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一章 花と蝶
第12話 夜の通り
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涙に暮れるうちに、夜になった。フルールは、エディがいる酒場に行って食事をとることにした。あの酒場は、酒よりも食事がうまいという評判だ。
酒場の扉を開けると、呼び鈴がからんからん、と鳴った。
「いらっしゃい。おや、フルールじゃないか」
酒場のマスターがフルールに声をかけた。
「こんばんは。席は空いていますか?」
「奥の席なら開いております。エドワール、お客さまをご案内しろ」
エドワールというのは、エディの本名だ。エディは厨房から出てきた。フルールを見て、少し、驚いた顔をした。
「どうぞ、こちらへ」
エディはフルールを席に案内した。フルールは席に着いた。
「ご注文は?」
「ワインを一瓶、あとは適当に食べ物を見繕ってください」
「かしこまりました。お客さま。ワイン一杯に、食べ物数品、用意いたします」
エディは片目をつぶってみせた。お酒の力で悲しみを紛らわそうとした自分に気がついた。
(今なら、叔父さんの気持ちもわかる気がする……)
店をきょろきょろ見回してみたが、シャルル叔父の姿はなかった。
しばらくすると、エディがワインとつまみ数品を持って現れた。どれもおいしそうだけど、食べる気力がわいてこない。フルールは、マチルドに「ご飯食べてる?」と心配されたように、元々食の細い娘だった。
ワインは温かかった。少し、香辛料が利いていた。飲むと身体がぽかぽかしてきた。
(私が落ち込んでいるの、みんなわかっているんだわ……)
この通りの人たちは、みな、このワインのように温かい。人の温かさの元で、大切に大切に育てられた自分は、商売の厳しい世界に向いていないのではないか……そう思うと、喉の奥がぎゅっと縮こまってきた。ますます、食事をとる気分にはならなかった。フルールはマスターに声をかけた。
「マスター、もう帰ります。お勘定、お願いします。残った食べ物は、持ち帰ってもいいですか?」
「かしこまりました。おい、エドワール、四番テーブルのお客さまのお食事を詰めてさしあげろ」
「わかりました!」
エディは、さっきから厨房と給仕の仕事を兼ねていて、大変そうだ。でも、エディはいつでも、楽しそうな顔をしている。
(エディも、落ち込むことがあるのかしら……)
そんなことをぼんやり考えながら、フルールは勘定を済ませた。食事を詰め終わったエディが、フルールの元へやってきた。
「マスター、ありがとうございます。器は後日、洗って返します」
「いいえ、お客さま。後日店の者が取りに伺います。そのときにお返しいただければ」
「わかりました。ありがとうございます」
フルールは店を出ようとした。
「おい、エドワール。今日はもうあがりだ。お客さまを家まで送ってさしあげろ。最近は、何かと物騒だからな」
「わかりました!」
「いいえ、そこまでしていただかなくても……」
フルールは慌てて手を振った。酒場の客の目線が、一気に注がれ、フルールは赤面した。
「お客さま。最近、昼間でも、ひったくりが出ます。夜はもっと危険です」
エディがいつになく強い口調で言った。
「わかりました。では、お願いします、エドワールさん」
フルールは酒場の客の目線を背中に受けながら、エディと二人、夜の通りに出た。
夜の通りは静かだ。魔法の明かりと、うろつく野良猫の瞳だけが、妖しく光っている。上に視線を移すと、上層の隙間から星空が見えた。
エディとフルールは、何も言わずに歩いていた。足音だけが響いている。沈黙に耐えられなくなり、フルールは口を開いた。
「今日は、シャルル叔父さんがいなくてほっとしたわ」
「そうだね。シャルルさん、どうしたのかな?」
「毎日酒場に現れるほうがおかしいのよ。お酒に逃げるのは、みっともないわ」
フルールは不満げに答えた。言い終えて、顔がぽっと赤くなった。
(どの口が言うのかしら……)
また沈黙が広がった。ほんの短い時間が、とてもとても、長く感じられた。
「エディ、ありがとう。ここまででいいわ。うちはすぐそこだもの」
「だめだ。危ないよ。家の前まで送る」
魔法の明かりに照らされたエディの目は、いつになく真剣だった。
「大丈夫よ! 私はもう、大人よ。子どもじゃないわ。じゃあ、またね!」
フルールは駆け出そうとした。大きな手のひらが、フルールの腕を掴んだ。フルールは振り返って、エディを見た。寂しそうな顔をしていた。
「大人だから、辛いことがたくさんある。何があったの? 僕でよければ、話を……」
「離して!」
フルールは、ぱん、とエディの顔をはたいた。我に返ると、頬に手を当て、ぽかんと口を開き、色の失せた目をしたエディがいた。戸惑いが、後悔がありありと伝わってくる……。フルールは、口をぱくぱくさせて、謝った。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
フルールは踵を返して、家まで一目散に走って逃げた。
玄関の戸を乱暴に閉めた。はあはあと、肩で息をして、それからその場にしゃがみ込んだ。
「エディ、ごめんなさい。あなたのせいじゃない、あなたのせいじゃないの。私のせい。私が……」
『あなたを、蝶を飲み込んだ子として、産んだばっかりに……』
母アンリエットの声が、心の底から響いてきた。フルールは真珠のような大粒の涙を流した。
酒場の扉を開けると、呼び鈴がからんからん、と鳴った。
「いらっしゃい。おや、フルールじゃないか」
酒場のマスターがフルールに声をかけた。
「こんばんは。席は空いていますか?」
「奥の席なら開いております。エドワール、お客さまをご案内しろ」
エドワールというのは、エディの本名だ。エディは厨房から出てきた。フルールを見て、少し、驚いた顔をした。
「どうぞ、こちらへ」
エディはフルールを席に案内した。フルールは席に着いた。
「ご注文は?」
「ワインを一瓶、あとは適当に食べ物を見繕ってください」
「かしこまりました。お客さま。ワイン一杯に、食べ物数品、用意いたします」
エディは片目をつぶってみせた。お酒の力で悲しみを紛らわそうとした自分に気がついた。
(今なら、叔父さんの気持ちもわかる気がする……)
店をきょろきょろ見回してみたが、シャルル叔父の姿はなかった。
しばらくすると、エディがワインとつまみ数品を持って現れた。どれもおいしそうだけど、食べる気力がわいてこない。フルールは、マチルドに「ご飯食べてる?」と心配されたように、元々食の細い娘だった。
ワインは温かかった。少し、香辛料が利いていた。飲むと身体がぽかぽかしてきた。
(私が落ち込んでいるの、みんなわかっているんだわ……)
この通りの人たちは、みな、このワインのように温かい。人の温かさの元で、大切に大切に育てられた自分は、商売の厳しい世界に向いていないのではないか……そう思うと、喉の奥がぎゅっと縮こまってきた。ますます、食事をとる気分にはならなかった。フルールはマスターに声をかけた。
「マスター、もう帰ります。お勘定、お願いします。残った食べ物は、持ち帰ってもいいですか?」
「かしこまりました。おい、エドワール、四番テーブルのお客さまのお食事を詰めてさしあげろ」
「わかりました!」
エディは、さっきから厨房と給仕の仕事を兼ねていて、大変そうだ。でも、エディはいつでも、楽しそうな顔をしている。
(エディも、落ち込むことがあるのかしら……)
そんなことをぼんやり考えながら、フルールは勘定を済ませた。食事を詰め終わったエディが、フルールの元へやってきた。
「マスター、ありがとうございます。器は後日、洗って返します」
「いいえ、お客さま。後日店の者が取りに伺います。そのときにお返しいただければ」
「わかりました。ありがとうございます」
フルールは店を出ようとした。
「おい、エドワール。今日はもうあがりだ。お客さまを家まで送ってさしあげろ。最近は、何かと物騒だからな」
「わかりました!」
「いいえ、そこまでしていただかなくても……」
フルールは慌てて手を振った。酒場の客の目線が、一気に注がれ、フルールは赤面した。
「お客さま。最近、昼間でも、ひったくりが出ます。夜はもっと危険です」
エディがいつになく強い口調で言った。
「わかりました。では、お願いします、エドワールさん」
フルールは酒場の客の目線を背中に受けながら、エディと二人、夜の通りに出た。
夜の通りは静かだ。魔法の明かりと、うろつく野良猫の瞳だけが、妖しく光っている。上に視線を移すと、上層の隙間から星空が見えた。
エディとフルールは、何も言わずに歩いていた。足音だけが響いている。沈黙に耐えられなくなり、フルールは口を開いた。
「今日は、シャルル叔父さんがいなくてほっとしたわ」
「そうだね。シャルルさん、どうしたのかな?」
「毎日酒場に現れるほうがおかしいのよ。お酒に逃げるのは、みっともないわ」
フルールは不満げに答えた。言い終えて、顔がぽっと赤くなった。
(どの口が言うのかしら……)
また沈黙が広がった。ほんの短い時間が、とてもとても、長く感じられた。
「エディ、ありがとう。ここまででいいわ。うちはすぐそこだもの」
「だめだ。危ないよ。家の前まで送る」
魔法の明かりに照らされたエディの目は、いつになく真剣だった。
「大丈夫よ! 私はもう、大人よ。子どもじゃないわ。じゃあ、またね!」
フルールは駆け出そうとした。大きな手のひらが、フルールの腕を掴んだ。フルールは振り返って、エディを見た。寂しそうな顔をしていた。
「大人だから、辛いことがたくさんある。何があったの? 僕でよければ、話を……」
「離して!」
フルールは、ぱん、とエディの顔をはたいた。我に返ると、頬に手を当て、ぽかんと口を開き、色の失せた目をしたエディがいた。戸惑いが、後悔がありありと伝わってくる……。フルールは、口をぱくぱくさせて、謝った。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
フルールは踵を返して、家まで一目散に走って逃げた。
玄関の戸を乱暴に閉めた。はあはあと、肩で息をして、それからその場にしゃがみ込んだ。
「エディ、ごめんなさい。あなたのせいじゃない、あなたのせいじゃないの。私のせい。私が……」
『あなたを、蝶を飲み込んだ子として、産んだばっかりに……』
母アンリエットの声が、心の底から響いてきた。フルールは真珠のような大粒の涙を流した。
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