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臨時的アットホームにて
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7.
残された岬と川本さんは待合室のソファーに、どちらからともなく並んで腰を下ろした。窓の外を眺めると、先の読めない闇が世界を支配していて、こんな中を彷徨い歩いている夕利のことを思うだけで、岬の胸はシクシクと痛んだ。川本さんは天上の明かりをぼうっと眺めながら呟いた。
「居場所がない、か」
「……思春期らしい悩みです。もちろん大人でも、そう感じる人は多くいますけれど」
「ある意味自分探しをしているんだろうな。自分とは何か、自分は何をしたらいいのか、という問いかけの答えを探している。青春だな」
「良くも悪くも青い春。でもきっと、今彼女は自分のことを不幸だと思っている」
「本当の幸せの意味も分かっていないだろうしね」
「川本さんの幸せって何ですか?」
「僕ですか。うーん、人と繋がることじゃないですかね」
「人と繋がること」
「でも多すぎる人と繋がるのは、重いし、大変なことだから、手に負える範囲の人とじっくり繋がる。それが僕の幸せの秘訣かな」
「川本さんらしい答えです」
「僕は今幸せですよ」
「は、なんで」
「高野さんと繋がっている感じがするから。なんだか素敵な気分です」
「こんな時に素敵な気分になるなんて。私は夕利さんのことで心がざわざわしてますよ」
「確かに少し不謹慎でしたね。すみません。それにしても夕利はここに来てくれるかな」
「全ては神様次第」
二人はそれから話し合ったり、黙りこんだり、窓の外を眺めたりして時間を潰した。気付くとすでに一時間半の時が流れ、岬がもう諦めた方がいいのかと思い始めたときだった。唐突に入り口のドアが、キィィィィと音を立てて開き始め、幽霊でもやってきたかのように、驚きと恐怖でドアの向こうを見つめていると、夕利と一緒に木村くんが姿を現した。川本さんは喜ぶより、立ち上がっていきなり彼女を怒鳴りつけた。
「夕利、君は自分のやっていることをちゃんとわかっているのか! その男は誰だ!」
岬は慌てて間に入った。
「川本さん、ちょっと落ち着いて。夕利さん、何で木村くんが一緒なの」
怯えた目をして黙りこんだ夕利の代わりに、木村くんが淡々とこれまでの経緯を話し始めた。
「上村からメールが来たんだよ。家を出てきちゃった、どうしようって」
「うん」
「もう夜だったから、俺の家に呼ぶわけにもいかないし。今どこにいるんだって返信したら、駅にいるって返事が来て。ならそこに俺が行くよってメールを打って、とにかく上村と会った」
「うん」
「それからショッピングモールで時間を潰したりしてたけれど、夜遅くなってきて、お金もそんなになかったし、これからどうしようって話になった。ホテル、」
「ホテルっ!?」
「川本さん、そういう意味じゃないですって。木村くん、続きを話して」
「……は無理だから、俺が何とか思いついたのは、ここ、ネコの寄り道だった」
「うん」
「で、だめもとでとりあえず行ってみようと二人で決めて、来たんだ。そういうことだよ」
「分かった。夕利さん、言いたいことが何かある?」
「……」
「辛かったね。これから家へ帰ることは―」
「家には帰りたくありません」
まるで別人のような夕利のきっぱりした態度に、岬はビクッとした。川本さんは気難しい顔をして、会話に加わった。
「ご両親と何かあったのかい?」
「別に」
「ずっと家に帰らないことはできないんだよ。今日一日くらいならば何とかなっても、」
「―私、考える時間が欲しいです」
「ん? 考える時間?」
「自分がどうしたらいいのか分からないから……、だから……、答えを出せるまでの時間が……」
そこまでたどたどしく話すと、夕利は大きな目からぽろぽろと涙をこぼし始めた。岬には夕利の感じている切なさを、痛いほど理解することができた。それは岬がかつて乗り越えた試練と、オーバーラップして見えたのだ。木村くんはまるでナイトのように、自分の隣で泣いている彼女をそっと見守っていたが、ふと思いついた様子で言った。
「高野さん、ネコの寄り道が始まるのって何時?」
「え、九時半だけど。それが何か?」
「それまでここを借りるってできない?」
「……それはつまり、明日までここに泊まるということでしょうか」
「うん、そう」
「夕利さんが?」
「上村と、あと俺も」
「二人だけで? それはできない」
「じゃ、僕も一緒に泊まりましょうか。そうすれば夕利のご両親に連絡して、きちんと事情を説明し、安心させることもできますから」
「そうですか。川本さんがそこまで言うならば、今日は特例ということで、私も泊まりましょう」
「高野さんも、ですか?」
「はい。私が担当する相談者が、三人も顔を揃えて悩んでいるのに、逃げ出すのは私のプライドが許さない」
すると木村くんは目をキラッとさせ、いたずらをした後の子供のように言った。
「ということは、宿泊OKだよね。上村もそれならどう」
「うん。……それでいい」
彼女は小さな声でそう言い、涙を拭って頷いてみせた。
それから四人は待合室で泊まりこむための支度を整え始めた。木村くんは親に電話をかけて、友達の家に泊まるんだとシャーシャーと噓をつき、川本さんは夕利の両親に電話をして、必死に事情を説明し、どうにか宿泊の許可をもらった。岬はミチを解放してから、近場のコンビニやドラッグストアに夜食やキャットフードの買い出しに行って、荷物を抱えて帰ってきた。すると待合室では三人とネコ一匹がワイワイと談笑していて、まるで修学旅行みたいにみんな楽しんじゃってと思いつつ、話の輪の中に加わった。
「皆さん、食料を買ってきましたー。あと飲み物も」
そう言ってリクエストされた食べ物を全員に配ってから、トントンと、自分と夕利の前にだけハーゲンダッツのアイスクリームを置いた。目を丸くして自分を見上げる夕利に、岬は笑いかけ、言った。
「今日は大変な一日だったね。このアイスクリームはプレゼント。頑張ったときには、自分にご褒美を上げなくっちゃ。そうしたら明日、また頑張ろうって思えるし、ご褒美のことを思い出すだけで幸せな気持ちになれるでしょ」
夕利はアイスクリームに目を落とし、岬を見上げて言った。
「それが幸せの秘訣?」
「そうかもね。辛いことがなければ、幸せも感じられない。だから今日が辛くても、それは必要悪だと思えばいい気がする」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
黙々と食べ物を食べ終えて気分が落ち着くと、次に自分の寝床を決めることにした。木村くんは小さな相談室のソファーがえらく気に入り、まるで秘密部屋みたいだと言い、ここに泊まると自己主張をした。一方で川本さんは、僕は全員の安全を見守る義務があると重々しく言い、待合室のソファーに寝ることに決めた。岬は夕利に声を掛け、二人で大きめな相談室で寝ることにし、ぼそぼそと雑談を交わしたあとに、それぞれの寝床へ移動していった。夕利と相談室に入った岬は言った。
「夕利さん」
「はい」
「少し話をしよう」
「……はい」
「寝ながら」
「え、寝ながら?」
「そう。眠くなったら寝ちゃっていいから」
「あ……、ハイ」
ソファーに横になろうとしたとき、ドアの隙間からスーッとミチが入ってきて、夕利の足にコンコンと頭をぶつけて愛をアピールするので、夕利は思わず笑って言った。
「高野さん、ミチはどうしよう」
「たぶん夕利さんと一緒に寝たがっている。もしよければ、一緒に寝てあげてほしいな」
「うん、私は大丈夫。ミチ、ここにおいで」
そう言ってぼんぼんとソファーを叩いた夕利に答えるように、ミチはソファーに飛び乗って、彼女の足元にどてっと座り、フミャ~と気の抜けた声を上げた。岬は部屋のライトを消し、街灯の明かりでぼんやりと輝く窓の外を眺めてから横になり、天上を見つめて様々に思いを巡らせた。夕利に、じっくり考える手助けとなるアドバイスはできないだろうかと思いながら、とりあえず思いつくまま喋ってみようと心を決め、彼女に話し始めた。
「夕利さん」
「はい」
「明日は帰れそうかな、家に」
「……。まだ分かりません」
「夕利さんの悩みは私に充分伝わっているけれど、今日はたくさんの人に迷惑をかけた。でも、みんなそうされても、あなたを支えようと必死で頑張っている。木村くん、川本さん、お父さん、お母さん、ついでに私」
「はい」
「そのことについて感謝すべきだと思うし、迷惑をかけた責任は自分で背負うべき。これは自分の人生を正しく生きるためのコツ」
「……でも、」
「うん」
「私は今の、こういう性質の自分をすぐに変えられないです。このままずっと周囲に迷惑をかけ続けて―」
「それは別にいい」
「前、木村くんが言った、『生きようとすることを誰も責めるべきではない』っていう言葉……?」
「そう、その通り。それに余計な心配をしなくても、人は誰もが自分を第一に考えるので、自分を殺してまであなたを救おうとする人はまずいない。手に負えないと思ったら、人は自然に離れてゆく。そういうものだよ」
「それって、少し怖いような」
「うん、人間はその気になれば幽霊なんかより遥かに怖くなれる。それを知ることは、人生において大切なことのひとつであると私は思う。世界は広い。色々な考えがあり、色々な世界があるもので、夕利さんはまだそれを知らない」
「それなら、」
「うん」
「世界が広いなら、どこかに私を受け入れてくれる場所があるのかな」
「夕利さんがポジティブであれば、きっとある」
「……」
「きっとあるはず」
岬は自分自身にもその言葉が胸に刻まれるように、繰り返して言った。そのあと、何か言いたいことがあるかと夕利の発言をしばらく待ったが、彼女特有のだんまりが始まった。今、何かを考えているのだろうと岬は察し、静かな、岬にとってはどこか新鮮な空間の中で、いつしか眠りに落ちた。
微かな光を感じ、カラスのけたたましい鳴き声で目を覚ました岬は、むくりと起き上がり、ぼんやりとしながら窓辺に目をやった。外からは白い光が溢れ出すように入り込んで、窓の前で佇む夕利の姿に目が留まった。彼女はまるで大理石でできた彫刻のようで、白い肌と黒い瞳と整った横顔が美しく、印象深かった。一途に窓の外を見ている夕利を気遣いながら、岬はそっとソファーから立ち上がり、背後から彼女に挨拶した。
「おはよう」
「おはようございます。高野さん」
「うん?」
「私、家に帰ります」
「ほー。良い知らせだけれど、どうして心変わりを?」
「少しいいアイデアを思いついたんです」
「ほー、アイデア」
「私、家に帰ったらネコを飼おうと思っています」
「ネコ。それが解決策?」
「はい! 今の私にとっては、良い話し相手が必要で、ネコがきっと、最高の話し相手になると思うから」
「ふむ。確かにネコは聞き上手だと思う。そうか」
「私、またネコの寄り道に来てもいい?」
「もちろん構わないけど、お泊りはもうナシよ」
「へへへ。ご迷惑をお掛けしました」
「どういたしまして。自分で分かっているならいいでしょう。っと、私は川本さんと木村くんの様子を見てくる。夕利さんは好きにしてて」
「はい」
岬はいそいそと相談室を出ていき、待合室を覗くと、川本さんはすでに起きていて、どっかとソファーに座って天井を睨んでいた。
「川本さん、川本さん」
「あ、高野さん!」
「木村くんはどうしましたか」
「もう起きていますよ。腹が減った、腹が減ったとうるさいから、少しお金を渡してコンビニに行かせました」
「そうなんですか。実はよい知らせがあります」
「ほう、なんでしょう」
「夕利さんが家へ帰ると。そう言ってくれました」
「本当ですか! いやー、本当によかった。一時はどうなることかと思ったけれどな。なら僕が家まで送り届けますよ」
「それは助かります。木村くんはどうしよう」
「あいつは男です。自力で帰らせましょう。機転が利く奴だし、自分のことは自分で何とかするだろうし」
「夕利さんとは打って変わって、男性には大雑把」
「これも愛ですから。で、話は変わりますが。えーと……、高野さん」
「はい」
「今度会いませんか?」
「それはネコの寄り道に来ていただければ、いつでも、」
「そうじゃなくて、こことは違う場所で」
「……。デートのお誘いですか」
「まあ、そんなところです。高野さんのことを、僕はもっと知りたいと思っています。だから付き合う付き合わないとか関係なく、最初はお友達で構わないから、二人で話を……、できることなら外で……」
「いいですよ」
「えっ、本当に?」
「はい」
「信じていいですか」
「もちろん。私でいいのなら」
「もちろんですとも。はは、素晴らしい一日の始まりになったな」
「色々な意味でね」
「そうです、色々な意味で」
それから二人はしばらく、くすくすと喜びの忍び笑いを漏らしていた。
残された岬と川本さんは待合室のソファーに、どちらからともなく並んで腰を下ろした。窓の外を眺めると、先の読めない闇が世界を支配していて、こんな中を彷徨い歩いている夕利のことを思うだけで、岬の胸はシクシクと痛んだ。川本さんは天上の明かりをぼうっと眺めながら呟いた。
「居場所がない、か」
「……思春期らしい悩みです。もちろん大人でも、そう感じる人は多くいますけれど」
「ある意味自分探しをしているんだろうな。自分とは何か、自分は何をしたらいいのか、という問いかけの答えを探している。青春だな」
「良くも悪くも青い春。でもきっと、今彼女は自分のことを不幸だと思っている」
「本当の幸せの意味も分かっていないだろうしね」
「川本さんの幸せって何ですか?」
「僕ですか。うーん、人と繋がることじゃないですかね」
「人と繋がること」
「でも多すぎる人と繋がるのは、重いし、大変なことだから、手に負える範囲の人とじっくり繋がる。それが僕の幸せの秘訣かな」
「川本さんらしい答えです」
「僕は今幸せですよ」
「は、なんで」
「高野さんと繋がっている感じがするから。なんだか素敵な気分です」
「こんな時に素敵な気分になるなんて。私は夕利さんのことで心がざわざわしてますよ」
「確かに少し不謹慎でしたね。すみません。それにしても夕利はここに来てくれるかな」
「全ては神様次第」
二人はそれから話し合ったり、黙りこんだり、窓の外を眺めたりして時間を潰した。気付くとすでに一時間半の時が流れ、岬がもう諦めた方がいいのかと思い始めたときだった。唐突に入り口のドアが、キィィィィと音を立てて開き始め、幽霊でもやってきたかのように、驚きと恐怖でドアの向こうを見つめていると、夕利と一緒に木村くんが姿を現した。川本さんは喜ぶより、立ち上がっていきなり彼女を怒鳴りつけた。
「夕利、君は自分のやっていることをちゃんとわかっているのか! その男は誰だ!」
岬は慌てて間に入った。
「川本さん、ちょっと落ち着いて。夕利さん、何で木村くんが一緒なの」
怯えた目をして黙りこんだ夕利の代わりに、木村くんが淡々とこれまでの経緯を話し始めた。
「上村からメールが来たんだよ。家を出てきちゃった、どうしようって」
「うん」
「もう夜だったから、俺の家に呼ぶわけにもいかないし。今どこにいるんだって返信したら、駅にいるって返事が来て。ならそこに俺が行くよってメールを打って、とにかく上村と会った」
「うん」
「それからショッピングモールで時間を潰したりしてたけれど、夜遅くなってきて、お金もそんなになかったし、これからどうしようって話になった。ホテル、」
「ホテルっ!?」
「川本さん、そういう意味じゃないですって。木村くん、続きを話して」
「……は無理だから、俺が何とか思いついたのは、ここ、ネコの寄り道だった」
「うん」
「で、だめもとでとりあえず行ってみようと二人で決めて、来たんだ。そういうことだよ」
「分かった。夕利さん、言いたいことが何かある?」
「……」
「辛かったね。これから家へ帰ることは―」
「家には帰りたくありません」
まるで別人のような夕利のきっぱりした態度に、岬はビクッとした。川本さんは気難しい顔をして、会話に加わった。
「ご両親と何かあったのかい?」
「別に」
「ずっと家に帰らないことはできないんだよ。今日一日くらいならば何とかなっても、」
「―私、考える時間が欲しいです」
「ん? 考える時間?」
「自分がどうしたらいいのか分からないから……、だから……、答えを出せるまでの時間が……」
そこまでたどたどしく話すと、夕利は大きな目からぽろぽろと涙をこぼし始めた。岬には夕利の感じている切なさを、痛いほど理解することができた。それは岬がかつて乗り越えた試練と、オーバーラップして見えたのだ。木村くんはまるでナイトのように、自分の隣で泣いている彼女をそっと見守っていたが、ふと思いついた様子で言った。
「高野さん、ネコの寄り道が始まるのって何時?」
「え、九時半だけど。それが何か?」
「それまでここを借りるってできない?」
「……それはつまり、明日までここに泊まるということでしょうか」
「うん、そう」
「夕利さんが?」
「上村と、あと俺も」
「二人だけで? それはできない」
「じゃ、僕も一緒に泊まりましょうか。そうすれば夕利のご両親に連絡して、きちんと事情を説明し、安心させることもできますから」
「そうですか。川本さんがそこまで言うならば、今日は特例ということで、私も泊まりましょう」
「高野さんも、ですか?」
「はい。私が担当する相談者が、三人も顔を揃えて悩んでいるのに、逃げ出すのは私のプライドが許さない」
すると木村くんは目をキラッとさせ、いたずらをした後の子供のように言った。
「ということは、宿泊OKだよね。上村もそれならどう」
「うん。……それでいい」
彼女は小さな声でそう言い、涙を拭って頷いてみせた。
それから四人は待合室で泊まりこむための支度を整え始めた。木村くんは親に電話をかけて、友達の家に泊まるんだとシャーシャーと噓をつき、川本さんは夕利の両親に電話をして、必死に事情を説明し、どうにか宿泊の許可をもらった。岬はミチを解放してから、近場のコンビニやドラッグストアに夜食やキャットフードの買い出しに行って、荷物を抱えて帰ってきた。すると待合室では三人とネコ一匹がワイワイと談笑していて、まるで修学旅行みたいにみんな楽しんじゃってと思いつつ、話の輪の中に加わった。
「皆さん、食料を買ってきましたー。あと飲み物も」
そう言ってリクエストされた食べ物を全員に配ってから、トントンと、自分と夕利の前にだけハーゲンダッツのアイスクリームを置いた。目を丸くして自分を見上げる夕利に、岬は笑いかけ、言った。
「今日は大変な一日だったね。このアイスクリームはプレゼント。頑張ったときには、自分にご褒美を上げなくっちゃ。そうしたら明日、また頑張ろうって思えるし、ご褒美のことを思い出すだけで幸せな気持ちになれるでしょ」
夕利はアイスクリームに目を落とし、岬を見上げて言った。
「それが幸せの秘訣?」
「そうかもね。辛いことがなければ、幸せも感じられない。だから今日が辛くても、それは必要悪だと思えばいい気がする」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
黙々と食べ物を食べ終えて気分が落ち着くと、次に自分の寝床を決めることにした。木村くんは小さな相談室のソファーがえらく気に入り、まるで秘密部屋みたいだと言い、ここに泊まると自己主張をした。一方で川本さんは、僕は全員の安全を見守る義務があると重々しく言い、待合室のソファーに寝ることに決めた。岬は夕利に声を掛け、二人で大きめな相談室で寝ることにし、ぼそぼそと雑談を交わしたあとに、それぞれの寝床へ移動していった。夕利と相談室に入った岬は言った。
「夕利さん」
「はい」
「少し話をしよう」
「……はい」
「寝ながら」
「え、寝ながら?」
「そう。眠くなったら寝ちゃっていいから」
「あ……、ハイ」
ソファーに横になろうとしたとき、ドアの隙間からスーッとミチが入ってきて、夕利の足にコンコンと頭をぶつけて愛をアピールするので、夕利は思わず笑って言った。
「高野さん、ミチはどうしよう」
「たぶん夕利さんと一緒に寝たがっている。もしよければ、一緒に寝てあげてほしいな」
「うん、私は大丈夫。ミチ、ここにおいで」
そう言ってぼんぼんとソファーを叩いた夕利に答えるように、ミチはソファーに飛び乗って、彼女の足元にどてっと座り、フミャ~と気の抜けた声を上げた。岬は部屋のライトを消し、街灯の明かりでぼんやりと輝く窓の外を眺めてから横になり、天上を見つめて様々に思いを巡らせた。夕利に、じっくり考える手助けとなるアドバイスはできないだろうかと思いながら、とりあえず思いつくまま喋ってみようと心を決め、彼女に話し始めた。
「夕利さん」
「はい」
「明日は帰れそうかな、家に」
「……。まだ分かりません」
「夕利さんの悩みは私に充分伝わっているけれど、今日はたくさんの人に迷惑をかけた。でも、みんなそうされても、あなたを支えようと必死で頑張っている。木村くん、川本さん、お父さん、お母さん、ついでに私」
「はい」
「そのことについて感謝すべきだと思うし、迷惑をかけた責任は自分で背負うべき。これは自分の人生を正しく生きるためのコツ」
「……でも、」
「うん」
「私は今の、こういう性質の自分をすぐに変えられないです。このままずっと周囲に迷惑をかけ続けて―」
「それは別にいい」
「前、木村くんが言った、『生きようとすることを誰も責めるべきではない』っていう言葉……?」
「そう、その通り。それに余計な心配をしなくても、人は誰もが自分を第一に考えるので、自分を殺してまであなたを救おうとする人はまずいない。手に負えないと思ったら、人は自然に離れてゆく。そういうものだよ」
「それって、少し怖いような」
「うん、人間はその気になれば幽霊なんかより遥かに怖くなれる。それを知ることは、人生において大切なことのひとつであると私は思う。世界は広い。色々な考えがあり、色々な世界があるもので、夕利さんはまだそれを知らない」
「それなら、」
「うん」
「世界が広いなら、どこかに私を受け入れてくれる場所があるのかな」
「夕利さんがポジティブであれば、きっとある」
「……」
「きっとあるはず」
岬は自分自身にもその言葉が胸に刻まれるように、繰り返して言った。そのあと、何か言いたいことがあるかと夕利の発言をしばらく待ったが、彼女特有のだんまりが始まった。今、何かを考えているのだろうと岬は察し、静かな、岬にとってはどこか新鮮な空間の中で、いつしか眠りに落ちた。
微かな光を感じ、カラスのけたたましい鳴き声で目を覚ました岬は、むくりと起き上がり、ぼんやりとしながら窓辺に目をやった。外からは白い光が溢れ出すように入り込んで、窓の前で佇む夕利の姿に目が留まった。彼女はまるで大理石でできた彫刻のようで、白い肌と黒い瞳と整った横顔が美しく、印象深かった。一途に窓の外を見ている夕利を気遣いながら、岬はそっとソファーから立ち上がり、背後から彼女に挨拶した。
「おはよう」
「おはようございます。高野さん」
「うん?」
「私、家に帰ります」
「ほー。良い知らせだけれど、どうして心変わりを?」
「少しいいアイデアを思いついたんです」
「ほー、アイデア」
「私、家に帰ったらネコを飼おうと思っています」
「ネコ。それが解決策?」
「はい! 今の私にとっては、良い話し相手が必要で、ネコがきっと、最高の話し相手になると思うから」
「ふむ。確かにネコは聞き上手だと思う。そうか」
「私、またネコの寄り道に来てもいい?」
「もちろん構わないけど、お泊りはもうナシよ」
「へへへ。ご迷惑をお掛けしました」
「どういたしまして。自分で分かっているならいいでしょう。っと、私は川本さんと木村くんの様子を見てくる。夕利さんは好きにしてて」
「はい」
岬はいそいそと相談室を出ていき、待合室を覗くと、川本さんはすでに起きていて、どっかとソファーに座って天井を睨んでいた。
「川本さん、川本さん」
「あ、高野さん!」
「木村くんはどうしましたか」
「もう起きていますよ。腹が減った、腹が減ったとうるさいから、少しお金を渡してコンビニに行かせました」
「そうなんですか。実はよい知らせがあります」
「ほう、なんでしょう」
「夕利さんが家へ帰ると。そう言ってくれました」
「本当ですか! いやー、本当によかった。一時はどうなることかと思ったけれどな。なら僕が家まで送り届けますよ」
「それは助かります。木村くんはどうしよう」
「あいつは男です。自力で帰らせましょう。機転が利く奴だし、自分のことは自分で何とかするだろうし」
「夕利さんとは打って変わって、男性には大雑把」
「これも愛ですから。で、話は変わりますが。えーと……、高野さん」
「はい」
「今度会いませんか?」
「それはネコの寄り道に来ていただければ、いつでも、」
「そうじゃなくて、こことは違う場所で」
「……。デートのお誘いですか」
「まあ、そんなところです。高野さんのことを、僕はもっと知りたいと思っています。だから付き合う付き合わないとか関係なく、最初はお友達で構わないから、二人で話を……、できることなら外で……」
「いいですよ」
「えっ、本当に?」
「はい」
「信じていいですか」
「もちろん。私でいいのなら」
「もちろんですとも。はは、素晴らしい一日の始まりになったな」
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