女執事、頑張る

桃青

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 それはある昼下がりの出来事だった。
 その時奥様と正道は大広間で家族の団欒、というか、2人きりのティータイムを、心ゆくまで楽しんでいる最中だった。その2人の側で、進一とひろみが滞りなくお茶を淹れたり、お菓子を並べたりしながら、2人の様子をそれとなく見守っていた。
 この光景は決して珍しいものではなく、時間にゆとりがある時、奥様が正道を呼び寄せてぐだぐだと愚痴を並べ立てるのは、この家族の恒例行事だと言ってもよかった。正道もその事に関してはどこか悟りを開いているらしく、自分の仕事の邪魔にならない限り、どこまでも母親の相手役を素直に務めるのが常だった。
「それでね、正道。」
 奥様は気怠そうに肩肘をつきながら、少々うんざりした様子で正道に話し掛けた。
「うん、何?」
「…私ね、あんまり暇だったものだから、最近はずっと本を読んでいたのよ。でね、その本は戦争の本だったの。太平洋戦争の本よ。」
「うん。」
「…で、その時代の事を、想像力を膨らませながら、あれこれ考えてみたりしたの。あんな…、やるせない時代があったのね。酷い世界の中で、それでも皆が必死に、明日への希望を繋いでいたのよ。
 私って、我ながら退屈な人生を歩んでいるわと時々思ったりするけれど、でもね、それでも私は…。幸せ者なのね。
 もっと、戦前世代のお年寄り達と語り合いたいと思ったわ。年寄りの話し相手になるような、そういうボランティアがあったりしたら、ぜひ私もやってみたいと思ったわけ。」
 正道は軽く頷いてみせると言った。
「母さんがボランティアをやるのは、いい事だと思うよ。人のためにもなるし、きっと母さんのためにもなる。それにとってもいい経験になると思うし…。」
「まあ、いい経験を積みたいっていうより、ぶっちゃけて言えば、私はただいい話し相手が欲しいだけなのよ。
 お年寄りが後世に伝えたい事、まずその事に耳を傾ける。その一方で私は、今この世界に生きている私の主張をぶつけて、お年寄りたちの様々な意見を聞いてみる。それが面白そうだと思ったのよね。
 それにお喋りは女にとって、最高の癒しになるそうですからね。」
「―どこでそんな情報を仕入れたの?」
「私はこれでも色んなことを知っているんです、正道。そういえば…、真衣子さんのお母様と、またお会いしたいわね。彼女となら親友になれそうな予感がするわ。…ハッ。」
「どうかした?」
「そう言えばあなた、真衣子さんとはどうなっているの?」
 ひろみは奥様のその言葉に、びくっと反応した。一方で正道も、急に黙り込んで1人で何かを考えているように見えた。
「真衣子さん、…あんなにあなたにキャイキャイ言っていたじゃない?それなのに、どうしたのかしら、最近全く音沙汰がないわね。」
 奥様が急速に怪訝な顔になってそう言うと、正道は真剣な様子で、静かに語り出した。
「…母さん、実は話があるんだけど。」
「何よ、急に深刻な顔をして。何を言い出すつもりなの、何だか怖いじゃない。」
「あのさ、僕は…、この家を出ようと思うんだ。」
 その突然の衝撃発言に、奥様はあんぐりと口を開け、一方でひろみと進一も、驚きもあまり思わず動きを止めた。
「家を出る?正道、今あなた、そう言ったの?」
「うん。その言葉通りの意味だよ。」
「ほ、本気なの?」
「もちろん。」
「い、…い、…イイ、家を出るって、つまりこういう事かしら。早坂家を出ていって、独立して、自活を始める。自分ひとりの力で―、」
「そう、母さんの言う通りなんだ。」
 その言葉に驚いて、奥様はしばらく何も言えなくなった。そしてひろみもその言葉に、酷くショックを受けていたが。奥様は魚のように口をパクパクさせながら、何とか立ち直りを見せると、喋り出した。
「あなた、…そんなこと簡単に言うけれど、それって正道が想像している以上に、大変な事なのよ?」
「一応覚悟はしているよ。」
「自分にそれができると…、そしてうまくいくと思っているの?」
「それはやってみなくちゃ分からない。けれど僕は、やり通してみせるさ。」
 するとまじまじと正道を見ていた奥様は、はっと我に返った様子で言った。
「じゃあ真衣子さんの事は、どうするつもりなの?このままお付き合いを…、」
「僕の相手を一生懸命探してくれた母さんには悪いと思うけれど、でも、…お見合いの話はなかったことにして欲しいんだ。一応彼女にも、その事はもう伝えてある。」
「ああ、それで!最近彼女から連絡が来なくなったのは、そのせいなのね?
 でも正道、私も言わせてもらいますけれど、私にも『顔』っていうものがあるのよ。私の顔に泥を塗るつもりなの?真衣子さんのお母様に合わせる顔がないわ、あなたが自分勝手に決めたその自活とやらで…、」
「何を言っても、僕の気持ちは変わらないよ、母さん。」
 すると奥様は絶叫した。
「ああ、なんて事なの!いい話どころか、とんでもない話じゃない。今、非常に不愉快だわ、私!」
 しかしそんな奥様の様子を、正道は落ち着いた様子で、冷静に見守っていた。そして静かに自分の決意を語った。
「自分勝手でごめん。でもこれは僕が初めて自分の人生で、僕だけの考えで決めたことだから…。」
 そう言って口籠る正道に、奥様はあからさまに怒りの目を向けていたが、何とか気を落ち着けてから、つんつんした態度で言った。
「それであなたは…、いつ頃この家を出ていくつもりなのかしら?」
「そうだな…。住む家の事や引っ越しの準備を考えると、全ての準備を整えるには、大体1か月くらいかかるかな。だから1か月後に…、」
「ええ、分かったわ。そこまで言うのなら、あなたの勝手にしなさい、私は止めないわ。ただし…。
 これからどんな苦労をしたって、私は知りませんからね!」
 そう言ったと同時に、奥様はバン!と椅子から立ち上がって、彼女らしいすました態度で、後ろを振り返ろうともせずに、大広間からしなしなと出ていったのだった。正道はそんな奥様の後姿を見送った後、ふうと息を吐くと、自分の決意を確かめるように、独り言を言った。
「それじゃあ僕も自分の部屋に行って、…荷物の整理を始める事にするか。」
 ひろみは早坂家ではめったに目にする事のなかった親子の修羅場に、執事という立場も忘れて目が釘付けになっていたが、自分の部屋に戻ろうとして、椅子から立ち上がった正道に思わず声を掛けた。
「…正道様!」
「うん、何?ひろみ。」
「あの…、奥様とのお話が聞こえてしまいましたが、自活をなさるって…、本気なのですか?」
「ああ、そうだよ。実は早坂家から出ていく事は、随分前から考え続けていた事だったんだ。そしてそれを実行に移す日が、ついに来たんだ。」
 そう言うと正道は、ひろみの目の前を通り過ぎて、大広間を後にしたのだった、まるでひろみの手の届かない所へ、飛び立っていく鳥のように…。
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