月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
186 / 207
修道女、悪夢に酔い現実に焦燥する

2

しおりを挟む
 夜明けの海はどんよりと沈んだ色をしていた。
 対照的に雲一つない空を見上げながら、メイラは小さくため息をついた。
 一日そこにいてもいいと提供されたカウチは甲板後方にあって、上には日よけの布が張ってある。真冬とはいえ海上は日差しが強いからだというが、水平線の上に来たばかりの太陽の光は遮れていない。
 ほのかな熱が頬を温める。世の女性たちはこぞって日焼けを厭うが、末端冷え性なメイラにはむしろその日差しが恋しい。
「少しだけでもお食べ下さい。体力がもちません」
 刻一刻と色を変えていく景色をぼんやりと見ていると、耳元でテトラがそっと囁いた。
 いつも思うのだが、外見も喋り方もその声も、女性にしか見えない。
「また御痩せになられました」
 テトラが心配するのも無理はない。メイラ自身がそう思う程、船に乗ってから食事が喉を通らなくなった。
 すでにもう三日目。船酔いに効くとグレイスから提供されたオレンジのジュースがなければ、餓死はせずともベッドの住人になっていたに違いない。
「……言葉遣い」
「大丈夫です。周囲には誰もおりません」
「そんなことをしていたら、いざというときに出てこないのよ」
「……はい。気を付けま……気を付けるわ」
 メイラは苦笑しながら、まだほのかに温かい穀物粥に目を落とした。戯れにそっとかき回してみる。ふわりと甘い匂いがする。塩味ではなくミルクで煮込まれていて、修道女であった時なら御馳走だと感じただろう。
 しかしそれを見ても食べたいとは思わない。むしろ、むかむかと腹からせり上がってくるものがある。
 再びため息をついてから、木製のスプーンを口に運んだ。
「そんなに食べたくないなら食べなくていいじゃないか」
 柔らかく煮込まれているが、なかなか飲み込めない。悪戦苦闘しているうちに、背後からグレイスに声をかけられた。
「船酔いしているのに無理して食べさすもんじゃないよ」
「もう三日も固形物を受け付けないのに、よくもそんなことが言えるわね。あんたと違ってメルベルは身体が弱いの。これ以上体力がなくなるのは良くないわ」
「どうせ吐くんだから、もったいないだろ」
「麦もミルクも私が持ち込んだものじゃないの!」
「海の上ではそれが誰の物資かなんて関係ないさ」
「あるわよ!」
「そろそろミルクが悪くなるだろう? こっちにも分けてくれないか?」
「保存庫においてあるからまだまだ大丈夫よ。希少なホエー牛の乳だからって、こっそり狙ってるんじゃないわ!」
 最初の頃は、顔を突き合せれば喧嘩になるふたりを止めようとしてみたのだ。しかしそう思う体力すらなくしてしまったようで、苦笑しか零れない。
「……早く船から降りたほうがいいかもしれないねぇ。可哀想に、痩せちまって」
「今日中にドートスに着くんでしょう?」
「そうだね、急げば明るいうちには」
 ドートス島はリッチェラン諸島のほぼ中央部分にあり、東西の大陸の中継地だ。
 そこから目的地までは更に半日ほどかかるらしいが、大型船で行くには少し難しい海域だという。潮と風の調整の為にも、数日そこに滞在するかもしれないとあらかじめ告げられていた。
 追手がかかる可能性が高いので、ずっとこの船の中にいるつもりでいたのだが、確かに、硬い地面に足をつければ気分も良くなるかもしれない。
 しかしそもそも船酔いではなく、おそらくは精神性のものなのだ。
 再び手元に視線を戻し、眉を垂れさせた。
 流動食のような柔らかい粥ですら喉を通らないなんて。
 しかし無理をして食べると即座に吐いてしまうのはわかっているので、だましだまし時間をかけるしかなかった。
「ほら、かしなよ。残ったの食べてあげる」
 どすん、とカウチの隣に座ったグレイスが、日焼けした骨太の腕をこちらに差し出してきた。
「代わりにあとでオレンジしぼってくるから、それは頑張って飲むんだよ」
「ちょっと!!」
「吐くのは体力つかうから、無理してまで食べないほうがいいんだよ」
 生粋の船乗りであるグレイスの、逞しくがっしりとした身体がうらやましい。上着の袖をまくり上げても寒くないのは、代謝がいいからだろう。
 手袋をしたいほど指先を凍えさせたメイラとはえらい違いだ。
 あんなにも量を減らすのに苦労していた粥を、グレイスはたった数回の嚥下でほとんど全て胃袋に納めてしまった
 メイラは、陽光を背中にしたグレイスを見上げ、目を細めた。
 なんて綺麗な人なんだろう。生命力という輝きに満ち溢れ、眩しいほどだ。
 メイラの手からミルク粥を取り上げた腕は太く、逞しい。
 ああ……この腕はきっと、守るべきものを取りこぼさない。
「……っ、なんだい!?」
 ひどく情けない気分でいたメイラを見下ろして、あっという間に完食してしまったグレイスがひどく焦った様子で腰を浮かせた。
「ああっメルベル泣かせた!!」
「そっ、そんな……そんなにミルク粥食べたかった?」
「違うわよ。泣いてません」
 メイラは滲んでしまった涙を瞬きで散らした。
「少し髪が目に入っただけ」
 今日の海はこの季節にしては穏やかだ。真向かいから吹いて来る風は冷たいが、ハーデス領にいた時ほどではない。
「今日もいい天気ですね。それに……随分風が優しい気がする」
「そうだね、南方海域に入ったからね」
 メイラは努めて笑顔を保ちながら、長身の女船長を見上げた。
 がっしりと上背のある体格は男性と遜色なく、むき出しになった腕にはしっかりとした筋肉がついている。
 ああ、こんな女性になりたかった。
 誰にも寄り掛からず一人で立つことができる。回りの大切な人をその手で守ることができる。
 対して己はどうだろう。食べる事すらまともにできず、やせ細ったこの手に握れる武器はナイフぐらいだ。
「メルベル」
 後方甲板のほうからダンが大股に近づいてきた。
 やはり泣きそうに見えたのか、スプーンとお椀を手にしたグレイスに眉を寄せ、ちらりとテトラを見てまた面を険しくした。
「おはよう、おとうさん」
 大根役者のダンが不自然な言動をするより先に、メイラは朗らかに聞こえるよう声を張った。
「今日中にドートス島に着くみたいね?」
「おはよう、メルベル。少しでも食べれたか?」
「グレイスさんが、無理して食べないほうがいいって」
「……グレイス、ちょっと」
 こっそり苦情でも言うのではないかと危ぶんだが、ダンの表情はもっと厳しいものだった。
 グレイスもそれに気づいたのだろう、手にスプーンと椀を持ったままカウチから立ち上がる。
「メルベルは部屋に戻っていなさい」
「……おとうさん?」
「さ、身体を冷やすといけないわ。戻りましょ」
 テトラが促すように腕に手を添える。
 船室に続くハッチをくぐりながら振り返ると、難しい顔をして話し合うダンとグレイスの後姿が見えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

美幼女に転生したら地獄のような逆ハーレム状態になりました

市森 唯
恋愛
極々普通の学生だった私は……目が覚めたら美幼女になっていました。 私は侯爵令嬢らしく多分異世界転生してるし、そして何故か婚約者が2人?! しかも婚約者達との関係も最悪で…… まぁ転生しちゃったのでなんとか上手く生きていけるよう頑張ります!

運命の番でも愛されなくて結構です

えみ
恋愛
30歳の誕生日を迎えた日、私は交通事故で死んでしまった。 ちょうどその日は、彼氏と最高の誕生日を迎える予定だったが…、車に轢かれる前に私が見たのは、彼氏が綺麗で若い女の子とキスしている姿だった。 今までの人生で浮気をされた回数は両手で数えるほど。男運がないと友達に言われ続けてもう30歳。 新しく生まれ変わったら、もう恋愛はしたくないと思ったけれど…、気が付いたら地下室の魔法陣の上に寝ていた。身体は死ぬ直前のまま、生まれ変わることなく、別の世界で30歳から再スタートすることになった。 と思ったら、この世界は魔法や獣人がいる世界で、「運命の番」というものもあるようで… 「運命の番」というものがあるのなら、浮気されることなく愛されると思っていた。 最後の恋愛だと思ってもう少し頑張ってみよう。 相手が誰であっても愛し愛される関係を築いていきたいと思っていた。 それなのに、まさか相手が…、年下ショタっ子王子!? これは犯罪になりませんか!? 心に傷がある臆病アラサー女子と、好きな子に素直になれないショタ王子のほのぼの恋愛ストーリー…の予定です。 難しい文章は書けませんので、頭からっぽにして読んでみてください。

記憶喪失になったら、義兄に溺愛されました。

せいめ
恋愛
 婚約者の不貞現場を見た私は、ショックを受けて前世の記憶を思い出す。  そうだ!私は日本のアラサー社畜だった。  前世の記憶が戻って思うのは、こんな婚約者要らないよね!浮気症は治らないだろうし、家族ともそこまで仲良くないから、こんな家にいる必要もないよね。  そうだ!家を出よう。  しかし、二階から逃げようとした私は失敗し、バルコニーから落ちてしまう。  目覚めた私は、今世の記憶がない!あれ?何を悩んでいたんだっけ?何かしようとしていた?  豪華な部屋に沢山のメイド達。そして、カッコいいお兄様。    金持ちの家に生まれて、美少女だなんてラッキー!ふふっ!今世では楽しい人生を送るぞー!  しかし。…婚約者がいたの?しかも、全く愛されてなくて、相手にもされてなかったの?  えっ?私が記憶喪失になった理由?お兄様教えてー!  ご都合主義です。内容も緩いです。  誤字脱字お許しください。  義兄の話が多いです。  閑話も多いです。

【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです

大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。 「俺は子どもみたいな女は好きではない」 ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。 ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。 ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。 何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!? 貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。

【完結】後宮、路傍の石物語

新月蕾
恋愛
凜凜は、幼い頃から仕えていたお嬢様のお付きとして、後宮に上がる。 後宮では皇帝の動きがなく、お嬢様・央雪英は次第に心を病み、人にキツく当たるようになる。 そんなある日、凜凜は偶然皇帝と出逢う。 思いがけない寵愛を受けることになった凜凜に、悲しい運命が待ち受ける。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

【本編完結】若き公爵の子を授かった夫人は、愛する夫のために逃げ出した。 一方公爵様は、妻死亡説が流れようとも諦めません!

はづも
恋愛
本編完結済み。番外編がたまに投稿されたりされなかったりします。 伯爵家に生まれたカレン・アーネストは、20歳のとき、幼馴染でもある若き公爵、ジョンズワート・デュライトの妻となった。 しかし、ジョンズワートはカレンを愛しているわけではない。 当時12歳だったカレンの額に傷を負わせた彼は、その責任を取るためにカレンと結婚したのである。 ……本当に好きな人を、諦めてまで。 幼い頃からずっと好きだった彼のために、早く身を引かなければ。 そう思っていたのに、初夜の一度でカレンは懐妊。 このままでは、ジョンズワートが一生自分に縛られてしまう。 夫を想うが故に、カレンは妊娠したことを隠して姿を消した。 愛する人を縛りたくないヒロインと、死亡説が流れても好きな人を諦めることができないヒーローの、両片想い・幼馴染・すれ違い・ハッピーエンドなお話です。

処理中です...