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106 小さな誤解と憧れの人
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フォンブランデイル公爵家、庭師たちの朝は早い。
日が昇る頃には作業を始めている、何しろやることがたくさんあるのだ。
元は美しい庭園だった、三年目を迎えた畑は行儀よく並ぶ青い野菜たちが育ち、何棟も建てられたスライム小屋の中でも季節をずらして植えられた野菜や果実、花などが順調に育っていた。
まだドレイファスの言う大きなペリルは作られていないが、森から定期的に大きめの実をつける株を採取し、また畑のペリルでもより大きな実をつけるものを選んで株分けさせるということをくり返して、それらだけを植え替えたスライム小屋の中はあきらかに他のペリルより少し大きい実が採れるようになってきた。それでもドレイファスの夢見る半分くらいの大きさに過ぎないため、もっと何かが必要なのだろう。
地植えとスライム小屋での栽培を並行していて、本来の季節以外での収穫がほぼできるようになった。
特にみんなが大好きなレッドメルの栽培には情熱を燃やし、四棟のスライム小屋を使って四つの季節すべてで収穫できるよう挑戦中。温度管理が大変なのだが、自分たちが食べる分くらいはなんとか採れる。人手があればもっと増やせるはずだが、取り急ぎこのペースで改良できるところがないかを観察し改善を続けているところだ。
サールフラワー、スピナル草とラバンやミンツは育てやすく、理解が進むにつれ手がかからなくなった。当初は地道に増やしていたが、ミンツなどは目を離すと勝手に広がってしまうため今は増殖しないよう管理しているくらいで。
トモテラ、グリーンボールも順調である、今は。けして平坦な道程とは言えず、少しの油断で小屋一棟まるごと枯れるようなトラブルもあったのだ。しかし三年目を迎えて漸く順調と言えるようになった。
目下の悩みは、種類を増やすことができないこと。ラバンとミンツを継続的に収穫しローザリオに提供するため、植物採取に行く時間が取れない。人手がもっと必要だった。
ヨルトラが各地に散らばった弟子たちの中で考えが合いそうな者を選び、ロイダルが身上調査を済ませた中から数名を呼び寄せた。一月以内には公爵家にやってくる予定で、庭師たちは毎日待ちわびている。ただ、もうログハウスの増設はせず、今後採用された者は離れの寮に入ってもらう。ログハウスにいる庭師たちは動くつもりはなくこのまま庭の端で暮らすつもりらしい。
「おはよー」
元気いっぱい、一年生二日目のドレイファスが畑に飛び込んできた。
「ヨルトラ爺!」
抱きついて何か言いたげな目をしている。
「学院はどうでした?今日の支度は?」
「うん、たくさん人がいた!今日の支度はできてるよ」
ほめてほめてと物を言う瞳。
「もう支度が終わってるなんてえらいですね」
期待に答える爺である。
「教えてほしいことがあるの」
ドレイファスは小声になった。
「すぴーちってなに?」
その姿が本当にかわいらしくて、金色の髪をそっと撫で
「たくさんの人前でご挨拶やお話をされることですよ」
まわりに聞こえないよう小さな声で答えてやると、碧い目をキラリとさせ
「わかった!ありがとう!」
大きな声で礼を言ったのはいいが、ヨルトラの耳に近すぎてキーンと響く。
目から星が出るとはこういうことだなと、油断したヨルトラが苦笑いを浮かべたことは誰も気づかなかった。
「ゆっくりしてると遅れるぞ」
屋敷内の護衛にシフトしたルジーが声をかけたので、ドレイファスは手を振って水やりに走り出す。
いままではいつもルジーと一緒だったが、入学以降は屋敷にいるあいだはルジーとロイダル、マトレイドの三人が屋敷内の護衛を、通学や外出はワーキュロイとメルクルが護衛につくと役割が決められた。外では帯剣する護衛のほうが威圧感があり、見た目的には効果が高い。
ということと、ルジーの大告白から半年後に無事婚約したふたりは、予定の婚約期間を終えたら結婚する。メイベルはサイルズ男爵家の後継者として領地経営を学ぶために公爵家を辞することが決まっていて、ルジーもメイベルの代行者として共に学ばねばならない。
とはいえサイルズ男爵はまだ若く元気いっぱいで引退は先の先の話であり、また公爵家との繋がりを大切にしたい考えの男爵から、結婚してもルジーは通勤して公爵家に仕え、週末や手が足りなくなる領地視察のときだけ男爵の補佐をすることになった。
ふたり一度に辞められたらドレイファスがどれほど寂しがることかと心配していたドリアンも、愛妻マーリアルの親戚でもあるサイルズ男爵からの提案は渡りに船と喜んで受け入れた。
そのような経緯で、ドレイファスに張り付く時間がちょっと少なくなるだけのこと。
なのだが、ドリアンは長男に「護衛の体制が変更になることと、ルジーとメイベルが結婚して辞める」と説明した。言葉が足りないことに気づいていなかった。
正確には「護衛の体制が少し変わることと、ルジーとメイベルがもうじき結婚してメイベルが辞める」と言うべきだったのだが。
ドレイファスはとても悲しそうな顔をしたが泣くことはなく。
「ルジーとメイベルがときどき遊びに来てくれるならいい」
目一杯我慢してそう言った息子がとても愛おしくて、自分も泣きたくなるほどで。よく聞けばアレ?と思ったかもしれないが、ドレイファスに誤解させたと最後まで気づかないまま過ごしてしまった。
そんなことがあって、勘違いしたままのドレイファスはルジーと畑に行かれるのもあと少しなのだと泣きたいのを我慢して、今まで以上に楽しみに、その時間を大切にしている。
朝夕必ず手を繋いで地下通路を一緒に歩こうと決めたのだ。なるべくいっぱい一緒がいい。
畑に来た時はタンジェントやヨルトラにべったりだったが、作業小屋のベンチから見守るルジーを迎えに行くと、水やり樽をルジーにも渡して「一緒に水撒いて」とおねだりする。
「えー、めんどくさ」というルジーの手を引いて一緒に畑に下りる。
メイベルにルジーがとられるとは思わないが、ずーっと一緒だと思っていたのにそうではないと初めて知った戸惑いと悲しみや寂しさ。ドレイファスはなぜだか顔に出してはいけないような気がして、頑張って元気に笑ってみせた。
「そろそろ戻ったほうがいいぞ」
ルジーが急かすので、しかたなく手を繋いで屋敷へと戻る。
「ほら、はやくはやくはやく」
ドレイファスの気持ちも知らず、やたらと急かすのだ。少しでも長く一緒にいたいのに。
屋敷に戻りルジーが鞄を持つと、さらに急かされて馬車へ連れて行かれたが、トレモルはもう待っていた。
「ドル、遅いよ。遅れちゃうかと思った!」
急かしていたのは、本当に遅れそうだったから。ドレイファスは恥ずかしくなって少し俯き、ルジーに抱きあげられて馬車に乗った。
「ルジーありがと」
「間に合えばいいんだ。気をつけて行ってこい!」
今日の護衛は御者も兼ねたモンナとメルクルだ。にこやかに手を振り、御者台に飛び乗って馬車を走らせた。
馬車の中ではトレモルが教科書の紙綴りやハンカチなどの持ち物を確認している。トレモルのではない、ドレイファスのである。
「ちゃんと持ってきたってば」
「でも昨日ハンカチ忘れたでしょ」
うっと言い淀む。
トラウザーズのポケットを探ると。
「あった!」
さっき畑で使ったそれを引っ張り出してトレモルに見せたが、くしゃくしゃで、さらに丸まっていてとても手を拭けるようなものではない。
「一枚多く持ってきたからこれ持ってて」
きれいに刺繍された白いハンカチを真四角に畳んだものを渡してくれた。
トレモルにとっては、ドレイファスを守って世話を焼くのは自分の仕事のようなもの。忘れ物の確認だって当たり前にやったのだが、やりすぎたかもしれない。ちょっと拗ねたドレイファスは口を尖らせ、そっぽを向いた。
学院に着くと馬車は車寄せに停め、車輪止めをしてから扉が開けられる。メルクルが踏み台を出して二人を下ろしてくれた。
車寄せより先には特別な時以外生徒しか入れないため、馬車は一度屋敷に戻り、終わる頃に迎えに来る。
メルクルが空の馬車の扉を閉め、踏み台をしまううちにヤンニル家の馬車が到着した。
「ボルディおはよう!」
離れたところに停められた馬車から降りたボルドアが早足でやって来る。後ろに少し年長の少年を連れて。
「おはよう、あっ、ぼくの兄上だよ」
「はじめまして。ローライト・ヤンニルです。いつも弟がありがとうございます」
公爵家にボルドアは出入りしていても、呼ばれていないローライトはいつも留守番だった。もともと王城騎士団を目指しているので、弟の境遇を特別羨ましがることもない性格のローライトは、ボルドアとは小さいか大きいかくらいの違いしかないほどよく似ている。
「なにか困ったことがあったら、僕の教室に来てください。三年C組ですよ」
上級生として、下級生に親切に振る舞った。
さて。ボルドアにはメルクルのような護衛騎士はいないが、御者は父クロードゥルの先輩騎士で、引退したとはいえ十ニ分に強い。暇を持て余しているので小遣い稼ぎに護衛兼任で御者をやっている。
そのおとなたちは境界線までついてきて、校内に消えるこどもたちを手を振って見送った。
「私はフォンブランデイル公爵家の騎士、メルクル・グゥザヴィだ」
手を差し出すと、如何にも古参騎士という豆だらけのごつい手で握り返した男が
「俺は、引退老人だから名乗るほどの者じゃない」
「まあ、そんなこと言わずに。名を知らねば呼ぶときに困る」
メルクルが粘ると、とても面倒くさそうに
「ビエンザ・ウィーラだ」名乗ったが。
「ビエンザ・ヴィーラ?嘘?本当に?本人?」
メルクルが握ったままの手をぶんぶん振り回した。
「コモラドイラオオトカゲを一人で討伐した?」
メルクルは初めて会った憧れの人に興奮していて、シエルドが来たことに気づいていない。
「メルクル先生?おはようございます」
「あ、おはよう!ドレイファスたちはもう中だぞ」
教えてやると、アーサを置いて走って行った。見送るとアーサは馬車へ戻ったが、メルクルはビエンザの手を離そうとしない。
「なぜヤンニルの護衛を?」
「暇つぶしと小遣い稼ぎだな」
「あなたほどなら公爵家でもお迎えすると思うが」
「怪我をして昔ほどは動けんのだ。騎士爵のこどもの護衛くらいが関の山だよ。重い責は負えぬ」
「ずっとヤンニルにいらした?」
「いいや。ずっと湯治場におって。やっと痛みがマシになったからニードグに便りを出したら、なぜか息子のクロードゥルに呼び寄せられた」
(クロードゥルが憧れのビエンザと知り合いだったなんて!しかし、よく呼んでくれた!クロードゥルありがとう!)
メルクルはまだ手を離さず、ニコニコしたまま質問を続けようとしたが。
「メルクル、そろそろ戻るぞ」
モンナに呼ばれたときの失望感ときたら。
「まあ、これからも会うことがあるだろうからよろしく頼む」
ビエンザはヤンニル家の小さな馬車に乗ると、挨拶がわりに手に取った帽子を振って去っていった。
「モンナまさか知らないのか?あの方はな!」
(おまえが声をかけなければ、憧れの人ともっと話せたのに!)
珍しく苛ついた声で、彼がどれほどすごい人かをとうとうと御者に語り尽くすメルクルと、うんざりした顔を浮かべたモンナが公爵家に戻ったのは、いつもよりだいぶ遅くなってからであった。
日が昇る頃には作業を始めている、何しろやることがたくさんあるのだ。
元は美しい庭園だった、三年目を迎えた畑は行儀よく並ぶ青い野菜たちが育ち、何棟も建てられたスライム小屋の中でも季節をずらして植えられた野菜や果実、花などが順調に育っていた。
まだドレイファスの言う大きなペリルは作られていないが、森から定期的に大きめの実をつける株を採取し、また畑のペリルでもより大きな実をつけるものを選んで株分けさせるということをくり返して、それらだけを植え替えたスライム小屋の中はあきらかに他のペリルより少し大きい実が採れるようになってきた。それでもドレイファスの夢見る半分くらいの大きさに過ぎないため、もっと何かが必要なのだろう。
地植えとスライム小屋での栽培を並行していて、本来の季節以外での収穫がほぼできるようになった。
特にみんなが大好きなレッドメルの栽培には情熱を燃やし、四棟のスライム小屋を使って四つの季節すべてで収穫できるよう挑戦中。温度管理が大変なのだが、自分たちが食べる分くらいはなんとか採れる。人手があればもっと増やせるはずだが、取り急ぎこのペースで改良できるところがないかを観察し改善を続けているところだ。
サールフラワー、スピナル草とラバンやミンツは育てやすく、理解が進むにつれ手がかからなくなった。当初は地道に増やしていたが、ミンツなどは目を離すと勝手に広がってしまうため今は増殖しないよう管理しているくらいで。
トモテラ、グリーンボールも順調である、今は。けして平坦な道程とは言えず、少しの油断で小屋一棟まるごと枯れるようなトラブルもあったのだ。しかし三年目を迎えて漸く順調と言えるようになった。
目下の悩みは、種類を増やすことができないこと。ラバンとミンツを継続的に収穫しローザリオに提供するため、植物採取に行く時間が取れない。人手がもっと必要だった。
ヨルトラが各地に散らばった弟子たちの中で考えが合いそうな者を選び、ロイダルが身上調査を済ませた中から数名を呼び寄せた。一月以内には公爵家にやってくる予定で、庭師たちは毎日待ちわびている。ただ、もうログハウスの増設はせず、今後採用された者は離れの寮に入ってもらう。ログハウスにいる庭師たちは動くつもりはなくこのまま庭の端で暮らすつもりらしい。
「おはよー」
元気いっぱい、一年生二日目のドレイファスが畑に飛び込んできた。
「ヨルトラ爺!」
抱きついて何か言いたげな目をしている。
「学院はどうでした?今日の支度は?」
「うん、たくさん人がいた!今日の支度はできてるよ」
ほめてほめてと物を言う瞳。
「もう支度が終わってるなんてえらいですね」
期待に答える爺である。
「教えてほしいことがあるの」
ドレイファスは小声になった。
「すぴーちってなに?」
その姿が本当にかわいらしくて、金色の髪をそっと撫で
「たくさんの人前でご挨拶やお話をされることですよ」
まわりに聞こえないよう小さな声で答えてやると、碧い目をキラリとさせ
「わかった!ありがとう!」
大きな声で礼を言ったのはいいが、ヨルトラの耳に近すぎてキーンと響く。
目から星が出るとはこういうことだなと、油断したヨルトラが苦笑いを浮かべたことは誰も気づかなかった。
「ゆっくりしてると遅れるぞ」
屋敷内の護衛にシフトしたルジーが声をかけたので、ドレイファスは手を振って水やりに走り出す。
いままではいつもルジーと一緒だったが、入学以降は屋敷にいるあいだはルジーとロイダル、マトレイドの三人が屋敷内の護衛を、通学や外出はワーキュロイとメルクルが護衛につくと役割が決められた。外では帯剣する護衛のほうが威圧感があり、見た目的には効果が高い。
ということと、ルジーの大告白から半年後に無事婚約したふたりは、予定の婚約期間を終えたら結婚する。メイベルはサイルズ男爵家の後継者として領地経営を学ぶために公爵家を辞することが決まっていて、ルジーもメイベルの代行者として共に学ばねばならない。
とはいえサイルズ男爵はまだ若く元気いっぱいで引退は先の先の話であり、また公爵家との繋がりを大切にしたい考えの男爵から、結婚してもルジーは通勤して公爵家に仕え、週末や手が足りなくなる領地視察のときだけ男爵の補佐をすることになった。
ふたり一度に辞められたらドレイファスがどれほど寂しがることかと心配していたドリアンも、愛妻マーリアルの親戚でもあるサイルズ男爵からの提案は渡りに船と喜んで受け入れた。
そのような経緯で、ドレイファスに張り付く時間がちょっと少なくなるだけのこと。
なのだが、ドリアンは長男に「護衛の体制が変更になることと、ルジーとメイベルが結婚して辞める」と説明した。言葉が足りないことに気づいていなかった。
正確には「護衛の体制が少し変わることと、ルジーとメイベルがもうじき結婚してメイベルが辞める」と言うべきだったのだが。
ドレイファスはとても悲しそうな顔をしたが泣くことはなく。
「ルジーとメイベルがときどき遊びに来てくれるならいい」
目一杯我慢してそう言った息子がとても愛おしくて、自分も泣きたくなるほどで。よく聞けばアレ?と思ったかもしれないが、ドレイファスに誤解させたと最後まで気づかないまま過ごしてしまった。
そんなことがあって、勘違いしたままのドレイファスはルジーと畑に行かれるのもあと少しなのだと泣きたいのを我慢して、今まで以上に楽しみに、その時間を大切にしている。
朝夕必ず手を繋いで地下通路を一緒に歩こうと決めたのだ。なるべくいっぱい一緒がいい。
畑に来た時はタンジェントやヨルトラにべったりだったが、作業小屋のベンチから見守るルジーを迎えに行くと、水やり樽をルジーにも渡して「一緒に水撒いて」とおねだりする。
「えー、めんどくさ」というルジーの手を引いて一緒に畑に下りる。
メイベルにルジーがとられるとは思わないが、ずーっと一緒だと思っていたのにそうではないと初めて知った戸惑いと悲しみや寂しさ。ドレイファスはなぜだか顔に出してはいけないような気がして、頑張って元気に笑ってみせた。
「そろそろ戻ったほうがいいぞ」
ルジーが急かすので、しかたなく手を繋いで屋敷へと戻る。
「ほら、はやくはやくはやく」
ドレイファスの気持ちも知らず、やたらと急かすのだ。少しでも長く一緒にいたいのに。
屋敷に戻りルジーが鞄を持つと、さらに急かされて馬車へ連れて行かれたが、トレモルはもう待っていた。
「ドル、遅いよ。遅れちゃうかと思った!」
急かしていたのは、本当に遅れそうだったから。ドレイファスは恥ずかしくなって少し俯き、ルジーに抱きあげられて馬車に乗った。
「ルジーありがと」
「間に合えばいいんだ。気をつけて行ってこい!」
今日の護衛は御者も兼ねたモンナとメルクルだ。にこやかに手を振り、御者台に飛び乗って馬車を走らせた。
馬車の中ではトレモルが教科書の紙綴りやハンカチなどの持ち物を確認している。トレモルのではない、ドレイファスのである。
「ちゃんと持ってきたってば」
「でも昨日ハンカチ忘れたでしょ」
うっと言い淀む。
トラウザーズのポケットを探ると。
「あった!」
さっき畑で使ったそれを引っ張り出してトレモルに見せたが、くしゃくしゃで、さらに丸まっていてとても手を拭けるようなものではない。
「一枚多く持ってきたからこれ持ってて」
きれいに刺繍された白いハンカチを真四角に畳んだものを渡してくれた。
トレモルにとっては、ドレイファスを守って世話を焼くのは自分の仕事のようなもの。忘れ物の確認だって当たり前にやったのだが、やりすぎたかもしれない。ちょっと拗ねたドレイファスは口を尖らせ、そっぽを向いた。
学院に着くと馬車は車寄せに停め、車輪止めをしてから扉が開けられる。メルクルが踏み台を出して二人を下ろしてくれた。
車寄せより先には特別な時以外生徒しか入れないため、馬車は一度屋敷に戻り、終わる頃に迎えに来る。
メルクルが空の馬車の扉を閉め、踏み台をしまううちにヤンニル家の馬車が到着した。
「ボルディおはよう!」
離れたところに停められた馬車から降りたボルドアが早足でやって来る。後ろに少し年長の少年を連れて。
「おはよう、あっ、ぼくの兄上だよ」
「はじめまして。ローライト・ヤンニルです。いつも弟がありがとうございます」
公爵家にボルドアは出入りしていても、呼ばれていないローライトはいつも留守番だった。もともと王城騎士団を目指しているので、弟の境遇を特別羨ましがることもない性格のローライトは、ボルドアとは小さいか大きいかくらいの違いしかないほどよく似ている。
「なにか困ったことがあったら、僕の教室に来てください。三年C組ですよ」
上級生として、下級生に親切に振る舞った。
さて。ボルドアにはメルクルのような護衛騎士はいないが、御者は父クロードゥルの先輩騎士で、引退したとはいえ十ニ分に強い。暇を持て余しているので小遣い稼ぎに護衛兼任で御者をやっている。
そのおとなたちは境界線までついてきて、校内に消えるこどもたちを手を振って見送った。
「私はフォンブランデイル公爵家の騎士、メルクル・グゥザヴィだ」
手を差し出すと、如何にも古参騎士という豆だらけのごつい手で握り返した男が
「俺は、引退老人だから名乗るほどの者じゃない」
「まあ、そんなこと言わずに。名を知らねば呼ぶときに困る」
メルクルが粘ると、とても面倒くさそうに
「ビエンザ・ウィーラだ」名乗ったが。
「ビエンザ・ヴィーラ?嘘?本当に?本人?」
メルクルが握ったままの手をぶんぶん振り回した。
「コモラドイラオオトカゲを一人で討伐した?」
メルクルは初めて会った憧れの人に興奮していて、シエルドが来たことに気づいていない。
「メルクル先生?おはようございます」
「あ、おはよう!ドレイファスたちはもう中だぞ」
教えてやると、アーサを置いて走って行った。見送るとアーサは馬車へ戻ったが、メルクルはビエンザの手を離そうとしない。
「なぜヤンニルの護衛を?」
「暇つぶしと小遣い稼ぎだな」
「あなたほどなら公爵家でもお迎えすると思うが」
「怪我をして昔ほどは動けんのだ。騎士爵のこどもの護衛くらいが関の山だよ。重い責は負えぬ」
「ずっとヤンニルにいらした?」
「いいや。ずっと湯治場におって。やっと痛みがマシになったからニードグに便りを出したら、なぜか息子のクロードゥルに呼び寄せられた」
(クロードゥルが憧れのビエンザと知り合いだったなんて!しかし、よく呼んでくれた!クロードゥルありがとう!)
メルクルはまだ手を離さず、ニコニコしたまま質問を続けようとしたが。
「メルクル、そろそろ戻るぞ」
モンナに呼ばれたときの失望感ときたら。
「まあ、これからも会うことがあるだろうからよろしく頼む」
ビエンザはヤンニル家の小さな馬車に乗ると、挨拶がわりに手に取った帽子を振って去っていった。
「モンナまさか知らないのか?あの方はな!」
(おまえが声をかけなければ、憧れの人ともっと話せたのに!)
珍しく苛ついた声で、彼がどれほどすごい人かをとうとうと御者に語り尽くすメルクルと、うんざりした顔を浮かべたモンナが公爵家に戻ったのは、いつもよりだいぶ遅くなってからであった。
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