パピヨン

田原更

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一章 花と蝶

第10話 私がすべき、本当のこと

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 フルールの元には、注文も入るようになった。店も盛況だった。しかし……。

 その日は客足が途絶え、退屈だった。空に浮かぶ上層の影が、いつもよりも濃く感じられた。

(もしかして、飽きられてしまったのかしら……)

 世の中には流行り廃りがある。爆発的に売れたものは、すぐに飽きられてしまう。父フレデリクの言葉だ。フルールは怖くなって、誰か来てくれないかと、店の扉をじっと眺めていた。

 願いが叶ったのか、扉が開いた。フルールは入り口に立つ人物を期待の眼差しで見たが、思わず叫びそうになった。

 狼だ。狼のような目をした男がやってきた。獲物を見据えるような、鋭く、冷たい目。男は黒い頭巾と外套を身につけ、つかつかとこちらへやってきた。

「い、いらっしゃいませ……。どのようなご用件でしょうか?」

 男は何も答えず、こちらとの距離を縮めていった。

(ご、強盗かしら……? いやだ、怖い、助けて、エディ!)

 フルールまであと数歩、というところで、男はぱっと頭巾をとった。男は金髪の美しい青年だった。目の色は灰色だった。男は優雅に微笑んだ。

「失敬。驚かせてしまったようですね」

「いえ、こちらこそ、失礼いたしました……」

 フルールは消え入りそうな声で無礼を詫びた。

「改めておうかがいします。どのようなご用件でしょうか?」

「あなたに、作ってほしいアクセサリーがあります。どうぞこちらをご覧ください」

 いったいどこにしまい込んでいたのかわからないが、男は鞄を取り出し、中から書類を一枚出した。

「拝見します。……こちらは、蝶のアクセサリーでございますね」

 男が出した書類は、アクセサリーの設計図だった。オレンジ色の宝石を基調とした、蝶のアクセサリーの作り方が、事細やかに書き込まれていた。

(この蝶、まるで、あの日の蝶みたい……)

 フルールは、自身の指輪に止まった、あの美しい蝶を思い出した。

「この設計図は我が主が描いたものです.この設計図を見れば、どのアクセサリー職人でも同じものが作れると、主は申しておりましたが、いかがでしょうか」

「はい、とてもわかりやすく描いてあって、確かに、私でも同じものを作れそうです」

 男は安心したような笑みを浮かべた。見る者全てを虜にするような笑みだった。

「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

「クロアゲハ」

「え?」

 フルールは驚いて、男のことをもう一度よく見つめた。外套の隙間から、蝶の飾りがちらりと見えた。その蝶は、真っ黒だった。

「クロアゲハ。そう、お呼びください。私はさる貴族の夫人の遣いでやって参りました。ですが、そのお方の名前を、あなたにお伝えすることはできません。お許しください。我が主のことは、単に、マダム、とお呼びください」

「かしこまりました。クロアゲハさま」

 変わった名前だな、と思ったが、男の優雅な振る舞いと、裾の広がった黒い外套は、クロアゲハという言葉がよく似合っていた。

「マダムは、まずはあなたに、試作品を作っていただこうと考えております。試作品の出来映えがよければ、正式にこちらをお願いしたいと申しております」

「わかりました。ご期待に添えるよう、全力を尽くします」

「それを聞いて、安心しました」

 男はまたしても優雅に笑った。フルールは思わず見とれそうになってしまった。その思いをぶるぶると振り落としたあと、疑問を口にした。

「マダムはどうして、上層のアクセサリー店ではなく、私にご依頼されたのでしょうか?」

「それはあなたが、宝石そのものを愛しておいでだからです」

「え?」

「マダムもあなたと同じ考えをお持ちです。宝石は単なる魔力の結晶ではなく、宝石そのものが美しく、貴いとお考えなのです。ですが、この考え方を、上層のアクセサリー店も、アクセサリー職人も、宝石の卸売商さえも理解しようとしない。そんな折に、あなたの噂を耳にしたのです。中層には、宝石そのものを愛するアクセサリー職人がいる、と、マダムに伝えましたところ、涙を流してお喜びになりました」

 同じ考えをする人が、上層の中にもいた。それは、フルールにとっても、涙が出るほど嬉しいことだった。宝石そのものの美しさを、みんなにわかってもらうという夢に、こんなに早く近づけるなんて。

「クロアゲハさま、ありがとうございます。必ず、マダムがお気に召すようなアクセサリーを作ってみせます。他の注文との兼ね合いで、お時間を十日いただきますが、よろしいでしょうか?」

 クロアゲハは満足した笑みを浮かべ、店をあとにした。クロアゲハを見送った途端、フルールは天にも昇る心地になった。

「すごい! 素敵なことだわ! 上層の貴族の奥さまから、ご指名で注文が入るなんて!」

 喜びのあまり、フルールは店内を蝶のように舞った。

「お父さん! 天国で見てくれた? こんな名誉なことがあるなんて! しかも、奥さまは、私の志に感動してくれたのよ!」

 店内では、フルールが作った蝶の飾りや八連の宝石のネックレスが、祝福するようにきらきらと輝いていた。

「わかったわ! 私がすべき、本当のことが! アクセサリーで、人の心を繋ぐ! 上層の人も中層の人も、きっと、下層の人も、美しいものを美しいと感じる心は、同じはずよ! トリタヴォーラのすべての人が、同じ人間だっていうことを、アクセサリーで証明するのよ!」

 フルールはすっかり舞い上がってしまい、大切なことを二つ忘れてしまった。一つは、試作品の代金について話さなかったこと。もう一つは、自分が扱う宝石がどんなものか、伝えなかったことだ。
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