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皇帝、火の粉を振り払う
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ぐっと振り下ろした手の下で、肉が裂ける感覚がする。
食い込んだ切っ先を振り抜いた直後に、ぐちょりと不快な音がして、敵の口から零れ落ちるのはくぐもった悲鳴と鮮血。
それらにいちいち振り返りはしない。
色違いの軍装の敵たちを屠りながら、ハロルドは命を刈ることに対して微塵も何も感じていない己に、今更ながらに唇をゆがめた。
愛剣を鎧の隙間にねじ込み、肉と骨を断つ。
ぶちぶちと腱がちぎれる音。あふれだす鮮血。
敵の見開いた両眼に、フルフェイスのハロルドの頭部が映っている。
ぞわり、と背筋を這い上がってきたのは、慣れ親しんだ空気を吸い込むことによる高揚感。
命を屠った後ろめたさよりも、己の命をも賭け台に乗せる戦場の緊張感に、『帰ってきたのだ』と強く喜びを感じていた。
平和な空気は落ち着かない。
そのために剣を握り、そのために至高の座におさまったというのに。
十年前の政変を生き残ってきた同世代の軍人たちは、皆似たような思いを抱いているだろう。
彼らが快楽殺人者だという訳ではもちろんないし、好んで戦争を起こしたいとも思ってはいまい。
家族や知人の命が脅かされることは断じて許さない、という強い信念を持ちつつも、この敵味方入り乱れる戦場の空気に、ひどく魅了されてもいるのだ。
愛馬の腹を蹴り更に敵を追い込もうとしたところで、朱い馬装備をつけた葦毛の軍馬がハロルドの視界を遮った。
「……下がれ! 出すぎだっ!!」
近衛師団長であり、仲の良かった兄の傍付きとして出会った年上の幼馴染であり、かつてはハロルドの上司でもあったサダム・ドルフェスが、無造作にハロルドの愛馬の手綱を引っ張って方向を変えさせた。
戦いやすい軍装のハロルドに対し、将軍職の彼は派手目の外装をしているのでものすごく目立つ。
むしろ敵が密集して押し寄せてきて、それを捌くのに手間取ってしまった。
「何を考えているんだ馬鹿野郎!!」
敵との接触の一報を受け、あとどう軍を動かすかの話し合いを終えた後、ちょっと気晴らしと言いつつ本陣を離れた。
もちろん少数の近衛はついてきているが、ドルフェスの言うとおり軽率だというのはわかっていた。
ハロルドには後継がいないし、ろくな血族もいない。先々代の皇子が何名か生き残っているので、厳密な意味で皇統が途絶えそうなわけではないが、十年間堅く国を治めてきたハロルドを失えば、また国は内乱の渦に飲み込まれてしまうだろう。
ふと、控えめに微笑むメルシェイラの顔が脳裏をよぎった。
もし今ハロルドが命を落とせば、彼女はどうなるだろう。ぞっとするような想像をしてしまい、制止を振り切り手綱を奪い返そうとした手が止まった。
ドルフェスはハロルドの軍馬の手綱を離そうとはせず、ひどく難しい顔をしたまま一直線に本陣に向かう道を引き返し始めた。
「お前、今回はもう出るな」
「……」
「敵は数だけの烏合の衆だ。四公が味方に付いた今、負ける目はない」
赤毛の将軍の朱い軍装にちらりと視線を向ける。
彼の言葉通り、派兵された軍の規模は大きいが、帝国の四大勢力である四つの公爵家のすべてがハロルドに味方すると宣言したので、燃えがった火種こそ派手だが延焼する可能性は極めて低い。
帝都を挟んで睨み合う両軍の規模がほぼ同等であろうとも、ハロルドたちのほうが圧倒的に有利だった。
「おとなしく、御輿になってすわっていろ」
ハロルドの朱金色とは違い、もっと純粋に朱い、派手に燃え立つ夕日のような髪が冬空の下で煌めく。兜もかぶらず無防備にむき出しにされたその色合いは、味方からはもちろん、敵からもものすごく目を引く。
将軍が前線にいると気づき勢いを増した敵方を、味方の軍が切っ先ひとつ届かせまいと遮り、またそぞろ周囲は鋼がぶつかり合う音と骨肉が絶たれる音と、兵士たちの怒声とが充満した。
メルシェイラにつけた一等女官から、竜の召喚が行われる可能性があるという報告を受けていた。
もしそれが本当であるならば、それはおそらく両軍で向き合うこの状況の均衡が崩れた時だろう。
ハーデス領で討伐した黒竜のようなサイズ感になると、敵味方を判別させるのは非常に難しい。敵を壊滅してくれるかもしれないが、間違いなくその場に居る味方をも踏みつぶしてしまう。
現状はそうさせないために、適度な距離感を持って敵と対峙し、あまり多くその戦力を削ぐようなことはせず、敵方に戦況が拮抗していると思わせるよう努めているところだ。
あれだけの竜を召喚するにはそれなりの設備と人員が必要なはずで、憲兵だけではなく帝都の兵力を上げてその拠点を探している。ほどなく、その結果も出てくるだろう。
不確定要素を考慮しても、状況はハロルドにとって悪いものではない。
帝都を人質に取られたようなものなので、その安全に念のためと配慮しているだけだ。
なかなか召喚場所の特定ができず、すでに三日という時間がかかっていることだけが想定外だった。
ハロルドは思う様に進まない状況に苛立ちながらも、それを腹のうちに納めて無言を保った。
彼が感情を露わにしても、なにもいいことはないからだ。
「そこのお前!!」
剣戟の音が遠くなり、敵の姿がなくなって十分ほどしたところで、赤茶げた大きな岩の影から女の声がした。
さっとハロルドの前に近衛騎士たちが馬頭を進め、警戒の体勢を取る。
「無礼者!! このお方をどなたと……」
「よいのです、ばあや。下がりなさい」
場違いに軽やかで、嫋やかな若い女性の声がした。
聞き覚えのある声だった。
「申し訳ございません。わたくしハーデス公爵家の者ですが、祖父に申し付かりまして補給品を運んでまいりました。陛下にお取次ぎいただきたいのですが」
「……失礼だが、お嬢さん。ここは貴女のような方が来られるような場所ではない」
一般騎士の軍装をしているハロルドよりも、将軍職であるドルフェスのほうが見るからに身分があり、高位に見える。話しかけられた近衛師団長は、顔を顰めながらも丁寧な口調で答えた。
「まあ。ご心配頂いてありがとうございます。ですがわたくしは……」
ベールで隠されていてもわかる、若く美しい高位貴族の女性。
これがたとえば一般の騎士であれば、間違いなく保護、あるいは親身になって面倒を見たくなるだろう。
しかし、声だけですぐに相手が誰かわかったハロルドは、それ以上の興味など抱かなかったし、むしろ関わり合いになりたくなかった。
「閣下。急ぎますので私はここで」
ハーデス公の使いだと名乗っているのに、失礼な態度だと思われたのだろう。
ばあやと呼ばれたハロルドよりも少し年上の女性が、眦を吊り上げてこちらを睨んでくる。
「戦場にドレスでいらっしゃるような場違いなお嬢さんには、さっさとお引き取り願ってください」
「……おい!」
引き留めようとするドルフェスを振り払い、手綱を回収する。
「何と無礼な!!」
ばあやと呼ばれた女性の憤慨する声が追ってくるが振り返りはしない。
「いいのです。わたくしが慮外でした。まずは手紙で御意向を確かめてからにするべきだったわ」
「ですが、お嬢さまっ」
リリアーナ・ハーデス。
遠く帝都にまで聞こえてくる、才色兼備をうたわれる美姫。
妃に迎えるつもりはなくとも、ハーデス公の孫として丁寧な対応をするべき相手なのかもしれない。
しかし、以前感じた不快感は拭いきれず、直接話をする価値すら感じなかった。一番気に障っているのは、メルシェイラを貶めようとしたあの態度だ。こういう女は、警戒以前に嫌悪感しか覚えない。
「陛下は、きっとわかってくださるわ」
戦場の空気は薄れているものの、ここは前線。
こんなところにまで押しかけてきて、おっとりと表面上は嫋やかに微笑んで見せる彼女の性根を、この場にいるどれだけの男どもが見破ることが出来るだろう。
「……会うつもりはない。追い返せ」
付き従う近衛に、不快感を露わにしてそう吐き捨てると、金髪の近衛が若干不審そうに小首を傾げた。
「よろしいのですか? ハーデス公の使いだそうですが」
「公にはこちらから直接礼を言っておく。苦情もな」
「……苦情?」
「公の名前を出して面会を強要してきても断れ」
「はい」
一応は了解したが、まだ納得はして無さそうだ。美しい貴婦人の懇願に惑わされ、余計なことをしてくれなければいいのだが。
念のために、古参の近衛騎士たちにも伝達しておくことにしよう。
この十年ハロルドの側にいて、降るように湧いて出るあの手の女をシャットアウトする手腕に長けた連中だ。
天幕にもどる道を速足で馬を進めながら、折角の気分転換が台無しになっていることに気づいた。
またうんざりする程の書類の山が待っている。
ハロルドはすでにもう前線で戦う騎士ではなく、書類仕事がメインの皇帝という名の社畜なのだ。
食い込んだ切っ先を振り抜いた直後に、ぐちょりと不快な音がして、敵の口から零れ落ちるのはくぐもった悲鳴と鮮血。
それらにいちいち振り返りはしない。
色違いの軍装の敵たちを屠りながら、ハロルドは命を刈ることに対して微塵も何も感じていない己に、今更ながらに唇をゆがめた。
愛剣を鎧の隙間にねじ込み、肉と骨を断つ。
ぶちぶちと腱がちぎれる音。あふれだす鮮血。
敵の見開いた両眼に、フルフェイスのハロルドの頭部が映っている。
ぞわり、と背筋を這い上がってきたのは、慣れ親しんだ空気を吸い込むことによる高揚感。
命を屠った後ろめたさよりも、己の命をも賭け台に乗せる戦場の緊張感に、『帰ってきたのだ』と強く喜びを感じていた。
平和な空気は落ち着かない。
そのために剣を握り、そのために至高の座におさまったというのに。
十年前の政変を生き残ってきた同世代の軍人たちは、皆似たような思いを抱いているだろう。
彼らが快楽殺人者だという訳ではもちろんないし、好んで戦争を起こしたいとも思ってはいまい。
家族や知人の命が脅かされることは断じて許さない、という強い信念を持ちつつも、この敵味方入り乱れる戦場の空気に、ひどく魅了されてもいるのだ。
愛馬の腹を蹴り更に敵を追い込もうとしたところで、朱い馬装備をつけた葦毛の軍馬がハロルドの視界を遮った。
「……下がれ! 出すぎだっ!!」
近衛師団長であり、仲の良かった兄の傍付きとして出会った年上の幼馴染であり、かつてはハロルドの上司でもあったサダム・ドルフェスが、無造作にハロルドの愛馬の手綱を引っ張って方向を変えさせた。
戦いやすい軍装のハロルドに対し、将軍職の彼は派手目の外装をしているのでものすごく目立つ。
むしろ敵が密集して押し寄せてきて、それを捌くのに手間取ってしまった。
「何を考えているんだ馬鹿野郎!!」
敵との接触の一報を受け、あとどう軍を動かすかの話し合いを終えた後、ちょっと気晴らしと言いつつ本陣を離れた。
もちろん少数の近衛はついてきているが、ドルフェスの言うとおり軽率だというのはわかっていた。
ハロルドには後継がいないし、ろくな血族もいない。先々代の皇子が何名か生き残っているので、厳密な意味で皇統が途絶えそうなわけではないが、十年間堅く国を治めてきたハロルドを失えば、また国は内乱の渦に飲み込まれてしまうだろう。
ふと、控えめに微笑むメルシェイラの顔が脳裏をよぎった。
もし今ハロルドが命を落とせば、彼女はどうなるだろう。ぞっとするような想像をしてしまい、制止を振り切り手綱を奪い返そうとした手が止まった。
ドルフェスはハロルドの軍馬の手綱を離そうとはせず、ひどく難しい顔をしたまま一直線に本陣に向かう道を引き返し始めた。
「お前、今回はもう出るな」
「……」
「敵は数だけの烏合の衆だ。四公が味方に付いた今、負ける目はない」
赤毛の将軍の朱い軍装にちらりと視線を向ける。
彼の言葉通り、派兵された軍の規模は大きいが、帝国の四大勢力である四つの公爵家のすべてがハロルドに味方すると宣言したので、燃えがった火種こそ派手だが延焼する可能性は極めて低い。
帝都を挟んで睨み合う両軍の規模がほぼ同等であろうとも、ハロルドたちのほうが圧倒的に有利だった。
「おとなしく、御輿になってすわっていろ」
ハロルドの朱金色とは違い、もっと純粋に朱い、派手に燃え立つ夕日のような髪が冬空の下で煌めく。兜もかぶらず無防備にむき出しにされたその色合いは、味方からはもちろん、敵からもものすごく目を引く。
将軍が前線にいると気づき勢いを増した敵方を、味方の軍が切っ先ひとつ届かせまいと遮り、またそぞろ周囲は鋼がぶつかり合う音と骨肉が絶たれる音と、兵士たちの怒声とが充満した。
メルシェイラにつけた一等女官から、竜の召喚が行われる可能性があるという報告を受けていた。
もしそれが本当であるならば、それはおそらく両軍で向き合うこの状況の均衡が崩れた時だろう。
ハーデス領で討伐した黒竜のようなサイズ感になると、敵味方を判別させるのは非常に難しい。敵を壊滅してくれるかもしれないが、間違いなくその場に居る味方をも踏みつぶしてしまう。
現状はそうさせないために、適度な距離感を持って敵と対峙し、あまり多くその戦力を削ぐようなことはせず、敵方に戦況が拮抗していると思わせるよう努めているところだ。
あれだけの竜を召喚するにはそれなりの設備と人員が必要なはずで、憲兵だけではなく帝都の兵力を上げてその拠点を探している。ほどなく、その結果も出てくるだろう。
不確定要素を考慮しても、状況はハロルドにとって悪いものではない。
帝都を人質に取られたようなものなので、その安全に念のためと配慮しているだけだ。
なかなか召喚場所の特定ができず、すでに三日という時間がかかっていることだけが想定外だった。
ハロルドは思う様に進まない状況に苛立ちながらも、それを腹のうちに納めて無言を保った。
彼が感情を露わにしても、なにもいいことはないからだ。
「そこのお前!!」
剣戟の音が遠くなり、敵の姿がなくなって十分ほどしたところで、赤茶げた大きな岩の影から女の声がした。
さっとハロルドの前に近衛騎士たちが馬頭を進め、警戒の体勢を取る。
「無礼者!! このお方をどなたと……」
「よいのです、ばあや。下がりなさい」
場違いに軽やかで、嫋やかな若い女性の声がした。
聞き覚えのある声だった。
「申し訳ございません。わたくしハーデス公爵家の者ですが、祖父に申し付かりまして補給品を運んでまいりました。陛下にお取次ぎいただきたいのですが」
「……失礼だが、お嬢さん。ここは貴女のような方が来られるような場所ではない」
一般騎士の軍装をしているハロルドよりも、将軍職であるドルフェスのほうが見るからに身分があり、高位に見える。話しかけられた近衛師団長は、顔を顰めながらも丁寧な口調で答えた。
「まあ。ご心配頂いてありがとうございます。ですがわたくしは……」
ベールで隠されていてもわかる、若く美しい高位貴族の女性。
これがたとえば一般の騎士であれば、間違いなく保護、あるいは親身になって面倒を見たくなるだろう。
しかし、声だけですぐに相手が誰かわかったハロルドは、それ以上の興味など抱かなかったし、むしろ関わり合いになりたくなかった。
「閣下。急ぎますので私はここで」
ハーデス公の使いだと名乗っているのに、失礼な態度だと思われたのだろう。
ばあやと呼ばれたハロルドよりも少し年上の女性が、眦を吊り上げてこちらを睨んでくる。
「戦場にドレスでいらっしゃるような場違いなお嬢さんには、さっさとお引き取り願ってください」
「……おい!」
引き留めようとするドルフェスを振り払い、手綱を回収する。
「何と無礼な!!」
ばあやと呼ばれた女性の憤慨する声が追ってくるが振り返りはしない。
「いいのです。わたくしが慮外でした。まずは手紙で御意向を確かめてからにするべきだったわ」
「ですが、お嬢さまっ」
リリアーナ・ハーデス。
遠く帝都にまで聞こえてくる、才色兼備をうたわれる美姫。
妃に迎えるつもりはなくとも、ハーデス公の孫として丁寧な対応をするべき相手なのかもしれない。
しかし、以前感じた不快感は拭いきれず、直接話をする価値すら感じなかった。一番気に障っているのは、メルシェイラを貶めようとしたあの態度だ。こういう女は、警戒以前に嫌悪感しか覚えない。
「陛下は、きっとわかってくださるわ」
戦場の空気は薄れているものの、ここは前線。
こんなところにまで押しかけてきて、おっとりと表面上は嫋やかに微笑んで見せる彼女の性根を、この場にいるどれだけの男どもが見破ることが出来るだろう。
「……会うつもりはない。追い返せ」
付き従う近衛に、不快感を露わにしてそう吐き捨てると、金髪の近衛が若干不審そうに小首を傾げた。
「よろしいのですか? ハーデス公の使いだそうですが」
「公にはこちらから直接礼を言っておく。苦情もな」
「……苦情?」
「公の名前を出して面会を強要してきても断れ」
「はい」
一応は了解したが、まだ納得はして無さそうだ。美しい貴婦人の懇願に惑わされ、余計なことをしてくれなければいいのだが。
念のために、古参の近衛騎士たちにも伝達しておくことにしよう。
この十年ハロルドの側にいて、降るように湧いて出るあの手の女をシャットアウトする手腕に長けた連中だ。
天幕にもどる道を速足で馬を進めながら、折角の気分転換が台無しになっていることに気づいた。
またうんざりする程の書類の山が待っている。
ハロルドはすでにもう前線で戦う騎士ではなく、書類仕事がメインの皇帝という名の社畜なのだ。
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