ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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番外編 往復書簡

第10話 嫉妬(3)

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 次の日、コンラートは、夜ではなく日の高いうちに手紙を読むことにした。

『親愛なるお母さまへ
 お母さまが弱いわたしを叱ってくださったおかげで、目が覚めました。わたしは貴族の夫人としての誇りを取り戻しました。
 あの妾は産後まもなく体調を崩しましたが、医者をつけたので徐々に元気を取り戻しているようです。お母さまがおっしゃったとおり、あの妾はひどい目にあったのでしょう。じつは、恐ろしすぎてお母さまにもお話しできなかったのですが、修道院にいたころ、同じような目にあって、心の壊れてしまった娘を見たことがあるのです。その娘もまた、自分がどこの誰なのかわからなくなっていました。娘は首を吊って死にました。同じ女として、深く同情します。だから、わたしはこれからもあの娘と、その子どもを、レオポルトの妾、レオポルトの子として保護するつもりです。
 使用人にも厳しく言いつけました。妾やその子どもだからといってあなどる者は、イメディング家をあなどるも同然だと。使用人たちはおおむね言いつけを守っております。これで、イメディング家の風紀が乱れることもないでしょう。
 お母さま、わたしはこれで、あなたの天使に戻ることができたでしょうか。
 光紀一四六一年十二月 あなたのゲルダより』

 一年一年、綴られていく手紙を読むと、人がどのように物事を受けとめ、諦め、忘れようとしていくのかがわかる気がする。コンラートはしみじみとそう思っていた。
 この手紙以降、数通…つまり数年の間は、ゲルトルートは妾クラーラとその子ウィルヘルミーナのことを考えないようにしているようだった。手紙には、一切、彼女たちを示す記述はなかった。そのかわり、家令や使用人たちが代替わりしたとか、戦況が変わってきたとか、今年は豊作だとか、そんな当たり障りのないことばかり綴られていた。オーデラからの返事は、年々、短くなっていた。
(お祖母様も、ずいぶんお年を召しているはずだ…)
 コンラートは、今さらながら、自分がオーデラのことをあまりにも知らないことに疑問を持った。
(母上も、父上も、思い出話すら聞かせてくれなかった。そもそも、ユーリヒ家とイメディング家は、なぜこんなに交流がない?私は一度もユーリヒ家に行ったことがない。お祖母様の葬式にすら、行ったことがない。それともまだ生きておいでなのか?)
 コンラートは手紙をしまい、鈴を鳴らして家令を呼びつけた。

「コンラート様。お呼びでしょうか?」
 家令はコンラートにうやうやしく声をかけた。
「今、ルートヴィヒの奉公先について考えていたのだ。親戚の家に預けるのも悪くないと思ってな。お前は、亡くなられた母上の生家、ユーリヒ家をどう思う?私はユーリヒ家について、あまりよく知らない。母上は無駄なお喋りをなさらない方だったから、生家についてもお話ししたことはほとんどないのだ。お前はユーリヒ家について、何か知らないか?先代の家令から、何か聞いていないか?」
 若い家令は、しばしの間考え込み、気まずそうに口を開いた。
「これは先代の家令から聞いたことでございますが…。亡くなられたゲルトルート様と、ユーリヒ家の先代の領主様は、あまり仲がよろしくなかったそうで…。大層申し上げにくいことですが、ゲルトルート様が一方的に、ご実家とのご交流を打ち切ったそうです。ゲルトルート様がこの家に嫁がれた際には、すでに、ゲルトルート様のお母上、オーデラ様はお亡くなりになっていて、間を取り持つ方はいらっしゃらなかったとか…」
「今なんと言った」
 コンラートは家令に詰め寄った。
「私のお祖母様、オーデラ様は、母上がこの家にいらしたときには、既にこの世にいらっしゃらなかったと申すのか!」
「さ、さようでございます…」
 家令は恐縮して震え上がった。コンラートは苛立った口調で家令に告げた。
「わかった。もうよい、下がれ。しばらくの間、この部屋には誰も通すな。よいな!」
 家令は最敬礼して部屋を出ていった。

 コンラートは、手紙を一通一通、執務机に並べた。彼がまだ読んでいない手紙が何通もあった。
『親愛なるお母さまへ
 この秋、コンラートが帰ってきました。コンラートは見違えるほど立派になって、帰ってきました。コンラートはもう子どもではなくて、立派な大人です。ですが、心の中はまだ幼いところがあります。レオポルトが妾を持ったことを、どうしても許せないようなのです。
 それもこれもすべて、わたしのせいだと思います。わたしが、お兄さまを受け容れられなかったように。わたしが、心の奥底で、あの妾を恨んでいるように。
 わたしは三つ、情けない振る舞いをいたしました。
 一つは、コンラートの前でみっともなく涙を流したこと。
 一つは、妾の子が大切にしていた物を奪い取って捨てたこと。
 最後の一つは、妾をかばい立てした奉公人を、怒りにまかせて鞭打ったこと。
 お母さま、わたしはどうしても、お母さまのようにはなれません…』

『親愛なるお母さまへ
 …妾が亡くなりました。心臓を悪くしていたようです。わたしは、妾を喪って嘆くレオポルトのことを見たくありませんでした。わたしが死んでも、レオポルトはこんなに嘆き悲しむまいと思うと、むなしさよりも憎しみの心がわいてきたのです。
 わたしは、レオポルトからすべてを奪ってやろうと思い、レオポルトが大切にしていた妾の子を修道院に送りました。レオポルトはわたしを激しくなじりました。お前には人の心があるのか、母親を喪って泣き叫ぶ娘を、父親の元からも引き離すのか、と。
 あの娘はイメディング家の役には立たない。コンラートも娘のことを嫌っている。そもそもあの娘は、あなたの娘ではなく、蛮族の子だ、と、かっとなって口答えしたところ、レオポルトはわたしを平手打ちしました。そのときのレオポルトの顔は、わたしへの憎しみで満ちていました。
 今まで、わたしは、お母さまとの手紙に綴ったような気持ちを、レオポルトに打ち明けたことは一度もありませんでした。はじめて打ち明けたところ、かえってきたのは激しい怒りと拒絶でした…』

『親愛なるお母さまへ
 今年になってから、レオポルトは病に伏せるようになりました。コンラートはレオポルトの補佐役として、イメディング城内や領地を取り仕切っています。その背中は、わが子ながらとても頼もしく見えます。
 そんなコンラートのために、わたしは伴侶を選ぶことにしました。若い頃、あれほど嫌がっていた、貴族の奥方さまとのお喋りが、すばらしい縁を運んでくれました。南部の貴族の夫人が、賢く、美しく、控えめで、貴族の夫人として生きることを何よりも大切にしているという娘を紹介してくださいました。わたしはその娘を、イメディング家に迎えることにしました。名前はゾフィーア。賢明、という名の通りの娘です。
 コンラートは、母上が決めた女性なら間違いありません、と言ってくれました。
 わたしは今、コンラートが結婚式で着る服に、せっせと刺繍をほどこしています。こんな幸せはありません。
 ですが、お母さま、わたしは思い出すのです。お母さまがわたしの花嫁衣装に刺繍をするお姿を。お母さま、お母さま、わたしはどんなに、花嫁姿をみせたかったか…。
 お母さま、どうしてあの日、馬に乗ったのです!あの日でなかったら、お兄さまの飼っていた鷹が逃げ出したあの日でなかったら、馬が鷹に驚いて暴れ出し、お母さまが落馬してお亡くなりになることは、なかったでしょうに。
 光紀一四七一年十二月 あなたのゲルダより』

 その手紙には、オーデラからの返事はなかった。コンラートは、その紙が、他より厚手なことに気がついた。
(貼り合わせてある…)
 コンラートは糊の部分を鋏で慎重に切り取った。隠された一枚にも、何やら文字が書き連ねてあった。それは、震える手で書かれた、ゲルトルートからの手紙だった。

『わたしの天使、コンラートへ
 この手紙をあなたが読んでいるということは、あなたはわたしの言いつけを破ったということなのでしょう。
 いたずらっ子のあなたは、最初にこの手紙に気づくかもしれないので、書き残しておきます。わたしの母オーデラは、貴族の夫人としての誇りにあふれた、とても立派なかたでした。母はわたしの誇りでした。残念ながら、わたしが結婚する直前に、落馬して亡くなってしまいました。この箱の中の手紙はすべて、わたしが、母ならわたしの悩みにどう答えるかを想像して書いたものです。いえ、わたしは母の死を何十年経っても受け容れられず、母になりきって手紙を書いたのです。筆跡までそっくりまねて。わたしは、いつも、母のようになりたいと思って生きてきました。
 ですが、わたしは母のようになれませんでした。わたしが情けない母親だということは、あなたが一番わかっているでしょう。だけど、わたしは、弱いからこそ、情けない女だからこそ、貴族の夫人としての誇りを持って生きていこうと思っていました。
 この手紙を書くことで、わたしは誇りを保ちました。貴族とは孤独なものです。いえ、人は皆孤独なのかもしれません。たった一人で戦い続ける孤高の戦士なのかもしれません。わたしはそうでした。その暮らしの中で、あなただけがわたしの希望でした。いつかあなたが一人で悩み苦しむとき、わたしが記した手紙が、あなたの誇りを保つ助けとなれば幸いです。
 光紀一四七二年八月 ゲルトルートより』

 コンラートは愕然とした。
「母上は、十五の頃から…十五の俺など、まだ甘ったれだったというのに…その頃から、たった一人で、ご自身を支え、戦い続けてきたというのか!」
 コンラートは、少女のようなあどけなさが残る手紙を思い出していた。
 結婚して十年経った頃の手紙を思い出していた。
 自分が生まれた頃の手紙を思い出していた。
 自分が奉公に出た頃の手紙を思い出していた。
 レオポルトに裏切られた頃の手紙を思い出していた。
「寂しかったに違いない…むなしかったに違いない…喜び、悲しみ、怒り、嘆き、憎しみ、絶望、何もかも、心の内に秘めて生きていらっしゃったのだから!」
 コンラートは、レオポルトがゲルトルートを拒絶したという手紙を思い出して、拳を振るわせて叫んだ。
「父上は母上を受けとめようとしなかった!父上は、母上の献身も、その情けも、何もかも、平然と裏切って、踏みにじった!」
 コンラートは、自身の結婚の喜びを綴った手紙を思い出していた。
「母上は、お優しい方だ…俺とは違う…たった一人で、思いを秘めて生きることが、どれほど辛かったか!」
 コンラートはぎりぎりと歯を噛みしめ、足を床にたたきつけると、扉の外に向かって大声で叫んだ。
「誰か来い!用がある!」
 先程の若い家令が、転がり込むように執務室に入ってきた。
「コンラートさま、いかがなさいましたか!」
 コンラートは、低い、冷たい声でこう言った。
「庭に火を用意させろ。燃やす物があるのだ」
 家令は唖然とした。コンラートはますます苛立って、大声で怒鳴った。
「何をしている!すぐに用意させろ!それからお前は、私についてこい!」
 家令は何が何やらわからないまま、使用人に焚き火の用意をさせ、自身はコンラートについていった。
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