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31話 カコの共有

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「それで、どうやって説得したの? やっぱりおふらんす書房の練習?」

「いえ、ダウンドッグからのキャット&カウです」

 相変わらず出社時刻は早めているが、今日は電車の遅延で高野先輩と同じタイミングでオフィスビルに到着した。
 エレベーター待ちの間の世間話。
 珍しく遅いんだね、の言葉に、私の使っている路線の遅延理由を説明する。お客様トラブル、と言っていたので、恐らくは痴漢じゃないかって。
 そこからの連想で、高野先輩が田原小鳩の話題を振ってきたのは少しく心外だけれど、大人の対応でスルー。彼のイメージを多少は回復出来るかと、リリンの長編新人賞に向けて前向きになったと言うことを説明したところに出た疑問が、先の先輩の言葉だ。

 私からの返答が暗号めいた言い回しになったのは、押して駄目なら引いてみろ、が男女のかけひきみたいで言いにくかったからだ。
 それに、整体占い師を副業に出来そうなトレーニングマニアの先輩にだったら、伝わるはずだ。押したり引いたりして筋肉を伸ばす動き、それがダウンドッグからのキャット&カウだからだ。
 思惑通り、先輩は「なるほど、考えたね」とうなずいてくれた。
 エレベーターの表示を見上げると、各階で停止しながら上がっていく。
 これが一階に戻ってくるまで、まだ時間がかかりそうだ。
 
「さらに追い打ちしました。ずっと誤魔化していた私の投稿歴とか、作品とか、諦めたって話とか、全部しました」

「それが追い打ちになるの?」

 隣の高野先輩の眼鏡のつるが反射する光が、目の端でちらちらと動く。
 よく見ると、先輩はさり気なくかかとを上げ下げして運動していた。
 
「なります。彼の問題は、自信のなさですから。あなたは私と違う、書かないといられない人だって、伝えたかったんです」

「そんなもんかねえ」

 と高野先輩が首を回したところで、やっと階数表示の矢印が下向きに変わった。
 
「ていうか今日、なんか寒くない?」

 と先輩がカーディガンの前をかき合せた。
 むしろ暑いくらいだけどなあ、私が燃えているからだろうか。とぼんやり考えていると、やっとエレベーターが一階についた。

 *

 あの日、私がことり先生に送ったのはドキュメントファイルの共有URLだ。
 鹿野カコとして投稿した八作品のうちの最後に送った短編と長編を一本ずつ、共有した。
 二年間で八作品。それで私は諦めた。
 数にしたら、たった八作品なのだ。
 この準備作業をしているとき、数字の残酷さってやつを私は思い知った。
 
『これを読めばいいんですか? 筆名、鹿野カコって奔馬さんのことですよね』

 ことり先生からメッセージが返ってくる。
 突然ファイルを共有されて困惑しているんだろう。
 私はすかさず通話アイコンを押す。彼がそれを受ける。
 第一声はこうだ。

「そうです。私がずっとごまかし続けていたことを告白させてくれますか?」
 
「ごまかしの告白、ですか?」

 聞き間違いかというように、彼がオウム返しをしてくる。
 相手に姿が見えないのは分かりつつ、大きくうなずいてから話を続けた。
 
「私はリリンに投稿していましたけれど、ずっと落選でした。ずっとなんて言ってもたった二年です。それで諦めちゃった。共有したのは、最後に書いた長編と短編です。足りないものだらけなのに、足す努力を放棄して諦めた私の落選作です」
 
「卑下しないで下さい。って偉そうかもしれないですけど」

 ことり先生の返答には全く間が無くて、息をすう音が入らなかった。
 
「卑下、とは違うんです。客観視、でしょうか」

 今度は、ことり先生の返答が無い。
 傾聴の姿勢らしいことを確認して、私は話を続けた。

「書くことを諦めて、リリン編集部に入って、半人前以下なりに選考に関わって、やっと分かったことなんです。恥ずかしいから、投稿歴のことはずっと隠していました。でも、ことり先生が書けない状況を克服しようとしているのに、私が過去をごまかしているのは違うな、って思ったんです」

 ここで一旦、息継ぎを入れる。
 知らないうちに汗をかいていたのは、耳に当てたスマートフォンが熱を持ち始めているって理由だけでは無いだろう。
 すぅ、と音を立てて息を吸う。吸ってから、これはことり先生の癖だったと気付いて苦笑した。
 
「ところで、私とことり先生は別の人間ですよね?」
 
「え、あ、はい。それはそうですね」

 突然に問いかけられて、ことり先生は分かりやすくうろたえながら答えた。

「だから私は、ことり先生の応募作のことを客観的に評価することが出来ます。私から見て、ことり先生はもっと書ける人なんです。羨ましいし、妬ましいくらい、書く人間として私とは違うんです。作品のレベルも、それから、書き続けられるっていう資質も」

 私の言葉を、ことり先生は黙って聞いてくれていた。
 それから、ぼそりと呟いた。

「『先生』呼びは、やめて下さい」

「イヤでしたか?」

「いえ、今の僕の呼び方としては、正しくないからです。……僕が受賞して、あなたが担当になってくれる日まで、取っておいて欲しい」
 
 それから、と彼は続けた。

「共有していただいた作品は、大切に読ませてもらいます。奔馬さんが思い切ってくれた分、僕ものたうち回ってでも書きます」

 完全に迷いの消えた声をしていた。
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