黒獅子公爵の悩める令嬢

碧天

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 サーシャを優しく黙らせ入ってきた人物は、、タルギス王国第二王子デイヴェック・クレイム・タルギスだった。

 王室特有の黒髪を伸ばし一つに結っている。

 兄デルヴォークより三歳年下の二十一歳で、翡翠に琥珀掛かった金茶の瞳に柔らかい笑みが浮ぶ。 

 兄弟の見目はよく似ているが、受ける印象は対極といってもいい。

 デルヴォークはデイヴェックより一回り大きく、整った顔も常に険しく近寄りがたさがあるが、デイヴェックは微笑みを絶やさない。

 そんな彼の態度はご令嬢方にも漏れなく徹しているので、兄に夢を見ていた娘たちが弟派になるもの頷ける。

 兄と同様……より人気があるかもしれない人物、恐らく髪を束ねる紐もご令嬢方からの贈り物で毎日替えても一年は優に持つであろう。

 しかし、兄が剛なら彼は柔だ。

 一度ひとたび戦場となれば、自身の騎士団を率いて前線でも活躍し、後方にまわれば知略で兄を助ける。

 温和な雰囲気の王子殿下の顔で必要とあれば容赦なく剣を振るう弟に、戦神の如く戦場を駆るが気を許した者には気安さを見せる兄と、人は見掛け通りとはこの兄弟に関しては言えないのかもしれない。

 ミシェルの方へ近づいて来るしなやかに鍛えられた彼の動きに音はなく、静かに間近までやって来る。

 憧れというよりもっと尊いデイヴェックに声を掛けられ、ミシェルは夢見心地で立場を忘れその顔に見入ってしまうが、デイヴェックにキャセラック嬢はどこにいるのかと問われても分かりかねるとしか答えられず、侍女の役目を思い出し恐縮してしまう。



 「ふむ。では探してみるよ。次に誰かが来ても入れてはいけないからね」

 「畏まりました」



 けれどデイヴェックから特に言われることもなく、優しく仕事を言い渡された為ミシェルは王城侍女らしく辛うじて返事をしたが、多少の声が上擦ってしまったのは仕方がないことだ。

 返事の意味のお辞儀をしたミシェルが、顔を上げれば歩き始めたデイヴェックの背中を見送ることになり、心ゆくまで眺める背中に独り占めの幸せを噛み締めることが出来た。







 ミシェルと別れてから一人室内を奥に進み、本棚の間も見落とさぬよう進む。だが彼女は見つからず、最奥の南側が二十四枚の窓で連なるサロン部分の場所に着いてしまった。



 (……居ないな)



 窓を背に室内を振り返る。と、床に可笑おかしな影を見つけた。

 シャンデリアのように大きく広がった影に、その周りに大小のかたまりのような四角い影が三つ……



 「!」

 (……これは……兄上でも驚くのが分かった)



 影が映す方向を見上げると、天井近くにドレス姿で、背もたれを倒した椅子にまるで腰を掛けているような姿勢で浮かび、周りには何冊かの本と、本を模写しているであろう羽ペンの動きが見て取れる。

 勿論、浮かぶ本たちは彼女の手にあるわけでなく、紙に動くペンも彼女の手から離れている。

 そして当の本人は読書に夢中だ。

 思わず感嘆の息を吐く。

 兄の予想を聞いていたとはいえ、間近に見るとでは違う感動がある。



 (兄上でなくても”へんてこ”で、”面白い”になるな……これが名門キャセラックの深窓の薔薇……)



 しかし、困った。

 この位置だとドレスの中は見えぬとしても、あまり居心地として良くはない。

 驚かせるだろうが彼女に用があるがあるから来たのだし、降りて来てもらわねば話も出来ないので声を掛けるしかない。

 少々声を張るのも致し方ないであろう。



 「ごきげんよう、キャセラック嬢」

 「?!っきゃあ!!」



 突然の下からの呼び掛けに驚いて、本がバサバサと落ちてくると、本人も方向感覚を失くしたのか悲鳴と共に落下してくる。

 想定内とはいえ、本当に落ちて来たので落下点に走り込むが、瞬間



 (兄上の婚約者候補を抱きとめて良いのだろうか?)



 と浮かび、しかし怪我をさせるわけにはと逡巡し、手が出るのが遅れた。

 けれど彼女自身で急停止を掛けたのか、デイヴェックの頭上すぐそばで落下が停まる。

 彼女はうつ伏せのような態勢で胸に本を抱え、デイヴェックと正面から対峙した。

 少しだけ見上げるような位置にあるアリアンナの顔には、声に驚いたとも急落下での焦りともつかない表情が浮かんでいるのに



 「……ご、ごきげんよう」



 挨拶を返された。

 淑女らしく膝を折っているわけでないこの宙に浮いた体勢でだ。

 画してデイヴェックは彼女から視線を外すこととなった。

 幼少の頃より誰よりも厳しい王宮の礼儀作法を叩き込まれたデイヴェックだったが、彼女の挨拶に返事をすることなく初めて作法に欠いた。

 こんな令嬢だからキャセラック侯は出さなかったのか、それとも出せなかったのか。

 笑いをかみ殺す作業に上半身まで使うことになったが、会って早々一つ分かったことは、彼女に関してだけ言えば、噂とはかくも脆く儚いものだと思ったことだ。



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