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修道女、どの世界も世知辛いと知る
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男性と触れ合う経験などほとんどないメイラは、もちろん生娘である。
挨拶のハグですら子供としか交わしたことはなく、こんなところに誰か……しかも初対面の男性の顔がある状況など、生まれて初めてだ。
陛下の顔立ちは美しく整っているが、やはり女性とは違いごつごつとしていて硬い。
肌は若干荒れていて、薄くひげが浮いている。
「……っ」
首筋に生暖かいものが伝い、次いでそこがひんやりとして、舐められたのだと分かった。
更に緩んだ胸元に息を感じ、目前にあるさらりとした朱金色の髪が己の白い夜着に渦を巻いて落ちるのを見て……。
まさしく貞操の危機だった。本来であれば胸を高まらせ、あるいは恐怖で震えあがっていただろう。
しかし手慣れた様子で腰布を解こうとしている陛下の表情に、申し訳ないがそんな気も失せてしまった。
「……何をしている」
「撫でております」
メイラは年上の男性の頭を緩く抱き寄せ、幼い子供に対するように「よしよし」と撫でた。
恐れ多くも我が国の皇帝陛下であり、メイラより十歳も年上だということはすっかり頭から消え去って、青い隈を作ってまで女の相手をしなければならない可哀そうな男としか認識できなくなってしまった。
手触りの良い髪をするりと梳いて、広く逞しい肩をぽんぽんと叩く。
「お休みください」
「そういう訳にはいかぬ」
「わたくしのことはお気になさらず」
「……そういう訳にはいかぬと申した」
陛下の夜着も白いが、メイラのものよりしっかりした布地で透け感もない。形もシンプルで装飾はなく、着るならこちらの方がいなぁと場違いな感想を抱いた。
「わたくし、刺繍が趣味ですの」
抱きしめていると、己より高い体温と己以外の鼓動を感じる。
それは悪いものではなく、むしろ心地よいぬくもりだった。
「陛下の夜着はさすがに素材がいいですわね。純白の少し光る刺繍糸があるのですが、主張しすぎず合うと思います」
「……」
「どんな意匠がお好みでしょうか。あまり派手なものではなく、小紋柄? 蔦と木の葉? 男性ですので盾の紋章などもよいかもしれません」
「……操を誓う相手でもいるのか?」
「まあまさか! わたくしは修道女ですのでそういうことは……」
「修道女?」
メイラは訝し気な声で聴き返され、はっと口を噤んだ。
「修道女とはどういうことだ? そなたはハーデス公の養女なのだろう?」
「もうしわけございません」
メイラは険しい表情になった陛下を見下ろして、その深い眉間の皺に指先を乗せた。
もともと閨で妃といるような顔つきではなかったが、なでなでとその皺を指先で伸ばしているうちに少しだけ穏やかなものになる。
「修道院育ちなのです」
「……」
「ずっと捨て置かれておりましたので」
「……そうか」
望まぬ妾妃なのだ、疑わしいと寝台から追い出し、後日詳しい話を聞くと申し使ってもおかしくはなかった。
しかし陛下は何を考えているのか分からない口調でそう言って、影になっていても光って見える目でじっと見下ろしてきた。
腰布にかかっていた手が離れる。
陛下は右側に体重を移動させ、添うように横たわった。
この広く逞しい肩に、帝国のすべてが圧し掛かっているのだ。そう思うと、ますます気の毒になってくる。
重い皇帝という責務の中に、己のような女を抱くという仕事まで含まれているのだから。
それは隈もできてしまうだろう。
「お休みください」
三度こぼれたその台詞に、返ってくる言葉はなかった。
「目を閉じて、今日の事ではなく明日の事でもなく、生涯で一番幸せだったことを思い浮かべて」
メイラはそのまま緩く陛下の頭を抱き寄せた。
「神は見ておられます。大丈夫です」
やがて緩やかな寝息が聞こえ始めた。
筋肉量の多い陛下の体温は高い。寄り添っていれば十分に温かいが、風邪を引いてもいけない。
メイラは手を伸ばして掛布を引き寄せようとした。
しかしがっちりと抱き込まれていて、動けない。
あまりバタバタしては起こしてしまうので、どうしたものかと悩んでいると、ベッドの脇の垂れ布がひそやかに揺れた。
はっとしてそちらを注視する。
陛下以外の誰かがこの部屋にいるとは思わなかったのだ。
もしかすると刺客? と恐怖を感じて身構えたが、現れたのは萌黄色のお仕着せを着たエルネスト侍従長。
ひざを折り、メイラに向かって丁寧に頭を下げて、掲げ持っていた掛布をふわりと広げる。
軽そうな羽毛布団で、光沢の良い白地にオフホワイトで孔雀羽根の刺繍が施されていた。
起き上がろうとしたが、ジェスチャーでそのままいるようにと言われて。
肌に当たった一瞬、ひんやりと冷たかった布団は、すぐに程よい温かさになった。
また一礼して立ち去った侍従長を、幾分あっけにとられた表情で見送った。
この部屋の大量の垂れ布の影に控えていたのだろう。もしかすると、彼以外にも護衛がいるのかもしれない。
メイラは改めて、傍らで眠る陛下の顔に目をやった。
年上の男性が眠っている姿を、こんな風に間近に見るのは初めてだ。
確かに、無防備すぎるのかもしれない。少しでも心得がある者なら、簡単に寝首をかけてしまいそうだ。
こんな風に眠ってしまうのなら、あの屈辱的な検査も必要なことなのだろう。
メイラは長くため息をついた。
やっぱり気の毒な方だとつくづく思いながら。
挨拶のハグですら子供としか交わしたことはなく、こんなところに誰か……しかも初対面の男性の顔がある状況など、生まれて初めてだ。
陛下の顔立ちは美しく整っているが、やはり女性とは違いごつごつとしていて硬い。
肌は若干荒れていて、薄くひげが浮いている。
「……っ」
首筋に生暖かいものが伝い、次いでそこがひんやりとして、舐められたのだと分かった。
更に緩んだ胸元に息を感じ、目前にあるさらりとした朱金色の髪が己の白い夜着に渦を巻いて落ちるのを見て……。
まさしく貞操の危機だった。本来であれば胸を高まらせ、あるいは恐怖で震えあがっていただろう。
しかし手慣れた様子で腰布を解こうとしている陛下の表情に、申し訳ないがそんな気も失せてしまった。
「……何をしている」
「撫でております」
メイラは年上の男性の頭を緩く抱き寄せ、幼い子供に対するように「よしよし」と撫でた。
恐れ多くも我が国の皇帝陛下であり、メイラより十歳も年上だということはすっかり頭から消え去って、青い隈を作ってまで女の相手をしなければならない可哀そうな男としか認識できなくなってしまった。
手触りの良い髪をするりと梳いて、広く逞しい肩をぽんぽんと叩く。
「お休みください」
「そういう訳にはいかぬ」
「わたくしのことはお気になさらず」
「……そういう訳にはいかぬと申した」
陛下の夜着も白いが、メイラのものよりしっかりした布地で透け感もない。形もシンプルで装飾はなく、着るならこちらの方がいなぁと場違いな感想を抱いた。
「わたくし、刺繍が趣味ですの」
抱きしめていると、己より高い体温と己以外の鼓動を感じる。
それは悪いものではなく、むしろ心地よいぬくもりだった。
「陛下の夜着はさすがに素材がいいですわね。純白の少し光る刺繍糸があるのですが、主張しすぎず合うと思います」
「……」
「どんな意匠がお好みでしょうか。あまり派手なものではなく、小紋柄? 蔦と木の葉? 男性ですので盾の紋章などもよいかもしれません」
「……操を誓う相手でもいるのか?」
「まあまさか! わたくしは修道女ですのでそういうことは……」
「修道女?」
メイラは訝し気な声で聴き返され、はっと口を噤んだ。
「修道女とはどういうことだ? そなたはハーデス公の養女なのだろう?」
「もうしわけございません」
メイラは険しい表情になった陛下を見下ろして、その深い眉間の皺に指先を乗せた。
もともと閨で妃といるような顔つきではなかったが、なでなでとその皺を指先で伸ばしているうちに少しだけ穏やかなものになる。
「修道院育ちなのです」
「……」
「ずっと捨て置かれておりましたので」
「……そうか」
望まぬ妾妃なのだ、疑わしいと寝台から追い出し、後日詳しい話を聞くと申し使ってもおかしくはなかった。
しかし陛下は何を考えているのか分からない口調でそう言って、影になっていても光って見える目でじっと見下ろしてきた。
腰布にかかっていた手が離れる。
陛下は右側に体重を移動させ、添うように横たわった。
この広く逞しい肩に、帝国のすべてが圧し掛かっているのだ。そう思うと、ますます気の毒になってくる。
重い皇帝という責務の中に、己のような女を抱くという仕事まで含まれているのだから。
それは隈もできてしまうだろう。
「お休みください」
三度こぼれたその台詞に、返ってくる言葉はなかった。
「目を閉じて、今日の事ではなく明日の事でもなく、生涯で一番幸せだったことを思い浮かべて」
メイラはそのまま緩く陛下の頭を抱き寄せた。
「神は見ておられます。大丈夫です」
やがて緩やかな寝息が聞こえ始めた。
筋肉量の多い陛下の体温は高い。寄り添っていれば十分に温かいが、風邪を引いてもいけない。
メイラは手を伸ばして掛布を引き寄せようとした。
しかしがっちりと抱き込まれていて、動けない。
あまりバタバタしては起こしてしまうので、どうしたものかと悩んでいると、ベッドの脇の垂れ布がひそやかに揺れた。
はっとしてそちらを注視する。
陛下以外の誰かがこの部屋にいるとは思わなかったのだ。
もしかすると刺客? と恐怖を感じて身構えたが、現れたのは萌黄色のお仕着せを着たエルネスト侍従長。
ひざを折り、メイラに向かって丁寧に頭を下げて、掲げ持っていた掛布をふわりと広げる。
軽そうな羽毛布団で、光沢の良い白地にオフホワイトで孔雀羽根の刺繍が施されていた。
起き上がろうとしたが、ジェスチャーでそのままいるようにと言われて。
肌に当たった一瞬、ひんやりと冷たかった布団は、すぐに程よい温かさになった。
また一礼して立ち去った侍従長を、幾分あっけにとられた表情で見送った。
この部屋の大量の垂れ布の影に控えていたのだろう。もしかすると、彼以外にも護衛がいるのかもしれない。
メイラは改めて、傍らで眠る陛下の顔に目をやった。
年上の男性が眠っている姿を、こんな風に間近に見るのは初めてだ。
確かに、無防備すぎるのかもしれない。少しでも心得がある者なら、簡単に寝首をかけてしまいそうだ。
こんな風に眠ってしまうのなら、あの屈辱的な検査も必要なことなのだろう。
メイラは長くため息をついた。
やっぱり気の毒な方だとつくづく思いながら。
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