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花の書
求めるもの2
しおりを挟む「お前さんに会ってから、巫山の書を三枚も書き換えたんだねえ」
「三枚も……って、多いってことか?」
「ええ。以前は半年から一年に一度、巫山の書についての情報を得られるかどうかってところでした。それがたった二ヶ月程度でこの結果だ」
さすが、福の神をくっつけた男の威力はすごい。
からかうように言った悠山に、伊知郎はハッとして墨を落としかけた。
「まさか、俺を助手にしたのって!」
「まあ、福の神のご利益を期待したのも正直あります」
本当に正直だな、と伊知郎は墨を握り直し思う。
あんまり正直なので、ふくらみかけた怒りはみるみるしぼんでいった。
伊知郎としても、背中にくっついているという福の神の姿を見たことはないし、その効果もほとんど感じたこともないからというのもある。
それよりも、伊知郎には気になることがあった。
「なあ。先生はさ、どうしてそんなに熱心なんだ?」
「熱心、とは?」
「だって先生、祖父のせいで迷惑をしている人を助けなきゃ、なんて責任を感じるタイプでもないだろ?」
伊知郎のあけすけな物言いに、悠山はその美貌を嫌そうに歪めた。
「失礼な子だね。あたしだって人並みに家族のしたことには責任を感じますよ」
「にしてもさ、なんていうか、違和感があって。困ってるっていう相談があれば受けるけど、っていうスタンスじゃないのがさ。もっと能動的で、焦ってるようにも見えるっていうか」
それを聞いて、悠山はしばらく答えなかった。
煙管をくゆらせ、雲の流れる様を黙って見上げていた。
やがてクッと喉を鳴らし、伊知郎に向き直ると「まいったね」と呟いた。
「伊知郎。お前さんは表六玉かと思いきや、妙に鋭いところがある」
「……ひょうろくだまって、何のことだ? いや、褒め言葉じゃないってのはわかるけど」
「あとで辞書引いて調べなさい」
あきれたように言って、悠山は煙管の灰を盆に落とした。
そして居住まいを正す彼を見て、伊知郎も墨を置き、姿勢よく向き直る。
何か大事なことを言われる、と雰囲気でわかった。
やっと助手として認められたようでドキドキした。
「お前さんには話しておきます。あたしはね、とあるあやかしを探してるんです」
「とある、あやかし。それも巫山の書のあやかしなのか?」
「いいえ。そのあやかしは、あたしが生み出したんです」
きらりと、悠山の瞳が七色に光る。
雇い主の真剣な表情に、伊知郎はごくりと喉を鳴らした。
「先生が生み出したって……書き直した、じゃなく?」
「ええ。祖父の手はくわわっていない、正真正銘、あたしが自らの手で生み出したあやかしです。名前は、ユエ」
「ユエ……」
「月と書いて、ユエです。おそらく、いまもどこかで、人間に擬態して生活している」
まるで親の敵について語るような様子に、気づけば鳥肌が立っていた。
悠山にとってそのユエというあやかしは、どういった存在なのだろう。
「先生は、どうしてそのユエを探してるんだ?」
「取り戻すためです」
「取り戻すって、ユエを?」
「……まあ、似たようなものかね」
自嘲するように言った悠山に、伊知郎は思った。
ごまかされたな、と。
だが思いのほかその顔が寂しげだったので、それ以上ユエについて尋ねることはできなかった。
この話はおしまい、とばかりに膝を叩き、悠山が立ち上がる。
「朔。そろそろ休憩にしないかい。今日のおやつは、荻野の抹茶白玉あんみつだよ」
伊知郎がお遣いで買ってきたあんみつの名前に、朔がパッと振り返る。
てててと駆けてくる姿は、あの夜の鬼神とかけ離れすぎていて、朔の部分だけ夢だったのではないかと本気で思っている伊知郎である。
休憩するなら手を洗わないとな、と立ち上がりかけた伊知郎の額を、悠山がぺしりと叩く。
「お前さんはまだ墨磨りの途中だろ」
「えっ!? いや、でも、俺も抹茶白玉あんみつ食べたいんだけど……」
「まともな墨が磨れたら食べさせてあげます」
「そんな! 朔~。この鬼先生になんか言ってやってくれよ~」
縁側から上がってきた朔に泣きつくと、天童のあやかしはにこっと笑い、両手で小さなこぶしをふたつ作って見せた。
がんばれ、と応援してくれるらしい。
かわいい。かわいいが、とてつもなくかわいいのだが……。
「いちろ。んっ」
うなだれる伊知郎に、朔がもう一度こぶしをにぎる。
かわいすぎて、涙が出てきそうだ。
「さあさ。朔、準備をしようか」
悠山が朔の背を押し、ふたりで台所へと仲良く消えると、伊知郎は深くため息をついた。
仕方ないので墨を手にとり、ゆっくりとまた磨り始める。
ふわりと立ち昇る墨の香りの合間に、庭からの風に乗り、優しい花の香りが届いた気がした。
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