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8.
父が語ったこと
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それから少し日が経ち、僕と朝子さんは緊張しつつ、シックな内装の人気の少ない喫茶店で、藤村忠が姿を現すのを待っていた。僕はふっと思い浮かんだ疑問を、朝子さんに投げかけた。
「どうやって藤村さんを見分けるの?」
「メールで顔写真を送ってもらったから、顔は分かっているの。それに私の顔写真も向こうへ送ったし、藤村さんだって私を……」
「おじさんが店に入ってきた。少し場違いな感じの」
「あの人だわ」
「えっ」
「彼がきっと藤村さんよ。手を振ってみる。あ、こっちを向いた」
彼はまず朝子さんを見て、次に少し驚いた様子で僕を眺めてから、いそいそと僕たちの席にやってきて、トンとテーブルに手を置き、言った。
「君が朝子かい?」
「そうです」
「僕の子供の」
「きっとそうだと思います」
「ここ、座ってもいいかい?」
「もちろんどうぞ」
藤村はするりと僕たちの前にあるソファーに座り込むと、朝子さんと僕を交互に眺めた。それから僕に話し掛けた。
「君も僕の子供なの?」
「僕はあなたの子供ではありません。僕は父を知らないが、その父はあなたではない」
朝子さんが慌てて説明を加えた。
「彼は源くんと言って、私の大切な友達です。一人だと心細かったので、彼についてきてもらいました」
「ああ、そういうことなの」
彼は納得した様子で、手早くウェイトレスに注文をすませると、阿呆のように朝子さんを眺めてから言った。
「大きくなったものだなあ。鼻の形と、目の感じが真知に似ている」
呑気な彼の様子に少しイラついた僕は言った。
「あなたは酷い人だ」
「え」
「真知さんと朝子さんを見捨てた、一番大切なときに」
「ちょっと源くん、いきなりそんなこと―」
「いや、見捨てたわけではないよ。仕方がなかったんだ」
そう言うと彼は運ばれてきたブラックコーヒーをそのまま口につけ、少し黙ってからぼそっと言った。
「それが最善の策だった」
「……」
僕と朝子さんが黙していると、先を促されているように感じたのか、彼の一人語りが始まった。
「真知が高校生の頃に、僕たちは付き合いだしたわけだけど、実は彼女はあるアングラな組織と関わり合いがあった。真知の恋人だった僕も、自然とその組織に出入りするようになったんだが……。主義主張はまあいいとして、組織から抜けようとするときに、犯罪的なリンチが繰り広げられることが分かってきてね。それを知った真知と僕は、組織と縁を切ろうと決めたんだ。その時真知のお中には、朝子、君がいた。でも存在を消すため、彼女はしばらくどこかへ身を隠す必要があった。その結果、自然と僕との縁も切れることになった」
「私の母を、……支えようとは思わなかったのですか」
「思ったさ。だが強い意志で、真知がそれを望まなかった。誰にも迷惑をかけたくないと言い、僕の前からふっと、姿を消してしまった」
藤村の言葉に朝子さんは哀しげな目をして、物思いに沈んだ。彼女を命がけで守ろうとした母の愛を、ひしひしと感じているのだろうか。僕は訊ねた。
「アングラというのは、どういう意味ですか?」
「あらゆるものを否定して、その先に新しい世界を作ろうというのが、組織の大筋の考え方だった。一言でいえば革命だな。その思想を僕はアングラだと言ったんだ。若者を魅了する考え方で、あの頃の僕も夢中になったものだよ」
「肯定した先に未来があるのは分かるのですが、否定した先には、何も得られるものがないのでは」
朝子さんのその言葉に、藤村は困った顔をして見せ、答えた。
「今の僕ならその通りだと思えるけれど、僕と真知は、世界に居場所がないという共通した思いを抱いていたんだよ。極端に言えば、自分の存在を否定する世の中を憎んでいたとでも言うのかな。ならば今ある世界を否定して、その先に未来を作っていこうと言われると、とても救われた気持ちになった。たとえ行く先に待ち受けるものが、破滅だったとしても」
僕はそっけなく質問した。
「真知さんを愛しておられましたか」
「愛していると思っていた。でもきっと……。もし結婚していたら、どのみち別れるという結論に辿り着いただろうな。未来を信じられない僕らの思考で、未来を作る子供を育てていくのは無理がある。
朝子、君のお母さんはどうしている? 元気かい? 幸せかい?」
「……。母は、私を産んでからしばらくして亡くなりました。だから私に母の記憶は全くありません」
「―死んだって、病気で?」
「そう聞いています」
「そうか」
藤村はかなりショックを受けたようで、それからしばらく、俯いたまま無言になった。朝子さんも何か考えている様子で、部外者の僕が口出しできる雰囲気ではなかった。しばらく静かな時が流れ、そのあと朝子さんはおもむろに口を開いた。
「その組織が今どうなっているか、分かりますか、藤村さん」
「う~む、たぶんもう解体して、今では小さな団体になって細々と活動しているか、それとも完全消滅したか。詳しくは分からないよ、僕ももう縁を切っているし」
「なら、当時のその組織の名前は」
「まさか……、君も組織の一員になろうと……」
「違います。ただ組織の活動を知り、母が何を考えていたか知りたいと思っただけです」
「コードという名前だった」
「コード」
「朝子」
「はい」
「くれぐれも無茶はやめてくれ。僕は君と血のつながる者として、君を大切に思っているし、心配もしている」
「私の父と母は別にいます。血は繋がっていても、あなたは私の父じゃありません。だから―」
その率直な言葉に藤村は苦笑いを浮かべ、横を向いた。でもふと朝子さんを見つめ、さらに言葉を重ねた。
「でも僕にできることなら、君の力になりたいと思っている」
「ありがとうございます」
「父親失格の僕を憎んでいるかい?」
「なんとも思いません。あなたにお会いしたのは、ただ真実が知りたかったからです」
「分かった。真実を知るための手助けなら、喜んでするよ」
そんなクールなやり取りとは裏腹に、朝子さんと藤村は真剣に見つめ合い、互いに相手を大事に思っていることが、傍目にも伝わってくる。たぶん藤村は愛情深い人なのだ。このまま時を止められたなら、と僕は思った。親密な空気を保ちつつ、父と娘としていつまでも一緒に―。いや、朝子さんはそれを望まないだろう。彼女の現実は既に他の場所にあり、彼女は滅多に現実を見失わない人だ。
「ご家族はおられますか」
ぽつっと朝子さんは言った。藤村は小さく頷き、答えた。
「妻がいる。でも子供はいないんだ。だから君の存在は僕にとって、なんというかな、いとおしいものだ。君は今幸せかい?」
「幸せです」
「それならいい。何も問題はないね」
これでこの話し合いはおしまいだ、と僕は悟った。藤村の底なしに優しい笑顔が印象的だった。あんな表情は誰にでも見せるものじゃない。朝子さんの存在がそうさせているのだ。
朝子さんと藤村は互いに連絡先を教え合い、彼に別れを告げて、僕たちは店を出た。彼女のキラキラした瞳を盗み見ながら、僕は言った。
「藤村さんって、いい人だったよね」
「そうね」
「朝子さんはコードと連絡を取ることを考えているの」
「そこまでは考えていない。でも自分にできる範囲で調べてみるつもり」
「本当の父親に会えてよかったね。どんな気持ち?」
「不思議と、嬉しいとか、楽しいとか、そういう感情は起こらなかったのだけれど」
「嬉しそうに僕には見えるよ」
「そう? とにかくすっきりした。すとんと何かが落ち着いた感じ」
「またあの人と会うの」
「どうでしょう。気が向いたらね」
「朝子さんが会いたいですって言ったら、きっと藤村さんは、馬車馬みたいに飛んでくる気がする」
「そうかな」
「でも、朝子さんにはアキアキコンビがいる」
「その通り。源くん、私最近はこう考えているの」
「ん?」
「もう過去は振り返らなくていいんじゃないかって。それよりも今ある幸せを、大切にすべきではないだろうかって」
「でも納得いかないものがあるなら、今のうちに徹底的に答えを出した方がいい気がする。君がまだ若いうちに」
「そうかもね。でも……」
「生きていくうちに、いやでも前を見るしかない時がやってくる。後ろを振り返る余裕は、そういつまでもあるものじゃない。だから、もしできるのなら今のうちに」
「そうね、子供なんかできたら、そんなこと言ってられないもんね」
「うん」
「それじゃ、一応父親の存在にはけりをつけたってことでいいかな」
「いいと思う」
「源くん、ありがとう」
「ありがとう?」
「色々な意味でね」
そう言うと朝子さんは、颯爽と早足で歩き始めた。彼女の言葉の本心がつかめなかったが、僕も急いで彼女の後を追いかけたのだった。
「どうやって藤村さんを見分けるの?」
「メールで顔写真を送ってもらったから、顔は分かっているの。それに私の顔写真も向こうへ送ったし、藤村さんだって私を……」
「おじさんが店に入ってきた。少し場違いな感じの」
「あの人だわ」
「えっ」
「彼がきっと藤村さんよ。手を振ってみる。あ、こっちを向いた」
彼はまず朝子さんを見て、次に少し驚いた様子で僕を眺めてから、いそいそと僕たちの席にやってきて、トンとテーブルに手を置き、言った。
「君が朝子かい?」
「そうです」
「僕の子供の」
「きっとそうだと思います」
「ここ、座ってもいいかい?」
「もちろんどうぞ」
藤村はするりと僕たちの前にあるソファーに座り込むと、朝子さんと僕を交互に眺めた。それから僕に話し掛けた。
「君も僕の子供なの?」
「僕はあなたの子供ではありません。僕は父を知らないが、その父はあなたではない」
朝子さんが慌てて説明を加えた。
「彼は源くんと言って、私の大切な友達です。一人だと心細かったので、彼についてきてもらいました」
「ああ、そういうことなの」
彼は納得した様子で、手早くウェイトレスに注文をすませると、阿呆のように朝子さんを眺めてから言った。
「大きくなったものだなあ。鼻の形と、目の感じが真知に似ている」
呑気な彼の様子に少しイラついた僕は言った。
「あなたは酷い人だ」
「え」
「真知さんと朝子さんを見捨てた、一番大切なときに」
「ちょっと源くん、いきなりそんなこと―」
「いや、見捨てたわけではないよ。仕方がなかったんだ」
そう言うと彼は運ばれてきたブラックコーヒーをそのまま口につけ、少し黙ってからぼそっと言った。
「それが最善の策だった」
「……」
僕と朝子さんが黙していると、先を促されているように感じたのか、彼の一人語りが始まった。
「真知が高校生の頃に、僕たちは付き合いだしたわけだけど、実は彼女はあるアングラな組織と関わり合いがあった。真知の恋人だった僕も、自然とその組織に出入りするようになったんだが……。主義主張はまあいいとして、組織から抜けようとするときに、犯罪的なリンチが繰り広げられることが分かってきてね。それを知った真知と僕は、組織と縁を切ろうと決めたんだ。その時真知のお中には、朝子、君がいた。でも存在を消すため、彼女はしばらくどこかへ身を隠す必要があった。その結果、自然と僕との縁も切れることになった」
「私の母を、……支えようとは思わなかったのですか」
「思ったさ。だが強い意志で、真知がそれを望まなかった。誰にも迷惑をかけたくないと言い、僕の前からふっと、姿を消してしまった」
藤村の言葉に朝子さんは哀しげな目をして、物思いに沈んだ。彼女を命がけで守ろうとした母の愛を、ひしひしと感じているのだろうか。僕は訊ねた。
「アングラというのは、どういう意味ですか?」
「あらゆるものを否定して、その先に新しい世界を作ろうというのが、組織の大筋の考え方だった。一言でいえば革命だな。その思想を僕はアングラだと言ったんだ。若者を魅了する考え方で、あの頃の僕も夢中になったものだよ」
「肯定した先に未来があるのは分かるのですが、否定した先には、何も得られるものがないのでは」
朝子さんのその言葉に、藤村は困った顔をして見せ、答えた。
「今の僕ならその通りだと思えるけれど、僕と真知は、世界に居場所がないという共通した思いを抱いていたんだよ。極端に言えば、自分の存在を否定する世の中を憎んでいたとでも言うのかな。ならば今ある世界を否定して、その先に未来を作っていこうと言われると、とても救われた気持ちになった。たとえ行く先に待ち受けるものが、破滅だったとしても」
僕はそっけなく質問した。
「真知さんを愛しておられましたか」
「愛していると思っていた。でもきっと……。もし結婚していたら、どのみち別れるという結論に辿り着いただろうな。未来を信じられない僕らの思考で、未来を作る子供を育てていくのは無理がある。
朝子、君のお母さんはどうしている? 元気かい? 幸せかい?」
「……。母は、私を産んでからしばらくして亡くなりました。だから私に母の記憶は全くありません」
「―死んだって、病気で?」
「そう聞いています」
「そうか」
藤村はかなりショックを受けたようで、それからしばらく、俯いたまま無言になった。朝子さんも何か考えている様子で、部外者の僕が口出しできる雰囲気ではなかった。しばらく静かな時が流れ、そのあと朝子さんはおもむろに口を開いた。
「その組織が今どうなっているか、分かりますか、藤村さん」
「う~む、たぶんもう解体して、今では小さな団体になって細々と活動しているか、それとも完全消滅したか。詳しくは分からないよ、僕ももう縁を切っているし」
「なら、当時のその組織の名前は」
「まさか……、君も組織の一員になろうと……」
「違います。ただ組織の活動を知り、母が何を考えていたか知りたいと思っただけです」
「コードという名前だった」
「コード」
「朝子」
「はい」
「くれぐれも無茶はやめてくれ。僕は君と血のつながる者として、君を大切に思っているし、心配もしている」
「私の父と母は別にいます。血は繋がっていても、あなたは私の父じゃありません。だから―」
その率直な言葉に藤村は苦笑いを浮かべ、横を向いた。でもふと朝子さんを見つめ、さらに言葉を重ねた。
「でも僕にできることなら、君の力になりたいと思っている」
「ありがとうございます」
「父親失格の僕を憎んでいるかい?」
「なんとも思いません。あなたにお会いしたのは、ただ真実が知りたかったからです」
「分かった。真実を知るための手助けなら、喜んでするよ」
そんなクールなやり取りとは裏腹に、朝子さんと藤村は真剣に見つめ合い、互いに相手を大事に思っていることが、傍目にも伝わってくる。たぶん藤村は愛情深い人なのだ。このまま時を止められたなら、と僕は思った。親密な空気を保ちつつ、父と娘としていつまでも一緒に―。いや、朝子さんはそれを望まないだろう。彼女の現実は既に他の場所にあり、彼女は滅多に現実を見失わない人だ。
「ご家族はおられますか」
ぽつっと朝子さんは言った。藤村は小さく頷き、答えた。
「妻がいる。でも子供はいないんだ。だから君の存在は僕にとって、なんというかな、いとおしいものだ。君は今幸せかい?」
「幸せです」
「それならいい。何も問題はないね」
これでこの話し合いはおしまいだ、と僕は悟った。藤村の底なしに優しい笑顔が印象的だった。あんな表情は誰にでも見せるものじゃない。朝子さんの存在がそうさせているのだ。
朝子さんと藤村は互いに連絡先を教え合い、彼に別れを告げて、僕たちは店を出た。彼女のキラキラした瞳を盗み見ながら、僕は言った。
「藤村さんって、いい人だったよね」
「そうね」
「朝子さんはコードと連絡を取ることを考えているの」
「そこまでは考えていない。でも自分にできる範囲で調べてみるつもり」
「本当の父親に会えてよかったね。どんな気持ち?」
「不思議と、嬉しいとか、楽しいとか、そういう感情は起こらなかったのだけれど」
「嬉しそうに僕には見えるよ」
「そう? とにかくすっきりした。すとんと何かが落ち着いた感じ」
「またあの人と会うの」
「どうでしょう。気が向いたらね」
「朝子さんが会いたいですって言ったら、きっと藤村さんは、馬車馬みたいに飛んでくる気がする」
「そうかな」
「でも、朝子さんにはアキアキコンビがいる」
「その通り。源くん、私最近はこう考えているの」
「ん?」
「もう過去は振り返らなくていいんじゃないかって。それよりも今ある幸せを、大切にすべきではないだろうかって」
「でも納得いかないものがあるなら、今のうちに徹底的に答えを出した方がいい気がする。君がまだ若いうちに」
「そうかもね。でも……」
「生きていくうちに、いやでも前を見るしかない時がやってくる。後ろを振り返る余裕は、そういつまでもあるものじゃない。だから、もしできるのなら今のうちに」
「そうね、子供なんかできたら、そんなこと言ってられないもんね」
「うん」
「それじゃ、一応父親の存在にはけりをつけたってことでいいかな」
「いいと思う」
「源くん、ありがとう」
「ありがとう?」
「色々な意味でね」
そう言うと朝子さんは、颯爽と早足で歩き始めた。彼女の言葉の本心がつかめなかったが、僕も急いで彼女の後を追いかけたのだった。
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