軽くなった人がやるみたいに。

「鹿ノ子さんは、観覧車でのこと、覚えていますか? てっぺんで僕が目をつぶっていたこと。怖くて目を開けられない僕に、景色を教えてくれました。あのときにまぶたの内側に広がっていた景色は、鹿ノ子さんが居なかったら、見られなかったものです。一人で自分の世界に籠もっていたら見られない景色があることを教えてもらったんです」

「ことり先生……」
 
 言葉につまる私を見て、ことり先生の顔がほころぶ。彼の手が、テーブルの上に置かれる。開いた形で置かれた手の上に、私は、自然と手を重ねていた。
 両手を握り合って、見つめ合って。なんだかすごくいい雰囲気になってしまった。
 
「鹿ノ子さん……」

「はい……」

 何を言うんだろう。何か言われたとして、私はどう返事を返すんだろう。
 緊張してことり先生の言葉を待つ。彼が、声をひそめて言った。

「次は鹿ノ子さんが官能小説を書いてみましょうよ」

「へ?」

「『乱れ牡丹』からの『鳴門』でしたっけ? 中学生にしてはセンスがあると思うんですよね。読んでみたいけどなあ」

「ひ、人の黒歴史を掘り返さないでください! なんでそんな事、覚えてるんですか!」

 思わず手を離して、抗議の気持ちで拳を握る。
 
「なんでって、興味のある人が話したことは覚えています」
 
 からかっているのか、天然なのか。キョトンとした顔でそんなことを言うことり先生が憎らしい。
 
「あーもー知りません! 書きませんし書いたとしても読ませません!」

「なんでですか! 資料送りますから。今度こそくじらの丸呑みを探しておきます!」

「だから、くじらは性癖じゃないですってば!」

 オフィスの入っているビルにあるカフェだということを忘れて、私は大声でニッチな性癖を否定することになったのだった。
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