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中編 ミーナは糸を染める
第37話 空をまとって踊る(2)
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ミーナは早速、ティベルダを呼んで、藍染めの方法を教えようとした。ところが、大きな問題が二つ起こった。一つは、ティベルダが藍染め小屋の悪臭に耐えられなかったことだ。
「若奥さま。あんまりですわ。確かに、わたくしはイェルクさまにあこがれておりました。でも、それは城じゅうの女たちが、多かれ少なかれ抱いていた気持ちでございます。わたくし一人だけを罰しようとお考えなのですか…」
ティベルダはさめざめと泣いた。もちろん、ミーナはティベルダを罰するつもりはなかった。このにおいに耐えられないというティベルダの気持ちも理解できた。このにおいが染みついたら、イェルクの側仕えはできそうにない。メイドたちの仕事に差し支えるようなことはさせたくなかった。
それに、藍を発酵させる際に尿を入れる現場に女たちが居合わせたら、とんでもないもめごとが起こりそうだと、ミーナは想像していた。ここで、女たちと男たちが棍棒でも持って争われたら城じゅうが大騒ぎになるだろう。ミーナは、染める仕事は藍染め職人たちに任せることにした。女だけがこの布づくりに携わるのではなく、男たちの力も借りて、ともに作り上げたほうが、よりよい布になると思ったのだ。
しかし、二つ目の問題が起きた。男たちはミーナの意見をはなから否定したのだ。薄い青の布や糸は、貧乏人の色だというのだ。
「若奥様、俺達ゃ、いかに濃い藍色を染めるかに力を注いできたんですぜ。若奥様は毎日見てらっしゃるはずですぜ?大旦那様や大奥様のお召し物の、深い、濃い色を」
染め物職人の親方が言うとおり、マルクスやカタリーナの服は深くて濃い藍色だ。はじめて会った日に見た、美しい色をミーナはよく覚えていた。それが家令や家臣たち、ヘリガのような身分の高いメイドや一般騎士たち、一般の使用人たちと下るにつれて、色が薄くなっていくのだ。色が濃いというのは、完成までに何度も染めているということで、つまりは手間がかかって高級なのだ。イェルクは黒髪の騎士の名のとおりに黒い服を着ていて、ミーナは内心、修道士のようでつまらないと思っていた。ミーナは赤い服や、ヘリガがあつらえてくれたような緑色の服を好んで着ていた。まだ若いので好きな服を着るというわがままが許されるのだ。
「それは理解しています。ですが、わたしはどこにもない布を作ろうとしているのです。こんな空色の服は、イメディング家の衣装入れにもありませんでした。若い女たちは、今にこの色のとりこになるでしょう。だって、素敵ではありませんか?空をまとって踊れるのですよ!」
ミーナはくるりと一回転してみせた。お義理の拍手すら起こらなかった。
「とにかく、お願いします。一度の染めで売れる布ができれば、手間も、時間も、藍玉も少なくてすみます。少ない費用で高く売れれば、それだけビルング家のためになります。どうか力を貸してください」
ミーナは微笑んだ。以前のように、若奥さまとしての誇りをかけて。しかし、親方は怒り出した。
「冗談じゃねぇ!俺達には、誇りがあるんだ!手間と時間と藍玉をたっぷり使って、いい色に染めることが、俺達職人の誇りなんだ!そんなけち臭いことはやってられねぇ!たとえそれがビルング家のためでも、だ!」
ミーナは職人たちの頑固さを思い知った。しかし、負けてはいられなかった。ミーナは目を伏せて、しばらく考えこんだ。
「わかりました。ではあなたたちは、その誇りにかけて今までどおり濃い藍色を染めてください。わたしたちが作る糸や布は、わたし自身が染めましょう。これからはこの小屋がわたしの部屋です。大丈夫です。あなたたちがここで何をしようと、わたしは気にしませんから」
ミーナは目を細めて、カタリーナのような慈愛の笑みを浮かべた。本心では、男たちがほとんど裸に近いような格好で、尿やらなにやら入れて藍玉を作る現場に居合わせるなど、卒倒しそうな思いがするのだ。
「ミーナお嬢さま、なんてことを…」
ヘリガがわなわな震えだすのを、ミーナは手で制した。そして、口元を崩さないように注意しながら目を見開き、染め物職人の親方の目をじっと見つめた。親方は困った顔をして、目線をあちこちに移し、やがてため息をついた。
「若奥様は強情っぱりなお人ですな。ちょろちょろされたら、こっちが落ちつかねぇ。わかりやした。若奥様がおっしゃる通りの色を染めてみやしょう。よく考えてみたら、俺達の誇りをかけた一発勝負の色を出せるのも、面白いかもしれねぇ。それに…」
ミーナは期待して親方の言葉を待ったが、親方は、ミーナが染めたおままごとの色が、ビルング家の色として出回るのは、職人の誇りにかけて許せないと言って、大声で笑い出したのだ。
こうして出来上がった空色の麻布は、今まで貧相とされた薄い青とは違う色味を持つ、どこでも見たことのない布となった。
「素晴らしいわ。これが貧相だなんて、誰にも言わせはしないわ」
ミーナはその布を可愛い我が子のように抱きしめ、頬ずりしてみせた。そして、多くの貴婦人たちが、空をまとって踊る姿を想像した。それはまるで、幼い頃に聞いた物語のように美しい光景だった。
「若奥さま。あんまりですわ。確かに、わたくしはイェルクさまにあこがれておりました。でも、それは城じゅうの女たちが、多かれ少なかれ抱いていた気持ちでございます。わたくし一人だけを罰しようとお考えなのですか…」
ティベルダはさめざめと泣いた。もちろん、ミーナはティベルダを罰するつもりはなかった。このにおいに耐えられないというティベルダの気持ちも理解できた。このにおいが染みついたら、イェルクの側仕えはできそうにない。メイドたちの仕事に差し支えるようなことはさせたくなかった。
それに、藍を発酵させる際に尿を入れる現場に女たちが居合わせたら、とんでもないもめごとが起こりそうだと、ミーナは想像していた。ここで、女たちと男たちが棍棒でも持って争われたら城じゅうが大騒ぎになるだろう。ミーナは、染める仕事は藍染め職人たちに任せることにした。女だけがこの布づくりに携わるのではなく、男たちの力も借りて、ともに作り上げたほうが、よりよい布になると思ったのだ。
しかし、二つ目の問題が起きた。男たちはミーナの意見をはなから否定したのだ。薄い青の布や糸は、貧乏人の色だというのだ。
「若奥様、俺達ゃ、いかに濃い藍色を染めるかに力を注いできたんですぜ。若奥様は毎日見てらっしゃるはずですぜ?大旦那様や大奥様のお召し物の、深い、濃い色を」
染め物職人の親方が言うとおり、マルクスやカタリーナの服は深くて濃い藍色だ。はじめて会った日に見た、美しい色をミーナはよく覚えていた。それが家令や家臣たち、ヘリガのような身分の高いメイドや一般騎士たち、一般の使用人たちと下るにつれて、色が薄くなっていくのだ。色が濃いというのは、完成までに何度も染めているということで、つまりは手間がかかって高級なのだ。イェルクは黒髪の騎士の名のとおりに黒い服を着ていて、ミーナは内心、修道士のようでつまらないと思っていた。ミーナは赤い服や、ヘリガがあつらえてくれたような緑色の服を好んで着ていた。まだ若いので好きな服を着るというわがままが許されるのだ。
「それは理解しています。ですが、わたしはどこにもない布を作ろうとしているのです。こんな空色の服は、イメディング家の衣装入れにもありませんでした。若い女たちは、今にこの色のとりこになるでしょう。だって、素敵ではありませんか?空をまとって踊れるのですよ!」
ミーナはくるりと一回転してみせた。お義理の拍手すら起こらなかった。
「とにかく、お願いします。一度の染めで売れる布ができれば、手間も、時間も、藍玉も少なくてすみます。少ない費用で高く売れれば、それだけビルング家のためになります。どうか力を貸してください」
ミーナは微笑んだ。以前のように、若奥さまとしての誇りをかけて。しかし、親方は怒り出した。
「冗談じゃねぇ!俺達には、誇りがあるんだ!手間と時間と藍玉をたっぷり使って、いい色に染めることが、俺達職人の誇りなんだ!そんなけち臭いことはやってられねぇ!たとえそれがビルング家のためでも、だ!」
ミーナは職人たちの頑固さを思い知った。しかし、負けてはいられなかった。ミーナは目を伏せて、しばらく考えこんだ。
「わかりました。ではあなたたちは、その誇りにかけて今までどおり濃い藍色を染めてください。わたしたちが作る糸や布は、わたし自身が染めましょう。これからはこの小屋がわたしの部屋です。大丈夫です。あなたたちがここで何をしようと、わたしは気にしませんから」
ミーナは目を細めて、カタリーナのような慈愛の笑みを浮かべた。本心では、男たちがほとんど裸に近いような格好で、尿やらなにやら入れて藍玉を作る現場に居合わせるなど、卒倒しそうな思いがするのだ。
「ミーナお嬢さま、なんてことを…」
ヘリガがわなわな震えだすのを、ミーナは手で制した。そして、口元を崩さないように注意しながら目を見開き、染め物職人の親方の目をじっと見つめた。親方は困った顔をして、目線をあちこちに移し、やがてため息をついた。
「若奥様は強情っぱりなお人ですな。ちょろちょろされたら、こっちが落ちつかねぇ。わかりやした。若奥様がおっしゃる通りの色を染めてみやしょう。よく考えてみたら、俺達の誇りをかけた一発勝負の色を出せるのも、面白いかもしれねぇ。それに…」
ミーナは期待して親方の言葉を待ったが、親方は、ミーナが染めたおままごとの色が、ビルング家の色として出回るのは、職人の誇りにかけて許せないと言って、大声で笑い出したのだ。
こうして出来上がった空色の麻布は、今まで貧相とされた薄い青とは違う色味を持つ、どこでも見たことのない布となった。
「素晴らしいわ。これが貧相だなんて、誰にも言わせはしないわ」
ミーナはその布を可愛い我が子のように抱きしめ、頬ずりしてみせた。そして、多くの貴婦人たちが、空をまとって踊る姿を想像した。それはまるで、幼い頃に聞いた物語のように美しい光景だった。
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