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禍の書

糾える1

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病院の前でタクシーを捕まえると、悠山は伊知郎を先に押しこめ自分も乗りこんだ。

派手な和服姿の色男と制服姿の男子学生。
異色の組み合わせに初老のタクシー運転手は不審げな顔をしていたが、フォローする余裕は伊知郎にはなかった。

病室を出る直前に見た祖父の寝顔と、生意気な弟の日に焼けた顔が交互に浮かび、それだけで頭がいっぱいになる。

道すがら、端的に説明を試みてくれたのだが、動揺のせいかいまいち伊知郎にはその内容が理解できなかった。


「ま、待ってくれよ。さっきの美女が人間じゃないって、どういうこと……?」

「そのままの意味です。会長さんの家であやかしの話をしましたね。あれがそうです。人間ではなく、あやかし。あなたがきらきら光って見えていたものの正体ですよ」


後部座席で前を向いたまま淡々と答える悠山。
冗談を言っている様子はない。

では、本当に? 祖父を切なげに見ていたあの美女が、人間ではないと?


「あ、あやかしって、妖怪とか、幽霊とか、そういう?」

「そうですね。妖怪にはフィクションも多いですが。他にも説明のつかない不思議なこと、怪しげなものを総じてあやかしと言うんです。そして会長さんの病室にいたのは、おそらく福の神ですね」

「……え? 福の神? それって妖怪じゃなくて、神様なんじゃ」

「言ったでしょう。人間の常識では説明のつかないものの総称だと。日本は八百万の神がいる多神教の国です。狐のあやかしを稲荷として祀り、水辺の蛇を水神として崇める。逆に神が妖怪とされる場合もあります。神とあやかしを区別するのは実はナンセンスなんですよ」

「先生……英語知ってるんだな」

「バカにしてるんですか?」


滅相もない、と伊知郎はぶんぶん首を振る。

ただ、和の懐石料理に突然パスタが出てきたような激しい違和感があったのだ。
他意はない。本当に。


「あやかしもんには悪さをするやつもいますが、人間に好意的なものもいます。病室にいたあやかしもんは後者ですね。会長さんに、福をもたらす性質を持っていた」


祖父が若くして成功し、福永商船を一流企業へと成長させ財を成したのも、病室にいた福をもたらすあやかしの力だろうと悠山は言った。
もちろん祖父の商才があってこそだろうが、とフォローする悠山に、伊知郎は苦笑しか返せない。

子どもの頃から大人たちに聞かされてきた、金も学もない男のサクセスストーリーは、フィクションならともかく現実としては出来すぎていた。


「じゃあ、あの女性……福の神みたいなあやかしが病室を出ていったから、じいちゃんは……」

「いえ。その逆でしょうね。会長さんの寿命が尽きたから、あやかしもんが離れていったんです」

「つまり、憑りついていた人間が死んだからあやかしも用がなくなったってこと?」

「憑りついていた……言い得て妙ですね。あのあやかしもんは憑りついていたつもりじゃなかったかもしれませんが、会長さんにしてみればそういうことだったんでしょう」


だから巫山の書を依頼したんです。

まるでその当時の祖父を見ていたかのような悠山の口ぶりに、伊知郎は首をひねる。
だから、と言われてもさっぱりわからない。

なぜ福をもたらすあやかしに憑りつかれたうえに、いわくつきのあやかしの書なんてものを祖父が欲しがったのか。


「わかりませんか? バランスですよ」

「バランスって、いったい何の?」

「すべてです。栄枯盛衰。浮世の苦楽は壁一重」

「ええと……どういう意味だっけ?」

「伊知郎くんのおじいさんは、諸行無常の重要性をよくご存じだったということです」


皮肉気に笑った悠山は「急いでください」と運転手に告げると、目をつむり黙りこんだ。

理解できずにいる伊知郎の思考を置き去りにするように、タクシーはぐんとスピードを上げて黄昏の道を駆け抜けていった。

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